狼の婚約者 ―君の愛が、僕の呪いをほどくまで―

海野ことり

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⑬狼のディーノ

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「夜しか来れないのは、何か理由があるの?」
 相変わらず窓から不法侵入してきたディーノを、僕は目を細めて見つめた。
 夜気に溶けるような黒髪と銀の瞳。月光がその輪郭を縁取る。彼ほど夜が似合う人はいない。サラサラとした髪も、僕にそっと触れる冷たい手も本当に綺麗だ。

「人目を忍んで来ている」
「婚約者なのに?」
「牙がまだ引っ込まない。こんな顔で行っては駄目だと言われた」
「でも来たんだ?」
「エミーリオが呼んだから」
「うん、君にしか頼めないことがある」
 首に腕を回すと、ディーノが息を吸い込む気配とともに唇を寄せてきた。
 発情期のせいか、キスがやけに熱い。恐れていたはずなのに、触れられると全身が融けていくようだった。

「ディーノ……僕、発情期がきたんだ。でも僕らは未成年同士だから、まだ番にはなれない。その代わり、獣化した君となら……触れ合える」
「狼になったら、抱きしめられない」
「僕が触ってあげる」
「キスも出来ない」
「舐めることは、出来るでしょ?」
 僕はまっすぐに彼を見つめた。

「君に、この熱を鎮めてほしい」
「……わかった」
 ディーノは月光を浴びて変化した。
  変わっていく姿が怖いはずなのに、目が離せなかった。

  少年の面影が消え、狼の姿が重なっていく。
 淡い光が体表を滑り、内側から光があふれ出す。
  ところどころ銀色の走る滑らかな黒い毛並み。
  立派な狼は、息を呑む美しさだった。中でも星のように冴え冴えとした光を放つ瞳が、僕を真っ直ぐに射抜く。獣の瞳に、人の心。
  僕は、その瞳の奥に、かつての「約束」を見た。
 ――大きくなったら、また会おう。
 そう言ったのは、僕の方だった。

「やっぱり君だったんだね」
 僕は頬を寄せて毛並みに顔を埋めた。懐かしい匂い。
 温かく、力強く、それでいてどこか切ない。

「逢いたかったよ」
 言ってから気付く。そうだ。僕は君に会いたかった。
 ディーノは鼻先を押し付けて僕の匂いを確かめ、優しく舐めた。舌が肌をなぞるたびに背中が震える。
 唇ではない、毛並みの中から伝わる体温に胸が詰まる。
 襟元を咥えられ、ボタンが弾け飛んだ。

「わっ、だめだよ……!」
 狼の舌が胸を掠めた瞬間、息が詰まった。
 熱が伝わるたび、心臓が早鐘を打つ。痛いほどの感覚が、心地よさに変わっていく。
 僕は抵抗しながらも、指先でまさぐるように彼の耳を撫でていた。

「そんな顔しないで……優しくして」
 その言葉を聞いた狼は、低く喉を鳴らして応えた。
 その震えが僕の腹に伝わり、体の奥がじんわりと疼く。

「熱い……」
 狼の体が熱い。僕の肩を押さえる爪は硬く、怖いはずなのにこのドキドキは恐怖からじゃない。

(期待、してる?)
 ディーノの尻尾が揺れ、脚にファサファサと触れる感触が可愛く、ホッと気持ちが緩む。
  僕はどこにも逃げなくていい。彼から逃げる必要はないんだ。

「ディーノ、そこは、恥ずかし……」
 目をギュッと瞑りながら頑張って伝えたのに、ディーノは益々熱心にそこを舐めてくる。
 ザラリとした痛みに、僕は目を硬く閉じて、狼の首にギュッとしがみついた。

「ディ、ノ……」
  僕の弱々しい声を聞いて、彼は息を吹きかけるようにして僕の頬を舐めた。
 その温もりが優しくて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
  興奮した彼の熱は、空気を歪ませるほどだった。
  喉からは低い唸り声が漏れていた。

(なのに君は、僕への優しさをなくさないんだね)
  僕は彼の気持ちに応えるように、首筋を差し出していた。

「……君に、刻まれたい」
 本来は事後にすることだけれど、僕は彼に噛んで跡をつけて欲しい。刻印を刻んで欲しいと頼んだ。
 けれどディーノは僕を傷付ける気はないようで、深く息を吐いて僕を包み込むように寄り添った。
  彼はそのまま、組んだ腕の上に頭を乗せて大人しく目を瞑った。
 僕は狼の首に腕を回して背中の毛に顔を埋め、呼吸を繰り返す。
 寝息が落ち着くと、僕の中の熱も静まっていった。
ふたりの鼓動だけが、夜の底でゆっくりと重なっていった。

 そろそろ、夜が終わりかけていた。
 窓の向こうに、淡い光が滲んでいる。
 ディーノの体温がようやく落ち着き、僕はその胸の中でゆっくりと息をした。
 寝息とともに、狼の耳が微かに動いた。
 その小さな仕草に、僕は胸を突かれた。
 この腕の中にあるのは、獣でもなく、ただの少年の心なのだと気づく。まだ未成熟な僕の番。
 僕は指先で彼の長い髪を梳いた。

(こうしていると昔みたいだ)
  そんな事実はなかったのだけれど、なんとなく昔に戻った気分で僕はゆったりとその動作を繰り返した。

 ――気づけば朝。
 窓から差し込む光の中に、彼の姿はなかった。

 ***

(恥ずかしい……。僕は何をしてるんだよ)
 昨夜の記憶を思い出すたび、顔が熱くなる。
 獣化した彼に甘えて、思わず我を忘れた。
 彼はあれほど制御に苦しんでいたのに、僕は自分の欲に任せて彼を呼び出したんだ。

(嫌われてないかな)
  胸の奥がきゅっと痛んだ。
 それでも、あの夜を無かったことには出来ない。恥ずかしいけれど、胸が震えた夜。
  あの毛並みの温もりが、まだ指に残っている気がする。
  思い出すたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。

「漆黒の毛並みに銀が混じって……あんな綺麗な狼、他にいない」
 仔犬だった頃は灰色に見えた。
 それが今は漆黒の毛が濡れたように輝いて、淡い光が弾けていた。神秘的な姿なのに、タシッタシッと床を叩いて隣に来いと呼ぶのも、寝ながら片目だけ薄っすらと開けてこちらの様子を伺う姿も可愛くて微笑んでしまう。
 耳も、尻尾も、鳴き声も、全部愛おしい。

(……好き、なのかも)
 婚約破棄を望んでいたのに、嫌われたら怖いなんて。
  僕はどうしてしまったんだ。
 二度と逢えなくなることを考えただけで、息が詰まる。
 胸の痛みをごまかすように、僕は机に向かってペンを取った。
 震える手で、謝罪の言葉を綴っていく。
 カーテンの隙間から差し込む朝の光は日常を告げていた。
  それでもなお、彼の面影をかき消すことは出来なかった。
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