狼の婚約者 ―君の愛が、僕の呪いをほどくまで―

海野ことり

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⑰不吉な足音

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 思ったよりも早く双子が学校に戻ってきた。しばらく姿を見せないだろうと思っていたから、この早さは意外だった。

「家の方は落ち着いたの?」
「うちが標的じゃなかったからね。完全なとばっちりだけど、世論が騒ぐ前に火消しは済ませたよ」

(……あれ?こんな言い方をする人だったっけ?)
 僕はチェーザレと話していて引っ掛かりを覚えた。この世界の獣人らしからぬ物言い。でもどこかで聞いたことがある言い回しで――。

「チェーザレ? 君、本当に君なの?」
「何言ってるんだ。僕が僕以外の誰に見える?」
 否定の仕方も、どこか他人事だ。
 僕が感じたのは「憑かれた」とか「別人になった」という感じではない。もっと遠い場所――この世界ではないどこかで別の場所で生まれ育ったような異物感。

(まさか……チェーザレも、生まれ変わり?)
 喉がひくりと鳴った。僕は慌てて口元を押さえる。

(今すぐに確かめるのは危険すぎる。話す気がないかもしれないし、違ったら僕の秘密をバラすことになる。まだ……ミルコにすら言っていないのに)
 僕は逸る気持ちを押し込み、話題を変える。

「集団冬眠事件の方はどうなったのか、知ってる? まだ誰も目覚めていないのかな」
「見つかった五人は全員が眠ったままだ」
「うちの学校以外の生徒も行方不明なんだよね?」
「らしいね」
「チェーザレは興味がないの?」
「別に。僕には関係ないだろう」
 冷えた口調に、ぞくりとした。
 いつものチェーザレなら、建前だけでも心配してみせる。人あたりの良さは、彼の処世術の一つだったはずだ。

「でも、目を覚ましてくれたら、チェーザレだって嫌疑が晴れるでしょ?」
「逆だよ。彼らが目を覚まさないことこそ、僕の無実の証さ。僕が誰かを仮死状態に留められると思う?」
 チェーザレはそう得々と述べたけれど人は感情で動く生き物だし、ましてや噂なんて無責任なものだ。人々は彼を見ていかにもやりそうだと思い、いつの間にか彼がやったのだと思い込む。

「チェーザレは被害に会った人たちと面識があったんだろう?」
「役員会やクラブ活動で話したことはある」
「家同士の付き合いもあったよね?」
「そんなものは不要だ。今時ファミリーだなんて不合理な。情で縛り付けようとしても、足を引っ張られるだけだ」
 声は落ち着いているのに、言葉だけが鋭い。
 僕は助けを求めるように、チェーリオを振り返る。

「チェーリオは……それでいいの?」
「僕はチェーザレについていく」
「彼が間違っていても?」
「だとしても放っておけない」
 チェーリオも昔から家の窮屈さに息苦しさを感じていた。けれど古いやり方を壊すつもりではなかったはずだ。なのにチェーザレを止めないなんて。

「チェーザレ。今ならまだ引き返せるよ。家業を変えるにしても、一度に全部ひっくり返すのは危険だ。川の流れを堰き止めるみたいなもので、堤が切れたら自分も押し流される」
「……獣の臭いがする。エミーリオ。君、ディーノ・オルシーニとは結婚しないって言ったよね? 僕を捨てる気か?」
 会話が噛み合っていない。それに、チェーザレを取り巻く紫色の靄が濃くなっているような気がして、息苦しさを感じる。

「言ったかもしれないけど、事情が変わったんだ。それに、君とは何も約束していない」
「でも君は、昔から僕をうっとりとした目で見つめてた。僕たちは、運命なんだ。だから、君は僕以外の男を選ぶことは出来ない」
 虚ろなのに爛々と光るチェーザレの瞳が怖い。狂人の目だ。
  でも勝手に語られて、僕がディーノと秘密を分かち合った夜まで蔑ろにされたようで黙っていられない。

「そんなっ、の、認めない。僕の運命を勝手に決めるな! 僕はディーノの番で、彼と夜を分かち合ったのだから」
 叫んだらチェーザレの身体から紫色の靄がブワッと吹き出して、牙を剥き出した恐ろしい形相で僕を睨んだ。

「あの、獣のなりそこないが? 君の隣に立つ価値があると思うの? 番? 獣みたいに番う? 穢らわしい!」
  軽く笑った声音なのに、そこに宿った侮蔑は隠しようもなかった。

「……穢らわしいってなんだよ! ディーノは、僕のために、必死に衝動を抑えて……」
 胸の奥がぐっと熱くなり、理屈より先に言葉が飛び出す。

「ディーノは“獣のなりそこない”なんかじゃない。誰もよりも強くて優しい、誇り高き狼獣人だ!」
 チェーザレの細められた瞳が、ほんの一瞬だけ鋭く揺れた。
 侮蔑は消えず、むしろ奥底に潜む何か──歪んだ興味のようなものが、僕に向かってじわじわと立ち上ってくる。黒い靄が彼の肩口から噴き上がり、煽るように揺らめいた。

「きゃっ!」
 腕を掴まれ、悲鳴が漏れた。
 身長は変わらないのに、力が桁違いだ。爪が皮膚に食い込み、焼けるように痛い。
 その時、チェーリオが僕を庇うように前に出た。

「チェーザレ、やめて。お願いだから、僕を見て!」
 チェーリオが慌てて彼の腕をつかんだ。半ば縋るような声音だった。

「今の姿をよく見てよ。エミーリオが怯えてるじゃないか。兄さんはそんなふうに、誰かを追い詰める人じゃない」
 ひたむきな声に、チェーザレの目がぐらりと揺れる。靄が一度だけ大きく波を打ち、弱まり、また集まろうと渦巻く。

「……僕は……」
「帰ろう、チェーザレ。今日の君はもう限界なんだ」
 チェーリオが肩を抱くと、チェーザレは力の抜けたような足取りでその胸に額を寄せた。
 双子の兄弟がどういうものかはわからないけど、互いに特別なのだろう。彼の手がスルリと離れていく。それを見てチェーリオがホッとしたように肩を緩め、僕を見た。

「エミーリオ、ありがとう。怪我はない?」
「うん、大丈夫」
  僕は強張った笑みを浮かべる。
 本当はこのままにしちゃいけないんだろうけど、もう立ち向かうのも限界。疲れた。

「チェーザレ、帰ろう。僕らの居場所は、ここじゃない」
「……ああ」
 弟に手を引かれたチェーザレは、憑き物が落ちたみたいに静かだった。どこか老人じみた疲れを顔に浮かべている。

「チェーリオ、一人で大丈夫? 僕にできることがあれば――」
「エミーリオ」
 困った顔に、僕は自分の間抜けさに気づいた。
 僕がチェーザレを刺激しておかしくする原因なのに。

「ごめん」
「ん。またね」
  二人の背が遠ざかっていく。黒い靄だけが名残のように散り、床の上に淡く溶けた。

 静けさが戻ると、僕の鼓動だけが耳にうるさかった。
 もうあれほど深く話すことはないのかもしれない。
 もしかしたら、前世のことを語り合えたかもしれなかったのに。
  でも、チェーザレの瞳の奥の空洞を思い出すと心臓が縮こまった。
 真夏の溶けたアスファルトのいやったらしさなんて、きっとこの世界の誰にも伝わらない。そんな当たり前のことに気づいた途端、胸の奥が少しだけひりついた。

(ううん、そんな感傷に囚われている場合じゃない。ディーノにあの靄のことを相談しなくちゃ!)
 あれが悪しきものと関係しているなら、チェーザレが危険だ。既に深く侵食されているみたいだし、早くしないと手遅れになるかもしれない。

(手遅れ?)
 そう思ったら背筋がゾッとした。悪しきものに魂を奪われたらどうなってしまうのか。

(ディーノ、お願い、早く来て。一族の王なら、チェーザレたちのことだって助けてくれるよね? 俺に任せろって、きっとあの笑顔で言ってくれる。でも――ディーノが来なかったら、どうしよう?)
  僕は恐ろしい想像に胸を塞がれつつ、インクの滲んだ手紙を何度も書き直した。
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