狼の婚約者 ―君の愛が、僕の呪いをほどくまで―

海野ことり

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⑱狼の刻印

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 カーテンが風を孕んでふわりと膨らむ。
 夜の闇の向こう側、渦巻く銀河のような色彩をまとった男が立っていた。
 黒曜石のような長い髪、額に落ちるナイフのような銀の毛束。
 いつも通り窓から現れたディーノだけれど――今夜の彼は、どこか張り詰めていた。

(緊張してる……?)

「逢いたかった、エミーリオ」
 まるで獣が匂いを確かめるように、彼は一歩ずつ近付いてくる。
 その仕草だけで、僕の心がそわそわと浮き立つ。

「ごめん、忙しいのに。相談したいことがあって」
「エミーリオからの呼び出しなら、大歓迎だ」
 そう言ってディーノは、迷いなく僕の手を取った。しっかりとした彼の手は、僕より二つも年下とは思えない。
 この手に守られている。そう思ったら、これから話すことを考えて張り詰めていた気持ちが緩んだ。

 僕は、チェーザレの様子――彼の身体から見えた“紫の靄”のこと、そして繰り返し見る悪しきものの夢、街角で見た黒い山羊について話した。
 話し終えると、ディーノはしばらく黙ったあと、唐突に言った。

「魔除けをしよう。あんたには結界がいる」
「魔除け?」
「古くは骨や牙を使ったけれど、今は違う。皮膚に直接刻む」
「刻むって……まさか刺青みたいな?」
 彼は黙って頷いた。

「肌に魔除けの文様を刻む。大丈夫、普段は目立ちはしない。悪しきものを遠ざけ、足止めをする」
 そう言って、ディーノは胸元から小さなナイフを取り出す。
 細い刃先には古代文字めいた意匠が刻まれていた。

「……痛い?」
「少しだけ。でも怖がる必要はない」
 ディーノは僕の手首をとって、指先で脈打つ場所を確かめながら、ディーノは低く囁く。

「エミーリオ。これは誓いの儀式だ。俺があんたを守るという証で、一度結べば取り消せない。……してもいいか?」
 真っ直ぐな瞳に、僕は気圧されるように頷いた。

「いいよ。……お願い」
 刃が触れた瞬間、鋭い痛みが走る。けれど恐怖はなく、不思議な安心感が胸に広がった。
 僕はその感覚に身を委ね、彼の大きな手が繊細に動くのをじっと見つめた。
 刻み終え、彼の指先が傷口に触れる。
 すると、まるで夜空を模したような細い文様が、淡く青く、皮膚の上に浮かび上がった。

「……なにこれ……」
 僕は言葉を失った。
 それは――明らかに、単なる装飾ではなかった。
 この刻印には、魂に直接焼き付けられたような結びつきを感じる。

「狼一族の護りの印だ。俺の力があんたを守る」
「……まるで君のものだって、宣伝してるみたいじゃないか」
 僕が睨むと、ディーノはいたずらっぽく笑って、喜びを隠し切れない声で聞き返す。

「そう見えるか?」
 そのはしゃいだ様子に呆れ、何か言い返そうとしたその時――バサリ、と羽音がした。
 窓の欄干に一羽のカラス。鋭い眼光、閉じた左目。漆黒の羽根が月光に妖しく光る。
 それはまるで――冥界の門番のような気配を放っていた。

「あれは?」
「ダンテ。俺の相棒だ」
「カラス?」
「ああ。左目を閉じているのは力を半分に抑えるため。開けずに済めば、それが一番いい」
 詩のような口ぶりに現実感が薄れていく。
 彼は、僕とはあまりに違う世界で生きているのかもしれない。
 けれど――。

「エミーリオ。何があっても、俺があんたを守る」
 その声は僕に真っ直ぐに向けられている。僕を守る為に、背負ったものすら投げ出しそうだ。
 僕はふと、刻まれたばかりの印を見る。
 文様が淡く光り、手首から熱がじんわりと広がる。
 胸の奥がざわつき、落ち着かない。

「なんか、変な感じ……熱い」
 ディーノが手首に指を当てる。ひんやりとした、冷たい指が気持ちいい。

「刻印の影響だ。……あんたの中にある、霊力が共鳴してる」
「霊力って……」
 僕にそんなものはなかったはずだけれど、ディーノが言うには全ての獣人が少しずつ持っているのだそうだ。
 前世での第六感みたいなものらしいが、それが強いと呪術師になれたり使い魔を作れたりするんだって。

「エミーリオは見る力や、共感する力が強いんじゃないか?」
「ああ、そうなのかな」
 紫の靄を見れたり、その場の空気を読んで操れたりするのは霊力のせいかも。

「刻印が効きすぎるってことはないの?」
「守りの刻印は、相手が望まなければ効果を発揮しない。ただ、相手が自分を信じていないと――術者に伝わるだけだ」
「……そう」
  寂しそうな彼の笑顔に胸が痛む。
  彼を安心させてあげたかったけれど、手首が気になって仕方がない。
 手首の文様を中心にして、じわじわと広がる熱。まるで誰かに撫でられているような――くすぐったさに落ち着かない。

「……ディーノ」
「うん?」
「なんか、苦しい……ちょっと、変なんだ。さっきから」
 ディーノは眉を寄せて、僕の頬に手を添えた。
 それだけでビリっと肌が痺れ、崩れ落ちそうになる。
 もっと触って欲しい。それじゃ足りない。

「エミーリオ、熱が上がってる。これは……発情に近い反応だ」
「っ、え……!? 僕、今、発情してるの……?」
「違う。違うけど、刻印のせいで近いことになってる」
 まるで何かのスイッチが押されたみたいに、体が思い通りにならない。
 火照りが全身を駆け抜け、声を抑えるのに必死になる。

「やだ……やだ、こんなの……っ、僕……、どうしたら……」
「大丈夫。俺が落ち着かせる」
 ディーノがそっと僕の背に手を回す。
 熱を吸い取るように、彼の掌が僕の背中をゆっくりなぞる。その手にすら反応してしまって苦しい。

「深呼吸して、エミーリオ。……大丈夫だ。誰にも触れさせない。俺がそばにいる」
 その言葉が睦言のように、胸の奥まで甘く響く。
 ディーノの指先が、文様の端をなぞる。
 たったそれだけなのに、僕の呼吸が甘く跳ねる。

「や……変な声が、でちゃっ……!」
「変じゃない。刻印のせいで、一時的に血がざわついてるだけだから――」
「……やだよ……だって、僕、男なのに……っ」
「男も女も関係ない。あんたのことは、俺が受け止める」
 その言葉に、僕の心臓が跳ねて、言葉が喉に詰まる。
 いいのかな。ディーノになら、頼ってもいいのかな。

「俺が見守っているから、今日はこのまま眠るといい」
 そう言って、ディーノは僕を毛布でグルグル巻きにした。
 そして自分が近くにいたら熱が治まらないだろうと言って、少し離れた場所に座った。

「床は冷たくて硬いだろ。せめて、ソファに――」
「いや、ここの方がいい。俺のことは気にするな」
 そこにはつい先日、僕に飛びついてきた子狼のような無邪気さはない。
 まるで成狼のように、雄々しく立派な姿だった。
 僕はすっかり安心して、いつの間にか熱が引いて眠りこんでしまった。

 ***

  ディーノの体温が、まだ肩に残っている。
  うとうとと揺れる意識の中、僕はその温もりを求めて手を伸ばした。
  でも、もうそこには誰もいなかった。

「……あれ……?」
  夜の気配はまだ残っている。窓の外、東の空が少しだけ白んでいた。
  柔らかな風がカーテンを揺らして、どこか遠くで羽ばたきの音がした。

(さっきまでいたのに)
  置いていかれたようで、思わず唇を噛む。

「……また、黙って消えて……」
  悔しくて、毛布をぎゅっと抱きしめた。
 文様だけが置き土産みたいに、じんわりと熱を帯びている。
 そこへ嗄れた声がかかる。

「……ぼうや、拗ねているのかい?」
「……!?」
「こっちだよ」
  声のした方を見ると、窓辺に黒い影。
  銀の光にぬらりと光っていた漆黒の羽根も、朝日の下では煤けて見える、一羽のカラス。

「……ダンテ?」
「そうだ。君の婚約者がよこした」
「ディーノが……?」
「見張りと伝言役。あとは、まあ……警告かな」
「……なんで君が人の言葉を?」
「魔術で喋ってるだけさ。獣人ってやつは便利だね。血を分ければ、言葉も伝わる」
  ダンテは片足で器用に体を傾けながら、さらに言葉を続けた。

「文様が疼くのは馴染んでる証。自然な反応だよ。怖がることはない」
「……怖くなんて、ないよ」
「ふぅん。だったらどうして睫毛が濡れてる?」
  カラスのくせに、やけに観察眼が鋭い。
  僕はふいっと顔を逸らしたけど、ダンテは気にした様子もなく羽を一振りした。

「ディーノは、夜には戻ると言っていたよ」
「そっか……」
「彼が何より恐れているのは、君が泣くことだ。だから泣くのはおよし。あいつはあんたに弱い」
  茶化すような口調とは裏腹に、その声にはどこか温かみが感じられた。

「泣かないよ。大丈夫だ」
  そう答えると、ダンテは一度だけ、静かに頷いた。

「よし。それでこそゼッポリーニ家の天使だ」
「……やめて。その呼び方は、馬鹿にされてるみたいだ」
「了解、エミーリオ」
  ぱたりと羽音を立てて、カラスは窓枠の外に飛び上がる。

「俺は姿を消すが、いつも近くにいる。何かあったら呼べ」
  黒い羽が夜の名残の空に溶け込んで、やがて気配だけが残された。

「……なんだよ、あのカラス」
  僕は狐につままれたような気分で、でも少しだけ、心が軽くなっていた。
  それにあのカラスが、ディーノは夜には戻ると言っていた。
  だが――。
 夜になっても、ディーノは戻らなかった。
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