狼の婚約者 ―君の愛が、僕の呪いをほどくまで―

海野ことり

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㉙終末の始まり

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 鏡のように青空を映していた湖が。
 周囲に生えている、燃えるような赤や黄色の紅葉が。
 泥水を被ったように汚れて煤けて惨憺たる有り様だった。

「どうしたらこんな風になるの!?」
「水辺に近付くな!」
「うわっ!」
 ディーノに制されると同時に、湖から半透明の濁った水が這い上がってきた。
 まるで蟒蛇のような、太った蚯蚓のような姿はとてもグロテスクだった。ドブのような臭いもする。

「うっ……」
 僕は思わず口を押さえて顔を背ける。

「エミーリオ、せめて防衛ラインまで下がってくれ」
 僕は黙って頷いて、這うようにその場を離れた。
 けれど、下がりながら見てしまった。
 湖に取り込まれた人の、蝋人形のように生気のない表情。

 ――背中の悪寒と汗が止まらない。
 人が物のように扱われ、命が軽んじられている。あまりにも呆気なく消えていく。
 僕はふと、悪しき者の言葉が頭に浮かぶ。

 "地獄は地上にある"
 本当に、その通りだ。

「ディーノは大丈夫?」
「俺は慣れてる」
「……」
 彼の淡々とした言葉に胸が潰れそうだ。
 慣れてるなんて、慣れてるなんてそんな……。

「急げばまだ助かるかもしれない」
「ッ!」
 そうだ、俯いてる場合じゃない。
 僕はここにどうにかしに来たのだから。

「よく見たら、濁りの酷い所とそうでもない所がある。中心に行くほど、深い所ほど闇が深そうだ」
「それはどっちの目で見てる?」
「えっ? あ……」
 僕は手で片目を塞いで、代わりばんこに見てみた。
 右でも左でも見えるけど、左の方が遠くまで見える。見えすぎて鬱陶しいくらいだ。

「中心に……団子みたいな塊がある。幾つも手が生えていて、脚が飛び出して――」
 僕の心臓が動きを止めた。
 喉が震えて、言葉が出ない。

「エミーリオ?」
「あんな、あんなのって!」
 それが人の塊だと理解した途端、勝手に涙が溢れてきた。
 どうしてあんな酷いことが出来るのか。苦しいだろうに、無念だろうに。

「エミーリオ、傷付くな」
「傷付く? 違う、僕は怒ってるんだ!」
「ならどうして泣く? 彼らの為に心を痛めているからだろう」
 優しく髪を撫でられ、あやすように目元に口付けを落とされて、そばだっていた心が薙いでくる。

「ディーノ、あんなのって酷い。僕は彼らを助けたい」
「勿論だ」
 あんたが望むなら、と囁かれて嫌な予感がした。

「ディーノ?」
「少しだけ、離れる」
 僕を撫でていた指が離れ、体温が遠退く。
 ――待って、嫌だ、嫌だよ!
 僕の手をすり抜けて走り出したディーノが湖に消える。
 僕の目は、一頭の狼が真っ直ぐに中心に向かって駆けてゆくのを捉える。
 待って、どうして、駄目だ、僕も一緒に――。

「番さま、あなたは駄目です」
「どうして!」
「あなたが彼の力の半分を持っているからです」
 静かに語られた狼獣人の言葉に、僕の肝が冷える。
 ――まさか、彼の分身を僕が取り込んだから、彼は用済みだとでも言うのか!

「僕は、怒りでわけが分からなくなるのは初めてだよ」
 やけに冷静に呟いたあと、視線を湖に戻す。
 黒い目で見た狼は、中心で石のようにじっと固まっている。光っている。
 代わりに解けた人たちが泡のように浮かんでいくのが右目でも見えた。

「あの人たちを回収に行って。僕は――全てを終わらせてくる」
 冷たく言い捨てたら獣人たちが黙って従った。
 僕は湖に目を戻すともう気が気じゃなくて、恐怖も忘れてザブザブと湖に入る。

「チェーザレ! 直ぐにディーノを解放しろ!」
「……」
 しんとした湖面に向かって構わずに話し続ける。

「お前はもうおしまいだ。罪を償わなければならない」
「……まだ、だ」
 かすかに聞こえた声に、僕はきっぱりと首を横に振る。

「いいや、お前はおしまいだよ」
 好き放題に罪を重ねて、無責任に逃げて、それでこの先どこへ行こうと言うのか。
 誰にも祝福してもらえない、暗い道をひとりで行くのか。
 僕ならそんなのはごめんだ。

「君は一緒に行くって言ったじゃないか!」
 湖を割って急に現れた男はもう優等生の面影などない。
 溶けた泥人形のように、目と口がぽっかりと開いた怨霊と化していた。

「僕は、お前を好きだったことは一度もない。それでも、敵対しようとは思っていなかったけれど――ディーノに手を出されたら駄目だ。許せない」
「獣なんてっ!」
「僕も君も、獣人だよ」
 言葉が伝わらないことを寂しく思いながら、僕はゆっくりと左目を瞬く。
 僕の中で眠っていたダンテの気配を直ぐ側に感じる。呼応する、ディーノの熱い脈動を身体中に感じる。

 ――僕はひとりじゃない。だから何も怖くない。

「とても残念だ」
 僕は冷徹にチェーザレだったものを切り捨てようとした。そこに迷いも未練もない。
 いっそ機械的に、必要なことをしようとしたのだけど、縄のようなものが足首に巻き付いてきて目線を落とす。
 そこにいたのは卑屈で矮小な生き物で、その哀れな姿を見て胸を衝かれた。

「……まさか、チェーリオ?」
 変わり果てた奇妙な姿をまじまじと見る。
 ボロ雑巾のような、千切れた触手のような、嫌悪感をもよおさせる姿に衝撃を受ける。

「どうして君がっ!」
 罰を受けるならアイツだろう。
 そんな僕の気持ちも知らずに、その小さな生き物は僕の足首を締め付ける。

「やめてよ……」
 僕はボロボロと涙を零した。
 僕には救えないのに、君は無力になってもまだ奴を庇うのか。僕の心を揺らすのか。

「チェーリオ……」
 元は同一の魂だと言うけれど、そこには確かに自己愛以外のものが存在している。
 そんなに救いたかったのか。救われたかったのか。

「チェーリオ、君はチェーザレが大事なんだね」
 僕はそっとチェーリオを抱き上げた。
 そしてそのまま泥人形に向き合う。

「チェーザレ、君はどうしたい?」
「チェ、リオ……」
 泥人形は感情が読めない顔で震えながら、辿々しく僕に手を伸ばした。
 僕は彼が弟を取るのか、僕を選ぶのか、固唾を飲んで見守った。そして――。

「あれはなんだ!」
「何か出ようとしてる!」
「番さま、どうかこちらに!」
 口々に騒ぐ人たちに袖を引かれ、僕はチェーザレだったものから引き離される。
 選び損ねたチェーザレは、物言わぬ人形のままぽっかりと開いた穴に引き込まれていった。

「そうか、彼はこれを開けようとしていたのか……」
 僕は前世で聞いた話を思い出す。
 "地獄の釜が開いた。"
 確かそれは、そんな風に表現されていた筈だ。
 それは言い得て妙だと納得するしかない光景だった。
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