狼の婚約者 ―君の愛が、僕の呪いをほどくまで―

海野ことり

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㉚世界を閉じる音

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 ナイアガラの滝みたいだ。
 あるいは世界の端っこ。
 大きな穴に向かって落ちる水が爆音と飛沫を上げ、まるで煙のように漂っている。
 生ぬるい風が僕の頬を柔らかく撫でていき、背中がゾクリと震えた。

「この世の終わりだ!」
 誰かがそう叫び、座り込んで嘆いている。
 草木が枯れ、太陽さえも翳った風景は心胆を寒からしめるものだった。
 でも、諦めるわけにはいかない。

「あそこにディーノがいて、彼が完全に蓋が開くのを押し留めている」
 ディーノは四本の足ですっくと立ち、光り輝いている。
 ただ、大きな力を使っているせいか、意識がないみたいだ。

「僕は本来ならダンテがしていたことを代わりにしにいく」
「番さま! お戻り下さい! あなたでは無理です!」
「うん、そうだね。僕では約不足だ。でも……でも僕は、ダンテの力を預かったのだから。助けられたのだから、今度は僕が助けなくちゃ」
 命には命で返す。それが気高い獣人の誇りだ。

「エミーリオ様……」
 言いつけられた自分の役目と、僕への尊重の間で板挟みになる隊員を見ていたら、腕の中で小さな生き物が震えた。

「チェーリオ?」
 それは身を捩って僕の腕の中からポトリと落ち、地面をじわじわと這っていく。

「どこに行くの? 危ないよ」
 僕は慌てて彼を捕まえたけど、それは同じ動きを繰り返そうとする。

「……もしかして、チェーザレを救いに行きたいの?」
 僕はハッと胸を衝かれた。
 そうか。君は穴の中まで追っていく気か。
 でもね、行かせるわけにはいかない。
 僕は黙って見送るなんて、出来ないよ。

「チェーリオ、見てごらん。穴の縁から亡者が這い出ようとしている。僕はあれを阻止しに行くけど、君はあの中からチェーザレを探し出して救える? 穴に落ちるより、その方が良さそうじゃない?」
「……」
 チェーリオは、僕の言葉を理解したのかわからないけどおとなしくなった。
 僕はホッとして、それから慌てて気を引き締めるとその辺に落ちている棒を拾う。

 前世の僕は、掃除道具くらいしか手にしたことがないけど、見様見真似で振り回すことくらいは出来るだろう。
 僕は穴の縁から這い上がってきた亡者を棒で突き落とす。

 ――……嫌な仕事だ。君たちはこんな仕事を陰ながらしていたのか。
 僕は心からディーノへ同情する。

「番さま、代わります!」
「僕に構ってる場合じゃないだろう! 動けない人を先に避難させて!」
 僕は思わず乱暴な口調で叫んだ。
 だって亡者は生きている者を襲う。
 僕は加護の文様があるからか襲われないみたいだけど、倒れている人を食べようとしたのを見てゾッとした。

「直ぐに戻って来ます!」
 隊員は悩んだ末に僕の側を離れた。
 僕は心を殺して作業のように亡者を落とし続ける。そして気が付いたら、積み重なった亡者がディーノに手を伸ばしていた。

「ディーノ!」
 彼は意識がないからか気が付いていない。

「ディーノ、ディーノッ!」
 僕は亡者を踏みつけ、ディーノのところへ向かう。
 腐肉に足を取られ、転んでついた手が埋まり、重みに負けて顔が俯く。
 邪魔しないで、お願いだ、僕をディーノのところに行かせて。
 自分のことを大事にしない、尽くしてばかりのディーノを僕に救わせて。
 お願い! お願いだから!

『俺の名前も呼んでくれよ。水くせーな』
 そんな声が聞こえ、僕の身体がふわりと軽くなる。
 僕はキッと前を睨み、手を払って立ち上がる。
 羊だから役に立たないとか、出来ないとかもう言わない。僕が助ける。僕がやる。

「ディーノ!」
 もう少しで手が届くというところで、チェーリオが僕の胸から飛び出した。
 僕は思わず、穴の中に落ちていくチェーリオに手を伸ばした。
 もう片方の手で掴んでいた亡者が枯れ枝のようにポキリと折れ、僕の身体が宙に浮いた。

『あ……うそ、こんなところで』
 僕はディーノに向かって必死に手を伸ばす。
 直ぐ目の前にいるのに、届かない。
 ほんの少しの距離が無限に遠い。

「ヒッ!」
 ガクン、と吸い込まれるように身体が落下する。
 僕は前回の死を思い出して恐怖に凍り付いた。
 その時、虚しく伸ばした手を誰かが掴んで引き止めた。

「待たせたな」
 人型に戻ったディーノが、僕とチェーリオを両腕に抱えていた。

 ***

「遅いよ!」
 僕はディーノを見た途端、両目から涙を溢れさせた。
 怒りと安堵で感情が嵐のように乱れる。
 そんな僕をディーノはしっかりと抱きしめて頭を撫でた。

「全部見ていた。よく頑張ったな」
「ん……」
「さすがは俺の番だ」
 口付けられて大きな胸に抱かれて、僕はもう大丈夫だと安心する。けどまだ地獄の蓋は閉まっていない。

「ディーノ、あれをなんとかしないと」
「任せろ。一族の役目だからな。俺が始末をつける。あんたは危ないから、目を閉じていろ」
 僕はディーノに手で両目を覆われたけれど、左目で見えてしまった。
 穴の中に蠢く亡者や魑魅魍魎。それらが見えない手で押し返され、嫌がって身を捩り聞くに堪えない悲鳴を上げたが、ゴゴゴ…と低い音を立てながら無慈悲に蓋が閉じて行った。
 静かになった湖畔に、風の音だけが流れていく。
 亡者の気配も、地の底から響く呻きも、もうどこにもない。
 ディーノがそっと僕の手を握った。
 大きくて、温かくて、ほんの少し震えている。

「エミーリオ、無事で……よかった」
「君も」
 共に生き残った。
 その想いが、熱く静かに、胸に満ちていく。
 さっきまで世界が終わりかけていたなんて、嘘みたいだ。

 湖面で月の光がキラキラと揺れている。
 これから先、何があるのかはわからない。
 でも、この確かな温もりと歩いていく。
 それだけで充分だ。

「ねえ、ディーノ」
「ん?」
「生きて戻ってきてくれて、ありがとう」
 ディーノは照れたように目を伏せ、それから僕の手をそっと引き寄せて口づけた。
 僕は胸の奥があたたかくなって、力を抜いて彼の肩にもたれる。

 この夜の静けさを、僕はきっと一生忘れない。
 君と共に世界を閉じた音が、まだ胸のどこかで揺れている。  
 その震えに、僕はそっと耳を澄ませた。
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