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⑩月が見ていた−2
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「そうだな、わたしもそう思うよ」
蓮治はそう答え、けれど脳裏にはこのところ逢っていない人の顔が思い浮かぶ。
彼が初めて自分に微笑みかけてくれた時の顔が今でも忘れられない。
信乃は自分の作った硯箱を緊張した面持ちで蓮治に渡し、可愛いじゃないかと蓮治が笑ったらふんわりと嬉しそうに顔を綻ばせた。
それから直ぐに一生懸命に顔を引き締めようとして、けれどちっとも上手くいかずに見ている方が恥ずかしくなるくらいに喜んでいた。
(ああ、可愛いな。こんな顔を俺がさせたんだ。これは俺のものなんだ)
そう思ったのがきっと恋をした切っ掛けだった。
「彦十朗、無理だよ。わたしは二十年もしつこく彼を追い掛け回しているんだからね」
「……馬鹿な人ですね」
情けない顔で笑った彦十朗の肩を押さえる様に叩いた。
蓮治はそれはお互い様だろうと思ったが、黙っていた。
推測している事はあるけれど、彦十朗の口から彼の本当の気持ちは一つも聞いていないし、自分が聞いていい事でもなかった。
(今頃信乃はどうしているだろう? 怒られても良いから会いに行こうか。こんなに顔を見られないと、どうにも寂しいし不安になってくる)
蓮治は幻でもいいから姿が映りはしないかと、窓から月を見上げた。
***
蓮治が月を見上げていたその頃、信乃はうつらうつらと微睡んでいた。
そして自分がふわふわと宙に浮いているのはどうしてだ、気持ち良いけど何だか怖いと思って目が覚めた。
「信乃さん? 目が覚めましたか?」
自分を抱きかかえた男が顔を覗き込んできた。
「けい……たろ?」
「三津弥の代わりに食事を届けに来たらあなたが倒れていて、肝が冷えましたよ」
「あ……おれ」
信乃は強く惹かれる図柄を見付け、それを描き切ったと思ったらふっと意識が遠ざかって気を失っていた。
ずっと寝ていなかったから、気が緩んだ隙に眠ってしまったのだろう。
「ほんの少しの間に痩せ過ぎですよ。こんなに軽いと風に吹き飛ばされてしまいます」
「……ばか」
大真面目に何を言ってるのだ、と信乃が慶太郎の物言いにちょっと和む。
「な、降ろせよ。もう歩ける」
「無理です」
きっぱりと反論されて信乃は口をへの字に曲げた。
「俺が言ってるんだから大丈夫だよ。降ろせって」
強情な口元に慶太郎は嘆息を吐いて彼を降ろした。すると案の定、信乃はふら付いて慶太郎の腕に支えられた。
「少し寝たくらいじゃどうにもなりませんよ。ろくに食べてもいないでしょう?」
ひょいと再び抱き上げられて、信乃も今度は大人しく運ばれた。
どちらにせよ迷惑を掛けるなら、相手の手間にならない方がいい。
「三津弥はどうしたんだ? お前、仕事は?」
至近距離で顔を見上げられて、慶太郎の心臓が痛いくらいに脈打った。
己の欲は封印しようと思ったのに、こうして手の届く距離に近付かれると血が騒いで仕方がない。
抱き締めた感触も、触れ合った体の温かさも、彼から届く濡れた吐息も自分を刺激して止まない。
もっと味わえ、この細い身体をもっと知りたくはないかと誘ってくる。
(いけない)
慶太郎は頭を強く振って煩悩を振り払った。
「信乃さん、お茶を淹れてきます」
慶太郎は信乃を降ろして逃げ出そうとしたが、半纏の裾を掴まれて引き留められた。
「あの……さ、蓮治には内緒にしてくれな」
「…………倒れていた事ですか?」
元々言うつもりなど無かったが、わざわざの口止めに胸にザラリとしたものを感じた。
そんな慶太郎の気持ちも知らず、信乃は一生懸命に言い訳をする。
「だってあいつ、凄い心配性でさ。知られたら絶対に自分ちに来いって言うぜ」
「困りますか?」
「困るよ。あいつのこたぁ、苦手なんだ」
信乃の子供が訴えるような口振りが可愛くて、慶太郎の胸が愛しさと嫉妬にじくじくと痛んだ。
この人は蓮治を苦手だと言いつついつも気にしている。気にされる事を意識している。
もしも本当に気にされなくなったら、この人は果たして身軽になれるのだろうか?
こんな筈ではなかったと、虚無と悔恨に苛まれるのではないだろうか。
或いは蓮治が絶対に信乃を見放さないと、一生側にいて気にし続けると思っているのか。
「言いませんよ。蓮治さんには何も言わない」
「慶太郎?」
やけにきっぱりと言い切った慶太郎の口調に何か感じるものがあり、信乃は不審げに彼を見上げた。
「……言えない事を、しましょうか」
「慶太郎? おい、どうした――」
手首をギュッと掴まれて信乃の背中がぎくりとした。
いつも力強く動く手が、自分の手首を鉄のように固く握り締めて拘束している。
その手を取り戻そうとしてもびくともしない。
「おい、冗談は止めろ。どうしたんだよ、可笑しいぜ?」
引き攣った顔で必死に笑って冗談にしようとする信乃に、慶太郎はニコリともせずに言った。
「そうです、可笑しいんです。俺は、普通じゃない」
「慶っ!?」
「諦めて下さい」
慶太郎は片手で信乃の腕を掴んだまま、空いた手で信乃の帯をしゅるりと解いた。
その帯で信乃の両手を縛ると鴨居に通して結わえ付けた。
鴨居にぶら下げられた信乃は呆然としたまま慶太郎を見詰めた。
「蓮治さんに言えない秘密を持てばいい。そうすればあなたは――」
疚しくて、二度と彼に逢えなくなる。
慶太郎の台詞を信乃が聞く事は無かった。声は二人の喉の奥に消えてしまった。
目を見開いたまま合わさった唇の生々しさに、信乃はこれが夢ではない事を知った。
蓮治はそう答え、けれど脳裏にはこのところ逢っていない人の顔が思い浮かぶ。
彼が初めて自分に微笑みかけてくれた時の顔が今でも忘れられない。
信乃は自分の作った硯箱を緊張した面持ちで蓮治に渡し、可愛いじゃないかと蓮治が笑ったらふんわりと嬉しそうに顔を綻ばせた。
それから直ぐに一生懸命に顔を引き締めようとして、けれどちっとも上手くいかずに見ている方が恥ずかしくなるくらいに喜んでいた。
(ああ、可愛いな。こんな顔を俺がさせたんだ。これは俺のものなんだ)
そう思ったのがきっと恋をした切っ掛けだった。
「彦十朗、無理だよ。わたしは二十年もしつこく彼を追い掛け回しているんだからね」
「……馬鹿な人ですね」
情けない顔で笑った彦十朗の肩を押さえる様に叩いた。
蓮治はそれはお互い様だろうと思ったが、黙っていた。
推測している事はあるけれど、彦十朗の口から彼の本当の気持ちは一つも聞いていないし、自分が聞いていい事でもなかった。
(今頃信乃はどうしているだろう? 怒られても良いから会いに行こうか。こんなに顔を見られないと、どうにも寂しいし不安になってくる)
蓮治は幻でもいいから姿が映りはしないかと、窓から月を見上げた。
***
蓮治が月を見上げていたその頃、信乃はうつらうつらと微睡んでいた。
そして自分がふわふわと宙に浮いているのはどうしてだ、気持ち良いけど何だか怖いと思って目が覚めた。
「信乃さん? 目が覚めましたか?」
自分を抱きかかえた男が顔を覗き込んできた。
「けい……たろ?」
「三津弥の代わりに食事を届けに来たらあなたが倒れていて、肝が冷えましたよ」
「あ……おれ」
信乃は強く惹かれる図柄を見付け、それを描き切ったと思ったらふっと意識が遠ざかって気を失っていた。
ずっと寝ていなかったから、気が緩んだ隙に眠ってしまったのだろう。
「ほんの少しの間に痩せ過ぎですよ。こんなに軽いと風に吹き飛ばされてしまいます」
「……ばか」
大真面目に何を言ってるのだ、と信乃が慶太郎の物言いにちょっと和む。
「な、降ろせよ。もう歩ける」
「無理です」
きっぱりと反論されて信乃は口をへの字に曲げた。
「俺が言ってるんだから大丈夫だよ。降ろせって」
強情な口元に慶太郎は嘆息を吐いて彼を降ろした。すると案の定、信乃はふら付いて慶太郎の腕に支えられた。
「少し寝たくらいじゃどうにもなりませんよ。ろくに食べてもいないでしょう?」
ひょいと再び抱き上げられて、信乃も今度は大人しく運ばれた。
どちらにせよ迷惑を掛けるなら、相手の手間にならない方がいい。
「三津弥はどうしたんだ? お前、仕事は?」
至近距離で顔を見上げられて、慶太郎の心臓が痛いくらいに脈打った。
己の欲は封印しようと思ったのに、こうして手の届く距離に近付かれると血が騒いで仕方がない。
抱き締めた感触も、触れ合った体の温かさも、彼から届く濡れた吐息も自分を刺激して止まない。
もっと味わえ、この細い身体をもっと知りたくはないかと誘ってくる。
(いけない)
慶太郎は頭を強く振って煩悩を振り払った。
「信乃さん、お茶を淹れてきます」
慶太郎は信乃を降ろして逃げ出そうとしたが、半纏の裾を掴まれて引き留められた。
「あの……さ、蓮治には内緒にしてくれな」
「…………倒れていた事ですか?」
元々言うつもりなど無かったが、わざわざの口止めに胸にザラリとしたものを感じた。
そんな慶太郎の気持ちも知らず、信乃は一生懸命に言い訳をする。
「だってあいつ、凄い心配性でさ。知られたら絶対に自分ちに来いって言うぜ」
「困りますか?」
「困るよ。あいつのこたぁ、苦手なんだ」
信乃の子供が訴えるような口振りが可愛くて、慶太郎の胸が愛しさと嫉妬にじくじくと痛んだ。
この人は蓮治を苦手だと言いつついつも気にしている。気にされる事を意識している。
もしも本当に気にされなくなったら、この人は果たして身軽になれるのだろうか?
こんな筈ではなかったと、虚無と悔恨に苛まれるのではないだろうか。
或いは蓮治が絶対に信乃を見放さないと、一生側にいて気にし続けると思っているのか。
「言いませんよ。蓮治さんには何も言わない」
「慶太郎?」
やけにきっぱりと言い切った慶太郎の口調に何か感じるものがあり、信乃は不審げに彼を見上げた。
「……言えない事を、しましょうか」
「慶太郎? おい、どうした――」
手首をギュッと掴まれて信乃の背中がぎくりとした。
いつも力強く動く手が、自分の手首を鉄のように固く握り締めて拘束している。
その手を取り戻そうとしてもびくともしない。
「おい、冗談は止めろ。どうしたんだよ、可笑しいぜ?」
引き攣った顔で必死に笑って冗談にしようとする信乃に、慶太郎はニコリともせずに言った。
「そうです、可笑しいんです。俺は、普通じゃない」
「慶っ!?」
「諦めて下さい」
慶太郎は片手で信乃の腕を掴んだまま、空いた手で信乃の帯をしゅるりと解いた。
その帯で信乃の両手を縛ると鴨居に通して結わえ付けた。
鴨居にぶら下げられた信乃は呆然としたまま慶太郎を見詰めた。
「蓮治さんに言えない秘密を持てばいい。そうすればあなたは――」
疚しくて、二度と彼に逢えなくなる。
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