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第六章:穏やかな日々は磯波とともに砕け散り

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 歩き回って疲れていたのか、あっという間に眠りに落ちて――そして、目が覚めると真夜中だった。
 身体を動かそうとしてもビクともしなくて、ふっと顔を上げそういえば伊織さんに抱きしめられたまま眠ったのだと思い出して心臓の鼓動が早くなる。
 顔だけなんとか動かして隣を見ると、伊織さんはぐっすりと眠っているようだった。その寝顔に頬が緩んだ。
 ここに来てもう三ヶ月が経つ。元の時代のことを考えると少し胸が痛むけれど、それでも伊織さんがそばにいてくれるから寂しくはなかった。
 私は、枕元に置いた貝殻に手を伸ばす。この貝殻がピッタリと重なるのが本当に伊織さんの持つあの貝殻だけなのだとしたら、それを片方ずつ持った私たちもきっとずっと一緒にいられる。そんなことを考えると胸の奥があたたかくなるのを感じた。
 さあ、もう一度眠らなきゃ。朝、起きられなくなってしまう。明日の朝は、夕食のあとに醤油とみりんに漬けておいたぶりを照り焼きにしよう。フライパンの中で絡めるだけでも美味しいのだけれど、前の晩に漬け込んでおくことで臭みが消えてより美味しくなるのだ。
 貝殻を握りしめたままそんなことを思った、そのときだった。部屋の中に明るい光が灯ったのは。いったい何の光だろう。突然のことに驚きつつも必死に光源を探す。そして――ようやく、それを見つけた。

「蛍……?」

 それは、季節外れの蛍の光だった。いったいどこから入り込んだんだろう。戸締まりはきちんとしているはずなのに。
 隣で眠る伊織さんは、蛍の光が気にならないのか眠ったままだ。蛍の光のおかげで部屋の中はまるで昼間のように明るくなっているというのによく眠っていられるなぁ。でも、蛍か……。そういえば、あの日この時代にタイムスリップしてきたあの日も、蛍を見たなぁ。あの蛍も、凄く光ってて綺麗だった。
 懐かしく思いながら、蛍に手を伸ばす。すると、蛍は何の迷いもなく私の指先に止まった。
 まぶしい……!
 思わず目がくらんでしまうほどのまばゆさに違和感を覚えたときには遅かった。光はどんどんと輝きを増し部屋中を明るく照らした。
 あまりの明るさに目を閉じた私が次に目を開けると、そこは――三ヶ月前のあの日、私がタイムスリップすることになったあの森の中だった。

 
 そのあとのことはよく覚えていない。まるでこの三ヶ月なんてなかったかのように、あの日と同じ服装をしている私のポケットの中でスマホが鳴って、意味がわからないまま通話をオンにすると、泣き叫ぶお母さんの声が聞こえた。
 今どこにいるのと聞かれて、キャンプ場の森の中と答えると、一時間もしないうちに私は警察や消防、たくさんの人に囲まれて病院へと搬送された。

「菫!!」
「おかあ、さん……」
「菫! あなた、今までどこに……!」

 病院に駆け付けたお母さんは私の身体をギュッと抱きしめると、周りにたくさんの人がいるのも気にしないで大声で泣いた。お母さんの後ろに、涙で顔をぐちゃぐちゃにした椿と、それから海里の姿も見えて、ああ、私は本当に元の時代に帰ってきてしまったんだとそう実感した。

「お、かあ、さん……?」
「菫……」
「泣い、てるの……?」

 こんなふうに、お母さんが泣いているところを見るのはいつぶりだろう。お父さんが死んじゃってすぐは私や椿に隠れて泣いているところを見たけれど、いつからか見かけなくなった。なのに、そんなお母さんが、泣いている。
 私の、ために……?

「泣いて、くれるの……?」
「当たり前でしょ!」
「だって、お母さんにとって私はお父さんを殺した憎い子でしょう?」
「なっ……」
「なのに、泣いてくれるの……?」
「菫、あなた……」

 お母さんは私を抱きしめる手に力を込めた。痛いぐらい抱きしめられた身体、なのになぜか少しも苦しくなくて、それどころか抱きしめられた腕の中は優しくてあたたかかった。

「あなたがいなくなったら、お母さんどうやって生きていけばいいの!」
「え……?」
「菫も椿も、お母さんにとって……ううん、お母さんとお父さんにとって大事な大事な子どもなの。だから、二度とそんなこと言わないで……!」
「お、かあさん……お母さん!!」

 私はお母さんの背中に手を回すとしがみつくようにして抱きしめて、そして泣いた。小さな子どものように声をあげて泣き続けた。
 本当は、この優しいぬくもりにずっと抱きしめられたかった。もう二度と抱きしめてもらえないと思っていたこの腕に。それがもう一度叶ったのはまぎれもない、伊織さんのおかげだ。彼が、私の心の中にあった氷の壁を優しく溶かしてくれた。

「っ……」

 でも、もう――二度と、伊織さんには会えない。
 もう二度と、あの腕に抱かれることはない。好きだよと囁かれることもなければ好きですと伝えることもできない。大きくて優しい手のひらを握りしめることも、もうない。

「あ……ああぁ!」

 止まりかけた涙が、再び頬を伝う。でもそれは先ほどまでの温かい涙とは違って、冷たく氷のようだった。
  お母さんや椿に会いたくなかったわけじゃない。二度と会えないことにショックを受けたことだってある。でも、それでも……。

「菫、泣かないで」
「っ……あ……」
「あなたが無事で、本当によかった……。もう二度と会えないかと思った……」
「ご、めんな、さい……」

 泣いている私を、お母さんは優しく撫でてくれる。でも、違うの。この涙は、お母さんに会えたことを喜んでいるわけじゃなくて。ううん、喜んでいないわけじゃない。でも、でもそれよりも――きっともう二度と、伊織さんに会えないという事実が――。

「っ……うわああああぁぁ!!」

 私は大声で泣いた。こんなにも好きになっていたのに、ずっと一緒にいられるってそう思っていたのに。まさかこんなにあっけなく終わりを迎えるなんて思っていなかった。わかっていたらもっと早く好きだって言って、いっぱいいっぱい伊織さんに好きだって伝えて、それで、それで……。
 もう二度と会えない伊織さんのことを思うと――私の涙は止まることがなかった。
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