あなたを褒める仕事をしています

えんびあゆ

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宮原蒼太編

第29話 ほめられたことが、よくわからない[2]

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冷たい空気が顔に当たる。
それで、少し目が覚めた。
涙の跡が冷えて、頬が痛かった。

レンタルスペースは、想像よりも普通だった。

白い壁。
机と椅子が二つ。
ぬいぐるみも、ポスターもない。
いい匂いもしない。
音楽も流れていない。

その「何もない」が、蒼太には少しだけ助かった。
怖いほど綺麗でもないし、優しすぎる感じもしない。
ただの部屋。
ただの机。
逃げ場がない代わりに、嘘も要らない感じがした。

そこに座っていた女性は、優しそうでも怖そうでもなかった。

髪はきれいにまとめていて、服も派手じゃない。
目が鋭いわけじゃないのに、こちらをちゃんと見ている。
見ているのに、覗き込んでこない。
距離がある。

「こんにちは」

それだけ言った。

その一言が、思ったより軽かった。
「大丈夫?」も「どうしたの?」もない。
蒼太は少しだけ息がしやすくなった。

蒼太は封筒を差し出した。

「……これ」

中身を見て、三枝しのは首を横に振った。

「少し足りません」

蒼太の喉が鳴った。

足りない。
その言葉を言われた瞬間、蒼太の頭の中で「やっぱりだ」が鳴った。
こういうところだ。
最後までちゃんとできない。
お金が足りないことは知っていたのに、ただ勢いだけで来てしまった。
やっぱり自分は――と、いつもの声が出てくる。

「……ごめんなさい」

泣きたくなかった。
でも、涙は勝手に出てきた。

涙が出ると、蒼太は恥ずかしくなる。
恥ずかしいと、もっと涙が出る。
止められない。

「今日は、話だけでいいです。“褒め”もしません。代わりに事実を言葉にします」

しのは、そう言った。

声は淡々としていた。
でも、突き放してはいなかった。
「いいです」という言葉が、許可に聞こえた。

蒼太は、そこで泣いた。

声を出して。
止めようとしなかった。

止めようとすると、余計に苦しくなる。
ここなら止めなくていい。
蒼太は、それを体が先に知っていた。

「……ぼく、ほめられたこと、なくて……」

言った瞬間、自分でも驚いた。
本当は、褒められたことがないわけじゃない。
「ありがとう」と言われたこともある。
「助かった」と言われたこともある。

でも、そういう言葉が胸に残らない。
すぐ消える。
蒼太の中で、陽菜の言葉だけが残る。

残る言葉だけが、本当みたいになってしまう。

しのは、すぐに何も言わなかった。

泣いている蒼太を、ただ見ていた。
ティッシュを差し出すでもなく、慰めるでもなく。
ただ、ここにいる。

それが、蒼太には不思議だった。
放っておかれているのに、怖くない。
見られているのに、責められていない。

「学校で、となりの席の子が……」

蒼太は、陽菜の言葉を、一つずつ話した。

「ノロマって」
「男子なのにって」
「泣くなって」

言いながら、胸が痛くなった。
痛いのに、言葉にしたら少し軽くなる。

しのは、紙にそのまま書いた。

評価しない。
意味づけもしない。
ただ、文字にする。

蒼太はその動きを見て、少しだけ落ち着いた。
「聞いてる」って言われるより、聞いてるのが分かる。

「同じ人が、同じ言葉を言っていますね」

「……はい」

「違う言葉は?」

「……ないです」

蒼太はそう答えてから、少しだけ迷った。
本当は、ある。

「そこ危ない」とか。
「貸して」とか。
「はやくして」とか。

でも、それは“普通の言葉”だから、今は数に入れないことにした。

しのは、少し考えてから言った。

「可能性の話をします」

蒼太は、顔を上げた。

「好きな人に、同じ言葉を何度も使う人もいます」

蒼太は目を丸くした。

「……それ、へんじゃないですか」

「変です」

即答だった。

蒼太は、その即答がなぜか嬉しかった。
変じゃない、とは言わない。
でも、可能性は捨てない。

「でも、人は変なことをします」

蒼太は、少しだけ笑った。

笑った瞬間、涙が止まった。
笑うと涙が止まることがある、というのを蒼太は知っていた。
でも笑える状況は少ない。
今日は、少しだけ笑えた。

そのあと相談が出た。

「……明日、公園に呼ばれてて」

「怖いですか」

「……はい」

蒼太は「はい」を言うだけで精一杯だった。
怖い理由はたくさんある。
殴られるかもしれない、とかじゃない。
もっと小さい怖さだ。

「もっと嫌なことを言われるかもしれない」
「泣いてしまうかもしれない」
「泣いたら負けみたいになる」
「何も言えなくなる」
「嫌われる」
「でも、嫌われたら安心してしまうかもしれない」

ぐちゃぐちゃだった。
それを説明すると、余計に泣きそうだった。

「行かない、途中で帰る、何も言わない。選べます」

しのの言葉は、短くて、逃げ道がちゃんとあった。
蒼太は、少しだけ肩の力が抜けた。

「……ついてきてくれますか?」

蒼太は言ってから、しまったと思った。
頼りたい。
決めてもらいたい。
そう思っている自分が、露骨すぎて恥ずかしい。

「行きません」

しのは、はっきり言った。

蒼太の胸が少しだけ沈んだ。
でも、同時に少し安心した。

ついてきてくれたら、蒼太はきっと「しのがいるから大丈夫」になってしまう。
そして次も「しのがいないとだめ」になる。
蒼太はそこまで言葉にできないけれど、体がそれを怖がっていた。

「決めるのは、あなたです」

蒼太は頷いた。

怖かった。
でも、逃げるのはもっと怖かった。
逃げたあとに残る「やっぱりだ」が、一番嫌だった。

蒼太は、ドアノブの冷たさを思い出した。
あの冷たさを、もう一度味わうのは嫌だ。

だから――行く。

まだ、どうするかは分からないけれど。
行く、ということだけは、自分で決める。

そう思って、蒼太は小さく息を吸った。

しのは、その呼吸を見て、何も言わなかった。
言わないまま、蒼太の前に、紙とペンを置いた。

「明日、公園に行くなら。最初に言う一言だけ、決めておきますか」

蒼太は、涙の跡が乾いた頬をこすって、うなずいた。
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