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66話 それから(最終話)
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夏が過ぎて、また秋が来る。リエーヴに来て一年が経った。息つく暇もないほど忙しかったし、楽しい一年だったとソフィアは思う。忘れたいことは、すべて良き思い出に上書きされる。それぐらい充実して、自分らしくいられた。
肌寒くなってきたころ、ソフィアはコルセットをやめ、ゆったりしたドレスを着るようになった。日に日に腹が大きくなっていくのは怖くもあり、嬉しくもある。早く出たいのだろうか。蹴られて、ぴくぴく動く腹はリヒャルトにおもしろがられている。年がら年中、腹をなでてきてお腹の子に話しかけるものだから「わたくしの存在は?」と、ソフィアは拗ねてみたりもした。
夏の終わりにネイリーズ伯爵夫妻は自領へ帰ってしまった。あの夫妻のすごいのはコーヒー、チョコレートと続いて、バニラの販売にも着手したところだ。ソフィアも協力して、バニラの人工授粉に成功した。これから、国内生産に向けて準備を始めるという。相も変わらず、貪欲である。
しかし、ソフィアも人のことは言えない。牧場に大きな工場を二つ併設した。一つの工場ではチーズやヨーグルトなど加工品を、もう一つでは菓子を作る。バターたっぷりのクッキーやスノーボール、卵ボーロ、エッグタルト、チーズケーキ。保存や輸送に適した焼き菓子だ。
遠隔地のほうも、うまくいっている。あの不良農民のボドが、今では立派な牧場主である。妊娠中は止められているため、直接様子をうかがいたくてソフィアはうずうずしている。ヨーグルトとチーズの生産はボドに先を越された。結果的に成功モデルを作ってくれたことで、安心して始められたのだが、少々悔しくもある。
(やるわね、ボドも。でも、負けないわ。菓子工場はわたくしのほうが先に成功させる!)
菓子作りはソフィアの得意とする分野である。なにしろ、前世では大手菓子メーカーの新製品開発部門にいた。バリキャリだ。
その前世の記憶も、最近はおぼろげになってきた。ひょっとしたら、神様がくださったギフトだったのかもしれない──ソフィアはそんなふうにも思うのだ。
悲しい別れもあった。約束したとおり、経営が軌道に乗ったので、先月、ノアをボドのもとへ行かせた。彼女は牧場のスタート時から協力してくれた大切な仲間。右も左もわからない時、苦楽を共にしてきた片腕だ。彼女がいなければ、ここまでスムーズに成功させられなかっただろう。ノアがいなくなるのはかなりの痛手でもあったが、ソフィアは笑顔で送り出した。
秋晴れのある日。ソフィアはリヒャルトと庭園で優雅にブランチを楽しんでいた。秋バラも満開。暖かい昼下がりである。デザートにちょっとしたサプライズも用意した。
先日学匠が完成させた装置を使って、ある物を作る。登場させたのは、金属の蓋付き桶にハンドルをつけただけのシンプルな物だ。中は二重構造になっている。桶の中に材料を入れる筒が入っていて、ハンドルを回すと中でグルグル回転する。そうやって、外側に入れた氷と塩で冷やすのだ。そう、これは──
「アイスクリームのできあがり!!」
「簡単に作れて、おもしろいな!」
このアイスクリーム製造機があれば、もっと手軽にアイスを楽しめるようになる。今は貴族だけの嗜好品だが、いずれ庶民にまで下りてくるだろう。まずはこの製造機が、貴族の屋敷に必ず一つは置かれるぐらい大流行させなければ──
「ソフィア。まーた、仕事のことを考えていただろう? 罰として、今夜はメイド服を着なさい」
「いやよ、服を着たままは……お風呂に入ってからでないと……」
「ならば、一緒に仲良く風呂に入ったあと、寝巻きではなくてメイド服を着ればいいじゃないか?」
最近、旦那様は変態化してきている。だが、ソフィアも負けてはいない。
「残念ね。普通のメイド服では、お腹が入りません。出産後に持ち越しですね」
「くっ……じゃあ、新しく作らせればいいだろう? 今の、その……腹の出た状態がいいのだ」
「あなたが、変な妄想を膨らませている間にアイスが溶けました。責任を取って……」
リヒャルトが急いでアイスを口へ入れる間に、ソフィアは報復を考えた。
「アイスをすぐに食べなかった罰として、わたくしのドレスを着なさい。妊娠中のドレスなら、ゆったりしてるからあなたにも入るわ」
「むむ……いいだろう。だが、君もメイド服を着るのだぞ?」
女装とメイド服で夜に挑むのか……なかなかハードだ。
「それよりあなた、アイスを楽しんで? このアイス、特別なのよ? 中に入っているフレーバーを二つとも当てられたら、なんでも言うことを聞いてあげるわ」
黄色っぽい色をしたアイスは少し変わっている。口へ入れたとたんに夏の太陽が蘇り、プチプチとポリポリ、二つの食感と風味を楽しめる。
「私をナメてはいけないよ? これでも、君のおかげで鍛えられたんだ。この黒い粒々はバニラだろう? んで、この黄色っぽいのはナッツだな?……そうだ! カボチャの種だろう!」
「ぶーー!」
ソフィアの「ぶー」にリヒャルトはあからさまに落胆する。
答えはひまわりの種。リヒャルトが帰還した時の思い出の花だ。ソフィアは花壇のひまわりが枯れても、無駄にはしなかった。
「間違えたので罰として、わたくしのドレスを着たうえで五分間、乳首責めの刑に処します」
女装したリヒャルトの乳首を責めようとは、ソフィアもかなりのものである。自分で言って、笑ってしまった。くすぐったがりの彼はかわいい。
「そういえば、なぜ枯れたままのひまわりをそのままにしているのか、庭師に聞いたのだ。そうしたら、君が切らせてくれないのだと言っていた。種を熟成させたいから、そのままにさせておいたのだろう?」
「ええ。だって、もったいないんだもの。ひまわりの種って、とっても栄養価が高いのよ?」
「次から、種が取れない小ぶりのひまわりを植えると庭師は言っていたよ。ああ、その時、聞いたんだが、ひまわりの花言葉は“愛”なんだって? このアイスは君の愛がたくさん詰まっているんだね」
嬉々として、リヒャルトはアイスを口へ運ぶ。だが、ソフィアは固まった。ひまわりの花言葉で思い出してしまったのだ。妹のことを──
ずうずうしくも、ルシアはリヒャルトの気を引くため、ひまわりの刺繍入りハンカチをプレゼントしようとした。あいにくリヒャルトはキッパリ断って受け取らず、ルシアは侮辱されたとカンカンに怒ったのだが。ソフィアが鳥肌を立てるのは、ルシアが刺繍に愛の告白の意味を込めていたからである。彼女が生きていれば、滑稽だったと笑って済ませられるのだが、今はもう処刑台の露と消えた。
グーリンガムでクーデターが起こって、ひと月も経たぬうちにルシアとその夫のエドアルドは処刑された。亡命したソフィアの父母、国王と王妃も暗殺されたと聞いている。大嫌いな身内が死んだ時、ソフィアを支配したのは憐れみでも快感でもなく、純粋な恐怖だった。
もしあのまま、あそこにいたら――
報告する学匠の声がまだ耳に残っている。
「王国一の美貌を誇られていたルシア王女も、処刑台に上る時には別人のように変貌していたとのことです。数日に及んだ拷問の日々は彼女を狂わせ、美貌まで奪ったと言われています。美しかった金髪は抜け落ち、歯も皮膚もボロボロ……まるで老婆のようになっていたと……」
気分が悪くなり、ソフィアは途中で報告をやめさせた。端的に結果だけを伝えてくれればよかったのに。必要な情報だけで充分だった。
「どうした? 顔を曇らせて? また、嫌なことを思い出したのか?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
「また、そうやって嘘をつく。ちゃんと言いなさい」
リヒャルトは甘えた犬の顔から、男らしい顔に変わる。心配事を一人で抱え込もうとするのを許さないのだ。ソフィアは肩をすくめる。
「あのね、ちょっと思い出してしまったの……その……実家のことを……」
「忘れろと言っても、無理だろうが……これだけは言わせてくれ。君が気に病むことではないよ。彼らが死んだのは君のせいでもない。自業自得だ。君がどうあがいたって、あの人たちは変わらなかっただろうし、良い関係を築くのは無理だった」
「いいえ、そういうことではないの。別に殺された家族を憐れんでいるわけではないのよ。わたくしはそんなに優しい性格でもないわ。ただ……もし、わたくしがあそこにいたら、同じように処刑されていたのかと思い、恐ろしくなってしまうの」
「そんな“もしも”はないよ、ソフィア。君はここにいるのだから」
「あなたと結婚するのは、ルシアのはずだった。あの子がわたくしからエドアルドを奪ったりしなければ、そうなっていたわ。だから、今わたくしがいるところにルシアがいて、わたくしがルシアの代わりに殺されていたことだって、あり得るの」
さすがに呆れられるかと思いきや、リヒャルトは真剣な顔で話を聞いてくれた。ソフィアは誰にも言えなかった気持ちを吐露することができた。
「ソフィア、君が言うように“もしも”の世界があるとして、私が君を愛するようにルシアを愛すると思うかい?」
「いいえ。でも、あなたは一本気で優しい人だから、結婚したらルシアのことも受け入れたでしょう」
「いいや……私は君と出会わなかったら、不幸になっていたよ。君だから、こうやって気を張らずに話せていられるのさ。ソフィア、君は特別なんだよ?」
リヒャルトは立ち上がり、テーブルの向かいに座っていたソフィアの手を取った。
「見せたいものがあるんだ。来て」
午後の公務はどうするのかとか、お小言を呑み込んでしまうくらい、リヒャルトは大真面目だった。ソフィアは首肯し、おとなしく彼に従った。
庭園を出て、西へ向かう。ソフィアが城の端へ行くことは滅多にない。厳めしい城壁は視界を狭める。幼いころは、城壁に囲まれた小さな世界しか知らずに生きていた。この果てしない世界が自由だと知ったのは、リエーヴに来てからだ。よく晴れた空は遠く、ちぎれ雲は緩やかに流れていく。ひんやりした秋風が頬を冷やすのと反対に、ギュッと握られた手が熱かった。
(怒らせてしまったかしら……無理もないわね。こんなにも愛されているのに、仮定の話でルシアのことも受け入れたでしょう……だなんて、失礼なことを言ったわ)
彼を傷つけてしまっただろうか。自己嫌悪しそうになる。やはり、自分の心のうちだけに留めておくべきだったかと、ソフィアは後悔した。そして、後悔先に立たず。リヒャルトに連れられたのは西の塔だった。
ソフィアが国王暗殺未遂の嫌疑をかけられた際、監禁されていた塔である。看守の魔の手から逃れ、騎士団長のジモンが移動させてくれた場所だ。恐ろしい地下牢から逃げてきて、ここで過ごした日々は穏やかではなかった。ルツが迎えに来てくれるまで、つねにビクビクしていたのである。
塔の前でソフィアは足を止めた。リヒャルトは構わず、手を引っ張ってくる。
「いやよ。行きません」
「どうしてだ?」
「申さなくとも、わかるでしょう? わたくしがここで、どんな恐ろしい思いをして過ごしていたか……」
「どうしても見せたいんだ。もう二度と怖がらせたりしないから」
銀の瞳が切願する。彼以外の誰かの願いだったら、絶対に聞き入れられなかっただろう。ソフィアはしぶしぶ塔の階段を上り始めた。ところどころに設えられた窓から陽光が差し込む程度で、螺旋階段は薄暗い。色鮮やかな庭園から転じて、灰色の世界に変わってしまった。人生もこんなふうに道を一つ違えば、色合いまで変わってしまうのかもしれない。それぐらい不確実で曖昧な世界だ。実感できるのは唯一、手の中のぬくもりだけである。リヒャルトの大きな手はがっちりとソフィアを離さず、安心感を与えてくれた。
塔の一番上の部屋が近づいてきた。震えながら過ごした日々がもうすぐ、目の前に──呼吸が乱れてくる。ソフィアはリヒャルトに寄りかかった。
「もう少しだよ、ソフィア。目をつぶって」
そうだ、見ないほうがまだ気は楽だ。きつく握り合った手に導かれ、ソフィアは闇の中を進んだ。感じられるのは、足元からせり上がってくる冷気と彼の甘い呼気、手から伝わる拍動。それだけで世界は優しくなる。階段を上りきった向こうにあるのは、なんだろう? 扉を開けた向こうには??
突然、滞留していた空気が流れた。淀んだ気は大気に呑まれる。狭い箱から解き放たれたのだ。暗かったまぶたの裏が赤くなり、ソフィアは思わず目を開けてしまった。
「いいよ、ソフィア! 見て!!」
彼の声があとから追いかけてくる。目に飛び込んできたのは、どこまでも続く緑の大地だ。ソフィアは今、塔の屋上にいる。陽がさんさんと降り注ぎ、鋸胸壁を白くしていた。その凸凹の近くに、ソフィアは立たされているのだった。かなり遠くまで見渡せる。
先月、播種した麦の芽が大地を柔らかな緑で覆っていた。麦畑の奥には広大な牧草地が広がっている。あれはソフィアの牧場だ。
「君が初めてリエーヴに来た時、農地がどうだったか覚えてる? どこもかしこも荒れ地で、目も当てられない有り様だったろう?」
ソフィアは新鮮な空気で胸を膨らませた。ここはなんて美しい国なのだろう! 言葉に出す必要などないくらい、色に光に圧倒される。
銀と赤。なびく彼の髪がとうに答えを出していた。銀の瞳には赤毛の王妃が映る。それがソフィア。ここがソフィアの世界。
「ソフィア、君が変えたんだよ。荒れ地を、民の心を、私の人生を! 君が世界を変えたんだ!」
了
肌寒くなってきたころ、ソフィアはコルセットをやめ、ゆったりしたドレスを着るようになった。日に日に腹が大きくなっていくのは怖くもあり、嬉しくもある。早く出たいのだろうか。蹴られて、ぴくぴく動く腹はリヒャルトにおもしろがられている。年がら年中、腹をなでてきてお腹の子に話しかけるものだから「わたくしの存在は?」と、ソフィアは拗ねてみたりもした。
夏の終わりにネイリーズ伯爵夫妻は自領へ帰ってしまった。あの夫妻のすごいのはコーヒー、チョコレートと続いて、バニラの販売にも着手したところだ。ソフィアも協力して、バニラの人工授粉に成功した。これから、国内生産に向けて準備を始めるという。相も変わらず、貪欲である。
しかし、ソフィアも人のことは言えない。牧場に大きな工場を二つ併設した。一つの工場ではチーズやヨーグルトなど加工品を、もう一つでは菓子を作る。バターたっぷりのクッキーやスノーボール、卵ボーロ、エッグタルト、チーズケーキ。保存や輸送に適した焼き菓子だ。
遠隔地のほうも、うまくいっている。あの不良農民のボドが、今では立派な牧場主である。妊娠中は止められているため、直接様子をうかがいたくてソフィアはうずうずしている。ヨーグルトとチーズの生産はボドに先を越された。結果的に成功モデルを作ってくれたことで、安心して始められたのだが、少々悔しくもある。
(やるわね、ボドも。でも、負けないわ。菓子工場はわたくしのほうが先に成功させる!)
菓子作りはソフィアの得意とする分野である。なにしろ、前世では大手菓子メーカーの新製品開発部門にいた。バリキャリだ。
その前世の記憶も、最近はおぼろげになってきた。ひょっとしたら、神様がくださったギフトだったのかもしれない──ソフィアはそんなふうにも思うのだ。
悲しい別れもあった。約束したとおり、経営が軌道に乗ったので、先月、ノアをボドのもとへ行かせた。彼女は牧場のスタート時から協力してくれた大切な仲間。右も左もわからない時、苦楽を共にしてきた片腕だ。彼女がいなければ、ここまでスムーズに成功させられなかっただろう。ノアがいなくなるのはかなりの痛手でもあったが、ソフィアは笑顔で送り出した。
秋晴れのある日。ソフィアはリヒャルトと庭園で優雅にブランチを楽しんでいた。秋バラも満開。暖かい昼下がりである。デザートにちょっとしたサプライズも用意した。
先日学匠が完成させた装置を使って、ある物を作る。登場させたのは、金属の蓋付き桶にハンドルをつけただけのシンプルな物だ。中は二重構造になっている。桶の中に材料を入れる筒が入っていて、ハンドルを回すと中でグルグル回転する。そうやって、外側に入れた氷と塩で冷やすのだ。そう、これは──
「アイスクリームのできあがり!!」
「簡単に作れて、おもしろいな!」
このアイスクリーム製造機があれば、もっと手軽にアイスを楽しめるようになる。今は貴族だけの嗜好品だが、いずれ庶民にまで下りてくるだろう。まずはこの製造機が、貴族の屋敷に必ず一つは置かれるぐらい大流行させなければ──
「ソフィア。まーた、仕事のことを考えていただろう? 罰として、今夜はメイド服を着なさい」
「いやよ、服を着たままは……お風呂に入ってからでないと……」
「ならば、一緒に仲良く風呂に入ったあと、寝巻きではなくてメイド服を着ればいいじゃないか?」
最近、旦那様は変態化してきている。だが、ソフィアも負けてはいない。
「残念ね。普通のメイド服では、お腹が入りません。出産後に持ち越しですね」
「くっ……じゃあ、新しく作らせればいいだろう? 今の、その……腹の出た状態がいいのだ」
「あなたが、変な妄想を膨らませている間にアイスが溶けました。責任を取って……」
リヒャルトが急いでアイスを口へ入れる間に、ソフィアは報復を考えた。
「アイスをすぐに食べなかった罰として、わたくしのドレスを着なさい。妊娠中のドレスなら、ゆったりしてるからあなたにも入るわ」
「むむ……いいだろう。だが、君もメイド服を着るのだぞ?」
女装とメイド服で夜に挑むのか……なかなかハードだ。
「それよりあなた、アイスを楽しんで? このアイス、特別なのよ? 中に入っているフレーバーを二つとも当てられたら、なんでも言うことを聞いてあげるわ」
黄色っぽい色をしたアイスは少し変わっている。口へ入れたとたんに夏の太陽が蘇り、プチプチとポリポリ、二つの食感と風味を楽しめる。
「私をナメてはいけないよ? これでも、君のおかげで鍛えられたんだ。この黒い粒々はバニラだろう? んで、この黄色っぽいのはナッツだな?……そうだ! カボチャの種だろう!」
「ぶーー!」
ソフィアの「ぶー」にリヒャルトはあからさまに落胆する。
答えはひまわりの種。リヒャルトが帰還した時の思い出の花だ。ソフィアは花壇のひまわりが枯れても、無駄にはしなかった。
「間違えたので罰として、わたくしのドレスを着たうえで五分間、乳首責めの刑に処します」
女装したリヒャルトの乳首を責めようとは、ソフィアもかなりのものである。自分で言って、笑ってしまった。くすぐったがりの彼はかわいい。
「そういえば、なぜ枯れたままのひまわりをそのままにしているのか、庭師に聞いたのだ。そうしたら、君が切らせてくれないのだと言っていた。種を熟成させたいから、そのままにさせておいたのだろう?」
「ええ。だって、もったいないんだもの。ひまわりの種って、とっても栄養価が高いのよ?」
「次から、種が取れない小ぶりのひまわりを植えると庭師は言っていたよ。ああ、その時、聞いたんだが、ひまわりの花言葉は“愛”なんだって? このアイスは君の愛がたくさん詰まっているんだね」
嬉々として、リヒャルトはアイスを口へ運ぶ。だが、ソフィアは固まった。ひまわりの花言葉で思い出してしまったのだ。妹のことを──
ずうずうしくも、ルシアはリヒャルトの気を引くため、ひまわりの刺繍入りハンカチをプレゼントしようとした。あいにくリヒャルトはキッパリ断って受け取らず、ルシアは侮辱されたとカンカンに怒ったのだが。ソフィアが鳥肌を立てるのは、ルシアが刺繍に愛の告白の意味を込めていたからである。彼女が生きていれば、滑稽だったと笑って済ませられるのだが、今はもう処刑台の露と消えた。
グーリンガムでクーデターが起こって、ひと月も経たぬうちにルシアとその夫のエドアルドは処刑された。亡命したソフィアの父母、国王と王妃も暗殺されたと聞いている。大嫌いな身内が死んだ時、ソフィアを支配したのは憐れみでも快感でもなく、純粋な恐怖だった。
もしあのまま、あそこにいたら――
報告する学匠の声がまだ耳に残っている。
「王国一の美貌を誇られていたルシア王女も、処刑台に上る時には別人のように変貌していたとのことです。数日に及んだ拷問の日々は彼女を狂わせ、美貌まで奪ったと言われています。美しかった金髪は抜け落ち、歯も皮膚もボロボロ……まるで老婆のようになっていたと……」
気分が悪くなり、ソフィアは途中で報告をやめさせた。端的に結果だけを伝えてくれればよかったのに。必要な情報だけで充分だった。
「どうした? 顔を曇らせて? また、嫌なことを思い出したのか?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
「また、そうやって嘘をつく。ちゃんと言いなさい」
リヒャルトは甘えた犬の顔から、男らしい顔に変わる。心配事を一人で抱え込もうとするのを許さないのだ。ソフィアは肩をすくめる。
「あのね、ちょっと思い出してしまったの……その……実家のことを……」
「忘れろと言っても、無理だろうが……これだけは言わせてくれ。君が気に病むことではないよ。彼らが死んだのは君のせいでもない。自業自得だ。君がどうあがいたって、あの人たちは変わらなかっただろうし、良い関係を築くのは無理だった」
「いいえ、そういうことではないの。別に殺された家族を憐れんでいるわけではないのよ。わたくしはそんなに優しい性格でもないわ。ただ……もし、わたくしがあそこにいたら、同じように処刑されていたのかと思い、恐ろしくなってしまうの」
「そんな“もしも”はないよ、ソフィア。君はここにいるのだから」
「あなたと結婚するのは、ルシアのはずだった。あの子がわたくしからエドアルドを奪ったりしなければ、そうなっていたわ。だから、今わたくしがいるところにルシアがいて、わたくしがルシアの代わりに殺されていたことだって、あり得るの」
さすがに呆れられるかと思いきや、リヒャルトは真剣な顔で話を聞いてくれた。ソフィアは誰にも言えなかった気持ちを吐露することができた。
「ソフィア、君が言うように“もしも”の世界があるとして、私が君を愛するようにルシアを愛すると思うかい?」
「いいえ。でも、あなたは一本気で優しい人だから、結婚したらルシアのことも受け入れたでしょう」
「いいや……私は君と出会わなかったら、不幸になっていたよ。君だから、こうやって気を張らずに話せていられるのさ。ソフィア、君は特別なんだよ?」
リヒャルトは立ち上がり、テーブルの向かいに座っていたソフィアの手を取った。
「見せたいものがあるんだ。来て」
午後の公務はどうするのかとか、お小言を呑み込んでしまうくらい、リヒャルトは大真面目だった。ソフィアは首肯し、おとなしく彼に従った。
庭園を出て、西へ向かう。ソフィアが城の端へ行くことは滅多にない。厳めしい城壁は視界を狭める。幼いころは、城壁に囲まれた小さな世界しか知らずに生きていた。この果てしない世界が自由だと知ったのは、リエーヴに来てからだ。よく晴れた空は遠く、ちぎれ雲は緩やかに流れていく。ひんやりした秋風が頬を冷やすのと反対に、ギュッと握られた手が熱かった。
(怒らせてしまったかしら……無理もないわね。こんなにも愛されているのに、仮定の話でルシアのことも受け入れたでしょう……だなんて、失礼なことを言ったわ)
彼を傷つけてしまっただろうか。自己嫌悪しそうになる。やはり、自分の心のうちだけに留めておくべきだったかと、ソフィアは後悔した。そして、後悔先に立たず。リヒャルトに連れられたのは西の塔だった。
ソフィアが国王暗殺未遂の嫌疑をかけられた際、監禁されていた塔である。看守の魔の手から逃れ、騎士団長のジモンが移動させてくれた場所だ。恐ろしい地下牢から逃げてきて、ここで過ごした日々は穏やかではなかった。ルツが迎えに来てくれるまで、つねにビクビクしていたのである。
塔の前でソフィアは足を止めた。リヒャルトは構わず、手を引っ張ってくる。
「いやよ。行きません」
「どうしてだ?」
「申さなくとも、わかるでしょう? わたくしがここで、どんな恐ろしい思いをして過ごしていたか……」
「どうしても見せたいんだ。もう二度と怖がらせたりしないから」
銀の瞳が切願する。彼以外の誰かの願いだったら、絶対に聞き入れられなかっただろう。ソフィアはしぶしぶ塔の階段を上り始めた。ところどころに設えられた窓から陽光が差し込む程度で、螺旋階段は薄暗い。色鮮やかな庭園から転じて、灰色の世界に変わってしまった。人生もこんなふうに道を一つ違えば、色合いまで変わってしまうのかもしれない。それぐらい不確実で曖昧な世界だ。実感できるのは唯一、手の中のぬくもりだけである。リヒャルトの大きな手はがっちりとソフィアを離さず、安心感を与えてくれた。
塔の一番上の部屋が近づいてきた。震えながら過ごした日々がもうすぐ、目の前に──呼吸が乱れてくる。ソフィアはリヒャルトに寄りかかった。
「もう少しだよ、ソフィア。目をつぶって」
そうだ、見ないほうがまだ気は楽だ。きつく握り合った手に導かれ、ソフィアは闇の中を進んだ。感じられるのは、足元からせり上がってくる冷気と彼の甘い呼気、手から伝わる拍動。それだけで世界は優しくなる。階段を上りきった向こうにあるのは、なんだろう? 扉を開けた向こうには??
突然、滞留していた空気が流れた。淀んだ気は大気に呑まれる。狭い箱から解き放たれたのだ。暗かったまぶたの裏が赤くなり、ソフィアは思わず目を開けてしまった。
「いいよ、ソフィア! 見て!!」
彼の声があとから追いかけてくる。目に飛び込んできたのは、どこまでも続く緑の大地だ。ソフィアは今、塔の屋上にいる。陽がさんさんと降り注ぎ、鋸胸壁を白くしていた。その凸凹の近くに、ソフィアは立たされているのだった。かなり遠くまで見渡せる。
先月、播種した麦の芽が大地を柔らかな緑で覆っていた。麦畑の奥には広大な牧草地が広がっている。あれはソフィアの牧場だ。
「君が初めてリエーヴに来た時、農地がどうだったか覚えてる? どこもかしこも荒れ地で、目も当てられない有り様だったろう?」
ソフィアは新鮮な空気で胸を膨らませた。ここはなんて美しい国なのだろう! 言葉に出す必要などないくらい、色に光に圧倒される。
銀と赤。なびく彼の髪がとうに答えを出していた。銀の瞳には赤毛の王妃が映る。それがソフィア。ここがソフィアの世界。
「ソフィア、君が変えたんだよ。荒れ地を、民の心を、私の人生を! 君が世界を変えたんだ!」
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