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【シャルデル伯爵の房中】

1.シャルデル伯爵の疑念

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「…恋をするのに過去は不要と仰っていたはずでは?」
 執事であるサイフォンの言葉に、ディアヴェルは軽く視線を上げる。
 差し出された封筒を受け取りながら、ディアヴェルは自嘲気味に笑う。


「恋をするのには、な」


 恋をするのに、過去は不要だと思っていた。
 それは、今でも変わらない。
 けれど、恋をすると、相手の過去までも欲しくなるのだと、初めて知った。
 現在や、未来だけでなく。


「…ありがとう、下がっていい」
「素直に仰ればいいのに。 お前に、彼の方の過去であれ、目に触れさせたくないと」
 笑みを含んだ声で言うサイフォンに、ディアヴェルは静かに笑うしかない。
「その通りだ。 だから、退室してくれ」
 願いを、口に乗せる。
 サイフォンは、ディアヴェルの返答に多少驚いたようではあるが、完璧な礼を取って退室して行った。


 扉が閉まるのを確認して、ディアヴェルはペーパーナイフを手に取る。
 けれど、なかなか封を開けることができない。
 見たいような、見たくないような不思議な心持ちがする。
 しばしの葛藤ののち、ディアヴェルはふっと息をついて、一気に封にペーパーナイフを入れる。


 受け取った厚みから、さほどの量はないだろうと思っていたが、そこに入っていた紙は一枚だけ。
 これが、彼女の過去だと思うと、遣る瀬無いような気持ちになる。
 彼女の過去を、勝手に調べさせ、目を通すことに罪悪感を覚えつつも、目の前にあるその誘惑には抗えなかった。
 紙の上の文字を、ディアヴェルは目で追う。


 彼女の歴史は、修道女に拾われるところから始まる。
 その彼女が修道女になったのは自然の流れだったのだろう。
 そして、その修道院の後援者のひとりである、カイト・レイナール氏と出逢い、親しくなる。
 そして、今春、カイト・レイナール氏が、新邸の完成と共に、リシアにプロポーズをし、リシアは還俗してカイト・レイナール氏の妻となった。


 料理ができるのも、高価な贈り物に腰を引かせるのも、清貧を尊いものとする修道女なら当然のことか、とディアヴェルは納得する。
 男女のことに疎いのも、男慣れしていないのも。


 ディアヴェルは、その紙を小さく折りたたむ。 燐寸マッチり、紙に火をつけて金属製の受け皿に置いた。
 その紙が灰になるのを見届けて、ふっと息を吐く。


 足りない。 こんなものでは、足りない。 満たされない。


 先日、ディアヴェルはリシアを伴って行った夜会で初めて、カイトの息子であり、リシアの義理の息子である青年に会った。
 その青年は、カイトの前妻である母親の面影が強いのか、あまりカイトに似ている印象は受けなかった。


 けれど、ディアヴェルは彼を目にして、衝撃を受けたのだ。
 ダニエレとリシアが辺境伯に紹介していた男は、純金の髪に、菫青石の瞳を持っていた。
 衝撃のあまり、動けなくなった自分が情けない、とは思う。


 知らなかった。
 あんなに、近くに、リシアの夫と、同じ色彩を持つ、男がいたなんて。


「…余裕がないな…」


 自分の呟きが耳に届いて、ディアヴェルはぎくりとする。
 独り言が出るなんて、末期だ。
 自分で把握しているよりも遥かに、余裕がないらしい。


 コンコン、と扉をノックする音が聞こえて、ディアヴェルは問う。
「サイか?」
 応答がすぐにはないことに、ディアヴェルが眉を上げると、扉の向こうで小さな声がする。
「…リシア、です…」


 ディアヴェルは、がたりと忙しなく立ち上がって扉へと近寄る。
 扉を開けば、そこにはリシアがトレイを持って立っていた。
 茶帽子の被せられたティーポットと、ティーカップがそこには載っている。
 どうして、と思ってディアヴェルがリシアを見つめていると、リシアは慌てたように言葉を紡いだ。


「サイ、が。 シャルデル伯爵のところにお願いしますと。 手が離せない用事があるそうで…。 これくらいなら、わたしにも出来ますから」
 後半は何か言い訳のようだが、この、少し素直でないところも可愛いと、ディアヴェルは思っている。
 あとでサイには礼と、客人で次期夫人に何をさせるのか、と文句を言ってやらねばなるまい。


「どうぞ」
 ディアヴェルがリシアを室内に誘えば、「失礼します」と言ったリシアが入ってくる。
 …あとでリシアにも、無防備に男の部屋へ立ち入ることの危険性を説かねばなるまい。


 もしかすると、ここが執務室だということが多少の安心感を与えているのかもしれないが、そんなことで気を許してはいけない。
 ディアヴェルは、自分への戒めとして扉を開け放したままにする。
 リシアは執務机ではなく、低いテーブルにトレイを置いた。


 当然のようにリシアは、お茶の用意を始める。 その動作ですら、迷いはない。
 貴族の令嬢というものは、そういうことを自分の手で行うことを厭う。
 世話をされることが当り前で、それがステータスだと考えているのだ。
 リシアには、そういった考えは全くないようだった。


 ディアヴェルがソファに腰掛ければ、その目の前のテーブルにティーカップが差し出される。
 彼女は、自分以外の誰かにも、このように接するのだろうか。


 カイトにも?
 あの、ダニエレという、男にも?


 ぢりっと焦げ付くような感じがする。
 そのときの自分が、どのような表情をしたのかはわからない。


「…シャルデル、伯爵?」
 自分を呼ぶ、声にはっとし、次の瞬間には苛立つ。


 どうして彼女は、自分の名を呼ばない。
 越えられない壁を、ディアヴェルに意識させる。


 自分のことを何とも思っていないのなら、そんなに優しい声を出さないでくれ。
 その、吸いこまれそうに美しい翡翠の瞳に、案じるような光を宿さないでくれ。


「…何か、ありましたか? 体調が悪い? …この間から少し、変です」
 誰のせいで、自分がこんな状態になっていると思うのか。
 それにすらも、思い至らないのか。

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