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紅の騎士は白き花を癒す
15.やっぱりみんなに祝福してほしいもの。
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ばあやはお茶を淹れてくれて、影のようにリビングの隅に控えてくれた。
リシェーナの妊娠がわかってから、ばあやは食生活にも気を遣ってくれていて、ルイボスティーを用意してくれたのだ。
キュビスの妻――ハニーフがどんな話をするのかわからなかったし、聞かれて困るようなことでもない。
むしろ、ばあやには聞いてもらった方がいいだろう、とリシェーナは「下がって」とは言わなかった。
リシェーナは、向かいに座るハニーフを見る。
一体何の用で来たのだろう。
夫の前の妻と、一体何の話があるというのだろう。
全くもって、わからない。
そう思って、リシェーナは別れた夫の妻を前にしても、これといった感情が浮かばない自分に気づく。
ジオークの恋人かもしれないと思ったときには、あんなに動揺したのに。
リシェーナは、ハニーフに気づかれないように苦笑した。
あんなに優しいひとを、簡単に疑ってはダメだな、と。
「お変りは、ありません?」
急に問われて、リシェーナはハッとする。
「はい」
「そう。 よかった」
リシェーナがそう答えると、ハニーフは笑う。
その反応に、リシェーナは意味がわからなくて首を揺らした。
「夫から、あなたについては聞いていたの。 亡くなった恩師の娘さんを、奥さんに迎えてお世話してる、って」
「そう…なの」
「ええ、だから心配してましたの。 お世話をしてくれるひとがいなくなって、どうしていらっしゃるのかしら、って」
ハニーフは、リシェーナとキュビスのことは知っているのだろうと思っていたのだが、あの人は、リシェーナのことをそんなふうに説明していたのか。
リシェーナは、ハニーフがキュビスと結婚できた理由も、ここにやって来た理由も、なんとなく腑に落ちた。
リシェーナのことを、見下しているか、憐れんでいるか…そのどちらも、だろうか。
プラトニックな関係か、ベッド・メイドか、ペットか…それくらいにしか思っていないに違いない。
だからリシェーナ相手に嫉妬もしない、と言ったところか。
リシェーナも特にキュビスに思い入れがあったわけではないから、ハニーフに対してどんな感情も浮かばない。
これがもし、ジオークの別れた恋人だったりしたら、平静ではいられる自信はない。
確信はあるのに、理由がわからなくて、リシェーナは戸惑うばかりだ。
そんなことを考えていると、おもむろにハニーフが身を乗り出して、声を潜めた。
「わたしくね、カージナル家の子を妊娠していますの」
リシェーナは、時期のことなどは深く考えず、ほぼ条件反射で返していた。
「おめでとうございます」
リシェーナの言葉に、顔の前で両手を合わせたハニーフは、安堵したような笑みを見せる。
「よかった。 お祝いしてくださるのね。 やっぱりみんなに祝福してほしいもの」
ハニーフのその言葉を聞いて、リシェーナは思い至る。
もしかして、そのためだけに来たのだろうか、と。
誰からも祝福される子を、産みたい。
愛するひとの子だから。
ハニーフは、とても幸せそうだ。
リシェーナはハニーフの目を気にしながら、まだあまり変化のない自分のお腹を、そっと押さえた。
自分もそう思えたらよかったのに。
思うのは、そんなことばかりで。
リシェーナはそんなとりとめのない考えを振り切るように、ティーカップに手を伸ばす。
「飲み、ましょ? 冷めちゃう」
すると、ハニーフが思いだしたかのように口を開く。
「あ。 忘れるところでした。これ、どうぞ」
差し出されたのは、細長い箱。
彼女が入って来たときから、なんだろうとは思っていたのだけれど…。
その正体がわからずに、箱からハニーフに視線を移すと、ハニーフは笑んだ。
「ブラッドベルさんがお好きだと、伺いましたので。 ワインです」
「ありがとう、ございます」
言って、リシェーナはそれを受け取る。
ダイニングのワインセラーに入れてきたほうがいいかな、と思って、リシェーナが立ち上がりかけると、ばあやがすっとリシェーナに近づいた。
「お嬢様、ばあやがお預かりしますわ」
「ありがとう、ばあや」
ワインを抱えて、ばあやがリビングを出て行くと、ハニーフは「それから」とバッグから小さな瓶を取り出した。
中に入っているのは、蜂蜜色の…きっと、蜂蜜。
リシェーナが目を瞬かせていると、ハニーフはそれをリシェーナに差し出した。
「これは、貴女に。 蜂蜜、お好きなんでしょう?」
「え、ありがとうございます」
確かに、リシェーナは砂糖よりも蜂蜜派だった。
「これね、夫が珍しい蜂蜜だから、とわたくしにくれましたの。 貴女にも、少しだけですけれど、お裾分け」
「あの、今、使ってもいい、ですか?」
ルイボスティーに、ミルクと蜂蜜。 合いそうな気がする。
「どうぞ」
とハニーフが言ってくれるので、リシェーナは小さな瓶を開けて、スプーンで一回分掬ってティーカップに落とす。 蜂蜜が沈んだので、スプーンでくるくると回した。 それから、ミルクピッチャーのミルクを注いで、またくるくるとスプーンを回す。
そして、ティーカップに口をつけた。
ルイボスティーに溶けた蜂蜜が、甘い。
まるで、毒のように。
大好きな蜂蜜なのに、なぜかそのときはそのように感じて、リシェーナは一口を嚥下してティーカップをソーサーに戻した。
折角いただいたものなのだし、と思って、リシェーナはハニーフに微笑む。
「ありがとうございます、美味しいです」
「よかったわ」
そのとき、だ。
微笑んだハニーフの顔が歪んだように見えて、ぎょっとする。
けれど、すぐに視界全体がぐにゃりと歪んで、リシェーナは目を眇めたり、瞬きを繰り返したりする。
「っ…?」
「…リシェーナ、さん?」
リシェーナの様子を訝しく感じたのだろう。 ハニーフの声が聞こえた。
何も、と言おうとしたのだが、ぐらぐらと視界が揺れだす。
呼吸が苦しくなって、深く呼吸をしようとするも、上手くできない。 気持ちが悪くなって、血の気が引くような感じがする。
平衡感覚が失われて、ついにはドッと衝撃が身体を襲った。
ぼんやりと目を開けば、世界が横になっていた。
それで、自分が床に転がっているのだとわかった。
「リシェーナ、さん…!? 誰かっ…、誰か!」
ハニーフの、悲鳴のような声が聞こえた。
リシェーナの傍に跪いて、身体を揺さぶってくれている。
「お嬢様っ…!?」
ばあやの悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。
気持ちが、悪い。
呼吸が、苦しい。
お腹が、痛い。
誰か。 誰か。 助けて。
けれど、リシェーナの脳裏に浮かんだのは、【誰か】ではなくて。
「あな、た…」
唇は、無意識に、一人の男性のことを呼んだ。
紅い髪と、紅い目の綺麗な、とても、とても、優しいひと。
ああ、けれど、もう、目を開いていられない。
身体が、動かない。
リシェーナが覚えているのは、そこまでだった。
リシェーナの妊娠がわかってから、ばあやは食生活にも気を遣ってくれていて、ルイボスティーを用意してくれたのだ。
キュビスの妻――ハニーフがどんな話をするのかわからなかったし、聞かれて困るようなことでもない。
むしろ、ばあやには聞いてもらった方がいいだろう、とリシェーナは「下がって」とは言わなかった。
リシェーナは、向かいに座るハニーフを見る。
一体何の用で来たのだろう。
夫の前の妻と、一体何の話があるというのだろう。
全くもって、わからない。
そう思って、リシェーナは別れた夫の妻を前にしても、これといった感情が浮かばない自分に気づく。
ジオークの恋人かもしれないと思ったときには、あんなに動揺したのに。
リシェーナは、ハニーフに気づかれないように苦笑した。
あんなに優しいひとを、簡単に疑ってはダメだな、と。
「お変りは、ありません?」
急に問われて、リシェーナはハッとする。
「はい」
「そう。 よかった」
リシェーナがそう答えると、ハニーフは笑う。
その反応に、リシェーナは意味がわからなくて首を揺らした。
「夫から、あなたについては聞いていたの。 亡くなった恩師の娘さんを、奥さんに迎えてお世話してる、って」
「そう…なの」
「ええ、だから心配してましたの。 お世話をしてくれるひとがいなくなって、どうしていらっしゃるのかしら、って」
ハニーフは、リシェーナとキュビスのことは知っているのだろうと思っていたのだが、あの人は、リシェーナのことをそんなふうに説明していたのか。
リシェーナは、ハニーフがキュビスと結婚できた理由も、ここにやって来た理由も、なんとなく腑に落ちた。
リシェーナのことを、見下しているか、憐れんでいるか…そのどちらも、だろうか。
プラトニックな関係か、ベッド・メイドか、ペットか…それくらいにしか思っていないに違いない。
だからリシェーナ相手に嫉妬もしない、と言ったところか。
リシェーナも特にキュビスに思い入れがあったわけではないから、ハニーフに対してどんな感情も浮かばない。
これがもし、ジオークの別れた恋人だったりしたら、平静ではいられる自信はない。
確信はあるのに、理由がわからなくて、リシェーナは戸惑うばかりだ。
そんなことを考えていると、おもむろにハニーフが身を乗り出して、声を潜めた。
「わたしくね、カージナル家の子を妊娠していますの」
リシェーナは、時期のことなどは深く考えず、ほぼ条件反射で返していた。
「おめでとうございます」
リシェーナの言葉に、顔の前で両手を合わせたハニーフは、安堵したような笑みを見せる。
「よかった。 お祝いしてくださるのね。 やっぱりみんなに祝福してほしいもの」
ハニーフのその言葉を聞いて、リシェーナは思い至る。
もしかして、そのためだけに来たのだろうか、と。
誰からも祝福される子を、産みたい。
愛するひとの子だから。
ハニーフは、とても幸せそうだ。
リシェーナはハニーフの目を気にしながら、まだあまり変化のない自分のお腹を、そっと押さえた。
自分もそう思えたらよかったのに。
思うのは、そんなことばかりで。
リシェーナはそんなとりとめのない考えを振り切るように、ティーカップに手を伸ばす。
「飲み、ましょ? 冷めちゃう」
すると、ハニーフが思いだしたかのように口を開く。
「あ。 忘れるところでした。これ、どうぞ」
差し出されたのは、細長い箱。
彼女が入って来たときから、なんだろうとは思っていたのだけれど…。
その正体がわからずに、箱からハニーフに視線を移すと、ハニーフは笑んだ。
「ブラッドベルさんがお好きだと、伺いましたので。 ワインです」
「ありがとう、ございます」
言って、リシェーナはそれを受け取る。
ダイニングのワインセラーに入れてきたほうがいいかな、と思って、リシェーナが立ち上がりかけると、ばあやがすっとリシェーナに近づいた。
「お嬢様、ばあやがお預かりしますわ」
「ありがとう、ばあや」
ワインを抱えて、ばあやがリビングを出て行くと、ハニーフは「それから」とバッグから小さな瓶を取り出した。
中に入っているのは、蜂蜜色の…きっと、蜂蜜。
リシェーナが目を瞬かせていると、ハニーフはそれをリシェーナに差し出した。
「これは、貴女に。 蜂蜜、お好きなんでしょう?」
「え、ありがとうございます」
確かに、リシェーナは砂糖よりも蜂蜜派だった。
「これね、夫が珍しい蜂蜜だから、とわたくしにくれましたの。 貴女にも、少しだけですけれど、お裾分け」
「あの、今、使ってもいい、ですか?」
ルイボスティーに、ミルクと蜂蜜。 合いそうな気がする。
「どうぞ」
とハニーフが言ってくれるので、リシェーナは小さな瓶を開けて、スプーンで一回分掬ってティーカップに落とす。 蜂蜜が沈んだので、スプーンでくるくると回した。 それから、ミルクピッチャーのミルクを注いで、またくるくるとスプーンを回す。
そして、ティーカップに口をつけた。
ルイボスティーに溶けた蜂蜜が、甘い。
まるで、毒のように。
大好きな蜂蜜なのに、なぜかそのときはそのように感じて、リシェーナは一口を嚥下してティーカップをソーサーに戻した。
折角いただいたものなのだし、と思って、リシェーナはハニーフに微笑む。
「ありがとうございます、美味しいです」
「よかったわ」
そのとき、だ。
微笑んだハニーフの顔が歪んだように見えて、ぎょっとする。
けれど、すぐに視界全体がぐにゃりと歪んで、リシェーナは目を眇めたり、瞬きを繰り返したりする。
「っ…?」
「…リシェーナ、さん?」
リシェーナの様子を訝しく感じたのだろう。 ハニーフの声が聞こえた。
何も、と言おうとしたのだが、ぐらぐらと視界が揺れだす。
呼吸が苦しくなって、深く呼吸をしようとするも、上手くできない。 気持ちが悪くなって、血の気が引くような感じがする。
平衡感覚が失われて、ついにはドッと衝撃が身体を襲った。
ぼんやりと目を開けば、世界が横になっていた。
それで、自分が床に転がっているのだとわかった。
「リシェーナ、さん…!? 誰かっ…、誰か!」
ハニーフの、悲鳴のような声が聞こえた。
リシェーナの傍に跪いて、身体を揺さぶってくれている。
「お嬢様っ…!?」
ばあやの悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。
気持ちが、悪い。
呼吸が、苦しい。
お腹が、痛い。
誰か。 誰か。 助けて。
けれど、リシェーナの脳裏に浮かんだのは、【誰か】ではなくて。
「あな、た…」
唇は、無意識に、一人の男性のことを呼んだ。
紅い髪と、紅い目の綺麗な、とても、とても、優しいひと。
ああ、けれど、もう、目を開いていられない。
身体が、動かない。
リシェーナが覚えているのは、そこまでだった。
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