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【最終話】極彩色の私
しおりを挟む今朝の風は、藍の香りがする。
桶に浸した糸を、両手でそっと絞ると、青が指にやさしく滲んだ。空の色と海の色のちょうど真ん中。ここ、ヨシナの朝は、毎日違う香り、違う色。
変化は、もう怖くない。
私はいま、クラカゲ──母の実家にいる。祖父ヒイラギは糸の心を教えてくれる。祖母アヤメは布目の読み方を、叔父エンジュは針の光を直してくれる。
呼ばれる名は、もう「ビオラ」だけだ。
十五年、母と二人で縫って生きた。次の五年は、ひとりで耐えて生きた。糸以外、目の前は白と灰色ばかりの世界だった。けれど今は、青が戻り、あかりが差し、きいろい光が未来を照らしている。
毎日、私は針を持つ。
今日は、祝福の祈りを影に縫う。助けを乞うためではない。誰かを祝うために。
昼、戸口に影が落ちた。
振り向くと、旅装の男が立っていた。いつぞやの王宮で見かけたような豪華な衣ではない。ただ質素で動きやすい装い。けれど、高貴さは隠せない。
彼は胸に手を当て、小さく会釈する。
「レオニス様!」
驚いて名を呼ぶと、彼は照れたように笑った。
「その“様”は、ここでは不要でしょう。今日は商人として来ました。私の……ヴァルト商会で刺繍の専門部門を立ち上げます。その部門の本拠地を、このヨシナに──クラカゲに置かせていただきたく、お願いに参りました」
「ヨシナ国の刺繍の技術を、正当な手続きで世に広めたいと考えています。必ず、正当な代価と名義を明記し、技を守りながら取引をいたします」
「そのための許しを得るべく、事前にヒイラギ殿、エンジュ殿と文を交わしてきました」
彼と祖父、叔父とのやりとりがあったことにも驚き、祖母の顔を見ると、祖母もまた分かっていたようで、柔らかな微笑みを浮かべつつ、彼のために茶を淹れる用意をはじめていた。
「最終的な条件を聞こう」祖父の声はいつも通り低い。
レオニスはすぐに続けた。
「技の名は必ず刺繍主に帰すこと。対価は前払いで、値も隠さないこと。影縫いは家の掟に従い、学ぶ範囲も家が決めること。商会の運営にはヨシナの者を用い、外からの者は位の上下に関わらず“客人”として礼を守り、対等に行うこと。──ヨシナの文化を護れるよう、全力を尽くします。商会立ち上げの契約文にも明記します」
祖父が叔父と目を交わし、頷く。
「了解した。私どもクラカゲは──次代クラカゲ族長の私が、その契約を承認する」
レオニスはほっとしたのか、少し顔の強張りが解けた──が、まだ何か緊張が残っている。
「それから、もうひとつ、お願いがございます」
彼は懐から小さな包みを取り出し、私の前に置いて解いた。
現れたのは、一幅の布。そこには色とりどりのビオラが咲いていた。紫、群青、薄桃、琥珀──けれど、目を凝らさねば見えない“何か”が、花の影にひそんでいる。私は無意識に息を止めた。
「……影縫い?」
彼は、花影をそっと指でなぞる。
「ずっと、こっそり通って、エンジュ殿に教わっていました。十五年前、私が“読める”ことに驚いたという話を、先代様から聞いていたそうで。だから、影縫いだけでなく、表の刺繍も最初の一針からやり直しました」
私は息を呑む。──まさか、レオニス様がご自分で?
顔を上げると、彼は微笑みながらもどこか緊張している。布を支える手は小刻みに震え、指には無数の針の跡。
私のために、これを──。
影は、光の加減でゆっくりと浮かび上がる。
── けっこん してください
針目はまだ拙い。けれど、嘘のない、不器用な線だ。胸の奥が、あたたかくなる。
祖父が静かに問いかける。
「影縫いは、ただの飾りではない。誓いだ。お前はそれを、身に刻む覚悟があるか」
彼はまっすぐにうなずいた。
「あります。技を金に換える前に、ここで学び、ここを守りたい。もし許されるなら──私を、クラカゲの一員に加えてください。そして……」
彼は少しだけ息を吸って、私を見る。
「ビオラ。あなたと、共に縫っていきたい」
祖母のもてなす茶の湯気が、ふっと目に染みた。
私は胸に手を当てる。かつて「助けて」を影に隠していた指が、いまは違う言葉を選ぼうとしている。
「……ありがとう、レオニス。助けてくれた日のこと、王宮でそばにいてくれたこと、忘れません。あなたがいてくれたから、私は“私”に戻れた」
叔父が小さく笑い、祖父はうなずき、祖母は気づかれないように目元を拭った。
「ならば、答えを」
祈るようなレオニスの言葉に、私は頷く。
彼の布に並ぶビオラの影へ、自分の針で一針ずつ近づいていく。
紫の花弁の脇、極細の白糸で、そっと短く縫い加える。
── はい
針を上げた瞬間、庭の向こうで叔父の子どもたちの笑い声がした。
温かいお茶と、目の前に咲いた色とりどりの刺繍の花。愛しい人たち。暖かな空間。
世界は、もう白一色ではない。青は海と空、赤は心の灯(あか)り、黄は明日のひかり。そこに緑が芽吹き、橙が実り、紫が夜をやさしく包む。
「ようこそ、クラカゲへ」
祖父の声に、レオニスが深く頭を下げる。
私は彼からの布を抱いて笑った。縫うために生きるのではなく、生きるために縫う。これからは、誰かの自由や名前を縫いとめるために針を使う。
その夜、浜辺で風を受けながら、私はもう一枚、刺繍枠に布を張った。
私の部屋にずっと飾っていた、母の桜と、私のビオラを並べた作品。
その花の影に、短い文を添える。
── 幸せになります。
潮騒が返事をくれた気がした。
遠く、東の空が、ほんのりと明るむ。暁光の気配。もう怯えはしない。
静かに、胸の奥で小さな灯がともる。
私は深く息を吸い、顔を上げた。
私の名は、ビオラ・クラカゲ。
私の世界は、極彩色だ。
<完>
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。感情を出せないビオラちゃん、とても難産でした。少しでも皆様の心に届いてくれたら嬉しいです。
この作品が第二作目なのですが、よろしければ第一作目、「光を忘れたあなたに、永遠の後悔を」もお読みいただけると、とてもとても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
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あらすじに引かれ一気読みです。
静かに白く紡がれていく話しがビオラの背負わされた生き方を表していて
ご感想ありがとうございます。
なんて素敵な感想を…タイトルまで見ていただけるなんて、嬉しいです!かなりタイトルに悩んだ作品でしたので😅
ぜひまたビオラに会いに来てやってください。
実はこの作品の舞台、ヨシナがこれから他の作品にも登場します。「異世界令嬢」のほうで刺繍だけはすでに登場しています☺️
本当にありがとうございました✨
心があったかくなる、優しい風が届きました。いつまでも、追って行きたくなるような風でした。
優しい風を、ありがとうございました。大事に心の中にしまって置きたくなりました。
嬉しいご感想をありがとうございます!
少しでも心がほっこりしていただけたなら、本当に嬉しいです。
刺繍とか編み物とか、一つ一つ「目」を作っていくものって、その人の心が現れてくる感じがしますよね☺️
私も編み物好きですが…見事に、目を間違えてボコボコになります笑
精進します!
本当にありがとうございました。
2度目の感想、本当にありがとうございます😂
ビオラはようやく、彼女本来の幸せを掴むことができました。
それは彼女だけではなく周りの人たちがあってこそ。
人というのは、1人では生きていけないんだなと、この作品を書きながらしみじみ思いました。
という澄ましたことを書いておりますが、次作は…かなりテイストが違います笑
もしご趣味が合いましたら、ぜひお読みいただけると嬉しいです。
本当に最後まで読んでいただき、ありがとうございました❤️