理由を与えなかった聖女は、名を呼ぶことを選んだ

鷹 綾

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第二話 何も起こらない日々の終わり 何も起こらない日々の終わり  

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第二話

何も起こらない日々の終わり

 

 王宮を出た瞬間、外の空気がひどく冷たく感じられた。

 それは季節のせいではない。
 私――セラフィーナ・アッシュクロフトが、もう“ここに属する存在ではない”と、空気そのものに告げられた気がしたからだ。

 王宮の正門前には、わずかな荷物が用意されていた。
 衣服が数着、古びた祈祷書、そして身の回りの小物。
 聖女として与えられていた品々は、すでにすべて回収されている。

「……随分と、あっさりしていますね」

 思わず口をついて出た言葉は、誰に向けたものでもなかった。
 長年仕えてきた聖女に対して、この扱い。
 恨むべきなのだろうか。
 それとも、これが当然なのだろうか。

 ――いいえ。
 たぶん、どちらでもない。

 私はただ、「役目を終えた存在」になっただけだ。

 馬車が一台、控えていた。
 御者は視線を合わせようとせず、淡々と告げる。

「国境までお送りします。そこから先は……ご自身で」

「わかりました」

 それ以上の言葉は交わされなかった。
 王宮から追い出されるというより、
 最初から“いなかったもの”として扱われているような、不思議な感覚。

 馬車が動き出す。

 窓から見える王都の街並みは、いつもと変わらない。
 人々は行き交い、商人は声を張り上げ、子どもたちは走り回っている。

「……平和ですね」

 そう呟いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。

 これまで、私は毎朝、祈っていた。
 儀式としてではなく、習慣として。

 “今日も何も起こりませんように”と。

 嵐が来ないように。
 疫病が広がらないように。
 事故が重ならないように。

 誰にも気づかれない祈り。
 成果が見えない祈り。

 それを――今日から、私はしない。

 ふと、馬車が大きく揺れた。

「……?」

 御者が舌打ちする。

「前の馬車が立ち往生しているようです。
 道が……崩れていますね」

 窓から覗くと、確かに街道の一部が沈み、車輪がはまっていた。
 大事故というほどではない。
 けれど、明らかに“いつも通り”ではない光景。

「珍しいですね」

 御者は肩をすくめる。

「最近、こういうのが増えた気がします。
 井戸が枯れたり、壁が崩れたり……
 まあ、偶然でしょうが」

 ――偶然。

 その言葉が、胸の奥で静かに反響した。

 私は何も言わなかった。
 言えることは、何もない。

 馬車は迂回し、再び走り出す。

 王都の門が遠ざかるにつれ、胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
 不安ではない。
 解放感とも、少し違う。

 ただ――静かだった。

 国境に近づく頃、空の色が変わり始めた。
 晴れていたはずの空に、薄い雲が広がる。

「雨、ですか?」

「この時期に? 珍しいですね」

 御者は首をかしげる。
 やがて、ぽつり、と窓を叩く音。

 小雨。
 作物を潤すには足りず、視界を悪くするだけの、嫌な雨。

 ――ああ。

 私は、ようやく理解した。

 “何も起こらない”という状態が、
 どれほど不自然で、どれほど脆いものだったのか。

 それは、放っておけば簡単に崩れる、
 奇跡の上に成り立つ日常だったのだ。

 国境の検問所で、馬車は止まった。

「ここまでです」

 御者は淡々と告げ、手綱を放す。

 私は馬車を降り、最後に一度だけ振り返った。
 遠くに見えるエルディア王国。
 あの国を守っていたのが、自分だったとは――
 まだ、この時の私は、思っていない。

「……さようなら」

 小さく呟き、背を向ける。

 その瞬間、背後で雷鳴が轟いた。

 振り返ることはしなかった。
 ただ、胸の奥で、確信に近い予感が芽生える。

 ――私は、何もしていない。

 ――けれど、“何もしなくなった”ことで、
 この国は、これから“何か”を失い続ける。

 それが何なのか。
 誰が、いつ、気づくのか。

 それはまだ、誰にもわからない。

 ただひとつ言えるのは。
 私の平穏は、ようやく始まったばかりだということだけだった。
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