引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第19話 「無能」という囁き

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第19話 「無能」という囁き

 不安は、静かに広がる。

 それは嵐のように一気に襲うものではなく、
 朝靄のように、気づけば周囲を覆っている類のものだった。

 ◇

 王都の市場。

 野菜の籠を並べる商人たちの間で、
 最近、同じ話題が何度も繰り返されていた。

 「……また、作物が傷んでる」

 「雨が降ったかと思えば、すぐ止むし、
  そのあとに冷たい風だ」

 「去年までは、こんなことなかったよな……」

 言葉はまだ、誰かを責める形をしていない。
 だが、話題の行き着く先は、いつも同じだった。

 「……新しい聖女様がいるのに、な」

 その一言が、
 空気をわずかに重くする。

 ◇

 教会の回廊でも、同じような囁きが流れていた。

 「最初の雨は、偶然だったのでは?」

 「派手な儀式の割に、その後が続かない」

 「前の聖女の時は……」

 その名前が出た瞬間、
 皆が一瞬、口をつぐむ。

 ポーラ・スター。

 引きこもり。
 姿を見せない聖女。

 かつては嘲笑の対象だった名が、
 今では、比較の基準として、無意識に持ち出されていた。

 ◇

 「……無能なのではないか」

 その言葉が、
 最初に誰の口から出たのかは、分からない。

 だが一度、形を持ってしまえば、
 噂は簡単に増殖する。

 「奇跡が続かないのは、力が足りないからだ」
「祈りが浅いのだろう」
「所詮、平民出身だ」

 根拠のない言葉ほど、
 人は安心して使う。

 ◇

 その空気は、
 やがて、王城にも届いた。

 王太子リチャードは、側近からの報告を聞き、
 不機嫌そうに眉をひそめる。

 「……民の不満が、聖女に向かっている?」

 「はい。まだ表立ってではありませんが……」

 リチャードは、舌打ちをこらえた。

 (早すぎる……)

 そう思いながらも、
 胸の奥では、別の感情が蠢く。

 ――結果が出ていないのも、事実だ。

 彼は、アーニャに期待した。
 だからこそ、落胆も大きい。

 ◇

 その日の夜。

 アーニャは、聖女用の私室で、
 一人、祈りを捧げていた。

 蝋燭の火が揺れ、
 影が壁に踊る。

 「……どうして……」

 声は、掠れている。

 祈っている。
 誰よりも。

 それでも、
 奇跡は応えてくれない。

 (私が、足りないの?)

 昼間に聞いた、
 使用人たちの視線。
 囁き声。

 それらが、頭から離れない。

 「無能」

 誰かが直接言ったわけではない。
 だが、その言葉は、確かに彼女の胸に突き刺さっていた。

 ◇

 同じ頃。

 フォージャー子爵は、
 報告書とにらめっこをしていた。

 「……民の感情が、悪い方向に動き始めている」

 不安が、
 個人から集団へと伝播する兆し。

 そして、その矛先は、
 いつも“分かりやすい存在”に向かう。

 「……危ういな」

 彼は、そう呟きながら、
 ある記録に指を止めた。

 ポーラ・スター解任後の天候推移。

 異常が、確実に増えている。

 「無能かどうか、ではない」

 問題は、
 **“適しているかどうか”**だった。

 ◇

 スター公爵家。

 扉の前に、また一枚のメモが貼られている。

 『最近、夜の風が強いです』

 ポーラは、その紙を見て、
 少し考えるように視線を落とした。

 そして、
 静かに、ペンを取る。

 『窓や扉が、しっかり閉まっていると安心です』

 それは、忠告でも、
 予言でもない。

 ただの、
 日常の延長。

 だが、その静かな在り方こそが、
 今の王国に、最も欠けているものだった。

 ◇

 翌朝。

 王都の空は、重く垂れ込めていた。

 まだ嵐ではない。
 だが、確実に、
 何かが起ころうとしている色だった。

 人々の囁きは、
 やがて声になり、
 声は、責めへと変わる。

 新聖女アーニャは、
 その中心に立たされつつあった。

 そして王太子リチャードもまた、
 自らが下した決断の重さを、
 否応なく突きつけられ始めていた。

 「無能」という言葉は、
 誰かを切り捨てるために、
 あまりにも便利だった。

 その刃が、
 次にどこへ向かうのか――

 王国は、まだ気づいていない。
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