引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第27話 嵐の中の訪問

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第27話 嵐の中の訪問

 夜明け前、王都は嵐に包まれていた。

 雨は叩きつけるように降り、風は建物の隙間を縫って唸り声を上げる。城の高い塔でさえ、わずかに軋む音を立てていた。普段なら人の気配が絶えない回廊も、この時間ばかりは静まり返っている。だが、その静けさを破るように、重い足音が響いていた。

 王太子リチャードだった。

 外套を羽織り、護衛も連れずに歩く姿は、どこか焦りを隠しきれていない。濡れた床に足跡を残しながら、彼は城の奥、スター公爵家の私邸へと向かっていた。

 途中、雷鳴が轟く。

 思わず足を止め、天井を見上げる。

 かつて、こんな夜はいくらでもあったはずだ。だが、その頃は嵐が来ても、数時間もすれば収まっていた。今は違う。空が荒れ、地が荒れ、そして人の心も荒れている。

 原因は、分かっているようで、分かっていなかった。

 だが今夜だけは、はっきりしている。

 行かなければならない。

 そうしなければ、国が終わる。

 彼は、そう信じていた。

 スター公爵家の扉の前に立つと、嵐の音が一層大きく感じられた。分厚い木製の扉は、相変わらず固く閉ざされている。かつて、この扉の向こうに、姿を見せない聖女がいることが、彼には理解できなかった。

 今は違う。

 理解したつもりになっている。

 リチャードは、深く息を吸い込み、扉に向かって声を上げた。

 「……ポーラ・スター。私だ。リチャードだ」

 返事はない。

 だが、それを想定していなかったわけではない。

 「話がある。重要な話だ」

 雨音が、言葉を飲み込む。

 彼は一歩前に出て、扉に近づいた。

 「私は……間違っていた」

 その言葉が、意外なほどあっさりと口から出たことに、彼自身が驚いた。

 だが、続く言葉は、すぐにいつもの調子へと戻っていく。

 「お前を、正しく評価していなかった。聖女としての力を、理解していなかった」

 扉の向こうは、静まり返っている。

 「だが、今は分かる。お前が必要だ。国には、お前の力が必要だ」

 それは、謝罪の形をしていたが、内容は取引だった。

 「聖女に復帰してくれ。正式に、再任命する」

 雷が落ち、窓ガラスが震える。

 リチャードは、声を強めた。

 「婚約も、元に戻そう。あの件は、すべて取り消す。私は……お前を、再び婚約者として迎える」

 それが、最善だと思っていた。

 これで、国は救われる。

 これで、嵐は止む。

 これで、すべてが元に戻る。

 だが、扉の向こうから返ってくるのは、沈黙だけだった。

 「……聞こえているだろう」

 焦りが、声に滲む。

 「返事をしなくていい。ただ、分かってくれれば」

 理解してくれ。

 従ってくれ。

 彼の言葉の奥には、そんな本音が透けていた。

 再び、雷鳴。

 同時に、遠くで何かが崩れるような音がした。屋根か、塀か、それとも橋か。分からない。だが確実に、王都は壊れ始めている。

 リチャードは、扉に手をついた。

 「私は王太子だ。国を守らねばならない」

 自分に言い聞かせるように続ける。

 「そのために、最善を尽くしている。それが……お前を必要とすることだ」

 長い沈黙の後、ようやく、わずかな気配があった。

 紙が擦れる音。

 扉の下から、何かが差し出される。

 リチャードは、息を詰めてそれを見下ろした。

 一枚のメモ。

 そこには、短い文字が並んでいた。

 「……外は、危険です」

 それだけ。

 謝罪でも、承諾でもない。

 ただの事実。

 だが、リチャードはそれを、自分に都合よく解釈した。

 彼は、胸の奥で、安堵に似たものを覚える。

 声はなかったが、反応はあった。

 つまり、拒絶ではない。

 そう思いたかった。

 「分かった。もういい」

 彼は、無理に明るい声を作った。

 「今日は戻る。だが、すぐに準備を進める。正式な復帰の手続きをだ」

 嵐の音に掻き消されながら、彼はそう言い残し、踵を返した。

 背中に、扉の向こうの気配を感じながら。

 リチャードが去った後も、嵐は止まらなかった。

 むしろ、風は一層強まり、雨は激しさを増している。

 分厚い扉の向こうで、ポーラは静かに立っていた。

 カーテンは閉じたまま。

 外の光も、稲妻も、直接見ることはない。

 それでも、空の変化は分かる。

 彼女は、机に向かい、ペンを取った。

 迷いはない。

 紙に、短く、しかしはっきりと書く。

 「城前の橋は、今夜、流されます」

 それは、返事ではなかった。

 王太子の言葉に対する、答えでもなかった。

 ただ、見えてしまった未来を、そのまま書いただけ。

 ポーラは、紙を折り、扉の内側に置く。

 貼るかどうかは、まだ決めない。

 嵐は、最も危険な瞬間を、これから迎えようとしていた。

 王太子リチャードは、そのことをまだ知らない。

 彼が信じているのは、扉越しに交わした一方的な言葉が、すべてを解決するという幻想だった。

 だが現実は、すでに、その幻想を押し流すほどの濁流を生み始めていた。
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