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沈黙の婚約者
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沈黙の婚約者
王宮の執務棟、その最奥にある小会議室。
エルゼリア・クローヴェルは、今日も静かに書類へ視線を落としていた。
王太子ロネスの婚約者――それが、彼女の公式な立場である。
だが、その肩書きを正確に理解している者は、王宮内にほとんどいない。
外交文書の草案、財政報告の整理、貴族間の利害調整。
王太子が表舞台で華やかな言葉を並べる裏で、実務の大半はエルゼリアの手によって処理されていた。
彼女はそれを誇りに思ったことはない。
ただ、必要だからやっている。それだけだった。
「次の会議の議題、こちらで問題ありません」
淡々とした声で告げると、向かいに座る書記官がほっと息をつく。
「助かります、エルゼリア様。正直、これがなければ収拾がつきませんでした」
感謝の言葉を向けられても、彼女は微笑みを返さない。
代わりに、次の書類へと手を伸ばす。
――感情を表に出さない女。
――冷たい婚約者。
そんな噂が、いつからか王宮内を巡るようになった。
ロネス自身も、同じ認識を持っている。
「君は相変わらずだな、エルゼリア」
執務室に入ってきた王太子は、軽い調子でそう言った。
彼の隣には、最近よく姿を見る若い女性が立っている。
「今日は彼女も同席する。構わないな?」
「承知しております」
エルゼリアは顔を上げずに答えた。
視線の先で、ロネスが小さく眉をひそめる。
――まただ。
彼女は、いつもこうだ。
王太子の心中に、苛立ちが芽生える。
婚約者でありながら、嫉妬も不安も見せない。
感情を向けてくるのは、いつも隣の彼女のほうだった。
「では、本題に入ろう」
ロネスが議題を切り出す。
国境付近で起きている小競り合い、財政への影響、諸侯への対応。
エルゼリアは、必要な情報を簡潔に補足する。
どこまでも冷静で、無駄がない。
「……以上です」
会議が終わると、ロネスは不満げに椅子へ身を沈めた。
「君は、もう少し柔らかくできないのか?」
「何を、でしょうか」
「婚約者としての態度だ。
……いや、もういい」
彼は言い捨てるように立ち上がり、隣の女性を伴って部屋を出ていった。
残されたエルゼリアは、静かに息を吐く。
――やはり、そう思われているのね。
悲しみはなかった。
期待も、とうに手放している。
彼女がこの立場に選ばれたのは、愛情ではない。
クローヴェル侯爵家の政治的価値と、彼女自身の「使い勝手」だ。
だからこそ、感情を挟まず、完璧に役割を果たしてきた。
それが、王太子妃候補としての最善だと信じて。
だが、その信念は、誰にも評価されていない。
エルゼリアは書類をまとめ、静かに席を立った。
回廊の窓から差し込む光が、やけに眩しい。
この王宮で、彼女は長く沈黙してきた。
語らず、訴えず、ただ支え続ける存在として。
――もし、この役目が終わる日が来るなら。
そのとき、自分は何を思うのだろう。
答えはまだ、見えない。
だが運命は、すでに動き始めていた。
彼女が知らぬところで、
「婚約破棄」という言葉が、確実に形を成しつつあることを。
王宮の執務棟、その最奥にある小会議室。
エルゼリア・クローヴェルは、今日も静かに書類へ視線を落としていた。
王太子ロネスの婚約者――それが、彼女の公式な立場である。
だが、その肩書きを正確に理解している者は、王宮内にほとんどいない。
外交文書の草案、財政報告の整理、貴族間の利害調整。
王太子が表舞台で華やかな言葉を並べる裏で、実務の大半はエルゼリアの手によって処理されていた。
彼女はそれを誇りに思ったことはない。
ただ、必要だからやっている。それだけだった。
「次の会議の議題、こちらで問題ありません」
淡々とした声で告げると、向かいに座る書記官がほっと息をつく。
「助かります、エルゼリア様。正直、これがなければ収拾がつきませんでした」
感謝の言葉を向けられても、彼女は微笑みを返さない。
代わりに、次の書類へと手を伸ばす。
――感情を表に出さない女。
――冷たい婚約者。
そんな噂が、いつからか王宮内を巡るようになった。
ロネス自身も、同じ認識を持っている。
「君は相変わらずだな、エルゼリア」
執務室に入ってきた王太子は、軽い調子でそう言った。
彼の隣には、最近よく姿を見る若い女性が立っている。
「今日は彼女も同席する。構わないな?」
「承知しております」
エルゼリアは顔を上げずに答えた。
視線の先で、ロネスが小さく眉をひそめる。
――まただ。
彼女は、いつもこうだ。
王太子の心中に、苛立ちが芽生える。
婚約者でありながら、嫉妬も不安も見せない。
感情を向けてくるのは、いつも隣の彼女のほうだった。
「では、本題に入ろう」
ロネスが議題を切り出す。
国境付近で起きている小競り合い、財政への影響、諸侯への対応。
エルゼリアは、必要な情報を簡潔に補足する。
どこまでも冷静で、無駄がない。
「……以上です」
会議が終わると、ロネスは不満げに椅子へ身を沈めた。
「君は、もう少し柔らかくできないのか?」
「何を、でしょうか」
「婚約者としての態度だ。
……いや、もういい」
彼は言い捨てるように立ち上がり、隣の女性を伴って部屋を出ていった。
残されたエルゼリアは、静かに息を吐く。
――やはり、そう思われているのね。
悲しみはなかった。
期待も、とうに手放している。
彼女がこの立場に選ばれたのは、愛情ではない。
クローヴェル侯爵家の政治的価値と、彼女自身の「使い勝手」だ。
だからこそ、感情を挟まず、完璧に役割を果たしてきた。
それが、王太子妃候補としての最善だと信じて。
だが、その信念は、誰にも評価されていない。
エルゼリアは書類をまとめ、静かに席を立った。
回廊の窓から差し込む光が、やけに眩しい。
この王宮で、彼女は長く沈黙してきた。
語らず、訴えず、ただ支え続ける存在として。
――もし、この役目が終わる日が来るなら。
そのとき、自分は何を思うのだろう。
答えはまだ、見えない。
だが運命は、すでに動き始めていた。
彼女が知らぬところで、
「婚約破棄」という言葉が、確実に形を成しつつあることを。
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