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市川湊

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 玄関に入ると揚げ物の匂いがした。カッと怒りが込み上げ、ずんずんと床を踏み鳴らしてリビングへ行く。
「ヒロさんっ!」
 やっぱり。テーブルにはピザの箱やらハンバーガーショップの袋が散乱していた。
 チーズがたっぷり乗ったピザに食らいつこうとしていたヒロさんは、振り返るなりギョッと目を見開いた。
「か、カオル殿ッ! ジジ上の家に行ったのではなかったでござるかッ!」
「行ったよ。でも今日はグループホームに行く日だからお別れの挨拶しただけ」
 小学生の時、世話になったお爺さんだ。弁当を作って毎日通っていたが、とうとうお別れの日が来てしまった。お婆さんのレシピノートはくれると言う。俺にとってのお袋の味だ。本当にありがたい。
「現行犯っ! 没収っ!」
 まだピザが残った箱を取り上げ、俺は言った。
「和食ばっかりなのに、全然痩せないからおかしいと思った。隠れてコソコソ食ってたんだ」
「かたじけない……」
 肥えた醜男がしおらしく頭を下げる。
「食事制限してるわけじゃない。普通の人は、あれで十分なんだよ。だいたい、ヒロさんは働いてもないし、運動だってしないじゃないかッ! どうしてこんなに食べる必要があるんだよッ!」
「うう……食欲に抗えないのでござる」
 ふつふつと腹の中が怒りで煮えた。
「ヒロさんさ、俺に好かれたくないの?」
 ムッとすれば、ヒロさんは鼻の下をだらしなく伸ばす。俺を好きだって表情に、ホッとする。
「……いきなり何十キロも痩せろなんて言わないよ。でも、服をワンサイズ落とすとか、十の位をひとつ落とすとか、ちょっとは変わる努力をしようよ。……ヒロさんだって、そのままじゃダメだって思うでしょ?」
「いやあ……」
「なんだよ。デブのままでも良いってこと?」
 ヒロさんは困ったような顔をする。
「ああ、わかった。痩せる努力なんかしなくても、もう俺に好かれてると思ってるんだ」
 ヒロさんと一緒にいると落ち着く。だから家にいる時はたいていヒロさんの側にいる。でも別に好きなわけじゃない。ヒロさんが変わってくれない限り、俺の好きな人は……
「俺が好きなのは黒崎さんだからね。中学の時に出会った警察官」
 もう言わないと宣言したのに、もどかしさから、つい言ってしまった。若干芽生えた罪悪感は、ヒロさんのデュフフっと笑う声によって、一瞬で消えた。
「なに笑ってんだよっ! 夕飯はうどんだからなっ! ワカメうどんっ!」
 ちょっとは痩せろ。デブっ!
 心の中で毒吐き、俺はピザの箱を持って自室へ向かった。
 十畳ほどの部屋はホテルのようで、調和の取れたシックな家具が、過不足なく配置されている。
 窓際のテーブルにピザの箱を置き、コートを脱ぐ。クローゼットを開け、コートをハンガーに掛けながら、深いため息をついた。
 消えたはずの罪悪感が、ヒタヒタと溢れてくる。防寒性の高いモスグリーンのコートは、俺が熱を出した翌日、ヒロさんが買ってくれたものだ。カジュアルで何にでも合わせやすくて、気に入っている。
 部屋を見回す。この部屋だって、タダで使わせてもらっている。こんなに良くしてもらっているのに、俺は酷いことばかり言ってしまう。ヒロさんが俺を好きだと知っているから、何を言っても許されると思っているのだ。それに俺のことが好きなくせに、全然痩せようとしないことにどうしようもなく腹が立つ。もはや意地だ。痩せなきゃ絶対好きになんかなるものか。
(そうだ、俺は悪くない。痩せようとしないヒロさんが悪い)
 自分を正当化し、ピザを食った。濃い味付けは、確かにうまい。……むかつく。
 明日は何を作ろうか。なんだったらヒロさんは満足するだろう。ピザをガツガツ食らいながら、俺は必死に考えを巡らせた。


「お父様、きっと喜ばれるでしょうね」
 女の店員からショップ袋を受け取りながら、俺は何をやっているんだろう、と苦笑した。
 ヒロさんを父親と偽って、トータルコーディネートを買った。巨漢用だからオシャレではないけれど、これなら外を歩いても嘲笑されることはない。本人が気にしなくても、俺が気にする。同居人が他人に笑われるのは癪だ。想像するだけでムカムカする。
 自分の行動に呆れつつ、けれど足取りは軽かった。ヒロさんは相変わらず怠慢で、全然痩せる気配がない。つまりこれはフライングご褒美だ。甘い気もするが、そもそもヒロさんは甘やかされて育った人間だ。こういう方向転換は必要だろう。初任給でのプレゼントを、俺は強引に正当化する。
 二週間前から、俺は宅食事業会社で働きはじめた。お爺さんの家にいる時に、その会社の営業マンが来て、俺が宅食サービスの勧誘を断ると、「あなたはどなたですか?」という会話に発展し、気づけばリクルートされていた。
 仕事内容は顧客への弁当配達と勧誘で、顧客と顔を会わせるから、要望や感謝の言葉を直接聞けて、やりがいがあった。軽い気持ちで始めたが、今では長く続けたいと思っている。
 家に帰ると、ヒロさんはまたこっそり高カロリーなものを食べていた。
「ヒロさん」
 背後から低い声で言う。ヒロさんはギョッと振り返ると、「し、仕事ではなかったでござるかっ!」とわめいた。
「今日は休み。俺が仕事行ってる間、どうしてるのかと思ってね」
 俺は仕事着で外出していた。ヒロさんは「ぐぬぬ」と項垂れる。
「またこんなもの食べてっ! これもこれも没収っ!」
 テーブルに置かれたものをひょいひょいと手に取り、キッチンへ運ぶ。
「そんなに腹減るんなら、いっそ手術でもすれば? ヒロさんの食欲、ちょっと変だよ」
 嘘。ちょっとどころじゃない。昨日は真夜中にホイップクリームを摂取していた。
「手術は勘弁でござる……」
「でも、我慢できないんでしょ? いい大人なのにおかしいよ」
 ああ、また言いすぎてる。せっかく服を買ったのに。
「俺の仕事、ヒロさんもやってみない? お年寄りの宅食サービス。結構いい運動になるし、人と話すのは楽しいよ。お年寄りってさ、話し相手になるだけで喜んでくれるんだよ。だから若い人がつけあがるんだろうけど。でも、お年寄りが喜んでくれるのは本当。本当……感謝してもらえるんだよ。ヒロさんもやったほうがいいよ」
 ヒロさんは大きく頷くと、微笑み、「カオル殿は優しいでござるな」と言った。
「なんでそうなんの。お年寄りに親切な若者ってこと? 俺、そういうの嫌い」
 ヒロさんは首を横に振る。俺はゴクリと唾を飲んで、彼の言葉に期待する。
「カオル殿は気持ちが優しい。きっとその優しさはお年寄りにも伝わっているはずでござる。若さだけでなく、カオル殿の人柄が喜ばれているのでござるよ」
 ヒロさんはいつもそう。俺が拗ねると、包容力のある言葉で俺の心を満たしてくれる。
「……ヒロさん、これ」
 俺はショップ袋をヒロさんに渡した。
「なんでござるか」
「給料入ったから、買った。今度これ着てどっか出かけよ」
 ヒロさんは息を詰めた。
 ヒロさんは袋の中を見る。セーターやズボンを引っ張り出して、「ありがとうでござる……」と静かに言う。想像よりも低いテンションで、胸がざわついた。
「うれしくない?」
「そ、そんなことないでござるっ! 嬉しいに決まってるでござりんしょ。はっほはっほでござるよ」
「ほんと?」
「もちろんでござる!」
「……ならいいけど」
 なんか思っていたのと違う。でもこれ以上疑うのは鬱陶しいし、「着てね」と言って自室に向かった。
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