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9. 新しい生活
しおりを挟む「……それじゃ、仕事に行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
昼食を終えた旦那様は、これから仕事に行くとの事なので私はお見送りをするために玄関までついてきた。
「……」
「……」
何だか気恥ずかしくてそれ以上の言葉が出てこない。
それは旦那様も同じようで、しばらくの間、私達は無言で見つめ合う。
「……あー……コホッ……」
「旦那様?」
「ルチア、何かあったらトーマスに相談するように。彼にはここでルチアを好きなようにのびのび過ごさせるように、と言いつけてあるから」
「私の好きに、ですか?」
「ああ」
そっか、ここではお姉様の顔色を窺う必要も、お父様やお母様に邪魔だと言われることも……無い? 私が何かしようとする度に咎めてくる使用人もいない……
そう思うと不思議な気分だった。
「それと、今夜は帰るのが遅くなるかもしれないから夕食は待っていなくていいよ」
「え? そ……」
「そ?」
「あ、いえ……」
それは寂しい……!
そんな言葉が口から飛び出しそうになったので自分自身が驚いてしまった。
このムズムズする気持ちは何なのかしら?
「ルチア……そんな顔しないでくれ」
旦那様の手がそっと私の頬に触れた。
「……え?」
「そんな顔されると、仕事なんて全て放り出して、このままルチアと過ごしたくなる」
「……! そ、それは駄目です! ちゃんと仕事してください!」
私が慌ててそう口にしたら、旦那様は、ははは! ルチアらしい、と笑った。
そのまま行ってくる……ともう一度口にして旦那様は仕事へと向かった。
「…………もう!」
ムズムズしたりドキドキしたり、何だかずっと気持ちが落ち着かない。
「────若奥様」
「……っ!? ……トーマスさん?」
突然、後ろから声をかけられたので振り返るとそこにはトーマスさんが立っていた。
聞き間違いでなければ“若奥様”と聞こえた。
「あ、あの! 今、私の事」
「はい、これからは若奥様と呼ばせて頂きます」
「奥様……」
その響きにまたムズムズした。
「若君のあんな顔は初めて見ました」
「あんな顔?」
「頬を染めて照れたり、焦ったり……仕事に行きたくないという言葉は初めて聞きましたな」
「!」
会話を聞かれていた? そう思うと一気に恥ずかしくなる。
「若奥様、午後はお好きな事をして過ごして構いません。何か必要なものがあれば遠慮なく申し付け下され」
「……ありがとうございます。早速、一つお願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「このお屋敷を案内してくれませんか? その、広すぎて迷子になりそうなのです……」
「……!」
私のお願いにトーマスさんは頑張って笑いをこらえていた。
────
「若奥様……何だか変な感じ……」
トーマスさんによる、屋敷の案内が終わった私は部屋に戻る。
分かっていたけれど、公爵家のお屋敷はとんでもない広さだった。
「……結婚」
旦那様……ユリウス様は優しい。
私を大切にしようとしてくれるのが伝わって来て嬉しかった。
「今はまだお姉様の事を想っているかもしれないけど……いつかちゃんとした夫婦になれるかしら?」
その為にはよい妻にならないと!
そう決心した私は、書庫から借りて来た本を開く。
自由にしたい事をしてもいい、と言われてもすぐに思いつく事が無かった。
それならば、一日でも早く旦那様のお役に立てるように勉強しようと思い立ち本を借りてきた。
けれど。
「ポカポカ…………日当たりが良すぎて……眠い……わ」
気付くと私はうとうとしていて眠りに落ちていた。
❋❋❋
「……なんだ、ユリウス。その締まらない顔はどうした?」
「……は? 締まらない顔?」
「騙されていた……という報告を受けたから、てっきり怒り心頭で不機嫌な様子でやって来ると思ったのだが?」
王宮に着くなり王太子殿下が俺の顔を見てそう言った。
「それで? 代わりに花嫁としてやって来たのは妹だったと言っていたな」
「…………その、代わりに嫁いで来た花嫁が、びっくりするくらい可愛かった」
「は!?」
俺がつい感じたままの本音の言葉で返すと、殿下は口をあんぐり開けて固まった。
締まらない顔……
そうか。俺はそんな顔をしていたのか……
だが、ルチアの顔を思い浮かべると、自然とこうなってしまうんだ。
「待て。そんなに可愛い……のか? あれの妹なのだろう? それなら可愛いと言うよりどちらかと言えば……」
「似てない。それから、殿下も会ったら多分、驚く。俺は驚いた」
「……“スティスラド伯爵家の令嬢”は美貌が売りだそうだぞ? なのに似ていない?」
「ああ、ルチアは…………」
俺がありのままに答えると殿下は「何っ!?」とまた目を剥いた。
「しかし……まさか、失敗するとは……驚いたぞ」
「……騙されたからな。あの女は間違いなく“ルチア”と名乗っていたんだ。あと、こうなったのは殿下が急がせたからだぞ?」
「…………分かっていたのは、スティスラド伯爵家の令嬢って事だけだったからな……すまん」
何であれ、予定は大きく狂ってしまった事は間違いない。
そもそも、命令とはいえ……なんで俺がこんな事を引き受けねばならなかったのか。
万が一にもあんな女と本当に結婚する……なんて考えただけでも嫌だ。吐き気がする。
「どうしてくれる? パーティーの招待状はすでに出してしまっているんだぞ!?」
「今頃手元に届いてはしゃいでいるのでは? ……喜んでやって来そうですね」
いや、きっと来るだろう。
「……」
殿下は心底、嫌そうな顔をする。そんな顔をされてももう遅い。
「残念ながらもう予定通りの事は出来ませんよ? 俺はルチアを妻として迎える事にしましたので」
「は? ユリウス!? 本気か!?」
「…………そういうわけで、俺は新婚の身となりましたので可愛い妻の元になるべく早く帰りたいですね」
「おい!」
殿下が、嘘だろう!? 何故だ!
という顔をしているが本気だ。俺はルチアを大切にしたい。
「今までのように好き勝手に利用するのはやめてもらいますので」
「いや、待て! こら! ユリウス!!」
「……」
喚く殿下を尻目に俺は溜まっている仕事を片付ける事にした。
仕事中も頭に浮かぶのは、妻となる事を受け入れてくれたルチアの事ばかり。
もう、泣いていないだろうか?
笑顔で過ごしてくれていれば良いのだが。
なんと言ってもルチアのあの笑顔は…………
「……ふぅ、こんなにも仕事に集中出来ないのは初めてだ……ルチア……」
───俺は、ルチアへと抱く自分の感情に驚きと戸惑い……そして温かいものを感じていた。
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