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第二部
45.初めての舞台 1
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午前十時。曇り空の下、少し先にドーム状の会場が見えた。数十段ある幅の広い大きな階段を上ると、建物の玄関前に
「西日本フィギュアスケート選手権大会」
「西日本フィギュアスケートジュニア選手権大会」
という看板が大きく立てられていた。
「制覇君!」
建物に入るとすぐ、陽向さんが僕に気づいて手を振ってきた。近づいてくる陽向さんはいつもと同じようでいてどこか違っていた。バッジテストの時のようにすでにメイクがされていて、髪の毛も所々キラキラしていた。ウィンドブレーカーを着ているけれど、その下はおそらくもう衣装だろう。その瞳は、普段よりいっそう輝いていた。
ああ、ついにこの日が来た。
僕は肩にかけた鞄の重さを確かめた。一年間の練習すべてが一緒に詰まっていた。
僕の初めての試合。
そして、流斗との対決に向けての第一歩。僕たちの演技にいったいどのくらいの点数がつくのか、僕は初めてそれを知ることができる。それは果たして、あいつと勝負できるほどのものなのか。
先生は、僕たちは流斗に絶対勝てると言っている。吉田さんが二組に入っているエレメンツの点数をざっと計算してくれた。今回の試合の点数を見て足りないことがあれば、ジャッジのアドバイスももらって全日本に向け対策も取ると先生は言った。
その理屈を聞けば勝てそうな気がする。だからその言葉を信じて、強気で練習してきた。でもいざ試合となるとやっぱり、絶対的な自信を持つことなんてできなかった。
かけよってきた陽向さんが、僕の数歩手前で足を止めた。後ろから迫って来た気配が、僕のすぐ横で止まった。
「せーいはっ!」
その声で僕は横を向いた。
「果歩? え? なんでここに?」
果歩に会うのは、自転車置き場で塾の話をした時以来。一ヶ月ぶりだった。
「応援に来ちゃった」
「お……うえん?」
果歩が、僕の……? 陽向さんが気を使ったような笑顔で僕たちを見た。
「じゃあ私、先に先生の所に行ってるね。制覇君も準備ができたら来て!」
そう言って陽向さんは後ろを向くと、小走りに会場へと入っていった。
果歩は僕の隣でスマホを取り出した。そして「蒼井君来てるかな」と言いながら操作をし始めた。
昨日の公式練習で知った驚きの事実。それは、今日は西日本大会だというのに、アイスダンスだけはなぜか東日本の試合もここで行われるということだった。
果歩はスマホをしまいながら僕に
「なんか、抜けられそうにないみたい」
と報告した。
「えーと、果歩。今日は誰の応援に……?」
「蒼井君だよ?」
やっぱりそうか。
「あ! ごめん。違うよ、制覇も! 制覇のことも応援しに来たよ~」
果歩は突然慌てたようにひきつった笑顔を作った。
果歩はエントランスホールの受付でプログラムを買った。その隣には大きなボードが立ててあり、昨日抽選した滑走順が張り出されていた。その前を通って、僕も果歩と一緒に中に入った。
扉の中は観客席だった。リンクの二階をぐるっと取り囲む何百、いや何千もの客席。そこから見下ろすリンクは、ずいぶん遠くに見えるような気がした。そしてすぐ間近に感じるほど大きな電光掲示板が見えた。少しだけ鼓動が速くなった。
どこから聞こえているのかも分からないくらい、館内全体に音楽が鳴り響いていた。ジュニアの女子が演技をしているところだった。
「さっきのことだけど、私、制覇のことを忘れてたわけじゃないんだよ。ほんと。なんとゆーか、言葉の綾ってやつ?」
観客席の後ろを声をひそめて歩く。
「はいはい」
「もう。信じてないな。蒼井君のことはね、なんとなく応援してあげないといけないような気がしたんだよ。ほら、どこか無理してる感じがするでしょ、蒼井君って」
「そーゆー風には全然見えないけど?」
果歩はあきれたような顔で僕を見た。
「東京の学校に進むことだって、不安がないわけじゃないと思うんだよ。でもアイスダンスのために思い切って決めたんだと思うんだ。だったら、ここは応援してあげないと」
どうしてそんな親切な発想ができるんだろうと思った。流斗はいつも東京に通ってるわけだし、すでにそこは不安を感じるような場所ではないだろう。引っ越しだって、きっともう慣れたものなんじゃないだろうか。
どうして果歩は、あいつをそんなに気にかけてるんだろう。
夏休み明けに、クラスで自慢げにスマホを揺らしていた女子の笑顔がふと浮かんだ。
流れている音楽が急に静かなものに変わった。聞き覚えのあるそれは、アニメ映画の曲だった。ゆっくりとしたピアノの響きから始まる旋律に、魔女の女の子が友だちの見送る中、箒に乗って旅立つシーンを思い出す。
もしかすると果歩は、誰かと別れるだとか何かを失うだとかそういうことに、少し弱いのかもしれない。
一般の応援席まで来ると、果歩は僕を振り返り「じゃあ、がんばってね!」と手を振って席についた。
選手席を探してたどり着くと、ちょうど陽向さんが衣装を着た数人の女の子に連れ出されるところだった。僕にとっては初めての舞台だけれど、陽向さんにとってはなじみの場所なのだ。
通りがかったジュニアの男子数人が、女の子たちの中に陽向さんを見つけて、「うわっ。音川陽向だ」「相変わらず美少女」とひそひそと浮かれた声を出した。彼らは遠くから陽向さんに見とれていた。
「音川陽向って、引退したんじゃなかったっけ?」
「アイスダンスに転向したんだろ。怪我がひどくて。もったいなかったよな」
「ほらパンフ。相手の奴知ってる?」
「いや。誰これ? 全然知らねー」
まあ、当然である。
陽向さんは女の子たちと一緒に笑いながら観客席の後ろの壁際まで行くと、ズボンのウエストに手をかけた。そこから軽く前屈みになり、すっと足を抜く。肌色の足と、紅色のスカートが現れた。チャチャに合わせて用意したエキゾチックな衣装は、ふとももの上の方から膝にかけて斜めに切られていた。
衣装姿になると陽向さんは女の子たちの横に並んだ。保護者席から陽向さんのお母さんが慌ててやってきて、カメラを構えた。女の子たちは、華やかな笑顔をカメラに向けた。
「ダンスまでは残らないけど、がんばってね」
そのあともちょくちょくシングルの時に仲良くしていたという女の子が席にやってきては、陽向さんに声をかけていった。
「明日のフリーがまだあるから、あの子たちものんびりはしていられないのよ」
陽向さんはただそう言った。
そのうちに、きょうちゃん先輩と上本と他の生徒たちも応援に来た。きょうちゃん先輩は近畿大会に出場はしたものの、出場者七十名のうち四十八位で西日本への進出は叶わなかった。他の近畿に出た女の子たちも似たようなもので近畿止まり。この大会に出るのは、僕たちと南場さんだけだった。
ジュニア男子の試合が近づいてきた。先生は下の階へと下りて行った。
南場さんの番が来ると、上本はフェンスに身を乗り出すようにして演技を見始めた。
広いリンクにたった一人立つ南場さんを見ると、僕は急に心細くなった。リンクのすぐ横には、長机がいくつか連ねられていて、そこにジャッジが数人座っていた。ジャッジたちはまっすぐに南場さんの方を見ていた。机の端にはコンピューターだの、何かの機材だのが置いてあった。リンクのそばには腕章をした人たちが数人いて、三脚のついた大きなカメラをリンクに向けていた。
音楽が始まり、南場さんが滑り出したのを見た瞬間、身がすくむような思いがした。
みんなは彼が何かを決める度に全力で拍手していた。だけど僕は、エレメンツが成功したかしなかったかとか、それが何回転だったかとかそういうことを見ることができなくなっていた。そんなことより、彼の動きがいつもより硬くてスケートが伸びないのが気になって、不安で不安で堪らなかった。
それでも彼はノーミスだった。苦手なジャンプのコンビネーションも降りたようだった。僕が手を組んで震えている横で、みんなは、ノーミスだし結構いけるんじゃないかと口々に言った。
なんでだよ。南場さんはいつもはもっとずっと上手く滑れるのに。
次の演技が始まっても僕の緊張は解けなくて、落ち着いて観戦することはできなかった。
僕は気がつくと、リンクへとつながる階段を下りていた。僕に気づいた先生がすぐに寄ってきた。
「そろそろ着替えて、アップしていらっしゃい」
僕は、先生のその言葉にうなずいた。
「西日本フィギュアスケート選手権大会」
「西日本フィギュアスケートジュニア選手権大会」
という看板が大きく立てられていた。
「制覇君!」
建物に入るとすぐ、陽向さんが僕に気づいて手を振ってきた。近づいてくる陽向さんはいつもと同じようでいてどこか違っていた。バッジテストの時のようにすでにメイクがされていて、髪の毛も所々キラキラしていた。ウィンドブレーカーを着ているけれど、その下はおそらくもう衣装だろう。その瞳は、普段よりいっそう輝いていた。
ああ、ついにこの日が来た。
僕は肩にかけた鞄の重さを確かめた。一年間の練習すべてが一緒に詰まっていた。
僕の初めての試合。
そして、流斗との対決に向けての第一歩。僕たちの演技にいったいどのくらいの点数がつくのか、僕は初めてそれを知ることができる。それは果たして、あいつと勝負できるほどのものなのか。
先生は、僕たちは流斗に絶対勝てると言っている。吉田さんが二組に入っているエレメンツの点数をざっと計算してくれた。今回の試合の点数を見て足りないことがあれば、ジャッジのアドバイスももらって全日本に向け対策も取ると先生は言った。
その理屈を聞けば勝てそうな気がする。だからその言葉を信じて、強気で練習してきた。でもいざ試合となるとやっぱり、絶対的な自信を持つことなんてできなかった。
かけよってきた陽向さんが、僕の数歩手前で足を止めた。後ろから迫って来た気配が、僕のすぐ横で止まった。
「せーいはっ!」
その声で僕は横を向いた。
「果歩? え? なんでここに?」
果歩に会うのは、自転車置き場で塾の話をした時以来。一ヶ月ぶりだった。
「応援に来ちゃった」
「お……うえん?」
果歩が、僕の……? 陽向さんが気を使ったような笑顔で僕たちを見た。
「じゃあ私、先に先生の所に行ってるね。制覇君も準備ができたら来て!」
そう言って陽向さんは後ろを向くと、小走りに会場へと入っていった。
果歩は僕の隣でスマホを取り出した。そして「蒼井君来てるかな」と言いながら操作をし始めた。
昨日の公式練習で知った驚きの事実。それは、今日は西日本大会だというのに、アイスダンスだけはなぜか東日本の試合もここで行われるということだった。
果歩はスマホをしまいながら僕に
「なんか、抜けられそうにないみたい」
と報告した。
「えーと、果歩。今日は誰の応援に……?」
「蒼井君だよ?」
やっぱりそうか。
「あ! ごめん。違うよ、制覇も! 制覇のことも応援しに来たよ~」
果歩は突然慌てたようにひきつった笑顔を作った。
果歩はエントランスホールの受付でプログラムを買った。その隣には大きなボードが立ててあり、昨日抽選した滑走順が張り出されていた。その前を通って、僕も果歩と一緒に中に入った。
扉の中は観客席だった。リンクの二階をぐるっと取り囲む何百、いや何千もの客席。そこから見下ろすリンクは、ずいぶん遠くに見えるような気がした。そしてすぐ間近に感じるほど大きな電光掲示板が見えた。少しだけ鼓動が速くなった。
どこから聞こえているのかも分からないくらい、館内全体に音楽が鳴り響いていた。ジュニアの女子が演技をしているところだった。
「さっきのことだけど、私、制覇のことを忘れてたわけじゃないんだよ。ほんと。なんとゆーか、言葉の綾ってやつ?」
観客席の後ろを声をひそめて歩く。
「はいはい」
「もう。信じてないな。蒼井君のことはね、なんとなく応援してあげないといけないような気がしたんだよ。ほら、どこか無理してる感じがするでしょ、蒼井君って」
「そーゆー風には全然見えないけど?」
果歩はあきれたような顔で僕を見た。
「東京の学校に進むことだって、不安がないわけじゃないと思うんだよ。でもアイスダンスのために思い切って決めたんだと思うんだ。だったら、ここは応援してあげないと」
どうしてそんな親切な発想ができるんだろうと思った。流斗はいつも東京に通ってるわけだし、すでにそこは不安を感じるような場所ではないだろう。引っ越しだって、きっともう慣れたものなんじゃないだろうか。
どうして果歩は、あいつをそんなに気にかけてるんだろう。
夏休み明けに、クラスで自慢げにスマホを揺らしていた女子の笑顔がふと浮かんだ。
流れている音楽が急に静かなものに変わった。聞き覚えのあるそれは、アニメ映画の曲だった。ゆっくりとしたピアノの響きから始まる旋律に、魔女の女の子が友だちの見送る中、箒に乗って旅立つシーンを思い出す。
もしかすると果歩は、誰かと別れるだとか何かを失うだとかそういうことに、少し弱いのかもしれない。
一般の応援席まで来ると、果歩は僕を振り返り「じゃあ、がんばってね!」と手を振って席についた。
選手席を探してたどり着くと、ちょうど陽向さんが衣装を着た数人の女の子に連れ出されるところだった。僕にとっては初めての舞台だけれど、陽向さんにとってはなじみの場所なのだ。
通りがかったジュニアの男子数人が、女の子たちの中に陽向さんを見つけて、「うわっ。音川陽向だ」「相変わらず美少女」とひそひそと浮かれた声を出した。彼らは遠くから陽向さんに見とれていた。
「音川陽向って、引退したんじゃなかったっけ?」
「アイスダンスに転向したんだろ。怪我がひどくて。もったいなかったよな」
「ほらパンフ。相手の奴知ってる?」
「いや。誰これ? 全然知らねー」
まあ、当然である。
陽向さんは女の子たちと一緒に笑いながら観客席の後ろの壁際まで行くと、ズボンのウエストに手をかけた。そこから軽く前屈みになり、すっと足を抜く。肌色の足と、紅色のスカートが現れた。チャチャに合わせて用意したエキゾチックな衣装は、ふとももの上の方から膝にかけて斜めに切られていた。
衣装姿になると陽向さんは女の子たちの横に並んだ。保護者席から陽向さんのお母さんが慌ててやってきて、カメラを構えた。女の子たちは、華やかな笑顔をカメラに向けた。
「ダンスまでは残らないけど、がんばってね」
そのあともちょくちょくシングルの時に仲良くしていたという女の子が席にやってきては、陽向さんに声をかけていった。
「明日のフリーがまだあるから、あの子たちものんびりはしていられないのよ」
陽向さんはただそう言った。
そのうちに、きょうちゃん先輩と上本と他の生徒たちも応援に来た。きょうちゃん先輩は近畿大会に出場はしたものの、出場者七十名のうち四十八位で西日本への進出は叶わなかった。他の近畿に出た女の子たちも似たようなもので近畿止まり。この大会に出るのは、僕たちと南場さんだけだった。
ジュニア男子の試合が近づいてきた。先生は下の階へと下りて行った。
南場さんの番が来ると、上本はフェンスに身を乗り出すようにして演技を見始めた。
広いリンクにたった一人立つ南場さんを見ると、僕は急に心細くなった。リンクのすぐ横には、長机がいくつか連ねられていて、そこにジャッジが数人座っていた。ジャッジたちはまっすぐに南場さんの方を見ていた。机の端にはコンピューターだの、何かの機材だのが置いてあった。リンクのそばには腕章をした人たちが数人いて、三脚のついた大きなカメラをリンクに向けていた。
音楽が始まり、南場さんが滑り出したのを見た瞬間、身がすくむような思いがした。
みんなは彼が何かを決める度に全力で拍手していた。だけど僕は、エレメンツが成功したかしなかったかとか、それが何回転だったかとかそういうことを見ることができなくなっていた。そんなことより、彼の動きがいつもより硬くてスケートが伸びないのが気になって、不安で不安で堪らなかった。
それでも彼はノーミスだった。苦手なジャンプのコンビネーションも降りたようだった。僕が手を組んで震えている横で、みんなは、ノーミスだし結構いけるんじゃないかと口々に言った。
なんでだよ。南場さんはいつもはもっとずっと上手く滑れるのに。
次の演技が始まっても僕の緊張は解けなくて、落ち着いて観戦することはできなかった。
僕は気がつくと、リンクへとつながる階段を下りていた。僕に気づいた先生がすぐに寄ってきた。
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