Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第二部

46.初めての舞台 2

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 着替えると、陽向さんも僕と一緒に観客席からエントランスホールに出てくれた。扉を閉めると、中の音楽が一切聞こえなくなった。
 朝見た掲示板に、係の人が何かを張り出しているのが見えた。濃紺のスーツを着た華奢きゃしゃな女の人。どこかで見たことのある人だった。そうだ、前に吉田さんに組んでもらってバッジテストを受けていた人だ。こんなところで知っている人を見るなんて。アルバイトだろうか。
 いつの間にか知らない場所に来ているような気持ちになっていたけど、ここはうちからそう遠くないリンクなのだということを思い出した。

 陽向さんは、上体を右に倒したり左に倒したりしながら僕の前を歩いた。時折り僕を振り返り、僕がちゃんとついているかを見てはにこりとした。ホール横の通路を何度も行ったり来たり。アイスダンスの後のシニアの試合に出る人たちも、同じようなことをしたり片隅で柔軟をしたりしていた。僕も、陽向さんと同じことを繰り返した。これまで三回受けたバッジテストの時にも、僕たちはそうやって出番までの時間を過ごした。陽向さんのアップのメニューはいつも通りだった。いつも通り。本番もそうして迎えればいいんだ。
 この人は一体、何回こういう経験をしてきたんだろう。
 五分、十分と一緒に時間を過ごすうちに、自然と気持ちが落ち着いてきた。かと思ったら、そわそわと気のはやるような感覚がそれと入れ替わるように訪れた。

 男子ジュニアが終わり、リンクの中では整氷車が動いていた。ジャッジ席からは人がいなくなり、採点用の機材の所にだけ人が何人か集まっていた。よく見ると中に吉田さんがいた。まわりにいるのはモミの木で何度か見かけたことのある大学生の人たちだった。僕たちは彼らの後ろにあるベンチに座って準備を始めた。
 スケート靴を履き終わった時だった。隣にいた陽向さんがそっとしゃがみ込んで、僕の結んだ蝶結びの輪を靴のフックへと掛けてくれた。そして余った紐を締め上げると、もう一度蝶結びして同じことを繰り返した。
「ここに掛けておくと、途中でほどけたり何かにひっかかったりしないから」
 そう言った後、両手で靴の上から足首を包み込んだ。
「おまじない。安心して滑れるでしょ」
 あと少しで練習滑走が始まる。

 アイスダンスジュニア、西日本へのエントリーは二組。相手は去年二位だったカップル、笠井・児島組。そして東日本の方は、流斗たち一組だけ。
 勝っても負けても、僕たちは全員全日本に進むことができる。そんな、試合と呼んでいいのかも分からない試合。だけど僕たちは、何かのために今から氷に乗る。

 僕たち三組は、一つのゲートの前に集まると扉が開かれるのを待った。先生たちもすぐそばに集まってきた。

 笠井・児島組は僕よりも一学年下のカップルらしく、近くで見ると少しあどけない感じがした。姫島先生はここに来る前、子どもだから相手にならないわなんてことを言っていたけれど、足取りはしっかりしてるし姿勢もいいし、結構滑れるんじゃないかという気がした。何より二人が顔を見合わせてたまに笑い合う姿は、二人が組んでからの月日を感じさせた。二人は組んでからもう二年近くにもなるらしい。
 陽向さんが彼らに「こんにちは」と笑いかけると、彼らもちょっと緊張したような顔で笑い返してくれた。横にいた優しそうな女の先生も、にっこりしてくれた。

 流斗たちは一番先頭でゲートが開くのを待っていた。二人の隣では眉毛がもじゃもじゃのビア樽みたいな外国人のコーチが、リンクを指さしながら流斗に英語で何かを話しかけていた。なんとなくもうそれを見ただけで、敵わないような気がした。流斗のななめ後ろに立つ美少女は、吸い寄せられるように氷を見つめていた。腰まである長い黒髪は両耳の上だけが一つに結わえられていて、課題のラテンをイメージさせる黒い衣装は、腰回りだの背中だのあちこちに大きなスリットが入っていた。もちろん、誰かの言っていたようにそこから見えるのは素肌ではなく肌色の布だった。
 陽向さんは彼らに対しても臆することなく、「こんにちは」と笑いかけた。コーチも流斗もすぐにこちらに嬉しそうな顔を向けた。流斗がご機嫌で僕たちに何かを言おうとした時、美少女が彼の袖口をそっとつまんで軽く引いた。扉が開いたのだ。
「開きましたよ」

 目の前の鏡のような氷は、今まで見たこともないくらいずっと遠くまで広がっている気がした。
 僕はちらっと横を見た。そこには陽向さんが手を出してくれていた。前日の練習滑走でもそうだった。
 天井が高くて、観客がいて、電光掲示板があって、そんないつもより立派なリンク。ここに僕一人で挑むのだとしたら、どれほど心細かっただろう。だけど僕は一人ぼっちじゃない。
 僕は陽向さんの手を取って滑りだした。
 さっきまでリンクサイドで撮影をしていたカメラが数台、いい休憩時間だといわんばかりに置き去りにされているのが見えた。大きさからして多分テレビ局のカメラだ。テレビなんかに映ると思うと緊張するから困るんだけど、それでもアイスダンスを放送する気はないんだと思うとちょっとがっかりした。ダンスは観ないで帰ると言っていた陽向さんの友だちも、もういなくなったことだろう。観客席はさっきより人が減っているように見えた。

 練習滑走は六分間。
 うん。調子は決して悪くない。

 最後の三〇秒を残して、僕たちはフェンスに寄り休憩をとった。滑走順が一番だったのだ。
 抽選で一番を引いた時、僕はメンタルが弱いから、誰かが滑るのを見てしまう前に順番が来るのはラッキーなことよと先生は言った。僕はメンタルなんて弱くないというのに。
 それにしても、初めての試合で一番滑走なんて、本当にラッキーなんだろうか。なんだか最高に緊張してるんだけど。
 
「ただ今より、西日本フィギュアスケートジュニア選手権大会 アイスダンスの部を始めます」
 館内に響く放送に、心臓のバクバクが一気に増した。ゆっくり息を吸って、そっと吐き出した。リンク内にいた二組がゲートへと向かっていく。エッジについた氷を指で払い落しリンクを上がった流斗が、こちらを振り返り鋭い眼差しを僕へと向けた。

 当然だよな。一年前あいつが、宣戦布告してきたのだ。
 今日は直接対決じゃないけれど、あいつが僕を見ないわけがない。

 そして果歩もまた、僕たちを見ている。
 観客席を見上げる。まばらな人影が散らばるあの中に、あいつは座っている。

 大丈夫だろうか。上手くやれるだろうか。
「大丈夫よ。努力してきたことは自分を裏切らないわ」
 僕の様子に、先生が分厚い手袋をはめた手を肩へと置いてくれた。
 努力がすべて報われるのなら、世の中みんな勝者だらけだ。とは思うけれど、信じよう。陽向さんも先生の言葉に同意するようにうなずいて僕に笑いかけた。
 ここからは練習してきたことを、全力でやり抜くしかない。

 陽向さんに差し出された手を取り、誰もいなくなったリンクの中央に二人きりで向かう。スタート位置でポーズを決め、曲が始まるのを待つ。こうやって静かにしていると、かすかに足が震えているのが分かる。緊張をこらえて立つ僕に、違和感を感じるほど陽気なリズムが届いた。
 こんな気分のところにこの曲かよ。
 ギャップに笑いそうになってしまう。
 ビートを刻んで滑り出すと、目が合った陽向さんに誘うように笑いかけられた。いいスタートが切れた。

 リフトやツイズルは決められた通りのことをきっちりやれば、想定の点数は取れるはず。今日のリズムダンスで一番読みが難しいのは、パターンダンスの部分だ。パターンダンスにはキーポイントと言われる個所が設定されていて、その箇所でのエッジの正しさやタイミングを男女それぞれ厳密にチェックされる。その評価がどの程度のものになるか。正直主観では判断がつかない。僕たちのレベルでレベル4などを取れることはまずないと聞いているけれど、僕だって正しいエッジやタイミングで練習してきたつもりだ。高く評価されないと決めつけられるいわれはない。あとは全体を通して、基礎点でどのくらい点をもらえるか。

 オリジナルのステップから、パターンダンスへと入っていく。目に映る景色は、いつもよりフェンスが遠い。どうやら、思ったよりもコースを小さくとってしまっているようだ。
 いつもより滑りやすい気がしていたけれど、スピードが緩かったせいか。今まで気がつかなかったけれど、陽向さんのスケートにぜんぜん伸びがない。いつもは気持ちいいくらい伸びていくのに。
 いつも通りもっと大きなカーブで走るべきなんだろうけど、どうしたらいいだろう。組んでいる手で彼女を引っ張っていくべきか、それともこのまま彼女のペースで進めるべきか。ダンスは女の子が主役、先生には陽向さんの邪魔はしないようにと言われている。二人で合わせることが大切、とも言われてきた。計画通りを目指すより、合わせることが優先か?

 いくつもの考えが頭を巡る。ふと気がつくと僕はステップを間違えていた。
 しまった……。
「(どうしよう、間違えました)」
 僕は演技を続けながら、小さく呟いた。失敗はどのくらい結果に響くんだろう。音が頭に入らなくなってくる。手には汗がにじんできた。
「(大丈夫よ。絶対に勝てるから)」
 笑顔のまま、どこから声を出しているのか分からない陽向さんの小さな声が聞こえた。
「(でも……)」
「(大丈夫よ。気にしないで。続けましょ)」
 いつの間にか、僕はいつも通り彼女に励まされていた。ステップを踏む足取りも、僕よりも彼女の方がずっといい。
 大丈夫、大丈夫。
 楽しく、楽しく。
 彼女の目がそう言っていた。

 そうだ、笑わないと。笑顔を作るのを、すっかり忘れていた。
 どれだけ不安でも、曲が終わるまで僕は滑り続けなくてはならない。この日のためにやってきたことを思い出して。一つ一つ、やり遂げなくては。


「お疲れさま」
 ゲートの所で先生が笑顔で待っていてくれた。先生は氷から上がる陽向さんをぎゅっと抱きしめると、続いて僕の背中に腕を回してくれた。
「すみません。間違えました」
「大丈夫。大丈夫。何も気にならなかったわ」
 先生は笑顔で僕にウィンドブレーカーを渡してくれた。入れ違いに次の組がリンクに入る。
 笠井・児島組。
 僕は自分が演技を始める前よりも緊張してその二人を見た。

 彼らは、一年前にビデオで見た時よりずっと上手くなっていた。
 あの時の彼らは、組んでからまだ一年経っているかいないかだったはず。あれから一年経った今は、あの時のほぼ倍、練習してきたことになる。
 先生も陽向さんも大丈夫って言ってくれたけど、全然大丈夫なんかじゃない。どうして、間違えたりなんかしたんだろう。
 長い二分五十秒だった。

 音楽が鳴り止み数十秒後、電光掲示板に得点が表示された。
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