Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第三部

82.なんのために 2

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 一度はまってしまった沼からは簡単には抜け出せない。
 プログラムの仕上げにいそしみながら、僕は考える日々を送っていた。
 もし僕が全日本で勝ったとして、そこにどんな意味があるんだろう。
 意味なんて何もない、ただたまたま勝っただけ。試合に出ていれば、そりゃ勝つ時だってある。その程度のこと。

 それに比べてあのプログラムは。
 流斗は本気で歴史を変えようと挑んでいる。誰の後も追わず、自分で道を切り開こうとしている。
 ああいう奴には、存在する意味がある。

 僕の努力は何に対して向けられているんだろう。その成果には、どんな意味があるんだろう。誰かにとって、何かにとって、僕のアイスダンスは価値のあるものだろうか。

 とてもそうは思えない……。

 僕は、何のために滑るんだろう。


 大会を二日後に控えた、モミの木での最後の練習の日だった。

 一般営業が終わる音楽が館内に流れた。
 リンクを上がった僕は陽向さんと共に、果歩にモミの木のもとへと連れていかれた。モミの木はこの時期恒例のクリスマスのオーナメントで飾られていた。そこには数人の人が僕たちを待っていた。一緒によく練習している人や、ショーを見に来てくれている人たちだった。

 僕と陽向さんはみんなの前に並ばされた。
「じゃーん」
 果歩はみんなの前で、僕たちに祝儀袋を差し出した。封筒には「全日本ジュニア出場おめでとう 有志一同」と書かれていた。

「これ。みんなからのカンパだよ。今日は忙しくて来てないけど、吉田さんからのも入ってる」
「ああ、ほんとに」
 これまで何度も何度も、面倒を見てもらったことが頭を過った。

「あ、あと大事なの忘れてた。ここの会社からだ」
「はは。お前な~。会社忘れるなよ、大事だろー」
 冗談っぽくそう言った。僕は陽向さんと二人で封筒に手を伸ばした。
 僕が試合に出る意味がパッと頭に浮かんだ。
 このリンクに夢を与えるという意味。果歩の期待に、みんなの期待に応えるのが僕の務め。
 それはまったく、僕を明るく照らさなかった。

 なんて重たい。

 封筒に手が触れた瞬間そう思った。拍手が僕たちを囲んだ。封筒から手を離したくなる気分を振り払って、あちらこちらに深く頭を下げた。

 みんな身近にいるという理由だけで、僕たちを応援してくれている。この人たちは全日本ジュニアに出る他の選手のことなんてきっと知らないだろう。もう一組の選手がどれほど素晴らしい選手かなんて知らないだろう。
 それを。
 こんな風に応援してもらっていいんだろうか。

「ありがとうございます。いい演技ができるようがんばってきます」
 陽向さんは僕の隣で堂々と明るい挨拶をした。出会った時と変わらない、強い光を目に宿していた。


「曲は私も予備を持っていくけど、提出は制覇君お願いね」
 帰り支度を終え、陽向さんと本番前最後の確認をする。
「了解です」
「じゃあ明日、空港で。時間は覚えてる?」
 全日本ジュニアの会場は北海道。僕たちは行きの空港で合流する約束をした。

「制覇。一緒に帰れる?」
 僕たちの話が終わるのを待っていたのか、果歩がそーっと様子をうかがうような顔つきで現れた。
 陽向さんが果歩に、
「今日はありがとう」
 と笑った。カンパを集めてくれたのは果歩に違いなかった。

「あの……世界を懸けた舞台に旅立つ気分ってどんなですか?」
 果歩が陽向さんに尋ねる。その言葉に、僕が今から向かうのは、世界選手権のかかった試合なのだということを思い出した。
「そうねぇ」
 陽向さんは果歩の言葉にアトリウムを指さした。
 彼女の指は天井へと向かい、その動きに従い僕たちはみんなで体をそらして真上を見上げた。
 十九時を過ぎた今、ガラス張りの天井から見える空は真っ暗だった。でも中からは見えないだけで、外には星も散らばる夜空が広がっているのかもしれなかった。

「この大きな窓、ずっと素敵だなって思ってたの。室内にいるのに、向こうに大きく広がるものを感じてわくわくするでしょう?」
 僕たちと大きな空との間にあるのは、何でも見通せそうな透明なガラスなのに、実はなんでも見えるなんてことはなくて、でも上を見上げる陽向さんはそこに期待するものが見えているかのように、きらきらしていた。


 外に出て見上げた空には、星はなかった。
 僕と果歩は自転車にまたがり、クリスマスに向けイルミネーションがところどころに灯り始めた小路を走った。

 あんなことを聞くなんて、果歩は僕たちが世界への切符を取れると思っているんだろうか。
 果歩はリンクの他のみんなと違って、流斗たちの力を知っている。去年の演技も見て絶賛していたし、あのインタビューも見ていた。彼らを認めているはずだ。
 だけど、僕たちがみんなの期待に応えることを願ってるんだろうな……。それがあいつの夢だもんな。
 応えてやりたいのは山々だけど……。

 果歩は家に着くと門の前で自転車を下りた。門を開けると、僕をふり返って言った。

「なんか、すごいよね。悔しいけど、制覇すごいわ」
 果歩は僕を見て複雑な表情で笑っていた。
「なに、悔しいけどって?」
 僕も複雑な笑いを返した。
「だって、制覇だよ? なんでそんなにすごいのよ。そりゃ悔しいでしょ」
「なんでそんなに僕に文句あるわけ? っていうか、全日本なんて去年も出てただろ」
 それを今さらすごいだなんて。
 それに陽向さんと組めば誰だって全日本には出られるのだ。すごいなんて言われても苦笑いしかできない。

「そういうことじゃなくて。制覇たちの存在が光ってて、だからそこにばぁぁって裾野が広がっていく姿を実際に目にしちゃうとね。ああ、本当にこんなことあるんだなって。驚き。カンパもすごい集まったけど、最近スケート教室も希望者すごい増えてるんだよ。いやー。もう。悔しいけど、制覇すごいわ」

 果歩は何度も悔しがりながら、僕をすごいと言った。
「カンパもスケート教室も、盛り上げてるのはお前だろ。こっちはただ世話になってるだけで。僕なんかモミの木が力を貸してくれなかったら、今練習できてたかも分かんないんだから」
「そんな苦労もこれからしなくてすむようになっていくよ、きっと。演技を見た人たちがあちこちに広がって、これからアイスダンスは日本中いろんな場所で気軽に楽しめるようになっていくよ」
 こいつの頭の中は花畑だろうか。

 門の前で長々しゃべっていると、果歩のうちの玄関の扉が開いた。
「あー! なんかしゃべり声聞こえると思ったら、せいはじゃん!」
 姿を現したのは、果歩のおばさんだった。
「あれ? おばさん帰ってきたの?」
 驚いてそう問う僕に、果歩は「う、う、うん。まあね」などとおたおたして答えた。

「ちょっとママは、家に入ってて!」
「あーれー? おじゃまー?」
「いいから!」
 これまでさんざんママママ言ってたわりに、いざ帰ってくると突き放したりして面白い奴だな。

「うっふっふ。まあ大事な話もあるでしょう。しっかり相談してね~」
「分かってるって」
 おばさんは扉を閉めながら「あ、試合がんばってね~。世界にはばたけ、少年よ~!」と僕に向かって手を振った。

「びっくりした。いつから帰ってきてたの?」
「えっと。二、三日前かな。その……」
 果歩は言いにくそうに言葉を続けた。
「帰ってきたわけじゃないんだ。今度バンガロールに移るんだって」
「バンガロール! ……って?」
「ITで有名なインドの都市みたい。これからはバンガロールよ! なんて言ってた。それで、私のことも誘いに来たの。一緒に行かないかって」
「へ?」
 バンガロールに?

「なんで……?」
「きっと面白いよ~って。私には色んな力があるから――まあその言い方は親ばかなんだけど――」
 そう言って果歩は嬉しそうに照れた。
「だから世界を広げたらって」
「はは……そんな。広げるにしても遠すぎだろ、インドなんて。なあ」
 驚いている僕に、果歩は気まずそうに黙っている。
「まさか、行くわけ?」
「どうしようかなって……その……」
 果歩はためらいがちに、僕に尋ねてきた。
「制覇はどう思う?」

 どうも何も。
 なんでどこかに行くんだよ。ありえないだろ。今の今までスケートの話をしていたのに。今の今までこれからの話をしていたのに。その未来から果歩は消えてしまうつもりなのか。一緒にいてくれるつもりじゃなかったのか。
 行くな。
 行くな。
 行くな。
 行くな。

 そう言いたかったけれど、気持ちを落ち着けてやっと出た言葉は、
「無責任じゃない?」
 だった。
「……無責任? かな?」
「お前は、モミの木のために一生懸命やってきたわけだろ? それが何でいなくなれるわけ? どういうこと? 理子さんは? なんて言ってる?」
「好きにしていいって」
「なんでだよ!」
「だって私、社員でもなければバイトでもないんだよ」
 さらっと現実的なこと言われた。

「そうか。だけど僕は不思議だよ。お前の情熱は何だったのか、意味が不明だよ」
 引き止めるようなことをついつい口にしてしまうと同時に、こんなことを言っていいんだろうかという気もしていた。

 なぜなら果歩がずっとモミの木に執着していた本当の理由は情熱などという前向きなものではなく、まわりから人が去っていくことをただただ恐れていたからで、そんな果歩が一番失いたくなかった人は……
「でも、せっかくママが迎えに来てくれたんだよ?」

 やっぱりそうだよな。
 やっぱりそうなんだよな。
 モミの木のためといいながら僕に一生懸命になってくれる理由を、もしかしたら……って、何度か思ったこともあった。でもやっぱり違うんだよな。やっぱり。
 そんなことくらい、とっくにわかってた。

 でも残された人間はどうする。僕は。ずっとお前の夢につき合ってきたのに。一緒にここでの未来を見ている気でいたのに。
「おじさんはなんて?」
「好きにしたらいいって」
 なんでそんなに物分かりのいい人間ばっかなんだよ!
「そうか。みんながそう言うんなら、好きにするのがいいのかもな。しょうがないよな」

 本当に、これはしょうがないことだ。ずっと果歩が望んでいたことだ。腹立たしいことに、引き留めようのないことだ。
 でも果歩は困ったように笑っていた。

「それが、好きにしていいって言われても、どうしたらいいのか分からないんだよ。選べないんだ。大事なものが一つなら楽なのにね、一つじゃないんだもん」

 せっかく迎えに来てくれたのに困ったなあ、と果歩はつぶやいた。

 空を覆っていた雲が流れていき、星が姿を現した。
 忘れてはいけない。
 雲がかかっていても、屋根の下にいても、見えていないだけで星はいつでも遠くで確かに光っている。

 悩むんだったら、このままずっとここにいてくれればいいのに。そう思ってしまうけれど、果歩にとって目指すべき星は、ここにあるとは限らない。
 果歩はすごい奴だ。僕をすごいだのなんだの言っていたけれど、僕たちの活動が今不自由なくできるのはオーナーや理子さんだけでなく、果歩のアイデアや行動力があったからだ。コストのかかるマイナー競技の居場所を作れるほどのものが果歩にはある。

 そんな奴が活躍できる場所は、広い世の中にはたくさんあるに違いない。
 世界を見据えて旅立つ陽向さんの気持ちをたずねた果歩は、そういうことを心のどこかで理解しているんじゃないだろうか。遠くに旅立つ自分を心の片隅で想像しているんじゃないだろうか。

 でも何かを選ぶことは、何かを捨てることだから。選ばなかった方との別れに、果歩は困っている、苦しんでいるのだ。
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