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番と発情
しおりを挟むあれは、いつだったか。
まだステラがメルティーナの侍女だったときのことだ。
ステラは猫のような耳と長い尻尾をもつ人獣の若く魅力的な女性だった。
いつも優しく、明るく朗らかで、メルティーナにとってはよき姉であり相談相手のような人だった。
「ステラ、つがいというのは、どういうことなのか聞いてもいい?」
「つがいが気になりますか?」
「ええ。私たちにはないことだから……」
メルティーナはこのときまだ、十二歳を過ぎたばかり。
男女の違いを自覚し、恋愛に興味が湧いてきた年齢だ。恋愛の物語を読んで胸をときめかせていた。
だが、ステラにつがいについて尋ねたのは、ステラの恋愛が気になったからではない。
ステラはつがいがみつかったら、どこかに行ってしまうのかと不安になったのだ。
「お嬢様ももう大きいので、お話ししてもいいのかしらと思います。私たち人獣にはつがいという存在がいます。ですが、お嬢様ぐらいの年齢では、つがいはみつからないのですよ」
「どうして?」
「体が成熟していないからですね。つがいとは、繁殖のためにあるのです。より、繁殖するため。種族としての種の保存機能とでも言うのでしょうか。つがいがみつかるのは、人獣では十五歳を過ぎてから。いわゆる、成人とみなされる年齢ですね」
「そうなのね……じゃあ、子供の時には誰がつがいなのかわからないのね」
「ええ。一生運命と出会わない人獣もいれば、すぐにみつかる幸運な人獣もいます。なんせ王国は広いですから」
メルティーナに紅茶をいれながら、ステラは続ける。
テーブルにはメルティーナの好きな、クリームたっぷりの紅茶のシフォンケーキが用意されていた。
メルティーナは王国の広さを思う。
広い土地に住む人は、空の星と同じぐらいに多いのだろうか。
輝く星がたとえば流れ星になって、運命の星に辿り着くことを考えると、多くの人の中でただ一人をみつけるというのは、確かに気が遠くなるような話だ。
「体が成熟してからでないとつがいがみつからないのは、つがいと出会うと、私たちはすぐ発情をするからです」
「はつじょう……?」
「ええ。愛し合って、子を作りたいという激しい気持ちですね。自分でも抑えきれないほどの本能だと、聞いています。私も実際に味わったことはないのですが」
それはなにかしらの色気のある密談だとわかったので、メルティーナは頬を染めた。
「ステラは、つがいがみつかったら、どこかに行ってしまうのかしら」
「まさか! 私はずっとお嬢様の傍にいます。ずっと、お仕えさせてください、お嬢様」
「ありがとう、ステラ」
──ステラはそれから数年とたたずに、つがいがみつかり、仕事をやめてしまった。
そんな記憶がふつりとよみがえり、メルティーナは誰からも見えない廊下の隅で口を両手でおさえると、壁に背をついた。
苦しい。呼吸がうまくできない。
気のせいですんで欲しかった。メルティーナの考えすぎだと思いたかった。
けれどそうではない。ヴィオレットはディルグの番だ。
空に輝く無数の星々の中から、ディルグは運命を見つけることができてしまった。
『お前はいつか捨てられる』
『あなたはきっと捨てられるわ、メルティーナ』
両親の言葉が思い出されて、メルティーナは陸にうちあげられた魚のように呼吸がうまくできなくなってしまう。
覚悟はしていた。していたはずだ。でも、信じていた。
それ以上に、ディルグを信頼していた。信じたいと思っていた。
だって──ディルグを疑うことは、ディルグの感情を疑うことと同じ。
彼を、裏切りたくなかったから──。
「……行かなきゃ」
どれほどそうしていただろう。午後の授業のはじまりをつげる鐘が鳴る。
メルティーナはふらふらと、教室に戻った。教室には既に、ヴィオレットが戻ってきていて、何食わぬ顔で席に座っている。
(ディルグ様を……私から奪おうとしたくせに)
ふとどす黒い感情が腹の底から沸き起こり、メルティーナは両耳をふさいで叫び出したい気持ちになる。
そんな風に考えてはいけない。だって、つがいなのだ。
それは本能。どうしようもないことなのだから──。
メルティーナは必死に平静を装いながら、午後の授業を終えて教室を出る。
これからどうしたらいいのだろう。
でも、どうしても。ディルグに会いたい。
大丈夫だと笑って欲しい。
愛しているといつもみたいに微笑んで、頬を撫でて欲しい。
きっとディルグなら──つがいに惑わされたりしない。あれほど愛していると伝えてくれた。
この絆は、偽物なんかじゃない。
あぁ、でも。
──ステラはいなくなってしまった。恋人を捨てて、つがいと共にどこかに行ってしまった。
会いたくない気持ちと、会いたい気持ちが心の中でひしめきあって、メルティーナの足は勝手に、放課後ディルグが過ごしている生徒会の執務室へと向かっていた。
「……ディルグ様」
執務室までの廊下は、しんと静まりかえっている。
いつもならばディルグと話をしたいと、誰かしらがいるはずなのに。
閉じられた扉には、鍵がかかっているようだった。
ディルグは鍵をかけたりしない。偉ぶらず、他者に対して気安いところのある人だ。
それなのに。
もしかしたら、ヴィオレットと。
最悪なことを想像してしまい、メルティーナは青ざめた。ディルグは、あれを、ヴィオレットともするのだろうか。
あの、はしたなくも幸せな、気持ちのいいことを。
「……ティーナ。今、鍵をあける」
メルティーナの不安は杞憂に終わった。
すぐにディルグの声で返事があった。鍵があけられ、扉が内側から開く。
迎えてくれたディルグは、一人きりだ。
メルティーナはほっとしながら、ディルグを見あげる。
ディルグは、苦しそうだった。その頬は上気し、尻尾がゆらゆらと揺れている。
きつく寄せられた眉が艶やかで、あきらかに──ステラの言っていた、発情をしていた。
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