29 / 56
ディルグの慟哭
しおりを挟むメルティーナが、いなくなった。
その事実は、ディルグの心に、湖に落ちたはじめの雨粒のようにぽつりと落ちて波紋を広げていく。
ふらふらと学園の執務室に戻り、メルティーナが眠っていたはずのソファの前に跪いて両手で口を覆った。
目の前が暗くなる。見開いた瞳には、何も映さない。からっぽの胃からは、胃液がせりあがってくる。
「これは、夢だ……ティーナ、ティーナ……っ」
彼女の温もりを求めて、彼女を包んでいたはずの毛布を手繰り寄せる。
毛布の中から、ディルグが彼女に贈った白いショールがふさりと落ちた。
「傷つけたせいなのか。俺が……俺の、せいで」
そこから、メルティーナの強い拒絶を感じる。彼女を欲望のままに扱った。
それは、彼女の心臓に、消えない傷をつける行為だ。
愛しているからといいわけをして。メルティーナならば許してくれると、彼女に甘えていた。
己の腕を縛り、口輪をし、彼女を傷つけないという選択肢を選ぶこともできたはずだ。けれどディルグはそれをしなかった。
愛しているから、繋がりたい。愛しているから、抱きたい。
他の誰でもない、メルティーナを。
暴虐な欲望を彼女に向けて、自分のために、彼女の自由を奪う選択を厭わなかった。
──違う。
そうではない。
メルティーナの愛は、嘘ではなかった。
何通も交わした手紙の中の静かで穏やかでありながら、生き生きとした彼女の日常。
両親を失っても尚、ディルグを気遣う優しさと気丈さ。
星の美しい丘での、艶やかで淫らで愛らしい痴態。
そして滾る欲を持て余したディルグを鎮めるために、身を捧げてくれた献身もいじらしさも。
どこかに逃げようと口にしたディルグの背を撫でた、その仕草も全部──ディルグに、愛を伝えてくれていた。
「……必ず、みつける」
メルティーナは、連れ攫われたのかもしれない。
そんな確信がディルグの心を支配した。まるで、一筋の希望にすがるように。
ディルグはふらふらと部屋を出ると、学生寮に戻った。
メルティーナを見張るように頼んでいたジュリオは、ディルグの幼い時からの従者である。
アンバー侯爵家の次男で、人獣であるディルグが人間を理解できるように従者として、そして護衛として選ばれた男だ。ディルグにとって彼は、従者という以上に、友人であった。
だから、彼が裏切ったとは考えたくはないが──。
ジュリオはディルグと同じ年で、共に学園に通っている。
学園寮にあるジュリオの部屋を訪れると、そこにはジュリオはいなかった。
誰に尋ねても、今日は姿を見ていないと言う。
女子寮にはヴィオレットの姿もない。ただメルティーナの侍女が戸惑い青ざめて「お嬢様は……」と尋ねてくるだけだ。
そこには、やはり作為的な何かを感じた。
ディルグの元を訪れていた母は早々に、城に引き上げたのだという。
ディルグは他の従者たちの制止を聞かずに、白い獣の姿になると城まで真っ直ぐに駆けた。
壁を駆けあがり、屋根を飛び越えて、城の自室のバルコニーに降り立つ。
その方が、馬車や馬よりもよほど速い。だが──こんなことは、普通はしない。
人獣は、獣の姿になることを嫌がるものが多い。特に王族や貴族はそれを忌避する。
ディルグは、昔は──己の獣の姿を嫌っていた。
だが、メルティーナがディルグに触れて、怪我を癒やし、撫でてくれた。
その時から、自分を認めることができた。
メルティーナがいてくれたから、今のディルグがある。種族の呪いに酔いはしたが、そんなものはただの欲だ。心までは縛れない。
現に、今。
ヴィオレットに出会ってしまったときよりも、メルティーナを失った今のほうがずっと。
メルティーナを、渇望している。彼女に会いたいと、血も肉も、骨も全てが、訴えかけてくるようだった。
「……ヴィオレットの気配だ」
こんなときに、つがいの本能が役に立つなど、皮肉なものだ。
王城の奥に、あの女の気配がする。
二度と話しかけるなと、近づくなと告げた。
そうしたらディルグの父や母に泣きついた、卑怯で卑劣な女だ。
──ディルグが異常で、ヴィオレットが正常なのだと、理解はしている。
けれど、それがたとえ種族の本能であっても、受け入れられないことがある。
ディルグは死ぬまでヴィオレットに対する渇望を飼い殺し、メルティーナに愛を捧げるつもりでいた。
自分が人獣でさえなければ──。
この耳が、尾が、全てが、憎い。
メルティーナに出会ってようやく認められた人獣である己を、再びディルグは憎みはじめていた。
ディルグは喉の奥で唸り声をあげながら、ヴィオレットの気配のするほうへと城の廊下を獣の姿で駆ける。
その姿を見た城の者たちは皆、恐怖におののき悲鳴をあげた。
それぐらい、獣のディルグの形相がおそろしかったのだ。
「父よ、ティーナをどこに隠した!」
果たしてヴィオレットは城の客間に、父や母と共にいた。
獣の姿のままディルグが怒鳴り込むと、彼らは驚いて立ち上がる。
テーブルには菓子や茶が用意されている。
ディルグの花嫁をもてなすように、仲良く茶会をしながら歓談をしていたのだ。
寒々しさと、心が凍えるような怒りが、ディルグの白く美しい毛を逆立たせた。
「ディルグ、どうした。ティーナとは、メルティーナさんのことか?」
「あぁ、ディルグ様お会いしたかったです……! 私、お母様とお父様にご挨拶をさせていただいていたのです。私はディルグ様のつがいですから、ディルグ様の妻として、王妃として、お二人にはきちんと挨拶をしなければと思いまして」
「黙れ。俺に二度と話しかけるなと言ったはずだ。その喉笛を食いちぎって、言葉を話せなくしてやろうか」
ディルグの言葉が本気だと悟ったのだろうか、ヴィオレットは火照った顔を白くして、震えながら後退る。
母が、ヴィオレットを庇うように前に出た。
同情を誘うような怯えた目でディルグを見据え、獣のディルグに向かい手を差し出す。
「ディルグ、落ち着いて……! メルティーナさんに、私たちはなにもしていないわ。メルティーナさんは自分で出ていくことを選んだのよ」
「何を言っている!?」
「手紙が、届いたわ。メルティーナさんはずっと、決意をしていたのね。本当にいい子だわ。あなたのつがいでないことが惜しいけれど、つがいがみつかった今、メルティーナさんを傍においていても、彼女が不幸になるだけよ」
母はそう言って、ディルグに手紙をさしだした。
ディルグはしばらく逡巡してから、人の姿に戻った。その手紙からは、彼女が好んでつけていた、ホワイトローズの香水の香りがした。
メルティーナの香りが、手紙にほんのわずかに残っていた。
手紙を受け取り、目を通す。
『ディルグ様は、ヴィオレット様と幸せになるべきです。私がいるかぎり、あなたはずっと苦しむでしょう。ですから、私は身を隠します。私も、私の運命を探します。私は大丈夫です。どうか、私のことは忘れてください』
短い文章だった。メルティーナの几帳面で美しい文字で、確かにその手紙は書かれていた。
「……ティーナは、自分で選んだのか? 俺の傍から、離れることを……?」
そんなわけがない。メルティーナは、そんなことをしない。
ディルグを裏切るようなことなど──。
「私たちはなにもしていないわ。メルティーナさんは、ジュリオに頼んで扉の鍵をあけてもらったそうよ。あなたはメルティーナさんを学園の一室に閉じ込めたのでしょう? きっと、怖かったのよ」
「ディルグ。運命の相手を選ばなければ、心が乱れるものだ。お前も、そして周囲の皆も不幸になる」
「お前たちは、自分たちがしたことを忘れたのか!?」
吠えるようにディルグは言って、再び獣の姿に戻った。
呼び声に足を止めず部屋から出て、王都を駆ける。
ひたすらに駆けて、駆けて──メルティーナと二人で過ごした、秘密の丘に辿り着いた。
ディルグは獣の遠吠えをあげる。それは言葉にならない慟哭だった。
その慟哭は森の木々を揺らし、風を震わせた。
メルティーナを呼ぶ声は──もう、彼女には届かない。
628
あなたにおすすめの小説
番を辞めますさようなら
京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら…
愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。
※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡
【完結】旦那様に学園時代の隠し子!? 娘のためフローレンスは笑う-昔の女は引っ込んでなさい!
恋せよ恋
恋愛
結婚五年目。
誰もが羨む夫婦──フローレンスとジョシュアの平穏は、
三歳の娘がつぶやいた“たった一言”で崩れ落ちた。
「キャ...ス...といっしょ?」
キャス……?
その名を知るはずのない我が子が、どうして?
胸騒ぎはやがて確信へと変わる。
夫が隠し続けていた“女の影”が、
じわりと家族の中に染み出していた。
だがそれは、いま目の前の裏切りではない。
学園卒業の夜──婚約前の学園時代の“あの過ち”。
その一夜の結果は、静かに、確実に、
フローレンスの家族を壊しはじめていた。
愛しているのに疑ってしまう。
信じたいのに、信じられない。
夫は嘘をつき続け、女は影のように
フローレンスの生活に忍び寄る。
──私は、この結婚を守れるの?
──それとも、すべてを捨ててしまうべきなの?
秘密、裏切り、嫉妬、そして母としての戦い。
真実が暴かれたとき、愛は修復か、崩壊か──。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます!
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
月夜に散る白百合は、君を想う
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。
彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。
しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
フッてくれてありがとう
nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」
ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。
「誰の」
私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。
でも私は知っている。
大学生時代の元カノだ。
「じゃあ。元気で」
彼からは謝罪の一言さえなかった。
下を向き、私はひたすら涙を流した。
それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。
過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる