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ディルグの慟哭
しおりを挟むメルティーナが、いなくなった。
その事実は、ディルグの心に、湖に落ちたはじめの雨粒のようにぽつりと落ちて波紋を広げていく。
ふらふらと学園の執務室に戻り、メルティーナが眠っていたはずのソファの前に跪いて両手で口を覆った。
目の前が暗くなる。見開いた瞳には、何も映さない。からっぽの胃からは、胃液がせりあがってくる。
「これは、夢だ……ティーナ、ティーナ……っ」
彼女の温もりを求めて、彼女を包んでいたはずの毛布を手繰り寄せる。
毛布の中から、ディルグが彼女に贈った白いショールがふさりと落ちた。
「傷つけたせいなのか。俺が……俺の、せいで」
そこから、メルティーナの強い拒絶を感じる。彼女を欲望のままに扱った。
それは、彼女の心臓に、消えない傷をつける行為だ。
愛しているからといいわけをして。メルティーナならば許してくれると、彼女に甘えていた。
己の腕を縛り、口輪をし、彼女を傷つけないという選択肢を選ぶこともできたはずだ。けれどディルグはそれをしなかった。
愛しているから、繋がりたい。愛しているから、抱きたい。
他の誰でもない、メルティーナを。
暴虐な欲望を彼女に向けて、自分のために、彼女の自由を奪う選択を厭わなかった。
──違う。
そうではない。
メルティーナの愛は、嘘ではなかった。
何通も交わした手紙の中の静かで穏やかでありながら、生き生きとした彼女の日常。
両親を失っても尚、ディルグを気遣う優しさと気丈さ。
星の美しい丘での、艶やかで淫らで愛らしい痴態。
そして滾る欲を持て余したディルグを鎮めるために、身を捧げてくれた献身もいじらしさも。
どこかに逃げようと口にしたディルグの背を撫でた、その仕草も全部──ディルグに、愛を伝えてくれていた。
「……必ず、みつける」
メルティーナは、連れ攫われたのかもしれない。
そんな確信がディルグの心を支配した。まるで、一筋の希望にすがるように。
ディルグはふらふらと部屋を出ると、学生寮に戻った。
メルティーナを見張るように頼んでいたジュリオは、ディルグの幼い時からの従者である。
アンバー侯爵家の次男で、人獣であるディルグが人間を理解できるように従者として、そして護衛として選ばれた男だ。ディルグにとって彼は、従者という以上に、友人であった。
だから、彼が裏切ったとは考えたくはないが──。
ジュリオはディルグと同じ年で、共に学園に通っている。
学園寮にあるジュリオの部屋を訪れると、そこにはジュリオはいなかった。
誰に尋ねても、今日は姿を見ていないと言う。
女子寮にはヴィオレットの姿もない。ただメルティーナの侍女が戸惑い青ざめて「お嬢様は……」と尋ねてくるだけだ。
そこには、やはり作為的な何かを感じた。
ディルグの元を訪れていた母は早々に、城に引き上げたのだという。
ディルグは他の従者たちの制止を聞かずに、白い獣の姿になると城まで真っ直ぐに駆けた。
壁を駆けあがり、屋根を飛び越えて、城の自室のバルコニーに降り立つ。
その方が、馬車や馬よりもよほど速い。だが──こんなことは、普通はしない。
人獣は、獣の姿になることを嫌がるものが多い。特に王族や貴族はそれを忌避する。
ディルグは、昔は──己の獣の姿を嫌っていた。
だが、メルティーナがディルグに触れて、怪我を癒やし、撫でてくれた。
その時から、自分を認めることができた。
メルティーナがいてくれたから、今のディルグがある。種族の呪いに酔いはしたが、そんなものはただの欲だ。心までは縛れない。
現に、今。
ヴィオレットに出会ってしまったときよりも、メルティーナを失った今のほうがずっと。
メルティーナを、渇望している。彼女に会いたいと、血も肉も、骨も全てが、訴えかけてくるようだった。
「……ヴィオレットの気配だ」
こんなときに、つがいの本能が役に立つなど、皮肉なものだ。
王城の奥に、あの女の気配がする。
二度と話しかけるなと、近づくなと告げた。
そうしたらディルグの父や母に泣きついた、卑怯で卑劣な女だ。
──ディルグが異常で、ヴィオレットが正常なのだと、理解はしている。
けれど、それがたとえ種族の本能であっても、受け入れられないことがある。
ディルグは死ぬまでヴィオレットに対する渇望を飼い殺し、メルティーナに愛を捧げるつもりでいた。
自分が人獣でさえなければ──。
この耳が、尾が、全てが、憎い。
メルティーナに出会ってようやく認められた人獣である己を、再びディルグは憎みはじめていた。
ディルグは喉の奥で唸り声をあげながら、ヴィオレットの気配のするほうへと城の廊下を獣の姿で駆ける。
その姿を見た城の者たちは皆、恐怖におののき悲鳴をあげた。
それぐらい、獣のディルグの形相がおそろしかったのだ。
「父よ、ティーナをどこに隠した!」
果たしてヴィオレットは城の客間に、父や母と共にいた。
獣の姿のままディルグが怒鳴り込むと、彼らは驚いて立ち上がる。
テーブルには菓子や茶が用意されている。
ディルグの花嫁をもてなすように、仲良く茶会をしながら歓談をしていたのだ。
寒々しさと、心が凍えるような怒りが、ディルグの白く美しい毛を逆立たせた。
「ディルグ、どうした。ティーナとは、メルティーナさんのことか?」
「あぁ、ディルグ様お会いしたかったです……! 私、お母様とお父様にご挨拶をさせていただいていたのです。私はディルグ様のつがいですから、ディルグ様の妻として、王妃として、お二人にはきちんと挨拶をしなければと思いまして」
「黙れ。俺に二度と話しかけるなと言ったはずだ。その喉笛を食いちぎって、言葉を話せなくしてやろうか」
ディルグの言葉が本気だと悟ったのだろうか、ヴィオレットは火照った顔を白くして、震えながら後退る。
母が、ヴィオレットを庇うように前に出た。
同情を誘うような怯えた目でディルグを見据え、獣のディルグに向かい手を差し出す。
「ディルグ、落ち着いて……! メルティーナさんに、私たちはなにもしていないわ。メルティーナさんは自分で出ていくことを選んだのよ」
「何を言っている!?」
「手紙が、届いたわ。メルティーナさんはずっと、決意をしていたのね。本当にいい子だわ。あなたのつがいでないことが惜しいけれど、つがいがみつかった今、メルティーナさんを傍においていても、彼女が不幸になるだけよ」
母はそう言って、ディルグに手紙をさしだした。
ディルグはしばらく逡巡してから、人の姿に戻った。その手紙からは、彼女が好んでつけていた、ホワイトローズの香水の香りがした。
メルティーナの香りが、手紙にほんのわずかに残っていた。
手紙を受け取り、目を通す。
『ディルグ様は、ヴィオレット様と幸せになるべきです。私がいるかぎり、あなたはずっと苦しむでしょう。ですから、私は身を隠します。私も、私の運命を探します。私は大丈夫です。どうか、私のことは忘れてください』
短い文章だった。メルティーナの几帳面で美しい文字で、確かにその手紙は書かれていた。
「……ティーナは、自分で選んだのか? 俺の傍から、離れることを……?」
そんなわけがない。メルティーナは、そんなことをしない。
ディルグを裏切るようなことなど──。
「私たちはなにもしていないわ。メルティーナさんは、ジュリオに頼んで扉の鍵をあけてもらったそうよ。あなたはメルティーナさんを学園の一室に閉じ込めたのでしょう? きっと、怖かったのよ」
「ディルグ。運命の相手を選ばなければ、心が乱れるものだ。お前も、そして周囲の皆も不幸になる」
「お前たちは、自分たちがしたことを忘れたのか!?」
吠えるようにディルグは言って、再び獣の姿に戻った。
呼び声に足を止めず部屋から出て、王都を駆ける。
ひたすらに駆けて、駆けて──メルティーナと二人で過ごした、秘密の丘に辿り着いた。
ディルグは獣の遠吠えをあげる。それは言葉にならない慟哭だった。
その慟哭は森の木々を揺らし、風を震わせた。
メルティーナを呼ぶ声は──もう、彼女には届かない。
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