あなたのつがいは私じゃない

束原ミヤコ

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一年後の春

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 メルティーナは、粉挽き小屋でひかれた小麦粉をもって家に戻った。
 春風の心地よい日である。メルティーナの以前よりものびた髪や、身につけているエプロンを風が揺らした。
 小川の側の小さな家である。一階には可愛らしいキッチンやリビングがある。二階には寝室だけ。
 森を背にしている小さな村の外れ、森の小道を進んだ先に、その家は建っていた。

 かつてはジュリオの遠縁の親戚夫婦が住んでいたが、病で亡くなったあとは手つかずで放置してあった場所だ。一年前、ジュリオはこの家にメルティーナを逃がした。
 幾ばくかの金を与え、村の者たちにメルティーナのことを『ジュリオの血縁で、わけありの不幸な娘』と説明をした。
 人のいい村人たちはそれを信じ、何かとメルティーナの世話を焼いてくれた。
 
 メルティーナが村に馴染むまでは少し時間がかかったが、今はすっかり一人で生活することができるようになっていた。
 元々メルティーナは物覚えのいいほうだった。裁縫や編み物も得意で、細々した手作業が好きだったのである。
 
 メルティーナはよく働いた。言われたことはなんでもやったし、一つも文句を言わなかった。
 ──体を動かしていたほうが、余計なことを考えずにすんだからだ。

 何もしていないと、ディルグのことばかり考えてしまう。
 彼と過ごした日々。彼の声。体温や、香り。
 思い出にひたり、思い出に溺れ死にそうになる。
 だから、寝る間を惜しんで働き続けた。

 畑も耕したし、女性たちと一緒に糸紡ぎや機織りも手伝った。
 料理も手伝い、粉ひきもしたし、荷運びもした。
 そうして──今では、粉ひき小屋の女主人に請われて、パン作りするようになっていた。

 パン生地の中に、甘芋やゴマや、チーズ、ナッツ類などを練り込んで焼くメルティーナのパンは、村では人気だ。焼き上がりを女主人の元に届けると、それを売ってくれる。
 メルティーナはさほど金を必要としていなかったが、女主人は売上金の六割をメルティーナにくれた。

 パン作りを仕事にすると、メルティーナの日々は更に忙しくなった。
 昼過ぎに挽き終わった小麦粉を取りに行き、それから卵や他の材料を買いに行く。
 パン種を切らさないように管理して、暗くなる前には眠ってしまう。
 朝は日が明けやらぬうちから起きて、パン生地を作り発酵させて、釜に火を入れて焼く。
 
 貴族令嬢だったときとはまるで違う暮らしだ。
 充実は──していると言えば、嘘になってしまう。

 何をしていても、どれほど忙しくても、誰かに親切にしてもらっても──。
 メルティーナの心にはぽっかり穴があいていた。

 その穴を埋めるのは、ディルグと愛し合った思い出だけだ。
 けれど──。

「メルティーナ、最近はどうだ? 体は、壮健か」

 小麦粉の袋を持って家に戻ると、家の前にジュリオが佇んでいた。
 彼に会うのも久しぶりだ。メルティーナを逃がした手前心配だったのだろう、時折様子を見に来ていたが、最近は足が遠のいていた。

「ジュリオ様、お久しぶりです」
「あぁ」

 どちらかといえば寡黙な男である。
 メルティーナから小麦粉の袋を何も言わずに取り上げて、持ってくれる。
 メルティーナはジュリオを家の中に案内した。ディルグ以外の男性と二人きりになることに抵抗がないわけではなかったが、世話になった手前、冷たくあしらうことなどできない。

 リビングには暖炉と二人がけのソファと小さなテーブルがある。
 それぐらいしかない家だ。長らく放置されていたために、かつてあった家具はほとんど摩耗していたので、捨ててしまった。テーブルやソファは村の者たちからもらったものだ。
 
 ジュリオをソファに座らせて、メルティーナは薬草茶を淹れた。
 家の周囲は森だ。探せば色々とある。お茶になる葉も、薬になる葉も。
 
「お口にあうかわかりませんが」
「ありがとう、メルティーナ」
「いえ、たいしたおもてなしができず、もうしわけありません」

 メルティーナは一人がけ用の椅子をキッチンから持ってくると、ジュリオの傍に座った。
 
「いや。以前贈ったものを、気にいってくれたようでよかった」
「あ……ありがとうございます。ホワイトローズの香水、私のお気に入りでした。よく、ご存じで」
「殿下の傍にずっといたからな。それぐらいは、わかる」

 数週間前、王都から配達人によって小包が届いた。
 そこには、メルティーナが好んでつけていたホワイトローズの香水が入っていた。
 村では香水など手に入らない。懐かしく思い、枕にひとふりした。
 
 それから、ソファやクッションにも。
 体につけるのははばかれたので、それはしなかった。
 部屋に香りが残っているのだろう。気づかれてしまったことが恥ずかしく、メルティーナはうつむく。
 
「先に、お礼を言うべきでした。申し訳ありません」
「構わない。迷惑ではなかったか」
「なんだかとても懐かしくて、嬉しかったです」

 ジュリオは一口薬草茶を口にして、軽く眉を寄せた。おそらく苦かったのだろう。
 メルティーナにとっては慣れた味だが、今もディルグの傍で働いているジュリオの口には合わないのかもしれない。

「メルティーナ、殿下とヴィオレット様の結婚が決まった」
「そう──ですか」

 メルティーナは、曖昧に微笑む。
 わかっていたことだが、それを告げられると、針で刺されたように心が痛んだ。
 本来ならば今頃は──メルティーナは学園を卒業して、ディルグと暮らすことができていた。
 けれどその相手はヴィオレットになった。
 覚悟はしていた。けれど、やはり──痛い。

「お二人にお子が生まれれば、もう殿下が君に執着することもなくなるだろう。今ではすっかり大人しくなられて、君の名を口にすることもなくなった。つがいという血の本能に従ったのだろうな」
「そうなのですね。……よかったです」
「よかったという顔ではない。……ここには私しかいない。本心を口にして構わない」

 淡々と、ジュリオが言う。
 メルティーナは唇を噛みしめた。笑顔を取り繕わなくてはいけない。
 何でもないふりをしなくてはいけない。
 覚悟を決めて、何もかもを捨ててここに来たのだ。
 苦手だったが、メルティーナの世話をよく焼いてくれた侍女にも何も告げず、優しい兄にも何も告げずに──そして、ディルグにも、何も言わずに。

 ぼろりと、涙がこぼれおちた。
 自分でも意識していなかった。こらえることができたと思っていた。
 そのせいで、膝の上に置いた手の甲に落ちた雫がなんなのか、メルティーナには一瞬わからなかった。

「……私は、ずっと。それでもずっと、ディルグ様が好きです」
「あぁ」
「でも……少しずつ、忘れていくのです。どんな声をしていたのか、どんな表情で笑うのか、その手のあたたかさも、全て。お父様やお母様の記憶が薄らぐのと同じように、何よりも、誰よりも大切なのに。愛しているのに。忘れてしまうのです」
「……そうか」
「それが、怖い、です」

 ディルグの思い出だけを、愛だけを灯火に生きてきた。
 メルティーナの心の穴を埋めるのは、それだけだった。ほかになかった。
 それさえ忘れて失ってしまって。
 時が経って摩耗した家具のように。

 そうしたら──メルティーナには、なにもない。
 ディルグの記憶さえ失ってしまったら、生きる意味を、なくしてしまう。

「ディルグ様の幸せを望んでいます。けれど、私は身勝手です。私の愛はかわらないと。心は自由だと、勝手に愛し続けていたのに。それも、忘れてしまう。そうしたら、私は……」
「メルティーナ。……殿下が君への執着をなくしたら、君は自由になれる」
「自由……」

 ジュリオは身を乗り出して、メルティーナの手を掴んだ。
 そんなことをされるのははじめてで、メルティーナは戸惑いと驚きの表情でジュリオの顔をまじまじと見つめる。

「……メルティーナ。新しい人生を選ぶべきだ。例えば、私と。……一緒に、来ないか」
「ジュリオ様と……?」
「あぁ。……殿下には、私が君を逃がしたことは言っていない。私はただ、君の閉じ込められていた部屋の鍵を、君に請われて開けただけだと伝えた。殿下は疑っていたが。だから、君と私が会っていることを、殿下は知らない。君を王都に連れて行くわけにはいかないが、どこか別の場所で二人で暮すことはできる」

 ジュリオはそこで言葉を止める。
 それから、メルティーナの前の床に片膝をつく。メルティーナの手を、両手で包み込むように握りなおした。

「──私は君を哀れに思った。君が死を選ぶのではないかと疑い、君を監視していた。だが、君はこの一年ずっと、一人きりで頑張り続けていた。……そんな君に、私は、恋を」
「……っ」
「考えてくれ、メルティーナ。君を幸せにできる男は、殿下ではない。人獣と人間は、幸せにはなれない。私は君と同じ、人間だ」

 ジュリオは真剣な声音でそう言って、メルティーナの手の甲に口付ける。
 それから立ち上がって「返事は一週間後、きかせてもらう。また来る」と言って、家から出て行った。

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