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ホワイトローズの香り
しおりを挟む濃度の濃い興奮剤と鎮静剤を同時に使用されたディルグは、夢と現実の境を彷徨っていた。
夢の中ではメルティーナが、子犬のディルグを抱き上げている。
「怪我をしているのね、痛いわね、可哀想に」
優しい手でディルグを抱き上げて、一緒に行こうとあたたかな家の中に案内をしてくれる。
大好きだと、白い子犬は尻尾を振って、彼女の指を舐める。
他の誰かにとられないように。
彼女は自分のものだという気持ちを込めて。
幸せな夢の間に、醜悪な声が響く。
「破瓜の血は、こちらに。ディルグ様はもう大丈夫です。私を愛しているとおっしゃって、子種をくださいました」
「それはよかったわ! 発情期の人獣は、すぐに孕むことができるもの。人間と違って頑丈で、より優れた種族だわ。これで王家も安泰ね」
「ディルグが目覚めたら、すぐに挙式だ。ヴィオレット、一年の間よく耐えた」
なぜ、笑っているのだろう。
なぜ、美談のようになるのだろう。
騙し討ちのようなことを、しておいて。
ディルグは霞がかった頭で、漠然と考える。
「つがいと愛し合わない人獣など聞いたことがないからな。メルティーナの体にディルグは溺れていたのだろう。若い人獣の男は、そういった間違いをおかすことがたまにあるのだ」
なんでもないことのように明るく、父が言っている。
人獣はかつて、人間によって差別を受けていた。
今は違う。解放戦争が起こり、人獣の王が玉座についた。
人獣の王は人間との共生を、友愛を語ったが──そんなものは表向きだ。
己の種族を上に、人間を下に見ている。
だから平気で、メルティーナを貶めるようなことを口にする。
「ディルグ様、愛していただき嬉しく思います。このヴィオレット、生涯変わらない愛を、ディルグ様に誓います」
正気に戻ったディルグが見たものは、破瓜の血のついたシーツを両親や婚姻の誓いに許可を出す神官たちに、恥じらいもなく見せているヴィオレットの姿だった。
失意と絶望が、殺意さえ打ち消した。
意識が混濁していたとはいえ、ヴィオレットを抱いたのか。
記憶はない。だが、そうなのだろう。
ディルグは閉じ込められていた部屋のベッドに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見つめる。
天井には、女神の絵が描かれている。
白い花に囲まれて微笑む女神の姿に、エルダーフラワーが咲く中微笑む少女のメルティーナが重なった。
彼女を、裏切ってしまった。
あの女を、抱いてしまった。
その事実が、ディルグの臓腑を焼き尽くすようだった。
ろくに食べていなかったせいで、胃から胃液がせりあがり、ごぼりと音をたてながら吐いた。
なにも吐けなかったが、吐き気がとまらず、何度もえずいた。
すぐさま医師がかけつけてきて、ディルグは清潔な部屋のベッドに運ばれた。
父も母もヴィオレットも──心から、ディルグを心配するような顔をして、医師にディルグの病気をしっかり見るように頼んでいた。
あの日から、ディルグは空っぽになってしまった。
世界は灰色に染まり、なんの香りも、味もしなくなった。聞こえていても、頭は言葉を理解しない。
ディルグの周囲だけが、せわしなく勝手に動いていく。
ヴィオレットとの挙式の準備が整えられ、即位の儀式の準備も為されるのを、ディルグは他人事のように眺めていた。
問われれば、答える人形である。
両親とヴィオレット、そして──国にとって都合のいい王家の血がながれている、飼い慣らされた犬だ。
メルティーナを裏切ってしまった罪がディルグの心を苛んだ。
毎夜彼女の夢を見ては、そして同時に、彼女が誰かに抱かれる夢を見ては幾度も吐いた。
メルティーナはどこにもいない。
もう、会うこともできない。彼女を裏切った自分には、その資格はない。
ディルグが大人しく、そして聞き分けがよくなったことを、父も母も喜んだ。
ヴィオレットも嬉しそうに、幸せそうに、そして得意気に、何着ものドレスに袖を通し、煌びやかな宝石を身につけて、ディルグの前をうるさい虫のようにいったりきたりしていた。
婚礼の儀式を数週間後に控えた、夕方のことだ。
──ふと香る、甘い香りにディルグは足を止める。
「……ホワイトローズ」
それはメルティーナの好んでつけていた香りだった。
横面を思いきり殴られたような衝撃を受けて、ディルグは大きく目を見開いた。
長い冬眠からようやく目覚めた獣のように。
慎重に、静かに、注意深く、息を潜めて香りのする部屋に続く廊下の壁に背をはりつけて、中の様子を伺う。
母が最近好んで使っている、茶会用の部屋だ。
いつもは多くの護衛や侍女を引き連れているというのに、今は誰も居ない。
密談のための人払いをしているのだろう。
扉は閉まっている。だが、ディルグの耳は、閉まった扉の向こうの声を聞くことができた。
「私はそろそろ、役目を降りさせていただきます」
「そう。よくやってくれたわ、ジュリオ。お前には辛い役目を頼んだわね。ディルグと親しかったというのに」
「いえ。全ては王家のため。国のため。そして我が家のため」
──今すぐ扉を破り、中に入り、母とジュリオの喉笛を切り裂きたい衝動を、ディルグはなんとか抑えつけた。
ジュリオは──メルティーナと会っている。
ホワイトローズの香りは、メルティーナが好んでいたものだ。
母はそのような香水をつけない。その香りは、子供っぽいと言って嫌っていた。
だからそのホワイトローズは、ジュリオから漂っている。
「殿下の心が落ち着いた今、王家も国も安泰でしょう。彼女が殿下と会うことはもう二度とないでしょう。私は彼女を連れて、国を出ます」
「それは、いいわ。素晴らしい考えね、ジュリオ。あなたほど王家に忠誠心のある者はいないわ」
「……これは、忠誠のためではありません。私の個人的な感情のためです」
「まぁ! それではきっと、あなたが彼女の運命だったのね」
あぁ、やはり──。
信じたくなかった。どこかで、甘さを捨てきることができなかった。
だが、口を割るまで、拷問でもしてやればよかったのだ。
ジュリオは母に通じていた。メルティーナが消えたのは、母の手引きだ。
そしてジュリオは──彼女を、奪おうとしている。
「しかしよく、殿下は納得されましたね」
「ヴィオレットの、破瓜の血を見せたわ。ディルグはようやくそれで、正気に戻ったのね。つがいを素直に愛することが、人獣としての定めだとね。それにしても、あの子もたいした根性だわ。さすがは辺境伯家の娘。自分の肌を切って、シーツに血を垂らしたのよ」
「では、破瓜は偽りなのですか?」
「ディルグは意識を失っていたの。萎えた相手とは、どれほど努力しようと、性交渉はできないわ。可哀想に、同情してしまうわね」
暗い笑みを浮かべながら、ディルグはそれを聞いていた。
それから、ヴィオレットの元に向かった。
「まぁ、ディルグ様! ディルグ様から来てくださるなんて、嬉しい!」
部屋で侍女に髪をとかさせながら、香油をいれた桶で足を洗わせていたヴィオレットは、ディルグの訪れを喜んだ。
「ヴィオレット。婚礼の儀式の前に、すませたいことがある。悪いが、準備をすすめていてくれるか? 俺の帰りが間に合わないときは、先に儀式を行っていてくれ。必ず、戻る」
「ええ、もちろん。何か大切なご用事なのですか?」
「隣国の王子から招待を受けていてな。個人的に親しかった者だ。だから、父や母は知らない。結婚前に羽目を外さないかとの誘いだ。お前なら、許してくれるだろう? 父や母には、上手に誤魔化しておいてくれるか?」
「は、はい、当然です。それが王妃たる私の務めですから」
頬を紅潮させて、ヴィオレットは言う。
「ありがとう。助かる。さすがは、俺の唯一の、愛するつがいだ」
「ディルグ様……!」
ディルグは微笑むと、部屋に戻る。それから、頭や顔を隠す黒いローブを着て、部屋の窓から躊躇なく飛び降りた。
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