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人か獣か
しおりを挟むディルグの片方の耳が切り取られて、床に落ちる。
それは、ほんの一瞬のことだった。
ジュリオとメルティーナは、呆然と溢れ出る血を目にしていた。
銀の髪を汚した血が額から流れて、ディルグの目に落ちる。
鬱陶しそうに片目を閉じて、ディルグは喉の奥で呻き声を押し殺す。
「ディルグ様……?」
目の前で起こったことが理解できず、たどたどしい声で名を呼ぶメルティーナの前で、ディルグは自分の尻尾を掴んだ。
「人獣の証を、全てなくす。耳も、尾も。ティーナ、そうしたら俺は君と同じ──人間になれる」
美しい毛足の長い尾を、ナイフで切り裂こうとするディルグの腕に、メルティーナは我に返って縋りついた。
「駄目です、やめて……っ」
ナイフを握るディルグの手は、血で汚れている。
しがみつくと、ぬるりとした鮮血で手が滑った。それでも必死に、その手を掴む。
ディルグの手には、小さな傷がある。その傷は、昔メルティーナが治療したもの。
ディルグはその手で、自分の体を傷つけた。そしてもっと深く、傷つけようとしている。
頭を思い切り殴られたように、頭の中でガンガンと警鐘が響いている。
駄目だ。ディルグは本当に、尾を切る。そして、残された耳も切るつもりだ。
そんなことはさせてはいけない。
どうして。どうして──。
他には何も考えられないぐらいに、その言葉だけで、いっぱいになった。
「ティーナ、離せ。俺が人獣でなくなれば、君は俺を愛してくれる。俺を、信じてくれる。こんなものがあるから、君は俺を捨てた。こんなものがあるから……っ!」
「ディルグ様、やめて! やめてください、お願いです! 血が、こんなに、ディルグ様……っ」
メルティーナがディルグに力でかなうはずがない。
しがみついていた腕を振りほどかれた衝撃で、メルティーナは床に転がった。
痛む体をなんとか起こし、ナイフを降り降ろそうとしているディルグに再びしがみつく。
全ての力を振り絞って、その尾を庇うように、勢いよく腰に抱きつき、縋った。
──メルティーナの体に向かい、小さな紙切りナイフが降り降ろされる。
「メルティーナ……!」
切羽詰まったジュリオの声が部屋に響く。
メルティーナはきつく目を閉じた。
ディルグのために、生きてきたのに。こんな結果を、望んでなんていないのに。
ディルグを傷つけたくなくて、苦しめたくなくて、全てを捨てたのに。
ディルグを守れるのなら、ディルグの凶行が止められるのなら、どんな目にあってもいい。
たとえ、この身が引き裂かれようと。
ディルグの感じている痛みに比べたら──軽いものだ。
「ティーナ……」
予想していた痛みは、訪れなかった。
カランと、ナイフが床に落ちる。
メルティーナが顔をあげると、ディルグは自分の両手を見つめて体を震わせていた。
「俺は、君を刺そうとした……俺は、君を……俺は、君と同じにはなれない。どこまでも、獣だ。ティーナ、俺は獣でしかない。そうか、俺は……」
「ディルグ様!」
ぶつぶつと、ディルグは呟いている。
語りかけているようでいて、独り言のようでもある。
彼の深い闇に、共に落ちたいと一瞬、思ってしまった。メルティーナにも、同じ暗闇がある。
けれど、それではいけない。
ディルグが底のない虚無へと落ちていくのなら、メルティーナはその手を掴みたい。
ディルグの姿が、変わっていく。
人から、白い獣の姿へと。
愛している。彼の幸せを心から願うほどに。
何よりも大切で、愛しい。
どんな姿になっても。
メルティーナは床に落ちたナイフを拾った。
自分のスカートをナイフで裂いて布を切り出した。
その布で、メルティーナの前にうずくまる白い獣の、だくだくと血が流れる切り取られた耳を押さえつけた。
すぐに布に血が滲む。両手で必死に、布を押さえた。
堪えていた涙がこぼれ落ちて、ディルグの顔にぽたぽたと落ちる。
「ディルグ様、ディルグ様……ごめんなさい、私のせいで、私が、傷つけたせいで……っ」
「違う。違う、ティーナ……傷付けたのは俺だ。俺が君を求めなければ。俺は、人の姿になるべきではなかった。犬のまま、君に会わずに野垂れ死ねばよかったんだ」
「そんなことはありません、ディルグ様……私はあなたを愛しています。今までもこれからもずっと! その気持ちに後悔はありません!」
ジュリオが側に来て、自分のマントを肩から外してメルティーナに渡した。
メルティーナはマントを丸めて血に染まった布の上から押しつけた。
血を、止めなくては。多くの血が流れて、床に染みを作っていた。
立ちあがろうとする白い獣を、メルティーナは傷口を覆う布ごと抱きしめた。
「ディルグ様、動かないでください!」
「殿下、出血がひどい。血を止めなければ、死にます。どうかそのまま、じっとしていてください」
「黙れ、裏切り者め、俺の体に触れるな……っ」
「ええ、私は裏切り者です。ですがあなたを助けたい。どうして私からホワイトローズの香りがしたのか、どうか、少しでいい。考えてください……!」
ジュリオの言葉に思い当たる節があるのか、ディルグは黙って、動かなくなった。
まるで人になることを諦めてしまったような獣の姿をしたディルグの頬を、メルティーナは撫でる。
「止血します。ディルグ様、私はここにいます。あなたのそばにいます。だから、大丈夫です。ジュリオ様、布を押さえていてください。今、止血の薬草を持ってきます!」
メルティーナはジュリオに止血の役割を任せると、薬草をとりにいくために駆け出した。
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