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子犬のディルグ
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苦しい。
痛い、苦しい。苦しい。
呼吸ができず、ディルグは喉に食い込む細い指に爪を立てる。
目の前には女の顔がある。この世の不幸を全て背負ったような顔をした女だ。
落ちくぼんだ眼窩に、爛々とした目が光っている。
瞳孔が収縮し、白目は血走っていた。
「死ね、死ね、死んでしまえ、死んでしまえ、死ね、死ね!」
呪詛の言葉が、女の赤い唇から漏れた。
そこは、まだ日の高く明るい城の一角だ。木漏れ日の落ちる庭園の片隅。ディルグのお気に入りの場所だった。
ディルグはやんちゃな子供で、歩けるようになるとすぐに子犬の姿になったり人間の姿になったりしながら、護衛兵たちの目を盗んでは城の中を転がるように走って回っていた。
今日も、一人で庭園を走り回り、護衛たちを困らせていた。
三歳のディルグには全てが新鮮に見えた。恐ろしいものなどなにもなかった。
ディルグの世界は、沢山の大人たちによって守られていたからだ。
そんなディルグの前に、女は唐突に現れた。
ドレスを着て、髪を整えた綺麗な女だった。城にはそういう女性は多くいたため、何ひとつ疑問に思わなかった。
女はディルグに近づいて来て「こんにちは」と言った。
そして──微笑むディルグの首を無造作に掴むと、締めあげたのだ。
「憎い、死ね……っ、私のために死んで! ごめんね、でも、死んで、あなたは、死んで」
小さなディルグの目からは、女はなにか恐ろしく巨大な化け物のように見えた。
「憎い、フェンリスの子! 私を捨てたフェンリスと、あの女の子……っ、死ね、せめて、お前が死ね……!」
ディルグは自分に何が起こっているのか全く理解できず、ひどく混乱していた。
ただ苦しくて、苦しくて。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、手足を動かすことしかできない。
ディルグの体は女に首を絞められながら宙に浮いていた。
「何をしている!」
「殿下を離せ!」
護衛の兵士たちが異変に気付くのがあとほんの少しでも遅れていたら、ディルグは窒息して──この世にいなかっただろう。
女に首を絞められたその場所には──エルダーフラワーの花が咲き乱れていた。
(あぁ、そうだった。……俺は、死にかけたんだったな)
幼い日の記憶を、ディルグは他人事のように夢に見ている。
三歳の時の記憶など曖昧で、何が起こったのかを明確に覚えているわけではない。
この時のできごとについてディルグが理解をしたのは、物心ついたあとのことだった。
王太子であるディルグに危害を加えたために、処刑をされた女の名前はマリオン。
彼女はディルグの父フェンリスの恋人だった。
彼女は身分の高くない城仕えのメイドだった。猫のような耳をもつ人獣の女で、若きフェンリスは彼女が裸足になり洗濯をしている姿を見て恋に落ちた。
メイドに恋をしたという戸惑いから、フェンリスは彼女に『つがい』だと伝えた。
そしてあろうことか、将来を誓ったのである。
恋のときめきや、性的興奮を、つがいがみつかったと勘違いする若い人獣の男は確かにいる。
けれど大抵の場合すぐに違うとわかる。
つがいは本当に特別だ。どこにいても互いの場所がわかり、互いを激しく求め合う。
けれどフェンリスにはそれがわからなかった。四六時中マリオンを傍においていて、愛情も情欲もすべてを注いでいたからだ。
マリオンも、王太子フェンリスからの求婚にのぼせあがっていた。
だが──不幸にか幸いにか、フェンリスは『つがい』を見つけた。
フェンリスのつがいは、フラウディーテ。公爵家の娘だった。
つがいだとわかったのは、フェンリスが二十歳、フラウディーテが十五歳の時だ。
人獣は成獣にならなければ互いをつがいだと認識できない。フラウディーテが成獣になった十五の時のデビュタントの夜会で、フェンリスはフラウディーテを見初めた。
その時も、フェンリスは隣にマリオンを連れていた。
けれどすぐさまフラウディーテに駆け寄り求婚をしたのだ。
フェンリスとマリオンの結婚はすでに決まっていて、結婚式を数週間後に控えていた。
だが、フェンリスはマリオンのことなど忘れたように、フラウディーテに夢中になった。
マリオンは王家の命令により、城から追い出された。
もちろん、着の身着のままというわけではない。多額の慰謝料を渡されて、それから、フェンリスの代わりの結婚相手も王家が決めるという、約束の元でだ。
マリオンの腹にはその時、フェンリスの子がいた。だが──その子は生まれることはなかった。
フェンリスの婚外子が産まれたら困るという理由で、王家の命令で堕胎させられていた。
マリオンがディルグの前に現れるまでの三年間、どこでどのように過ごしていたかは誰も知らない。
だがマリオンはひたすらに、フェンリスやフラウディーテへの恨みを募らせていた。
そして、その恨みをディルグに全てぶつけたのだ。
マリオンは処断されたが、そのことについては公表されなかった。
元々、人獣はつがいがみつかれば、今までの恋人を忘れる。よくあることだ。
ディルグが殺されそうになったこと以外は、さして大きな問題にもならなかった。
元々ディルグは、人の姿にも人間の姿にもなることができていた。
けれど、マリオンに襲われてからは長い間塞ぎ込み、獣の姿で部屋の中に閉じこもることが多くなっていた。
そして──父と母と、人獣の業について理解してからは、人獣である己が、気持ちが悪くて仕方なくなった。
マリオンが哀れだった。
彼女は何も悪いことをしていない。
父と母のせいで不幸になり、ディルグを殺そうとするまで思いつめた。
人獣とは──なんて、罪深い種族なのか。人間たちには『つがい』などという業は、背負っていないのだという。人獣の、人間の体についた耳と尻尾が吐き気がするほど気持ちが悪くなった。
気づけばディルグは、人の姿になることができなくなっていたのである。
子犬の姿から人の姿になれなくなったディルグを見て、王妃は嘆き悲しんだ。
国王は何故だと、ディルグに詰め寄り、そして「マリオンのせいか? あの女は死んだ。もう誰もお前の命を狙わない。安心しろ」とあっさり言ってのけた。
自分たちの罪を罪とも思っていない両親に絶望し──己の身を憎み、嫌悪したディルグは、城にいることが耐えられなくなり、一人きりで城から抜け出した。
子犬のディルグは街をさまよった。死にたいと思っていたわけではないが、どうしていいのかわからなかった。
どこにも居場所がなく、誰も信頼できず、長い間──暗闇の中を彷徨い続けているようだった。
ぼんやりしながら街をあてどなく歩いていると、落ちていた硝子の破片で足を切った。
激しい痛みに片足を曲げて、三本の足で歩くディルグに手を差し伸べる者は誰もいなかった。
この国では動物を、愛玩動物として撫でてはいけないと決まっている。
だから誰もが心配そうにディルグを遠巻きに見て、すぐさま視線を逸らした。
もう駄目かと考えていた。
それでもいいと思っていた。
だが──どうにも嗅いだ覚えのある花の香りに誘われるようにして、ディルグは茂みを抜け生垣を抜けた。
気づけば、ディルグが吐き気がするほどに苦手としていた、エルダーフラワーの咲く庭園に辿り着いていた。
「あなたは、人獣さん? それとも、犬さん?」
痛みがひどく、そして、嫌悪感で全身が怖気立ち、吐き気と眩暈がした。
閉じていた目を開き、声がした方向に視線を向ける。
「怪我をしているわ! まっていて、すぐに薬をもってきてあげる。犬さんに触ると怒られるから、内緒にしないと……どうかじっとしていてね」
ディルグの怪我に気づき、手を差し伸べる少女の姿を、ディルグは見上げる。
人間の少女だ。ディルグが知る誰よりも、優しい目をしている。
彼女は小さな手でディルグの足に包帯を巻いた。
甘い匂いがする。愛しい匂いだ。
ディルグは少女の指を舐め、甘噛みをした。
久々に──人の姿に戻りたいと、強く思った。
少女は、本当はいけないのだと言いながら、ディルグの頭を撫でた。
彼女が、メルティーナが、欲しい。
エルダーフラワーの香りは、嫌な記憶を想起させるものではなく、彼女の甘い香りを連想するものへと変わった。
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