獅子の末裔

卯花月影

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2.天香桂花

2-3. 伝説の花

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 大河内城攻め。魔虫谷合戦では手痛い敗北を喫したが、その中でも忠三郎は、敵の首を取って戻った。
 信長は並みいる諸将の前で忠三郎の武勇を賞賛し、忠三郎は面目を保って日野へと戻ることができた。

 そして迎えた秋。吉田兼好が『秋の月は限りなく目出度きもの也』と言う通り、中秋と呼ばれる八月は一年のうちでも一番月が明るく照り輝く。
 岐阜から日野に戻った時、今年こそは信楽院に行かねばと思っていた。
 しかし伊勢での合戦が続き、また来ることができなかった。

 ようやく日野に戻った十月十五日。忠三郎は信楽院に来た。
 二か月もずれてしまったが、必ず来るだろうという確信がある。
 なぜなら、例の人物もまた、八月も九月も戦場にいて、ここに来ることができなかったことを知っていたからだ。
(あのときの義太夫は…)

 佐助の手紙の最後を読んだときの義太夫の妙な態度。
 どこを読んで驚いたのかを見てみると、秋の日に信楽院に現れる人物のことが書かれていた。
(義太夫は、佐助同様、それが誰なのかを知っている)
 あらゆる条件に合致する人間。それは一人しかいない。

 家人たちが首を傾げる中、忠三郎は朝からずっと、信楽院で待ち続けた。
 日が高く頭上に照り輝き、やがて山の端に隠れ、辺りが薄暗くなってきたころ、外から馬の蹄音が聞こえてきた。
(ついにお出でになったか)
 忠三郎は逸る心を落ち着かせながら、門に向かった。
(おや?)
 見ると何故か、門にいるのは滝川助太郎一人だった。
「助太郎…?」
 一益がいると思ったのだが。見当違いであったかと首を傾げていると、
「あ、鶴様。殿は裏門から中へ…」
 従者を表門で待たせ、自分は裏門から入るとは、なんとも用心深い。
「さすがは義兄上」
 忠三郎が苦笑して裏門に向かうと、ほどなく、向こうに見知った姿が現れた。
(やはり…)
 一益が向こうから歩いてくる。何と言って声をかけるのがいいだろうか。ずっと待っていたと告げるべきか。いや、それでは唐突だろうか。
「鶴…」
 一益はここが蒲生家の菩提寺と知っていたようだ。忠三郎を見ると、気まずそうな顔をした。

 甲賀衆から追われ、一益が連れていた女人が討たれたと聞いている。
 長年、寺の者にも名を名乗らなかったというから、何か訳ありで、人に見られたくなかったらしいと気づいた。恐らく一益は、女人を葬ったのが忠三郎の母であることも知らないのだろう。

(何も知らぬふりをしたほうが、よいだろうか)
 そう思い、
「山門に見たような家来衆がおると思えば・。何故ここに?」
 笑顔でそう聞いた。
「いや…縁者がここに…」
 とても言いにくそうにそう言うと、忠三郎に背を向けて行ってしまう。

(これは…招かれざる客だったか)
 忠三郎は持参の花を手に、少し距離を置いてから一益の後を追った。
 時折、冷たい雨が頬を打つ。今日は朝から曇り空で、雨が降り出しそうな天気だった。
 夜になり降って来たようだ。

 母・お桐が建てたという墓石のある寺の境内の一角へ向かうと、一益の背中が見えた。
 その後ろ姿は、これまで見てきた織田家の老臣としての一益の姿とは全く異なる。

(義兄上も…幾年にも渡り、亡き人に思いを馳せ、返らない嘆きを重ねておられた)
 しとしとと降りしきる雨の中、墓石を見つめる一益の後ろ姿を見ながら、感極まり、声をかけようとしたとき、

「あの日…。雨粒が、冷たくなったすみれの頬を、濡らしていた」
 一益が誰にともなく話しかける声が聞こえてきて、ハッとなる。
(違う…。母上から聞いた話と…)
 お桐の話では、その日は晴天だった。一益は忘れてしまったのだろうか。
「それは違うのでは?」
 思わず、口を突いて出た。一益が振り返る。忠三郎は手に持った花を供えながら、
「その日は何発も銃を撃てるほどの晴天。冷たくなった女人の頬を濡らしていたのは…骸を抱いて慟哭する男の涙だったはず」
 一益が驚いた顔をして忠三郎を見ている。

「なぜ、それを?」
 やはりお桐のことは何も知らないらしい。
「母から聞き及んでおります。その日以来、ここに、兄の弔いに来たときには、必ず母はこの墓に花を供えておりました」
 その母は、一益の謀略により巻き起こされたお家騒動で命を落とした。一益はそのことをどう思っているのだろうか。
「あの時、天香桂花のような女人が傍にきた」
 月に咲く伝説の花のようだったと、一益は思い起こすようにそう言った。

(天香桂花…義兄上は、母上のことをそのように覚えておいでか)
 忠三郎は懐かしい母のことを思い起こして胸がいっぱいになる。
「場にいる誰もが心痛めるほどに嘆き悲しむその姿に、声をかけずにはいられなかったと」
「そなたの母御は?」
 何故、一緒にいないのかと言っているようだ。
(義兄上は、母上が亡くなられたことを存じてはおられない)

 何も知らなかったのであれば、真相を知ったときに、どう思うのだろう。信長が茶坊主を斬ったときのように、眉一つ動かさず、何事もなかったかのように振舞うのだろうか。
(もし、そうであれば…)
 平静でいる自信がない。忠三郎は墓の前にかがんで一益を見ないようにする。
「先年の観音寺騒動の折、謀反人の家の者と言われ、当家を離縁されて城を追われ、後藤館に戻る途中で儚い人になったと聞き及びました。今はこの信楽院に眠っておりまする」

 そう言ってから気になり、ちらりと後ろを振り向くと、一益が顔を隠すように俯いているのが見えた。
(動揺している…。なにごとにも動じなかった義兄上が…)
 それだけで十分だった。ここに毎年通う一益であれば、忠三郎の傷みはよくわかるはずだ。
 先ほど見た雨に濡れる後姿が、なによりもそれを物語っている。

(佐助、おぬしの言うていた通りだった)
 佐助は、ここに通う人物は、忠三郎が期待するような人物だろうと、そう言っていた。
「そうだったのか」
 一益の声がかすかに聞こえてきて、思った通りだと分かった瞬間、胸が熱くなり、にわかに涙がこみ上げる。

 忠三郎はそれを振り払うように、
「母はずっと、あの日にあった侍のことを気にかけておりました。一人の女人の死を悼む心優しき男のことを。それがまさか義兄上とは」
 笑顔でそう言うと、一益は
「いや、心優しきは、そなたの母御」
 心底、申し訳なさそうに言った。忠三郎の目から堪えた涙が溢れ、膝を握る手の平に落ちた。
 そのとき、どこかで声が聞こえた。

(違う…。母上の命を奪ったものは義兄上ではない…母上を殺めたのは…)
 長い間忘れていたあの日のことをはっきりと思い出した。追われていたのは母ではなく忠三郎。そして母は忠三郎を庇って死んだ。
「母上を殺めたは家中の者」
 思い起こされた記憶は佐助の話と被る。そう、あの日、どこかの城で殺されかけた。
「家中の者?蒲生家家中の者じゃと?」
 一益が驚いている。忠三郎は記憶を辿ろうとするが、思い出すのはあの日の恐怖と突き落とされるような深い悲しみだけだった。
 茫然と顔を挙げると、一益と目が合った。

(こんなに…心配そうな顔を…)
 何故だろう。何故、こんなにも自分のことを心配してくれるのだろう。
(佐助、おぬしは何を知っていたのだ)
 佐助が何をもって、一益が忠三郎の助け手となると言ったのかが分からない。しかし、この態度では一益に誤解を与えてしまいそうだ。そう気づくいた忠三郎は
「もはや詮無きこと。世は乱世。誰のせいでもありますまい」
 明るく笑ってそう言ったが、場しのぎの空元気であることくらいは簡単に見抜かれる。
「共のものも待ちくたびれておりましょう。城へ参られよ。岐阜から持ち帰った酒もござりますぞ」
 忠三郎が声をかけると一益が頷く。二人は連れ立って山門へと足を向けた。

 馬に乗り、山門をくぐって信楽院をでたあとも、一益は馬を走らせようとはしなかった。
(何やら、おかしな様子…)
 何か言いたいことがあるようだ。
 ちらちらと一益の方を気にしながら城へ向かう道を進んでいくと、若松の森が見えてきた。

「義兄上。ここはわしが幼き頃によう遊んだ森でござります」
 忠三郎が笑顔でそう言うと、一益はフムと頷き、なおもまだ何かを考えている。
「義兄上?」
「鶴。三雲佐助のことであるが…」
 忠三郎ははっとして馬の脚を止める。何故かはわからなかったが、一益は甲賀の話を嫌うと聞いていた。それでは何を聞いても答えてはくれないだろうと諦めていたのだが。

「義兄上は佐助をご存じで?」
 一益はウムと頷き、また少し何か考えて
「昔、尾張に来る前に、話をしたことがある。三雲佐助はちょうど、今のそなたと同じ年の頃であった」
 悪友の多羅尾作兵衛と共に近隣の賭場へ出入りしていた一益は、ある日、博打で大負けした。
(賭場?博打?…。なにやら家中で噂されている素破の悪行そのもののような…)
 忠三郎は目を白黒させながら話を聞く。
「負けの原因はイカサマ賽子さいころ。そのイカサマ賽子の出どころが三雲本家の三郎左という情報を掴んだ。それゆえ…」

 腹いせに多羅尾作兵衛と数名の素破を連れ、夜陰に紛れて三雲城に忍び込み、櫓に火をつけて逃走したという。
(観音寺城の奥の城と呼ばれた三雲城に火をつけた?!)
 なるほど、これでは甲賀の話を避ける理由もわかる。若いころの話とはいえ、乱暴な話だ。

「されど逃げる途中、作兵衛が罠にかかり、穴に落ちた」
 一益が腰紐を解いて穴に投げ入れ、作兵衛を助けようとしたとき、音を聞きつけた十五・六くらいの少年が姿を現した。三雲家の素破と思った一益は咄嗟に木の陰に隠れ、切り伏せようと刀を抜いた。

「されど、その者は何故か、紐を引き上げ、作兵衛を助けた。我等は正体が露見するのを恐れ、礼も言わずにその場を逃れた」
 ところが話はそれだけでは終わらなかった。甲賀の寄り合いに集まった時、その少年とばったり出くわしてしまった。
「三雲三郎左の従者であった。作兵衛は、我らのことを口外する前に、呼び出して始末しようと言うたが…」
 一益は作兵衛を止めた。
「何故…義兄上はその者を助けようと思われたので?」
「それは…」

 三雲家には他国からさらってきた子供がたくさんいた。少年はその中の一人。素破として厳しく仕込まれてはいたが、普段から虐げられていることは甲賀でも噂になっていた。
「作兵衛を助けた程であれば、口外はせぬはず。そう思うて、そしらぬ顔をすることにしたが」
 なんと少年は、一益と作兵衛に気づくと、向こうから近づいてきた。
「それは何ゆえに?」
「我らに頼みがあると」

 少年は砲術を学びたいと言った。一益と作兵衛が櫓に火をつけるのを見ていたらしく、火攻めの極意と、砲術を教えてほしいと頼んだ。
「砲術を?」
「三雲家に恨みがある。それゆえ、鉄砲の腕を磨き、三雲家に恨みを晴らしたいと」
「三雲家に恨み…」
 佐助が忠三郎のためならば家も捨てる覚悟があると言った理由がわかった。母を亡くしてから四年もの間、一人きりで過ごしてきた忠三郎。その忠三郎の元にきた佐助もまた、甲賀で一人、苦しい日々を過ごしていたのだ。
(あの日の笛の音)

 高熱を出したあの日。我がことのように忠三郎を心配し、わずかでも慰めになればと笛を吹いてくれたのは佐助だ。佐助は誰よりも忠三郎の傷みを知っていた。だからこそ、ずっと共にいると約束してくれたのではないだろうか。
「で、義兄上は教えたのでありましょうか?」
 一益はウムと頷く。
「そなたは孫子の火攻篇にある最後の言葉を存じておるか?」
「いえ…。兵法書は余り得意ではなく…」

 忠三郎が申し訳なさそうにそう言うと、一益は苦笑して、
「あらゆる言葉を尽くして兵法を説く孫子が最後に最も大切なこととして記したこと。怒りは時を置けば収まるもの。恨みも時がたてば、ほぐれ、喜ぶときが来よう。されど滅んだ国は再び興されることはなく、死者が生き返ることもない。それゆえ君主は戦さを慎むべきであり、将は戦うことを戒めるべきである。これが国と兵を安泰にする道である」

 それはまさしく、佐助が忠三郎に教えてくれたことだ。
「それが、火攻めの極意だと、義兄上はそう仰せか?」
「然様。世人は誤った解釈をしておるが、孫子は戦さを勧める兵書ではない。戦さを避けよと説く兵書じゃ」

「義兄上は城に火を放っておきながら、佐助には砲術を教えず、恨みを晴らすなと、そう仰せになりたかったので?」
「素破一人で三雲の親父を倒せるほど、三雲家は甘くない。教えれば、あの者が死ぬと思うた。それゆえ、火攻篇の最後に書かれていることだけを教えた。その後、あの者がどうなったかは知らぬが、何年か経ち、三雲の縁者として蒲生家に送り込まれたという話は、作兵衛から聞いた」
 佐助は一益から聞いた孫子の内容をよく覚えていた。一益が言いたかったことが伝わっていたのだろう。

「我が家に来てからのことは?」
「作兵衛の話では、蒲生家で何か調べていたらしいが、詳しいことはわからぬ。されど六角お館や三雲の親父の命で動いていたようには思えぬ。むしろ…そなたのほうが存じておるのではないか?」
 忠三郎はハッと息を飲む。佐助が調べていたこととは、あの手紙にあったことではないだろうか。
「いえ、何も…」
 咄嗟に知らぬふりをしたが、一益に嘘が通用しないことはよくわかっている。

 一益はまた押し黙ったまま、口を開こうとしない。
「義兄上がいま、佐助の話をされたのは…魔虫谷の件で、何か仰せになりたいことがあったからでは?」
「わかっておるのであれば、もう何も言うまい」
 一益は佐助に教えたときと同じように、戦うことを戒めよと、そう言っているのだろうか。
「三雲佐助の想いに応えてやれ」
「佐助の想い…」
 それは何か。佐助は、忠三郎らしく、戦さを避け、国を守れと、そう言っていた。
(そんな方法があるのか)
 それが如何なる方法なのか。佐助の言うように、その方法を見つけ出すことなどできるのだろうか。
 
 永らへば またこの頃や しのばれむ
      憂しと見し世ぞ 今は恋しき
                 
 「新古今集」雑下 一八四三
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