獅子の末裔

卯花月影

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3.江州騒乱

3-1. 峠越え

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 四月三十日。信長は京に戻った。忠三郎が叔父・青地駿河守とともに京にたどり着いたのはその翌日。二人は戻るなり柴田勝家に呼ばれた。

「我らの留守を狙い、甲賀から六角が南近江に下って来たようじゃ」
 恐れていたことだった。六角義治は忠三郎たちが戻る前に、甲賀衆を使って近江の各地に火を放っている。
「それでは急ぎ、国元に戻らねば」
 腰を上げようとする忠三郎を、青地駿河守が留める。
「兵を連れて行かねば危うい。まだ兵が揃ってはおらぬ。皆が戻るまで、もう少し待て」

 柴田勝家も大きく頷き、
「忠三郎殿。一刻も早く戻りたい気持ちは上様も同じ。されどここで焦って動いては敵の思うつぼじゃ。駿河守の申す通り、少し待ってくれぬか」
「日野には父上も兄上もおる。案ずるな」
 青地駿河守が忠三郎を宥める。
(そのお爺様が…六角のお館様を手引きして事を起こそうとして…)
 そうは思ったが、例え信頼する叔父であっても、そんな話はできない。

 忠三郎は青地駿河守とともに勝家の前から下がり、不安を抱えて宿舎にしている寺へと向かう。
(お爺様はもしや、浅井殿が寝返ることを知っていて、それで、わしに毒を…)
 城を乗っ取るつもりだったのではないだろうか。しかし予想に反し、出陣する筈だった賢秀は急病と称して日野に残った。

 こうしている間も日野が戦禍に見舞われているのではないかと気が気ではない。
「鶴」
 それまで黙っていた青地駿河守が声をかける。
「前々から思うていたことではあるが…」
「はい」
「どこにも行く宛がのうなったら、青地荘へ来い。よいな」
 叔父の言わんとしていることが分からない。
(叔父上は何か存じておられるのか)
 もしくは、薄々察しているのかもしれない。

 青地駿河守が何を意図してそういったのかは分からない。それでも、自分を心配してくれていることは分かる。
(自ら火中の栗を拾うようなことを仰せになるとは。されど、それが叔父上というお方じゃ)

 昔からそうだった。曲がったことが嫌いで、子供たちに対しても厳しい叔父が苦手だったときもある。
しかし叔父は、格式高い家の嫡男として育てられた父・賢秀とは異なり、子供が好きで、よく自分たちと供にいてくれた。子供たちが集まると、時間を作って一緒に遊んでくれた。叔父が加わると、どんな遊びも楽しさが倍増した。そしてこの戦国の世にあっても掛値なく人と接し、人を助けることを厭わぬ人だった。

「はい。承知しました」
 無骨ながらも叔父の温かさが伝わって来て、忠三郎は笑顔でそう返事をした。

 五月九日。越前に残してきた兵が戻り、信長は京を出立して岐阜へ帰る。
 青地駿河守は青地荘へ、忠三郎も日野へ戻るつもりでいたが、江北方面に六角の命を受けた甲賀衆が行く手を阻んでいるという情報が入った。

 信長は湖南にある永原城へ入り、そこで軍議が開かれた。
「岐阜へ戻るためにも、一旦、六角と和睦しては如何なものかと」
 柴田勝家、佐久間信盛がそう進言し、居並ぶものも同意した。
「…で、六角親子はどこにおる?」

 皆が首を傾げる中、青地駿河守が前へ進み出る。
「恐らくは甲賀の人口、石部城辺りではないかと」
 青地駿河守は事前に調べていたようだ。
(やはり叔父上も何かを察しておられたのか)
 青地荘から石部城まではそう遠くない。越前出兵前から不穏な空気を察して調べていたのだろう。

「では使者を送り、和睦を申し入れよ」
 六角と和睦できれば江南の騒乱は鎮静化される。
 皆、この和睦に期待をかけ、時間をかけて交渉を重ねたが、交渉は決裂した。

(今が織田家を叩く絶好の機会と、そう思っているのではないか)
 こうなれば、峠を越えて伊勢へ出るしか道がない。二人は再度、信長の元に呼び出された。

 忠三郎は考えていたことを話してみることにした。
「日野の北の街道を使い、八風はっぷう峠を超えてはいかがなものかと」
 山賊が少ないので商人たちがよく利用している道だ。峠を越えることができれば一益のいる桑名に出ることができる。

「よかろう。では、皆でその手筈を整えよ」
 二人は信長の元を下がり、どうやって峠を越えるか話し合った。
「峠も不安ではあるが、それより懸念されるのは峠の入口にある鯰江城。城主の鯰江貞景は六角親子と手を組み、お家再興を狙っているという噂がある」
 忠三郎は驚いて青地駿河守の顔を見る。そんな噂があることは全く知らなかった。

(鯰江城といえば日野の目と鼻の先。わしはそんな近くで起きていることさえも知らなかったのか)
 叔父と比べると自分は近江のことが何も分かっていない。

(そうか。鯰江城どころか、己が城でお爺様が何をしているのかさえも、分かってはおらぬのだ)
 忠三郎が下を向いて黙り込むと、青地駿河守は察したように
「鶴。いかにおぬしが大人びておるというても、未だ十五。知らぬことを恥じることはない。まずは物見を出し、調べてみようではないか」
 叔父に励まされ、力なく頷いた。

 戻って来た物見の報告は青地駿河守の言ったとおりだった。六角家に呼応した浅井長政が鯰江城に兵を送り、さらに、日野のすぐそば、市原では一揆まで起きていた。
(まことに浅井殿であろうか…もしやお爺様が…)

 これではとても八風峠を越えることはできない。残された峠は、千草峠。千草峠に通じる道は八風街道よりも日野寄りになる。険しい山道の先には伊勢の御在所ございしょ山があり、その先には母・お桐の弟である千種三郎左衛門が守る千種城がある。

「千種殿は、如何であろうか」
 青地駿河守は、千種三郎左衛門までが六角に通じているのではないかと心配しているようだ。

(北勢衆は義兄上が抑えておる。義兄上に限って手抜かりはないはず)
 伊勢へ抜けることができれば、何の心配もない。
「北伊勢は滝川左近殿の支配下。案ずることはありますまい」
 懸念されることは尽きないが、こうして信長は千草峠を通って伊勢へ抜け、岐阜を目指すことになった。

 忠三郎は日野へ戻ると、父・賢秀に事と次第を話した。
「では我らが手筈を整え、上様の道案内を務めるということか」
「はい。織田家中で千草峠に詳しいのは我が蒲生家をおいて他にはありませぬ」
 賢秀は頷き、
「わしが手筈を整えよう。されど上様と同行するのは、鶴、そなたに頼みたい」
 自信がないのだろうか。賢秀と直接話すのは久しぶりだが、やはり期待していたことは何もいってくれない。
「承知いたしました。父上、そう案じることはありますまい。すでに伊勢の滝川左近殿にも知らせを送っておりまする」
 忠三郎が笑顔でそう言うが、賢秀は深いため息をついて頷いた。

(父上がああでは、わしが行くしかあるまい)
 蒲生家連枝の布施藤九郎にも声をかけて同行を頼んだ。

 伊勢に使いを送った二日後。一益の元から滝川助九郎がやってきた。
「忠三郎様、これを」
 と包みを開けると、でてきたのは干し餅と鎖製の袋。
「はて、これは?」
「これなるは殿が考案した守り袋で」
「守り袋?」
 袋を手に持ち、上から見て、下からも見てみるが、特別な仕掛けはなさそうだ。

「その袋に餅を入れ、袋ごと懐に入れてくだされ。なるべく心の臓を覆うように。上様にも同じものをお渡しあれ」
「心の臓を覆うように?」
 何かのまじないだろうか。

「にしても、餅を鎖の袋にいれるとは…」
 なんとも妙だと思い、ハタと気づいた。
(これはもしや…)
 信長が千草峠で狙撃されたときのために渡してきたのではないだろうか。

(義兄上は峠に刺客がおるやもしれぬと、そうお考えか)
 ちらりと助九郎を見ると、神妙な顔で頷いた。
「されど、これでは余りに意味ありげじゃ」
 信長が気づかぬ筈はない。

「それゆえ、忠三郎様からではなく、奥方から上様に献上するようにと」
「雪からであれば、疑われることもないと?」
 そうだろうか。誰が渡しても怪しいものは怪しい。

「いえ。上様の娘である奥方から渡されれば、上様もこれは何かと追及することもなかろうと、殿はそう仰せで」
 吹雪にはただの餅を入れる袋と、そう話しておけということだろう。

「そうかもしれぬが…。では、助九郎。おぬしから雪に渡してくれぬか」
「は?あの…それがしから?」
「伊勢におる雪の妹からと言えば、疑うこともなかろう」
「は、はぁ…」

 助九郎は何か言いたげな顔をして、吹雪のいる館へと向かっていった。
(手抜かりは許されぬ。なんとしても上様に無事、岐阜に戻っていただかねば)
 出立は明後日、十九日だ。

 五月十九日は晴天だった。
 信長が千草峠を越えるのは、これが最初ではない。何度か伊勢から峠を越えて近江へ抜けている。
 峠を通るときに宿泊地としているのが、日野からほど近い甲津畑にある関所を守る速水勘六左衛門の館だ。

 今回も前日の夜はわずかな供周りの者とともに速水勘六左衛門の館に泊まり、翌朝、迎えに行った忠三郎たちとともに峠を越えることになっていた。
(なにごともなければよいが)

 父も叔父も一益もいない。誰もいないことに多少の不安が付きまとうが、御在所山辺りで、伊勢から迎えに来た義太夫と合流できるはずだ。
「父上」
 見送りに来た吹雪が信長に声をかけ、例の餅を手渡した。ところが吹雪が何も説明をせずに渡したため、信長がいきなり餅を食べようとした。
「あ!上様!しばしお待ちを!」
 今、食べてしまうと意味がなくなる。忠三郎があわてて止めると、信長も吹雪も、何事が起きたかという顔をして忠三郎を見た。

「いや、それは。風花殿が峠越えの際の腹の足しにと送ってくだされたものにて」
 忠三郎はひきつった笑顔で説明した。
 こんな展開は想像していなかった。疑われないように、吹雪がさりげなく信長に伝えてくれることを期待していたのだが。

 吹雪は、あ、と思い出したように鎖の袋を取り出す。
「父上。この袋も風から」
 と、また何も説明をせずに信長に手渡す。
(ここまで気の利かない女子であったとは…)
 これでは疑われても仕方がない。案の定、信長が忠三郎を見て、
「鶴」
 これは何かという目で見る。

「は、その、その袋に餅を入れてくだされ」
 忠三郎の説明を聞き、信長は餅を袋に入れ、腰につけようとする。
(それでは意味がない)
 忠三郎は慌てて、
「上様、それは守り袋。それを懐に、是非とも懐に入れて、無事、峠を越えたあたりで召し上がるがよろしいかと」
 苦しい説明を続けるが、これでは狙撃を恐れていると言っているようなものだ。

 信長に何をいわれるか、気が気ではなかったが、予想に反して信長は「で、あるか」と短く言うと、特に詮索することもなく、忠三郎に言われた通りに干し餅を袋ごと懐中に入れてくれた。

(よかった…これで一つ目の山場は越えた)
 忠三郎がふぅと息を付き、そろそろ出立しようかと向きを変えると
「風は伊勢に嫁いでから餅好きになり、餅ばかり送って参ります」
 と、また吹雪が余計なことを言い始めた。
(なんといらぬことを…)
 言ってほしいことは言わず、言わなくてもいいことばかり言い始める。

 信長がまた忠三郎を見る。
「伊勢の餅をお気に召しているようで」
 忠三郎が誤魔化すように笑うと、
「参ろう。鶴、案内せよ」
 信長は気に留めることなく馬に乗る。
(全く…生きた心地もせぬ)
 出発前からどっと疲れた。早く伊勢に行って、この重責から解放されたい。

「鶴、岐阜に着くはいつになるかの」
「二日もあれば十分かと」
 今日中に峠を越えて、千草三郎左衛門の待つ千種城につくとして、山を下りたあたりで夜を明かす。翌朝、出発して桑名に行けば一益が出迎えてくれることになっている。そうなればもう、何も心配はいらない。

「岐阜まで来る必要はない。そのほうは途中で日野へ戻れ」
 信長が突然、途中で帰るようにと促した。
(なぜ…)
 忠三郎が驚いて信長を見ると、
「家中を見張っておれ」
「は、はい」

 家中を見張れとは。信長はもしや、祖父の謀心に気付いているのだろうか。
(まさかそんなことが…)
 あの快幹が信長に知られるような証拠を残すとも思えない。では、何故、信長は日野に帰れと言うのだろう。
(何かに気づいていなければ、そう仰せにはならない)

 どこまで知っているか。餅の袋で怪しまれたのだろうか。
(いずれにせよ、咎め立てるおつもりはなさそうではあるが…)
 あれこれと考えていると汗が噴き出してきた。夏本番を迎えた千種峠は殊の外熱く感じられる。
(今日は風もない)
 忠三郎が懐から平織りの布を取り出して汗を拭ったそのとき、突然、山間に銃声が鳴り響いた。

(今の音は…)
 忠三郎は咄嗟に馬の脚を止める。
「上様!」
 背後で誰かの声が響き、信長が狙撃されたと気づいた。
「上様!大事ありませぬか」
 見ると、信長が袖を持ち上げている。
「大事ない。懐の餅にあたっておる」
 弾は信長の小袖を貫通し、餅が入った袋で止まったようだ。

(上様が刺客に襲われた!)
 こんな失態が許されるはずがない。峠越えの手筈を整えた父も、そして同行した忠三郎も咎められる。
「賊があちらに!」
 布施藤九郎が賊を追いかけ、草むらを駆け抜けていく。
(賊を追わねば…)
 忠三郎も馬首を返して後を追う。

(あの音は…。日野筒に違いない。賊が日野筒を使って上様暗殺を企てた)
 一益は武器弾薬が横流しされていると、そう指摘した。そんなことができる者は家中でも限られた者だけだ。

(賊が使った火縄銃が日野筒だと発覚すれば、我が家の誰かが賊に銃を渡して手引きし、上様暗殺を企てたと疑われてしまう)

 詮議を受けたらどうしたらいいのか。何も知らない父は驚くだろう。しかし知らなかったでは済まされない。このままでは、父も忠三郎も切腹しろと、そう言い渡されるかもしれない。

(一体、どうしたら…どうしたらよいのか!)
 皆が血眼になって賊を探し回っている中、忠三郎は答えの出ない答えを探して頭が混乱し、不安ばかりが募っていく。
「鶴!」
 聞き覚えのある声がした。忠三郎は我に返り、草むらの向こうを見る。
「義太夫!」
 北伊勢から千草街道を進んできた義太夫だった。

「銃声が聞こえたが」
「上様を狙ったものがおる」
「何!」
 信長のいる方へと走っていく義太夫の背中を見ながら、一益の顔が頭に浮かんだ。
(義兄上…助けてくだされ…もう、どうしていいのかも、わかりませぬ)

 義太夫の去った方へと馬首を向けると、義太夫が戻って来た。
「鶴、如何いたした。真っ青じゃ」
「義兄上に会う」
「お?おう。殿は桑名でお待ちじゃ。直に会えよう」
「義兄上に、滝川左近に会わせてくれ」

「如何いたした?まずは早う上様を伊勢へお連れせねば」
 義太夫が宥めるように忠三郎の背中をさする。
「上様が狙われて、驚いたのであろう」
「義兄上に会いたい」
 賊が捕らわれれば、使った火縄銃が日野筒であることが発覚してしまう。
 そう思うと不安で不安で仕方がない。

 義太夫は何のことやらわからないという顔をしていたが、
「おぉ、鶴もついに殿に惚れたか」
「…?」
「まぁ、わからぬでもない。我が殿は漢が惚れる漢じゃ。されど、男振りはわしのほうがよいと思うがのう」

 何を言い出すのかと思えば、信長が狙撃されたというのに能天気な顔をして、何と呆れたことを言い始めるのか。
「義太夫…もうよい…少し口を閉じていてくれぬか。なにやら疲れる」
「然様か?殿も、少し黙っておれと仰せになるときがあるが…」
 そうだろうなと思った。時も場もわきまえぬ可笑しな発言を聞いていると、だんだん腹が立ち、このよく動く口を縫い付けたくなる。

「早う峠を越えよう。日暮れ前には四日市に着きたい」
 義太夫の言う通りだ。二人は信長の元へと馬を走らせた。
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