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8.謀略の谷
8-1. 父と子
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信長は再び、伊勢・長島一揆討伐の号令をかけた。織田領全域に陣振れが出ており、ここ、日野でも出兵準備に勤しむ家人たちが忙しく立ち働いている。
「我等は日野を留守にするが、好きにしてくれて構わぬ」
忠三郎は常の笑顔で無防備なことを言う。
「待て、忠三郎。好きにしてよいとは…」
戸惑う三九郎に、忠三郎は笑って、
「蔵には蔵書もある。書物に飽いたら川へ行き、魚でも釣ってくればよい。釣りは好きであろう?」
魚屋で会ったことを覚えていたようだ。
「伊勢へ行くのか」
ここ数日、家人たちが館のあちこちで長島攻めの話をしている。自然と三九郎の耳にも届いていた。
「然様。次こそは長島願証寺を下し、長島から災いの種を摘み取らねば義兄上も北勢を統治することはままならぬであろう」
長島願証寺旗揚げ以来、北伊勢の国人衆は次々に寝返り、一向衆に味方している。
「そううまく行くのか」
「義兄上は気が進まぬようじゃ。されどいつまでも野放しにしておくわけにはいかぬ。何せ願証寺は上様の弟・織田彦七郎殿の仇。織田家の威信にかけても討ち滅ぼさねばなるまいて」
「信長は長島での乱捕りを止めるどころか、奨励しているというではないか。そのような残虐非道な行いが長島に籠る門徒を増やしていることに気付かぬのか。長島にいる領民は皆、田畑を捨てて逃げるか、願証寺を頼るしか生きる術がない。力づくで願証寺から長島を奪い取ったところで、滝川左近のその後の統治が容易に進むとは思えぬ」
三九郎が非難すると、忠三郎は一瞬、きょとんとした顔をしていたが、やがて何がおかしいのか笑い出した。
「何を笑う?」
「いや…反目しあっているのかと思うていたが、違うたか」
忠三郎は可笑しそうにそういう。
「反目?わしと左近が?」
「二人の間に何があるのか、わしには分からぬが、おぬしは義兄上と同じことを言う。おぬしが義兄上と同じ考えなのであれば、かようなところで日々を過ごすよりも、滝川家に行き、義兄上の助け手となるほうがよいのかもしれぬ」
忠三郎は思いもよらぬことを言って、ふらりと自室のある三の丸へ行ってしまった。いつもながらに掴みどころない態度だ。
(我らが同じ考え…)
何といっても一益とはまともに口をきいたこともない。面と向かったときでも、饒舌な義太夫や忠三郎と違い、一益は寡黙で無口。一益の醸し出す重苦しい空気に圧倒される。数多の敵を打ち倒し、戦場では恐怖そのものと化す存在。一益の鋭い眼光に晒されると、まるで自分が一瞬で消えてしまうかのような圧迫感を覚え、言いたいことも言えなくなる。
しかし忠三郎の言うように、これからどう生きていくのか、身の振り方を考えなくてはならない。甲賀に戻っても杉谷衆は滅び、もう帰る場所もないのだから。
(武士として生きるか、素破として生きるか、世を捨てて出家するか)
それを決めるためには、いかに恐ろしい目に会おうとも、一益に会わなくてはならない。
(忠三郎とともに岐阜へ行かねば…)
つい先ごろまでは敵であった信長や一益のいる岐阜へ行く。いささか気が進まない。
侍女に声をかけ、忠三郎への目通りを願い出ると、すんなりと案内された。
「若殿はこちらの三の丸にお住まいでございます」
やけに広いこの城では、三世代がバラバラの場所で暮らしているらしい。隠居の快幹は二の丸館にいて、当主・賢秀のいる本丸には本丸館の他、母屋があり、忠三郎は本丸からは離れた場所にある三の丸にいる。
本丸と三の丸の間には堀があり、城壁もあった。
「かように父君と離れていて、不便ではないのか」
不思議に思い、侍女に訊いてみると、
「若殿は滅多なことでは殿にはお会いになりませぬので」
それが当たり前のことなのか、侍女は平然と答えた。
忠三郎の居室があるという三の丸館は思ったよりもこじんまりとしていて、信長の娘が住んでいるようには見えない。
「北の方は供にはおらぬのか」
「はい。あちらの館に…」
と指さす方向を見ると、空堀の向こう、かなり離れたところに真新しい、豪華な屋敷が見えた。
(また随分と離れておるな)
足しげく通うことを想定されていない距離だ。
(大名の家とはかようなものか)
甲賀の祖母の元で育った三九郎にはいろいろと理解に苦しむ部分が多かったが、ともかく忠三郎の居間までたどり着いた。
「若殿。滝川様が…」
侍女が声をかけると、忠三郎が何か言う声が聞こえてきて、そのまま中へ通された。
「滝川様とは…。義兄上のことかと思うたら、おぬしか。如何した?」
忠三郎が常の笑顔で話しかけてくる。
「岐阜へ行き、父上に会う」
思い切って告げると、忠三郎は、あぁ、と頷き、
「では、供に岐阜まで参ろうか」
いとも容易くそう言ったので、三九郎は幾分、拍子抜けしてしまった。
「それだけか?」
「それだけ、とは?」
「訳も聞かずに、わしを会わせるのか」
「親子であろう?親子というものは、正月や祭りに限らず、特に用がなくとも顔を合わせるものだと聞き及ぶが?」
それは確かにそうだが、忠三郎の言い方はなんとも奇妙だった。
何が可笑しいとも言えないまま、三九郎は忠三郎とともに岐阜に行くことになった。
岐阜の城下は魚、野菜、穀物、衣類、薬草など、あらゆる商品が取引され、各地から集まった人々でごったがえしていた。町の路地には茶屋や酒屋が並び、通行人が立ち寄って一休みしたり、酒を飲んで語らう姿が見えた。
岐阜の滝川家の屋敷というところに着くと、思いもかけず風花が出迎えてくれた。
「三九郎殿、久方ぶりじゃ」
約二年ぶりに見る風花は少しふっくらとしたようだ。身にまとう小袖には金糸を使った模様が広がり、家柄の高さを象徴していた。
風花は挨拶もそこそこに、昨年、女児を生んだから会わせたいと言って、三九郎を強引に母屋に連れて行った。
「三九郎殿の妹じゃ」
風花に笑顔で言われ、違和感を感じつつも、三九郎もひきつった笑顔を返す。
「御台様。殿が…」
侍女がそう告げると、重々しい足音ととも一益が入ってきて場の空気は一変した。
(まだ何を言うか、考えていなかったのに…)
こうも唐突に対面することになるとは思いもよらない。
「殿。三九郎殿がお見えじゃ」
風花が一益に声をかけると、一益が三九郎に視線を移した。
一益の鋭い眼光は、すべてを見透かすかのように三九郎に注がれ、三九郎はその視線に飲み込まれそうになる。
「父上…あの…」
緊張が全身を支配し、何を言ったらいいのか、咄嗟にことばがでない。恐怖、期待と不安が一瞬で交錯する。
三九郎が見えている筈なのに、一益は何も言わず、脇息を引き寄せて無言で座った。
「風。そなたが夏の暑さで弱っておると聞き、義太夫が雁を手に入れてきた。夕餉の膳に添えるというていたので、しっかり食べて精をつけよ」
風花は確か、肉は雉しか食べないと言っていた。何年も一緒にいる筈なのに、一益は知らないのだろうか。当然、風花が我儘なことを言い出すのだろうと思っていると、
「嬉しゅうございます。雁はわらわの大好物じゃ」
満面笑顔でそう答えた。
(一体、どうなっておるのか)
あの音羽城にいたときの我儘勝手に振る舞っていた姫とは別人のように、しおらしく、愛らしい風花の態度に唖然とした。
「三九郎」
いきなり声をかけられ、三九郎がビクリと肩を揺らす。その声は、思いのほか静かで、重みはあったが冷ややかではなかった。
「稽古は進んでおるか。武経七書はどこまで読み進めた?」
稽古とは?武経七書?なんのことを言っているのか、全くわからない。三九郎が答えに困っていると、一益は気づいたらしく溜息をつき、手を叩いて近侍を呼んだ。
「鶴を呼んで参れ」
まもなく忠三郎、そして何故か義太夫までが姿を見せたので、場が急ににぎやかになる。
「鶴、三九郎に武芸の稽古をさせて、武経七書を読ませるようにと伝えおいたであろう?」
そんな話になっていたのか。忠三郎は今、思い出したらしく、常の笑顔で
「すっかり失念しており申した。面目なき次第にて」
笑って答える。風花は呆れた顔をして、
「殿。忠三郎殿に言うたところで幾年も先になることは分かりきっておりましょう」
忠三郎はずいぶんと評価が低いようだ。忠三郎は曖昧な笑顔で頭を下げる。
珍しくもないことなのか、一益は取り立てて咎めることもせず、呆れたようにふぅと息をついた。気心しれた者たちと言葉を交わす姿は、これまで伝え聞いていた冷酷無比な戦国武将の姿とは全く異なる。
「助太郎にも伝えおく。せめて孫子くらいは目を通しておけ」
その響きには、何かしらの温かさが潜んでいるように感じられた。
どうも自分に向かって言っているらしいと気づき、三九郎は思わず、短く返事をする。
一益は頷くと立ち上がり、あっという間に部屋から出て行ってしまった。
(まだ何も話せていない…)
わざわざ江南から岐阜まで来たというのに、満足に会話を交わしていない。それにしてもあの態度はどうなのだろうかと思っていると、
「殿は三九郎殿が来てくだされて、大層お喜びであったのう」
風花がそう言ったので、三九郎は耳を疑う。すると義太夫が
「いやはや、今宵は客用の酒を飲んでも、お許しいただけそうで」
嬉しそうにそういう。それを聞いていた忠三郎までも
「義兄上はいつになく上機嫌で。まこと、ここまで三九郎を連れてきてよかったと思うていたところじゃ」
何を見ていると、喜んでいたとか、上機嫌であったなどという言葉がでてくるのか。
「されど…すぐに席を立たれて…」
三九郎がそういうと、三人は同時にあぁ、と言って
「義兄上はちょうどこれから上様の前に伺候するところだったようじゃ」
「然様。殿が肩衣を着ておられたじゃろう?殿が肩衣を着るのは父上に会うときだけ。これから戦さというから、軍議であろうかのう」
口々にそう言う。
(帰するところ、伊勢の戦さが終わるまでは、満足に話もできぬと、そういうことか)
たった一言、会話を交わしただけなのに疲れた。もう充分だ。早く日野に帰りたい。
疲れた様子の三九郎に気付いた忠三郎は、何を勘違いしたのか、励ますように三九郎の背中をたたいた。
「そう気落ちせずともよい。これからいくらでも話などできよう」
妙な誤解に三九郎が戸惑っていると、風花が艶やかに笑う。
「殿に会いたいのであろう?またいつでも来るがよい。ここは滝川家の屋敷。三九郎殿の家じゃ」
こちらも勘違いしている。三九郎の心中が全く分かっていないようだ。
否定するのも躊躇われ、なんと返事しようか思いあぐねていると、義太夫が満面笑顔で膝を進める。
「然様。三九郎様、いつでもお越しくだされ。三九郎様が屋敷に来てくだされば、我等もうまい酒が飲めるというもので」
三人三様に勘違いし、思い思いのことを言う。この三人といると益々疲れる。一益が忙しいのであれば、今日のところは日野に戻り、また出直すしかないようだ。
「我等は日野を留守にするが、好きにしてくれて構わぬ」
忠三郎は常の笑顔で無防備なことを言う。
「待て、忠三郎。好きにしてよいとは…」
戸惑う三九郎に、忠三郎は笑って、
「蔵には蔵書もある。書物に飽いたら川へ行き、魚でも釣ってくればよい。釣りは好きであろう?」
魚屋で会ったことを覚えていたようだ。
「伊勢へ行くのか」
ここ数日、家人たちが館のあちこちで長島攻めの話をしている。自然と三九郎の耳にも届いていた。
「然様。次こそは長島願証寺を下し、長島から災いの種を摘み取らねば義兄上も北勢を統治することはままならぬであろう」
長島願証寺旗揚げ以来、北伊勢の国人衆は次々に寝返り、一向衆に味方している。
「そううまく行くのか」
「義兄上は気が進まぬようじゃ。されどいつまでも野放しにしておくわけにはいかぬ。何せ願証寺は上様の弟・織田彦七郎殿の仇。織田家の威信にかけても討ち滅ぼさねばなるまいて」
「信長は長島での乱捕りを止めるどころか、奨励しているというではないか。そのような残虐非道な行いが長島に籠る門徒を増やしていることに気付かぬのか。長島にいる領民は皆、田畑を捨てて逃げるか、願証寺を頼るしか生きる術がない。力づくで願証寺から長島を奪い取ったところで、滝川左近のその後の統治が容易に進むとは思えぬ」
三九郎が非難すると、忠三郎は一瞬、きょとんとした顔をしていたが、やがて何がおかしいのか笑い出した。
「何を笑う?」
「いや…反目しあっているのかと思うていたが、違うたか」
忠三郎は可笑しそうにそういう。
「反目?わしと左近が?」
「二人の間に何があるのか、わしには分からぬが、おぬしは義兄上と同じことを言う。おぬしが義兄上と同じ考えなのであれば、かようなところで日々を過ごすよりも、滝川家に行き、義兄上の助け手となるほうがよいのかもしれぬ」
忠三郎は思いもよらぬことを言って、ふらりと自室のある三の丸へ行ってしまった。いつもながらに掴みどころない態度だ。
(我らが同じ考え…)
何といっても一益とはまともに口をきいたこともない。面と向かったときでも、饒舌な義太夫や忠三郎と違い、一益は寡黙で無口。一益の醸し出す重苦しい空気に圧倒される。数多の敵を打ち倒し、戦場では恐怖そのものと化す存在。一益の鋭い眼光に晒されると、まるで自分が一瞬で消えてしまうかのような圧迫感を覚え、言いたいことも言えなくなる。
しかし忠三郎の言うように、これからどう生きていくのか、身の振り方を考えなくてはならない。甲賀に戻っても杉谷衆は滅び、もう帰る場所もないのだから。
(武士として生きるか、素破として生きるか、世を捨てて出家するか)
それを決めるためには、いかに恐ろしい目に会おうとも、一益に会わなくてはならない。
(忠三郎とともに岐阜へ行かねば…)
つい先ごろまでは敵であった信長や一益のいる岐阜へ行く。いささか気が進まない。
侍女に声をかけ、忠三郎への目通りを願い出ると、すんなりと案内された。
「若殿はこちらの三の丸にお住まいでございます」
やけに広いこの城では、三世代がバラバラの場所で暮らしているらしい。隠居の快幹は二の丸館にいて、当主・賢秀のいる本丸には本丸館の他、母屋があり、忠三郎は本丸からは離れた場所にある三の丸にいる。
本丸と三の丸の間には堀があり、城壁もあった。
「かように父君と離れていて、不便ではないのか」
不思議に思い、侍女に訊いてみると、
「若殿は滅多なことでは殿にはお会いになりませぬので」
それが当たり前のことなのか、侍女は平然と答えた。
忠三郎の居室があるという三の丸館は思ったよりもこじんまりとしていて、信長の娘が住んでいるようには見えない。
「北の方は供にはおらぬのか」
「はい。あちらの館に…」
と指さす方向を見ると、空堀の向こう、かなり離れたところに真新しい、豪華な屋敷が見えた。
(また随分と離れておるな)
足しげく通うことを想定されていない距離だ。
(大名の家とはかようなものか)
甲賀の祖母の元で育った三九郎にはいろいろと理解に苦しむ部分が多かったが、ともかく忠三郎の居間までたどり着いた。
「若殿。滝川様が…」
侍女が声をかけると、忠三郎が何か言う声が聞こえてきて、そのまま中へ通された。
「滝川様とは…。義兄上のことかと思うたら、おぬしか。如何した?」
忠三郎が常の笑顔で話しかけてくる。
「岐阜へ行き、父上に会う」
思い切って告げると、忠三郎は、あぁ、と頷き、
「では、供に岐阜まで参ろうか」
いとも容易くそう言ったので、三九郎は幾分、拍子抜けしてしまった。
「それだけか?」
「それだけ、とは?」
「訳も聞かずに、わしを会わせるのか」
「親子であろう?親子というものは、正月や祭りに限らず、特に用がなくとも顔を合わせるものだと聞き及ぶが?」
それは確かにそうだが、忠三郎の言い方はなんとも奇妙だった。
何が可笑しいとも言えないまま、三九郎は忠三郎とともに岐阜に行くことになった。
岐阜の城下は魚、野菜、穀物、衣類、薬草など、あらゆる商品が取引され、各地から集まった人々でごったがえしていた。町の路地には茶屋や酒屋が並び、通行人が立ち寄って一休みしたり、酒を飲んで語らう姿が見えた。
岐阜の滝川家の屋敷というところに着くと、思いもかけず風花が出迎えてくれた。
「三九郎殿、久方ぶりじゃ」
約二年ぶりに見る風花は少しふっくらとしたようだ。身にまとう小袖には金糸を使った模様が広がり、家柄の高さを象徴していた。
風花は挨拶もそこそこに、昨年、女児を生んだから会わせたいと言って、三九郎を強引に母屋に連れて行った。
「三九郎殿の妹じゃ」
風花に笑顔で言われ、違和感を感じつつも、三九郎もひきつった笑顔を返す。
「御台様。殿が…」
侍女がそう告げると、重々しい足音ととも一益が入ってきて場の空気は一変した。
(まだ何を言うか、考えていなかったのに…)
こうも唐突に対面することになるとは思いもよらない。
「殿。三九郎殿がお見えじゃ」
風花が一益に声をかけると、一益が三九郎に視線を移した。
一益の鋭い眼光は、すべてを見透かすかのように三九郎に注がれ、三九郎はその視線に飲み込まれそうになる。
「父上…あの…」
緊張が全身を支配し、何を言ったらいいのか、咄嗟にことばがでない。恐怖、期待と不安が一瞬で交錯する。
三九郎が見えている筈なのに、一益は何も言わず、脇息を引き寄せて無言で座った。
「風。そなたが夏の暑さで弱っておると聞き、義太夫が雁を手に入れてきた。夕餉の膳に添えるというていたので、しっかり食べて精をつけよ」
風花は確か、肉は雉しか食べないと言っていた。何年も一緒にいる筈なのに、一益は知らないのだろうか。当然、風花が我儘なことを言い出すのだろうと思っていると、
「嬉しゅうございます。雁はわらわの大好物じゃ」
満面笑顔でそう答えた。
(一体、どうなっておるのか)
あの音羽城にいたときの我儘勝手に振る舞っていた姫とは別人のように、しおらしく、愛らしい風花の態度に唖然とした。
「三九郎」
いきなり声をかけられ、三九郎がビクリと肩を揺らす。その声は、思いのほか静かで、重みはあったが冷ややかではなかった。
「稽古は進んでおるか。武経七書はどこまで読み進めた?」
稽古とは?武経七書?なんのことを言っているのか、全くわからない。三九郎が答えに困っていると、一益は気づいたらしく溜息をつき、手を叩いて近侍を呼んだ。
「鶴を呼んで参れ」
まもなく忠三郎、そして何故か義太夫までが姿を見せたので、場が急ににぎやかになる。
「鶴、三九郎に武芸の稽古をさせて、武経七書を読ませるようにと伝えおいたであろう?」
そんな話になっていたのか。忠三郎は今、思い出したらしく、常の笑顔で
「すっかり失念しており申した。面目なき次第にて」
笑って答える。風花は呆れた顔をして、
「殿。忠三郎殿に言うたところで幾年も先になることは分かりきっておりましょう」
忠三郎はずいぶんと評価が低いようだ。忠三郎は曖昧な笑顔で頭を下げる。
珍しくもないことなのか、一益は取り立てて咎めることもせず、呆れたようにふぅと息をついた。気心しれた者たちと言葉を交わす姿は、これまで伝え聞いていた冷酷無比な戦国武将の姿とは全く異なる。
「助太郎にも伝えおく。せめて孫子くらいは目を通しておけ」
その響きには、何かしらの温かさが潜んでいるように感じられた。
どうも自分に向かって言っているらしいと気づき、三九郎は思わず、短く返事をする。
一益は頷くと立ち上がり、あっという間に部屋から出て行ってしまった。
(まだ何も話せていない…)
わざわざ江南から岐阜まで来たというのに、満足に会話を交わしていない。それにしてもあの態度はどうなのだろうかと思っていると、
「殿は三九郎殿が来てくだされて、大層お喜びであったのう」
風花がそう言ったので、三九郎は耳を疑う。すると義太夫が
「いやはや、今宵は客用の酒を飲んでも、お許しいただけそうで」
嬉しそうにそういう。それを聞いていた忠三郎までも
「義兄上はいつになく上機嫌で。まこと、ここまで三九郎を連れてきてよかったと思うていたところじゃ」
何を見ていると、喜んでいたとか、上機嫌であったなどという言葉がでてくるのか。
「されど…すぐに席を立たれて…」
三九郎がそういうと、三人は同時にあぁ、と言って
「義兄上はちょうどこれから上様の前に伺候するところだったようじゃ」
「然様。殿が肩衣を着ておられたじゃろう?殿が肩衣を着るのは父上に会うときだけ。これから戦さというから、軍議であろうかのう」
口々にそう言う。
(帰するところ、伊勢の戦さが終わるまでは、満足に話もできぬと、そういうことか)
たった一言、会話を交わしただけなのに疲れた。もう充分だ。早く日野に帰りたい。
疲れた様子の三九郎に気付いた忠三郎は、何を勘違いしたのか、励ますように三九郎の背中をたたいた。
「そう気落ちせずともよい。これからいくらでも話などできよう」
妙な誤解に三九郎が戸惑っていると、風花が艶やかに笑う。
「殿に会いたいのであろう?またいつでも来るがよい。ここは滝川家の屋敷。三九郎殿の家じゃ」
こちらも勘違いしている。三九郎の心中が全く分かっていないようだ。
否定するのも躊躇われ、なんと返事しようか思いあぐねていると、義太夫が満面笑顔で膝を進める。
「然様。三九郎様、いつでもお越しくだされ。三九郎様が屋敷に来てくだされば、我等もうまい酒が飲めるというもので」
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