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9.伊勢の残滓
9-3. 生殺与奪の権
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翌朝、未明から激しい銃声と地鳴りを伴う大きな爆発音が長島一帯に響き渡った。
「この音は何であろうか」
将も兵も皆、驚いて音のするほうを見る。地を揺るがす爆音は伊勢湾の向こうから聞こえてくる。
「阿武船が到着したのかもしれぬ」
この音だけでも敵を威嚇し、士気を下げるには十分と思われた。見れば、十以上の阿武船と、その間にはそれよりも小さい軍船、さらに小回りのきく船が川を埋め尽くしている。全部で千艘まではいかないが、それに近い数ではないだろうか。
阿武船には大筒の他、海戦用に改良された大鉄砲がびっしりと並び、轟音を立てていた。
「いやはや、滝川様がお味方でようござりました。あのような恐ろしい砲撃を受けては、兵は皆、恐れおののき、逃げだすこと間違えなし」
町野左近が色を失ってそう言う。全くその通りで、船の上から撃ちかけられては逃げることも、戦うこともできず、無抵抗なままに滅ぼされかねない。
(これが義兄上のいう新しい戦さの形か)
大筒も恐ろしいが、これを成し得る織田家の財力にも肝をつぶした。
忠三郎は柴田勝家とともに大鳥居城の攻略に向かう。
大鳥居城には一揆勢が二千人ほど、籠城している。
再び陣営を構え、軍議のために勝家本陣へ向かうと、向こうに見慣れた顔が見えた。
「おぉ、鶴」
戦場においてもひとつも緊張感を漂わせずに現れたのは義太夫だ。軍議のために船から降りた一益についてきたのだろう。
「義兄上は?」
「もう中に入られた。しかし今日も暑いのう」
義太夫がバタバタと忙しく扇子を動かす間にも、阿武船からは大鉄砲、大筒の爆音が響き渡っている。
「それにしても恐ろしい音じゃ。皆、恐れておる。これならば一揆勢の作った砦など、一溜りもなかろう。さすがは義兄上じゃ」
忠三郎が感心して言うと、義太夫はいやいやと扇子を振る。
「あれは単なる虚仮威しじゃ」
「虚仮威し?」
「然様。恐ろしいのは音だけ。中には火薬が入っておらぬ。あれはのう、ボオンと恐ろしい音を立てて一貫ほどの鉄球を飛ばし、櫓にぶつけて壊すためにある。空飛ぶ破城槌のようなものよ」
建造物にぶつかっても爆発するわけでもないので、吹き飛ばすような威力もない。帰するところ、ただ巨大な鉄の玉を飛ばしているだと言う。
「では火攻めには使えぬと?」
「燃えぬからのう。燃やすなら火矢のほうが効果がある」
「何、火矢よりも劣ると?」
それでは新しい戦さどころか、これまでと何ら変わりがない。一益は大筒を作る時に『敵も味方も変える恐ろしい武器』と言っていた。それが、火矢よりも劣るとは。
「なにゆえ、時と金をかけて、そのようなものを造らせた?大筒に籠める弾に火薬を詰めればよいではないか」
「殿が考えに考え抜いた末に、そうされたのじゃ」
「義兄上が?」
「殿が考案した大筒が使われるのはこの戦さに限ったことではない。今後の戦さでも使われるようになる」
その結果がどれほど深刻なものとなるかを設計段階から予め想定することは難しい。老若男女を問わぬ殺戮に使われる可能性を考えると、その責めをどのように受け止めるべきか、複雑な倫理的葛藤を抱え、考えぬいた末の結論が、鉄球に火薬を仕込まないことだった。
「砦に籠る敵が音に驚き、逃げてくれれば、楽に砦を手に入れることができる。それで十分に目的は果たされる」
「されどこの戦さの目的は…」
この戦さの目的は敵の殲滅。一人も逃さず討ち果たせと厳命が下されている。にも拘わらず、敵を逃がすこと前提とは如何なることか。
「遠くの敵を倒すのであれば、火縄銃よりも弓の方が勝っておることくらい、存じておろう?」
それは知っている。火縄銃では敵が離れれば離れるほど命中率が下がる。銃を持つのは、さして訓練されていない足軽だ。敵が遠ければほとんど当たらない。
「鉄砲が弓矢に勝るのは、音じゃ」
戦さにおいて大切なのは敵兵を倒すことではなく、震え上がらせることにある、と義太夫は言う。
「それともう一つ。向かってくる敵に撃つよりも、背を向けて逃げる敵に向かって撃つほうが命中率があがる」
「近づいてくる敵を撃つより、遠ざかる敵を撃つほうが弾が当たると、そういうておるのか?」
「不可思議と思うか?」
不可思議だ。遠ざかればそれだけ命中率が下がる。
「前にも話した筈。敵に正面から見据えられると己でも気づかぬうちに反射的に的を外す。人とはそのようなものじゃ。まぁ、いずれにせよ、砦の連中は早々と降伏を申し出てくるであろうて」
話していると、幔幕から織田家の家臣たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。
「あれはもしや…早、軍議が終わったのか」
話し込んでいるうちに忘れていた。義太夫のせいで、また軍議をサボることになってしまった。
「たまには、よいではないか。終わったものは仕方がない。気に病むな」
義太夫は意に介していないようだが、たまにどころか、義太夫といると毎回、軍議を欠席している。
(致し方ない。柴田殿に詫びを入れて戻るか…。それにしても…)
大筒の弾がただの鉄球とは。兵具改良は一益に一任されている。言われなければ気づかないことかもしれないが、それにしても一益の大胆さには舌を巻く。
しかし、大筒が砦を壊すだけだとしても、信長が長島に籠る一向衆の殲滅を諦めるとは思えない。大筒が駄目なら次の方法を取るのではないだろうか。
忠三郎は柴田勝家、佐久間信盛とともに大鳥居砦を包囲して砦の兵糧が尽きるのを待った。阿武船からは昼となく夜となく、大筒が撃ち込まれてはいるが、目立った戦闘がないまま、ついに八月になった。
大鳥居砦では餓死者が出ているという情報が入ってきた数日後、降伏の使者が現れた。
柴田勝家は信長本陣に使者をたてたが、思った通り、信長からは兵糧攻めを続行せよ、との命令が下った。
「降伏を許さず兵糧攻めせよとは、上様は砦の門徒がみな、飢えて死ぬまで待てと、そう仰せで?」
信長の意図がわからず、家臣たちはみな、首を傾げる。
「そう仰せなのであろう」
改めて聞かれると自信がないが、とにかくこのまま黙って待つ以外にはない。
一益は『兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久を睹ざるなり』と言っていた。つまり、少々拙い手ではあっても戦さは素早く切り上げろ、と。いたずらに戦費を浪費するなと教えてくれた。
(甲賀の戦さの心得は孫子が元となっている)
最近になり、そのことを知った。孫子は長期戦になり、戦費を浪費することで国力は低下する。長期戦が国の利益につながることはない、と説く。それが、今回は降伏してきた敵が餓死するまで待てとは。
(義兄上は如何お考えなのであろうか)
砦の中には門徒ばかりではなく、乱取りを恐れて砦に逃げ込んだ領民も多いだろう。それをすべて死滅させてしまっていいものだろうか。
「我等はいつまで砦を睨んでおればよろしいのやら」
町野左近をはじめ、家臣たちもだんだん嫌気がさしてきているらしく、全体に緊張感が薄れつつある。
午後から雨が降り始め、大筒、大鉄砲の銃声が聞こえなくなった。外にいた者たちも皆、家屋に入り、夜を過ごすことになった。
夜半になり、暴風雨になった。長島の雨は話に聞くよりも激しく、大川は見る間にその姿を変え、静かだった水面は次第に膨れ上がり、激しく濁った流れが勢いを増していった。雨はなおも降り続け、このままでは、目の前の川が堤を越え、溢れ出さんばかりの様相を呈している。
自然の猛威が迫りくる緊張感の中、足元の大地さえ不安に震えているように感じられた。水音が重く響き、まるで大河がその怒りを露わにし、すべてを押し流そうとするかのようだった。
「爺。物見を出し、川の様子を調べさせよ」
「ハッ。では早速に」
大雨のたびに上流から大量の雨水が流れ、下流となる長島は洪水に見舞われるという。この現象は長島独特のものだ。
(それゆえ守りの堅い地となるのか)
揖斐川を上ってきた阿武船の何艘かは座礁しているらしい。攻めにくい地であることは間違えない。
そんなことを考えていると、町野左近が慌てて帷幕に入ってきた。
「一大事でござります!砦の敵がこの雨に紛れて逃げておるようで」
「何、敵が逃げておると?」
慌てて外へ出てみるが、雨風が強く、よくわからない。
「この先、敵が雪崩をうって砦を飛び出し、鈴鹿の山々目指しておるようで」
「鳴り物を鳴らし、追撃せよ!」
忠三郎も慌てて甲冑を纏うと、早くも鬨の声が聞こえてきた。柴田勝家が気づいて敵を追撃しているようだ。
「者ども、後れを取るな!我等も敵を追うのじゃ」
帷幕を飛び出そうとしたとき、十名ほどが捕らわれ、家臣に連れられてきた。見れば一人は幼児ながら法衣を纏って乳母に抱かれ、もう一人は乳母に手を引かれている。他の者は侍女と従者と思われた。
「蒲生様、どうかお助けくだされ」
乳母らしき人物が縋るように命乞いする。
「爺、この者どもは?」
法衣に豪華な装飾が施されているところを見ると、身分の高い者のようだ。
町野左近は人目を憚るように忠三郎に近づき、小声でささやく。
「顕忍殿と顕恵殿じゃと、侍女がかように申しておりまする」
「な、なんと?」
願証寺五世顕忍。そして顕恵はその弟だ。大手柄であることは間違いない。
「若殿。如何なされます?殿にお知らせして…」
「いや、待て」
賢秀は希代の正直者だ。知れば勝家に告げるだろう。
(如何にすべきか)
逃がせば信長に逆らうことになる。僧とはいえ、敵将の子であることに変わりはない。
忠三郎の視線の先には、敵方の幼子を抱く乳母と、それを取り囲む侍女たちの姿。まだあどけない寝顔を見せるその幼子の命運は、今や忠三郎の手の中に握られている。生かすも殺すも、すべては忠三郎の決断次第。静寂の中で、幼い鼓動がかすかに響く。運命の天秤は微かに揺れ、忠三郎の心にもまた、一瞬の迷いがよぎる。しかし、この無垢なる者にも、戦さの無情は容赦なく襲いかかる。それが戦国の世ではないか。
そのとき、ふいに佐助の顔が浮かんだ。忠三郎の心の奥底に眠る優しさを信じ、無骨な者には作れない泰平の世を作ってくれと願った佐助。
(このようなときに限って、何故、佐助のことが思い返されるのか)
巡る季節を共にしながら、何気ない日々の中で交わした言葉が、今もなお忠三郎の胸に深く刻まれている。
(逃がそう)
幼い子供の一人二人を逃がしたところで、勝敗が左右されるとも思えない。
「我が家の家臣の中に、一向衆門徒がおるであろう?」
「あ、それは…あの、若殿は存じておいでで?」
町野左近も知っていたようだ。日野には一向衆の門徒が多い。一揆討伐で士気があがらないのはそのためだが、暗黙の了解で、家臣たちはそのことを決して口には出さない。
忠三郎も、家中に何人もの門徒がいることは分かっていたが、知っているとなると処罰しなくてはならなくなるので、あえて知らぬふりをしてきた。
「あの…若殿はもしや…上様の命に背き、この者どもを逃がすと…」
町野左近が驚いている。信長にとっては忠臣である忠三郎が、まさか信長の厳命に逆らうとは思いもよらぬことのようだ。
「今宵は雨風が強い。逃がすのであればまさに好機」
家臣を護衛につけ、密かに逃がすことにした。
「そのようなことをして万一、上様に知られては…」
「案ずるな。そうなったら、その時、考える」
「エッ!そ、そんな…」
町野左近が小刻みに震えているのは雨に濡れたからばかりではないだろう。
忠三郎は明るく笑って町野左近の背中を叩く。
「爺、よいか。供を二十人ほどつけ、峠を越え、音羽城に連れて行くようにと伝えよ。父上には内密にせい」
「ハ、ハハッ。もう、こうなれば、それがしも腹をくくりまする」
町野左近が無理やり笑顔を作り、顕忍一行を促して幔幕を出ていく。
(無事に峠を越え、日野にたどり着いてくれ)
一行が途中で捕縛されれば、忠三郎も咎められ、責めを負わされる。はたして無事に日野へたどり着いてくれるだろうか。
「この音は何であろうか」
将も兵も皆、驚いて音のするほうを見る。地を揺るがす爆音は伊勢湾の向こうから聞こえてくる。
「阿武船が到着したのかもしれぬ」
この音だけでも敵を威嚇し、士気を下げるには十分と思われた。見れば、十以上の阿武船と、その間にはそれよりも小さい軍船、さらに小回りのきく船が川を埋め尽くしている。全部で千艘まではいかないが、それに近い数ではないだろうか。
阿武船には大筒の他、海戦用に改良された大鉄砲がびっしりと並び、轟音を立てていた。
「いやはや、滝川様がお味方でようござりました。あのような恐ろしい砲撃を受けては、兵は皆、恐れおののき、逃げだすこと間違えなし」
町野左近が色を失ってそう言う。全くその通りで、船の上から撃ちかけられては逃げることも、戦うこともできず、無抵抗なままに滅ぼされかねない。
(これが義兄上のいう新しい戦さの形か)
大筒も恐ろしいが、これを成し得る織田家の財力にも肝をつぶした。
忠三郎は柴田勝家とともに大鳥居城の攻略に向かう。
大鳥居城には一揆勢が二千人ほど、籠城している。
再び陣営を構え、軍議のために勝家本陣へ向かうと、向こうに見慣れた顔が見えた。
「おぉ、鶴」
戦場においてもひとつも緊張感を漂わせずに現れたのは義太夫だ。軍議のために船から降りた一益についてきたのだろう。
「義兄上は?」
「もう中に入られた。しかし今日も暑いのう」
義太夫がバタバタと忙しく扇子を動かす間にも、阿武船からは大鉄砲、大筒の爆音が響き渡っている。
「それにしても恐ろしい音じゃ。皆、恐れておる。これならば一揆勢の作った砦など、一溜りもなかろう。さすがは義兄上じゃ」
忠三郎が感心して言うと、義太夫はいやいやと扇子を振る。
「あれは単なる虚仮威しじゃ」
「虚仮威し?」
「然様。恐ろしいのは音だけ。中には火薬が入っておらぬ。あれはのう、ボオンと恐ろしい音を立てて一貫ほどの鉄球を飛ばし、櫓にぶつけて壊すためにある。空飛ぶ破城槌のようなものよ」
建造物にぶつかっても爆発するわけでもないので、吹き飛ばすような威力もない。帰するところ、ただ巨大な鉄の玉を飛ばしているだと言う。
「では火攻めには使えぬと?」
「燃えぬからのう。燃やすなら火矢のほうが効果がある」
「何、火矢よりも劣ると?」
それでは新しい戦さどころか、これまでと何ら変わりがない。一益は大筒を作る時に『敵も味方も変える恐ろしい武器』と言っていた。それが、火矢よりも劣るとは。
「なにゆえ、時と金をかけて、そのようなものを造らせた?大筒に籠める弾に火薬を詰めればよいではないか」
「殿が考えに考え抜いた末に、そうされたのじゃ」
「義兄上が?」
「殿が考案した大筒が使われるのはこの戦さに限ったことではない。今後の戦さでも使われるようになる」
その結果がどれほど深刻なものとなるかを設計段階から予め想定することは難しい。老若男女を問わぬ殺戮に使われる可能性を考えると、その責めをどのように受け止めるべきか、複雑な倫理的葛藤を抱え、考えぬいた末の結論が、鉄球に火薬を仕込まないことだった。
「砦に籠る敵が音に驚き、逃げてくれれば、楽に砦を手に入れることができる。それで十分に目的は果たされる」
「されどこの戦さの目的は…」
この戦さの目的は敵の殲滅。一人も逃さず討ち果たせと厳命が下されている。にも拘わらず、敵を逃がすこと前提とは如何なることか。
「遠くの敵を倒すのであれば、火縄銃よりも弓の方が勝っておることくらい、存じておろう?」
それは知っている。火縄銃では敵が離れれば離れるほど命中率が下がる。銃を持つのは、さして訓練されていない足軽だ。敵が遠ければほとんど当たらない。
「鉄砲が弓矢に勝るのは、音じゃ」
戦さにおいて大切なのは敵兵を倒すことではなく、震え上がらせることにある、と義太夫は言う。
「それともう一つ。向かってくる敵に撃つよりも、背を向けて逃げる敵に向かって撃つほうが命中率があがる」
「近づいてくる敵を撃つより、遠ざかる敵を撃つほうが弾が当たると、そういうておるのか?」
「不可思議と思うか?」
不可思議だ。遠ざかればそれだけ命中率が下がる。
「前にも話した筈。敵に正面から見据えられると己でも気づかぬうちに反射的に的を外す。人とはそのようなものじゃ。まぁ、いずれにせよ、砦の連中は早々と降伏を申し出てくるであろうて」
話していると、幔幕から織田家の家臣たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。
「あれはもしや…早、軍議が終わったのか」
話し込んでいるうちに忘れていた。義太夫のせいで、また軍議をサボることになってしまった。
「たまには、よいではないか。終わったものは仕方がない。気に病むな」
義太夫は意に介していないようだが、たまにどころか、義太夫といると毎回、軍議を欠席している。
(致し方ない。柴田殿に詫びを入れて戻るか…。それにしても…)
大筒の弾がただの鉄球とは。兵具改良は一益に一任されている。言われなければ気づかないことかもしれないが、それにしても一益の大胆さには舌を巻く。
しかし、大筒が砦を壊すだけだとしても、信長が長島に籠る一向衆の殲滅を諦めるとは思えない。大筒が駄目なら次の方法を取るのではないだろうか。
忠三郎は柴田勝家、佐久間信盛とともに大鳥居砦を包囲して砦の兵糧が尽きるのを待った。阿武船からは昼となく夜となく、大筒が撃ち込まれてはいるが、目立った戦闘がないまま、ついに八月になった。
大鳥居砦では餓死者が出ているという情報が入ってきた数日後、降伏の使者が現れた。
柴田勝家は信長本陣に使者をたてたが、思った通り、信長からは兵糧攻めを続行せよ、との命令が下った。
「降伏を許さず兵糧攻めせよとは、上様は砦の門徒がみな、飢えて死ぬまで待てと、そう仰せで?」
信長の意図がわからず、家臣たちはみな、首を傾げる。
「そう仰せなのであろう」
改めて聞かれると自信がないが、とにかくこのまま黙って待つ以外にはない。
一益は『兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久を睹ざるなり』と言っていた。つまり、少々拙い手ではあっても戦さは素早く切り上げろ、と。いたずらに戦費を浪費するなと教えてくれた。
(甲賀の戦さの心得は孫子が元となっている)
最近になり、そのことを知った。孫子は長期戦になり、戦費を浪費することで国力は低下する。長期戦が国の利益につながることはない、と説く。それが、今回は降伏してきた敵が餓死するまで待てとは。
(義兄上は如何お考えなのであろうか)
砦の中には門徒ばかりではなく、乱取りを恐れて砦に逃げ込んだ領民も多いだろう。それをすべて死滅させてしまっていいものだろうか。
「我等はいつまで砦を睨んでおればよろしいのやら」
町野左近をはじめ、家臣たちもだんだん嫌気がさしてきているらしく、全体に緊張感が薄れつつある。
午後から雨が降り始め、大筒、大鉄砲の銃声が聞こえなくなった。外にいた者たちも皆、家屋に入り、夜を過ごすことになった。
夜半になり、暴風雨になった。長島の雨は話に聞くよりも激しく、大川は見る間にその姿を変え、静かだった水面は次第に膨れ上がり、激しく濁った流れが勢いを増していった。雨はなおも降り続け、このままでは、目の前の川が堤を越え、溢れ出さんばかりの様相を呈している。
自然の猛威が迫りくる緊張感の中、足元の大地さえ不安に震えているように感じられた。水音が重く響き、まるで大河がその怒りを露わにし、すべてを押し流そうとするかのようだった。
「爺。物見を出し、川の様子を調べさせよ」
「ハッ。では早速に」
大雨のたびに上流から大量の雨水が流れ、下流となる長島は洪水に見舞われるという。この現象は長島独特のものだ。
(それゆえ守りの堅い地となるのか)
揖斐川を上ってきた阿武船の何艘かは座礁しているらしい。攻めにくい地であることは間違えない。
そんなことを考えていると、町野左近が慌てて帷幕に入ってきた。
「一大事でござります!砦の敵がこの雨に紛れて逃げておるようで」
「何、敵が逃げておると?」
慌てて外へ出てみるが、雨風が強く、よくわからない。
「この先、敵が雪崩をうって砦を飛び出し、鈴鹿の山々目指しておるようで」
「鳴り物を鳴らし、追撃せよ!」
忠三郎も慌てて甲冑を纏うと、早くも鬨の声が聞こえてきた。柴田勝家が気づいて敵を追撃しているようだ。
「者ども、後れを取るな!我等も敵を追うのじゃ」
帷幕を飛び出そうとしたとき、十名ほどが捕らわれ、家臣に連れられてきた。見れば一人は幼児ながら法衣を纏って乳母に抱かれ、もう一人は乳母に手を引かれている。他の者は侍女と従者と思われた。
「蒲生様、どうかお助けくだされ」
乳母らしき人物が縋るように命乞いする。
「爺、この者どもは?」
法衣に豪華な装飾が施されているところを見ると、身分の高い者のようだ。
町野左近は人目を憚るように忠三郎に近づき、小声でささやく。
「顕忍殿と顕恵殿じゃと、侍女がかように申しておりまする」
「な、なんと?」
願証寺五世顕忍。そして顕恵はその弟だ。大手柄であることは間違いない。
「若殿。如何なされます?殿にお知らせして…」
「いや、待て」
賢秀は希代の正直者だ。知れば勝家に告げるだろう。
(如何にすべきか)
逃がせば信長に逆らうことになる。僧とはいえ、敵将の子であることに変わりはない。
忠三郎の視線の先には、敵方の幼子を抱く乳母と、それを取り囲む侍女たちの姿。まだあどけない寝顔を見せるその幼子の命運は、今や忠三郎の手の中に握られている。生かすも殺すも、すべては忠三郎の決断次第。静寂の中で、幼い鼓動がかすかに響く。運命の天秤は微かに揺れ、忠三郎の心にもまた、一瞬の迷いがよぎる。しかし、この無垢なる者にも、戦さの無情は容赦なく襲いかかる。それが戦国の世ではないか。
そのとき、ふいに佐助の顔が浮かんだ。忠三郎の心の奥底に眠る優しさを信じ、無骨な者には作れない泰平の世を作ってくれと願った佐助。
(このようなときに限って、何故、佐助のことが思い返されるのか)
巡る季節を共にしながら、何気ない日々の中で交わした言葉が、今もなお忠三郎の胸に深く刻まれている。
(逃がそう)
幼い子供の一人二人を逃がしたところで、勝敗が左右されるとも思えない。
「我が家の家臣の中に、一向衆門徒がおるであろう?」
「あ、それは…あの、若殿は存じておいでで?」
町野左近も知っていたようだ。日野には一向衆の門徒が多い。一揆討伐で士気があがらないのはそのためだが、暗黙の了解で、家臣たちはそのことを決して口には出さない。
忠三郎も、家中に何人もの門徒がいることは分かっていたが、知っているとなると処罰しなくてはならなくなるので、あえて知らぬふりをしてきた。
「あの…若殿はもしや…上様の命に背き、この者どもを逃がすと…」
町野左近が驚いている。信長にとっては忠臣である忠三郎が、まさか信長の厳命に逆らうとは思いもよらぬことのようだ。
「今宵は雨風が強い。逃がすのであればまさに好機」
家臣を護衛につけ、密かに逃がすことにした。
「そのようなことをして万一、上様に知られては…」
「案ずるな。そうなったら、その時、考える」
「エッ!そ、そんな…」
町野左近が小刻みに震えているのは雨に濡れたからばかりではないだろう。
忠三郎は明るく笑って町野左近の背中を叩く。
「爺、よいか。供を二十人ほどつけ、峠を越え、音羽城に連れて行くようにと伝えよ。父上には内密にせい」
「ハ、ハハッ。もう、こうなれば、それがしも腹をくくりまする」
町野左近が無理やり笑顔を作り、顕忍一行を促して幔幕を出ていく。
(無事に峠を越え、日野にたどり着いてくれ)
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アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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