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10.越前の白き想い
10-3. 義太夫の謀(はかりごと)
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それから義太夫は、可笑しな行動ばかりが目に付くようになった。
作成途中の大筒の図面に膳をひっくり返したり、鉄砲鍛冶のところに図面を持っていく途中で紛失したり、完成した大筒を持ち帰る途上で荷台から川に落としたりと、失敗してばかりで、普段から義太夫の奇行に慣れている筈の家中の者も皆、呆れ、何度となく一益に訴えた。
「全く義太夫といると手間ばかりかかり、我らはとんと迷惑をしておる次第」
佐治新介や道家彦八郎が義太夫の失敗を挙げ連ねるのを聞いていて、忠三郎は、ふと気づいた。
(ウサギを追って図面を川に落としたのも…)
意図的な行為だったのだろう。しかし助九郎に真相を話すことができなかったため、夜遅くまで筆を取り、童の落書きの如き図面を書いていた。
義太夫は失敗するたびに叱られたり、厠掃除を命じられたり、外出禁止を命じられたかと思うと、今度は遠国まで使いを命じられたりと罰を与えられている。
真相を知る忠三郎は、見ていてだんだん痛々しくなってきた。
「義太夫、そろそろ諦めてはどうか。如何に義兄上といえども、これ以上、おかしなことをしては…」
蟹江城代の地位まで失いかねない。そう案じて声をかけると、厠掃除を終えて出てきた義太夫は、ひとつも堪えていないらしく、可笑しそうに笑った。
「案ずるな。わしは皆が思うている以上に諦め悪く、しぶとい漢じゃ」
それは言われなくても分かっていたが、義太夫が粘れば粘るほど、周りの者のイライラが募るばかりだ。いかに義太夫といえども、こんなことを一生続けることなどできない。なんと言ってやめさせようかと思いあぐねていた。
「義太夫!」
佐治新介が怒り心頭で走ってきた。
「如何した?」
「日野から持ち帰った大筒の弾がない。何処へやった?」
新介の顔は真っ赤に染まり、拳を力強く握りしめている。これはいつ爆発してもおかしくはない。どうなることかとハラハラして見ていると、
「ん?弾?…おぉ、あれか。あれは峠を越える折に誤って谷底に落としてしもうた」
新介が本気で怒っているのに、義太夫は平然とうそぶく。
「な、何?谷底に落とした?これから試し撃ちしようというときに、弾がのうて、如何様にして試し撃ちするのじゃ!」
「おぉ、然様か。では致し方ない。蔵に空包があろう。あれを使うては如何じゃ」
空包とは発射音だけが出る弾丸のことだ。試し撃ちに空包を使えとは、なんとも人を食った言い分だが、
(義太夫。新介はまことに怒っておる。これ以上、怒らせるな)
忠三郎は焦って義太夫の袖を引こうとした。その瞬間、新介の怒りの鉄拳が火を噴き、義太夫の頬を直撃した。まともに食らった義太夫は肥溜めの中まで飛ばされた。
「この戯け者が!おのれは我が家の恥さらしじゃ!」
「何をするんじゃい!」
怒った義太夫が肥溜めから飛び上がり、新介に掴みかかった。
「ふ、二人とも…」
止めに入りたかったが、糞尿塗れで揉み合う二人に近づくことは躊躇われる。
「誰か!誰か来てくれ!」
騒ぎを聞きつけて、何事が起きたかと人が続々と集まってくる。
「義太夫殿と新介殿!…や、やや、これは…」
二人の放つ悪臭に皆、近寄るのを躊躇った。
「よりによって、当家の家老ともあろうお二方が、なんと情けないお姿か…」
助太郎が唖然としている。
「助九郎、止めてくれ」
驚いて立ち尽くす助九郎に声をかけると
「エッ!そ、それがしが?!いやはや、これはちと…こちらが手傷を負うものかと…」
誰も彼も皆、どうしようかと顔を見合わせる。井戸から水でも汲んでこようかと思ったその時、突然、すぐ傍で鋭い音が響いた。鳥が驚いて空へと飛び立つ。
居並ぶ皆が驚き、義太夫と新介もハタと音のする方を見た。
(義兄上…)
一益が煙のたなびく火縄銃を片手に立っていた。空に向かって撃ったのだろう。
「二人とも外へ行き、川で行水して参れ」
冷ややかにそういうと、何事もなかったかのように居間に戻っていった。
皆が唖然として見守る中、義太夫と新介はまだ収まりがつかないようだったが、二人並んで屋敷を出ていった。
外が暗くなり、川から戻ってきた義太夫は、心配して近づく忠三郎に笑顔を見せた。
「着替えて、殿に詫びてくる」
左の瞼と頬が赤く腫れあがり、前歯が一本欠けて、なんとも情けない顔になっている。隣の新介はというと、こちらも両瞼が腫れ、新介であることも分からないほどに酷い顔をしていた。どちらも加減することなく、殴り合ったようだ。刀を抜くことがなかっただけでもよしとすべきか。
六月とはいえ岐阜の夜は寒い。川の水は冷たかったらしく、義太夫はくしゃみしながら同じ敷地内にある長屋に向かっていく。とぼとぼと歩くその後姿は、心なしか幾分寂し気だった。
(義太夫…)
これから、また、一益に叱られにいかねばならない。どれほど叱られても、一向に堪える様子もなく、飄々としてはいるが、その心のうちは如何ばかりか。
(最早、黙って見ていることはできぬ)
忠三郎は意を決して、一益の元へと向かった。
忠三郎は思いつめた顔をして一益の前に進み出た。
(どう話を切り出そうか)
ちらりと一益の顔色を伺う。常に背筋を伸ばし、腕をきっちりと組んだ姿勢には、余計なものを寄せ付けない堅牢な壁のような威圧感がある。
「義兄上は管鮑之交を存じておられまするか?」
春秋時代の管仲と友人の鮑叔牙。二人はともに商売を始めるが、貧しかった管仲は分け前を多めに取る。そのことに気付いた鮑叔牙は管仲を咎めず、貧さゆえにやむを得ず多くを取っていることに理解を示す。
やがて、斉国の王位を巡る争いが起き、管仲は公子糾に仕え、鮑叔牙は公子小白に仕えるが、最終的に公子小白が斉の王となり、管仲は捕虜となる。
このとき、鮑叔牙は公子小白に『管仲こそ国にとって必要不可欠な人材である』と強く説いた。管仲は鮑叔牙の推挙で斉の宰相となり、斉を強国に育て上げる。
鮑叔牙は、管仲の弱さや行いを責めることなく、管仲の心根と隠れた才を信じ続けた。また、管仲はその友の信頼に応え、己の才能を開花させた。この二人の関係は、『真の友とは、困難なときにも互いを信じ、支え合うもの』という教訓として、多くの人に感銘を与えた。
「何が言いたい、鶴?」
どう思ったのか、怒りを感じているのか、それともただ静かに観察しているだけなのか、表情や声色からは伺い知ることができない。
「あれは全て、義兄上のため。義太夫はただひたすらに義兄上のために、戯けたことをしておるのでございます」
元々がうつけ者であるため、そうとも言い難い部分もある。少し大げさかとは思ったが、ここはあえて、大きく言ってみることにした。
「わしのため?あの喧嘩騒ぎが?」
いつもながらの鋭い視線だ。奥に潜む感情を読み取ることは難しい。一益に問い返されると、喧嘩騒ぎそのものを一益のためとは言い難いと思わされた。
(どうも上手く説明がつかぬ)
もう少し真面目な人間であってくれれば、庇いやすいのだが。
「義太夫は義兄上の邪魔をして、なんとか大筒の改良を止めようとしておるのでござります」
一益は何も言わない。笑うこともなければ、眉をひそめることもなく、じっと忠三郎を凝視している。
「義兄上が上様への忠義、そして余すところなく己の力を発揮するために武器を改良していることを義太夫はよく存じておるものかと。されど、その一方で義兄上は戦さに大義などはないと仰せられる。戦さが無道であれば、その戦さにおいて、敵に降伏の機会さえ与えず、一息に多くの敵を倒す武器が無道でなくて何でありましょう。敵の姿を見定めることなく使う武器により、憐れな民がその巻き添えを食うことは火を見るよりも明らかなこと。義太夫は義兄上のまことの心の内を信じておればこそ、義兄上の無道な行いを止めようとしておるとは思われませぬか」
うまく義太夫の心の内を説明できただろうか。一益が何も言わず、黙って忠三郎を見ているだけなので、分かってもらえたのかどうかも分からない。
息詰まる空気の中、目元にふと影が差したように見えた。それも一瞬のことで、再び厳しく引き締まった表情に戻ると、ようやく忠三郎から目を逸らした。
扇子を手に持ち、何かを考えるように一点を見つめるその心の奥底で、何が渦巻いているのかは知る由もない。
「殿。義太夫でござります」
襖の外から義太夫の声がした。
「入れ」
襖がそっと開かれ、着替えて身なりを整えた義太夫がバツ悪そうな顔を見せる。
「殿。あの…」
義太夫が恐る恐る声をかけた。
「そなたを呼ぼうと思うていたところじゃ。そこへ座れ」
一益が忠三郎の隣を指し示すと、義太夫はいつになく畏まって忠三郎の隣に膝を進めた。
「鶴から話を聞いた」
「話…とは…」
「義太夫、それから鶴にも言って聞かせることがある」
忠三郎と義太夫は顔を見合わせ、どんな叱責を受けるのかと息を飲む。
「上様のお考えをそなたにも聞かせよう」
「ハッ。上様の…」
「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久を睹ざるなり。戦さというのは多少、拙い戦略であろうとも時をかけてはならぬことは、そなたらもよう心得ておろう?」
戦費の浪費は国力低下に繋がる。そのことは二人が幾度となく教えられたことだ。
「戦さが長期化し、味方の損害著しいときには、その国の民の命を無作為に奪うことで戦果を挙げようとするもの」
一益の目は冷たく、氷のように澄んでいる。放たれる言葉には感情がなく、ただ事実と戦略が織り交ぜられているだけだ。
「それは帰するところ、意図して領民を攻撃対象とすると?」
「然様。そしてもう一つ。敵を攻め滅ぼしたとしても、その後の領国統治が難しいと考える場合。この時は戦さのはじめから、民に狙いを定め、殲滅することで、その後の統治をやりやすくする。それゆえに上様は長島でも根切を命じられた」
長島では降伏してきた一揆勢が騙し討ちに気付き、反撃したことで思わぬ損害がでた。その結果、逃げ場をふさいで火をかけ、砦ごと焼き殺すという冷酷な手段を取ることになった。
ここまで聞いて、一益の言わんとしていることが分かり、思わず息を飲む。
(また再び、あのような戦さを…)
胸の奥からじわじわと冷たい感覚が広がっていくのを感じた。氷の刃が背骨を這い上がるかのように、背筋が凍りつく。
「最初から和睦もなく、降伏を許すこともない。そこにいる者は女子供問わず、一人も逃さず討ち滅ぼすと。それゆえに武器などは何を使おうとも結果は同じと…」
戦さを長期化させないために武器を改良しているだけで、たとえ、武器の改良がなかったとしても、根切に変わりはない。そう言いたいようだ。
「では次の戦さは…」
「越前。すでに近江から越前に至る道の整備は進み、大軍を率いて攻め入る支度は終えておる」
一度、統治に失敗し、百姓の治める国となった越前。その後、隣国の加賀、大坂本願寺から坊官が送られ、正式に本願寺の直轄領となった。
部屋の空気は急に重たくなり、肌を突き刺すような冷気が漂っているように感じられた。義太夫を見ると、冷や汗がじわりと額に滲みている。
「義太夫。そなたらに何も話さず命じていたため、いらぬ気を遣わせた。されど、上様はわしの作る武器の出来如何で考えを変えるお方ではない。それゆえ、もう邪魔立てするな」
息詰まる空気を打ち破るように、一益が義太夫に声をかけた。その声色は思いのほか柔らかかった。忠三郎はホッと胸をなでおろし、義太夫は床板に額を擦り付けて平伏した。
詰所に戻ってからも、義太夫は珍しく黙ったままだ。
(ついに越前へ攻め入ることになるとは)
越前に逃れたというおさちと子の行方が掴めていない。
「おさちと我が子のこと。義兄上は越前にいると知りながら、何も仰せにはならなかった。行方を捜し、連れ帰りたい」
一向宗に従う民は門徒だけではなく、寺内特権を得るために従っている者も少なくはない。まして一向宗が占拠した越前では猶の事。しかし一向宗と見なされた者は女子供でも容赦されることはない。織田勢が攻め入る前に、落ち延びてくれればいいが、歩くこともままならないおさちが、幼い子を連れて逃げることができるだろうか。
戦禍に飲まれる前に、二人を救い出す手立てを考えたい。
「そのことであるが、いろいろと腑に落ちぬことがある」
「腑に落ちぬ?」
「殿は何も仰せにはならなかった。敢えて触れなかったというか…もしや武藤殿から二人の行方について、何か話があったやもしれぬ」
武藤宗右衛門が二人の行方を聞いていて、一益は敢えてそれを隠しているのではないか、義太夫はそう思ったようだ。
「では武藤殿に確かめて…」
「やめておけ。我らに話すはずもなし。それよりも…武藤殿の献策により、越前の一向宗突き崩しのため、我が家の数名が動いておる」
滝川家の佐治新介、道家彦八郎らが中心となり、本願寺以外の宗派に対して織田家に味方するようにと揺さぶりをかけている。
「新介であれば、何か存じておろう」
何か知っていたとしても、殴り合いの喧嘩をしたばかり。教えてくれるとは思えない。
忠三郎ががっくりと肩を落とすと、義太夫は明るく笑って
「気落ちするな。ほとぼりが冷めたころに、わしが聞きだしておく。それよりも怪我には酒じゃ。炊き屋から酒を持ってくる」
何かというと酒というのは忠三郎と変わらない。本当に任せておいて大丈夫なのだろうか。
作成途中の大筒の図面に膳をひっくり返したり、鉄砲鍛冶のところに図面を持っていく途中で紛失したり、完成した大筒を持ち帰る途上で荷台から川に落としたりと、失敗してばかりで、普段から義太夫の奇行に慣れている筈の家中の者も皆、呆れ、何度となく一益に訴えた。
「全く義太夫といると手間ばかりかかり、我らはとんと迷惑をしておる次第」
佐治新介や道家彦八郎が義太夫の失敗を挙げ連ねるのを聞いていて、忠三郎は、ふと気づいた。
(ウサギを追って図面を川に落としたのも…)
意図的な行為だったのだろう。しかし助九郎に真相を話すことができなかったため、夜遅くまで筆を取り、童の落書きの如き図面を書いていた。
義太夫は失敗するたびに叱られたり、厠掃除を命じられたり、外出禁止を命じられたかと思うと、今度は遠国まで使いを命じられたりと罰を与えられている。
真相を知る忠三郎は、見ていてだんだん痛々しくなってきた。
「義太夫、そろそろ諦めてはどうか。如何に義兄上といえども、これ以上、おかしなことをしては…」
蟹江城代の地位まで失いかねない。そう案じて声をかけると、厠掃除を終えて出てきた義太夫は、ひとつも堪えていないらしく、可笑しそうに笑った。
「案ずるな。わしは皆が思うている以上に諦め悪く、しぶとい漢じゃ」
それは言われなくても分かっていたが、義太夫が粘れば粘るほど、周りの者のイライラが募るばかりだ。いかに義太夫といえども、こんなことを一生続けることなどできない。なんと言ってやめさせようかと思いあぐねていた。
「義太夫!」
佐治新介が怒り心頭で走ってきた。
「如何した?」
「日野から持ち帰った大筒の弾がない。何処へやった?」
新介の顔は真っ赤に染まり、拳を力強く握りしめている。これはいつ爆発してもおかしくはない。どうなることかとハラハラして見ていると、
「ん?弾?…おぉ、あれか。あれは峠を越える折に誤って谷底に落としてしもうた」
新介が本気で怒っているのに、義太夫は平然とうそぶく。
「な、何?谷底に落とした?これから試し撃ちしようというときに、弾がのうて、如何様にして試し撃ちするのじゃ!」
「おぉ、然様か。では致し方ない。蔵に空包があろう。あれを使うては如何じゃ」
空包とは発射音だけが出る弾丸のことだ。試し撃ちに空包を使えとは、なんとも人を食った言い分だが、
(義太夫。新介はまことに怒っておる。これ以上、怒らせるな)
忠三郎は焦って義太夫の袖を引こうとした。その瞬間、新介の怒りの鉄拳が火を噴き、義太夫の頬を直撃した。まともに食らった義太夫は肥溜めの中まで飛ばされた。
「この戯け者が!おのれは我が家の恥さらしじゃ!」
「何をするんじゃい!」
怒った義太夫が肥溜めから飛び上がり、新介に掴みかかった。
「ふ、二人とも…」
止めに入りたかったが、糞尿塗れで揉み合う二人に近づくことは躊躇われる。
「誰か!誰か来てくれ!」
騒ぎを聞きつけて、何事が起きたかと人が続々と集まってくる。
「義太夫殿と新介殿!…や、やや、これは…」
二人の放つ悪臭に皆、近寄るのを躊躇った。
「よりによって、当家の家老ともあろうお二方が、なんと情けないお姿か…」
助太郎が唖然としている。
「助九郎、止めてくれ」
驚いて立ち尽くす助九郎に声をかけると
「エッ!そ、それがしが?!いやはや、これはちと…こちらが手傷を負うものかと…」
誰も彼も皆、どうしようかと顔を見合わせる。井戸から水でも汲んでこようかと思ったその時、突然、すぐ傍で鋭い音が響いた。鳥が驚いて空へと飛び立つ。
居並ぶ皆が驚き、義太夫と新介もハタと音のする方を見た。
(義兄上…)
一益が煙のたなびく火縄銃を片手に立っていた。空に向かって撃ったのだろう。
「二人とも外へ行き、川で行水して参れ」
冷ややかにそういうと、何事もなかったかのように居間に戻っていった。
皆が唖然として見守る中、義太夫と新介はまだ収まりがつかないようだったが、二人並んで屋敷を出ていった。
外が暗くなり、川から戻ってきた義太夫は、心配して近づく忠三郎に笑顔を見せた。
「着替えて、殿に詫びてくる」
左の瞼と頬が赤く腫れあがり、前歯が一本欠けて、なんとも情けない顔になっている。隣の新介はというと、こちらも両瞼が腫れ、新介であることも分からないほどに酷い顔をしていた。どちらも加減することなく、殴り合ったようだ。刀を抜くことがなかっただけでもよしとすべきか。
六月とはいえ岐阜の夜は寒い。川の水は冷たかったらしく、義太夫はくしゃみしながら同じ敷地内にある長屋に向かっていく。とぼとぼと歩くその後姿は、心なしか幾分寂し気だった。
(義太夫…)
これから、また、一益に叱られにいかねばならない。どれほど叱られても、一向に堪える様子もなく、飄々としてはいるが、その心のうちは如何ばかりか。
(最早、黙って見ていることはできぬ)
忠三郎は意を決して、一益の元へと向かった。
忠三郎は思いつめた顔をして一益の前に進み出た。
(どう話を切り出そうか)
ちらりと一益の顔色を伺う。常に背筋を伸ばし、腕をきっちりと組んだ姿勢には、余計なものを寄せ付けない堅牢な壁のような威圧感がある。
「義兄上は管鮑之交を存じておられまするか?」
春秋時代の管仲と友人の鮑叔牙。二人はともに商売を始めるが、貧しかった管仲は分け前を多めに取る。そのことに気付いた鮑叔牙は管仲を咎めず、貧さゆえにやむを得ず多くを取っていることに理解を示す。
やがて、斉国の王位を巡る争いが起き、管仲は公子糾に仕え、鮑叔牙は公子小白に仕えるが、最終的に公子小白が斉の王となり、管仲は捕虜となる。
このとき、鮑叔牙は公子小白に『管仲こそ国にとって必要不可欠な人材である』と強く説いた。管仲は鮑叔牙の推挙で斉の宰相となり、斉を強国に育て上げる。
鮑叔牙は、管仲の弱さや行いを責めることなく、管仲の心根と隠れた才を信じ続けた。また、管仲はその友の信頼に応え、己の才能を開花させた。この二人の関係は、『真の友とは、困難なときにも互いを信じ、支え合うもの』という教訓として、多くの人に感銘を与えた。
「何が言いたい、鶴?」
どう思ったのか、怒りを感じているのか、それともただ静かに観察しているだけなのか、表情や声色からは伺い知ることができない。
「あれは全て、義兄上のため。義太夫はただひたすらに義兄上のために、戯けたことをしておるのでございます」
元々がうつけ者であるため、そうとも言い難い部分もある。少し大げさかとは思ったが、ここはあえて、大きく言ってみることにした。
「わしのため?あの喧嘩騒ぎが?」
いつもながらの鋭い視線だ。奥に潜む感情を読み取ることは難しい。一益に問い返されると、喧嘩騒ぎそのものを一益のためとは言い難いと思わされた。
(どうも上手く説明がつかぬ)
もう少し真面目な人間であってくれれば、庇いやすいのだが。
「義太夫は義兄上の邪魔をして、なんとか大筒の改良を止めようとしておるのでござります」
一益は何も言わない。笑うこともなければ、眉をひそめることもなく、じっと忠三郎を凝視している。
「義兄上が上様への忠義、そして余すところなく己の力を発揮するために武器を改良していることを義太夫はよく存じておるものかと。されど、その一方で義兄上は戦さに大義などはないと仰せられる。戦さが無道であれば、その戦さにおいて、敵に降伏の機会さえ与えず、一息に多くの敵を倒す武器が無道でなくて何でありましょう。敵の姿を見定めることなく使う武器により、憐れな民がその巻き添えを食うことは火を見るよりも明らかなこと。義太夫は義兄上のまことの心の内を信じておればこそ、義兄上の無道な行いを止めようとしておるとは思われませぬか」
うまく義太夫の心の内を説明できただろうか。一益が何も言わず、黙って忠三郎を見ているだけなので、分かってもらえたのかどうかも分からない。
息詰まる空気の中、目元にふと影が差したように見えた。それも一瞬のことで、再び厳しく引き締まった表情に戻ると、ようやく忠三郎から目を逸らした。
扇子を手に持ち、何かを考えるように一点を見つめるその心の奥底で、何が渦巻いているのかは知る由もない。
「殿。義太夫でござります」
襖の外から義太夫の声がした。
「入れ」
襖がそっと開かれ、着替えて身なりを整えた義太夫がバツ悪そうな顔を見せる。
「殿。あの…」
義太夫が恐る恐る声をかけた。
「そなたを呼ぼうと思うていたところじゃ。そこへ座れ」
一益が忠三郎の隣を指し示すと、義太夫はいつになく畏まって忠三郎の隣に膝を進めた。
「鶴から話を聞いた」
「話…とは…」
「義太夫、それから鶴にも言って聞かせることがある」
忠三郎と義太夫は顔を見合わせ、どんな叱責を受けるのかと息を飲む。
「上様のお考えをそなたにも聞かせよう」
「ハッ。上様の…」
「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久を睹ざるなり。戦さというのは多少、拙い戦略であろうとも時をかけてはならぬことは、そなたらもよう心得ておろう?」
戦費の浪費は国力低下に繋がる。そのことは二人が幾度となく教えられたことだ。
「戦さが長期化し、味方の損害著しいときには、その国の民の命を無作為に奪うことで戦果を挙げようとするもの」
一益の目は冷たく、氷のように澄んでいる。放たれる言葉には感情がなく、ただ事実と戦略が織り交ぜられているだけだ。
「それは帰するところ、意図して領民を攻撃対象とすると?」
「然様。そしてもう一つ。敵を攻め滅ぼしたとしても、その後の領国統治が難しいと考える場合。この時は戦さのはじめから、民に狙いを定め、殲滅することで、その後の統治をやりやすくする。それゆえに上様は長島でも根切を命じられた」
長島では降伏してきた一揆勢が騙し討ちに気付き、反撃したことで思わぬ損害がでた。その結果、逃げ場をふさいで火をかけ、砦ごと焼き殺すという冷酷な手段を取ることになった。
ここまで聞いて、一益の言わんとしていることが分かり、思わず息を飲む。
(また再び、あのような戦さを…)
胸の奥からじわじわと冷たい感覚が広がっていくのを感じた。氷の刃が背骨を這い上がるかのように、背筋が凍りつく。
「最初から和睦もなく、降伏を許すこともない。そこにいる者は女子供問わず、一人も逃さず討ち滅ぼすと。それゆえに武器などは何を使おうとも結果は同じと…」
戦さを長期化させないために武器を改良しているだけで、たとえ、武器の改良がなかったとしても、根切に変わりはない。そう言いたいようだ。
「では次の戦さは…」
「越前。すでに近江から越前に至る道の整備は進み、大軍を率いて攻め入る支度は終えておる」
一度、統治に失敗し、百姓の治める国となった越前。その後、隣国の加賀、大坂本願寺から坊官が送られ、正式に本願寺の直轄領となった。
部屋の空気は急に重たくなり、肌を突き刺すような冷気が漂っているように感じられた。義太夫を見ると、冷や汗がじわりと額に滲みている。
「義太夫。そなたらに何も話さず命じていたため、いらぬ気を遣わせた。されど、上様はわしの作る武器の出来如何で考えを変えるお方ではない。それゆえ、もう邪魔立てするな」
息詰まる空気を打ち破るように、一益が義太夫に声をかけた。その声色は思いのほか柔らかかった。忠三郎はホッと胸をなでおろし、義太夫は床板に額を擦り付けて平伏した。
詰所に戻ってからも、義太夫は珍しく黙ったままだ。
(ついに越前へ攻め入ることになるとは)
越前に逃れたというおさちと子の行方が掴めていない。
「おさちと我が子のこと。義兄上は越前にいると知りながら、何も仰せにはならなかった。行方を捜し、連れ帰りたい」
一向宗に従う民は門徒だけではなく、寺内特権を得るために従っている者も少なくはない。まして一向宗が占拠した越前では猶の事。しかし一向宗と見なされた者は女子供でも容赦されることはない。織田勢が攻め入る前に、落ち延びてくれればいいが、歩くこともままならないおさちが、幼い子を連れて逃げることができるだろうか。
戦禍に飲まれる前に、二人を救い出す手立てを考えたい。
「そのことであるが、いろいろと腑に落ちぬことがある」
「腑に落ちぬ?」
「殿は何も仰せにはならなかった。敢えて触れなかったというか…もしや武藤殿から二人の行方について、何か話があったやもしれぬ」
武藤宗右衛門が二人の行方を聞いていて、一益は敢えてそれを隠しているのではないか、義太夫はそう思ったようだ。
「では武藤殿に確かめて…」
「やめておけ。我らに話すはずもなし。それよりも…武藤殿の献策により、越前の一向宗突き崩しのため、我が家の数名が動いておる」
滝川家の佐治新介、道家彦八郎らが中心となり、本願寺以外の宗派に対して織田家に味方するようにと揺さぶりをかけている。
「新介であれば、何か存じておろう」
何か知っていたとしても、殴り合いの喧嘩をしたばかり。教えてくれるとは思えない。
忠三郎ががっくりと肩を落とすと、義太夫は明るく笑って
「気落ちするな。ほとぼりが冷めたころに、わしが聞きだしておく。それよりも怪我には酒じゃ。炊き屋から酒を持ってくる」
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その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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