獅子の末裔

卯花月影

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12.紀州の烏

12-6. 明鏡止水

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 紀州で雑賀衆の小競り合いが続いている中、天正六年の正月を迎えた。安土築城が始まって、ちょうど二年が経過したことになる。
「五郎左めは、来年には完成すると言うておる。待ち遠しいのう」
 信長は何度も丹羽長秀にまだか、まだかと聞き、丹羽長秀はそのたびにお待ちくだされと毎回、同じ言葉を返している。

「来年の正月には、城の完成を祝い、左義長をやる」
 左義長は新年の行事の一つであり、厄払いを目的とした火祭りだ。特に爆竹を使うことで、邪気を払う意味合いを持つ。江南では、この祭りが終わる頃になると暖かい日が続くため、春の訪れを告げる祭りとしても知られている。
 火と爆竹の音が冬の寒さを追い払い、新たな季節の兆しを迎える象徴的な行事だ。
「鶴。そなたにも出てもらう。心しておけ」
「ハハッ。これは大変誉れ高いことでござります」
 忠三郎が満面笑顔で返事をすると、信長は満足そうにうなずく。
「左義長だけではない。安土では面白きことをいろいろと皆に見せる。これが泰平であると、世に知らしめるのじゃ」
「泰平であると…」

 信長は来るべき泰平の世を安土で示そうとしている。ただ武力で天下を取るのではなく、その後に続く泰平と繁栄の時代を築くために、安土の地に新たな世界を具現化しようとしているのだ。
「皆は命をかけて戦うておる。それは、この乱世を終わらせるだけでなく、泰平の世のいしずえを築くために戦うておるのじゃ」
 信長の目指す未来を、戦場で戦う者たちに明確に伝えるため、安土の城がその象徴となり、次なる時代を照らす灯火となることを願っているかのようだ。

 城の完成を心待ちにしているのは信長だけではない。忠三郎も、この安土山に、これまで見たこともないような荘厳な天主がそびえたつ日を楽しみにしている。
 天に届かんばかりのその威容が、戦乱の世に一つの象徴となり、多くの人々の心を揺さぶるだろう。
 忠三郎は、安土山に築かれるその城が、単なる武力の象徴ではなく、信長の目指す未来を見せてくれると期待している。
 その日が来れば、世の移り変わりを目の当たりにすることになる。
(確かに、待ち遠しい)
 信長が子供のように楽しみにしている姿を思い浮かべ、一人、笑いながら、日野に戻る支度を整えた。

「若殿、あれは後藤殿では…」
 町野左近が気づいて忠三郎に声をかける。
 大手門のほうを従弟の後藤喜三郎が登城してくる姿が見えた。
 喜三郎は他の江南衆とともに佐久間信盛の元で紀州攻めに加わっていたが、陣中で体調を崩し、江南に戻ったと聞いている。

(年賀の挨拶であろうか)
 おさちの一件以来、喜三郎とはまともに言葉を交わしていない。なんとも気まずかったが、忠三郎は急いで大手門まで行き、常の笑顔で喜三郎に話しかけた。
「喜三郎。体調が優れぬと聞き及んだ。大事ないか」
 喜三郎は、長い陣中生活の疲れからか、やややつれた様子だった。物憂げに忠三郎の顔を見上げると、口元に薄い、歪んだ笑みを浮かべた。
「皆が戦場で命を賭けておるというのに、おぬし一人、上様の元でのうのうと過ごしておるとは、なんとも羨ましい身分ではないか」
 その言葉には、疲労と憤りが混ざり合っていた。忠三郎は、喜三郎の言葉の裏にある複雑な感情を察しつつも、なんと言葉をかけようかと一瞬ためらった。
 
 喜三郎に言われるまでもない。江南の従弟たちは戻る様子がなく、忠三郎はそれを見るにつけ、自分一人が賦役を免除されていることを心苦しく思っている。
 紀州攻めのために兵をあげてから、もう間もなく一年。従弟たちはその間、一度も戻ってはいない。
「疲れておるのであろう。今は少し休んで…」
 忠三郎がそう言いかけると、喜三郎はその言葉を最後まで聞くことなく、ふいに背を向けた。そして無言のまま、信長のいる館の方へと足早に向かってしまった。

 その背中には、疲労だけでなく、どこか拒絶するような冷たさが漂っていた。
 忠三郎はそれ以上、声をかけることもできず、ただ遠ざかる喜三郎の姿を見つめながら、言葉が宙に浮いたまま消えていくのを感じた。

 一益の思惑通りに事が運んでいるのであれば、紀州の動乱はしばらくの間は続く。そして騒ぎが沈静化するまで、従弟たちが戻ることもない。
(皆、疲れておる。義太夫や新介も紀州であろうか)
 そんなことを考えながら久しぶりに安土から日野に戻り、城下を歩いていると、見慣れた顔が鍛冶屋の店先に見えた。
「義太夫。かようなところで何をしておる」
 声をかけると、義太夫が重そうな荷物を抱えて振り返る。
「おぉ、戻ったか。では今宵は布団を使うことができるのう」
 いかに義太夫と言えども、忠三郎が留守にしている間は、勝手に城に入って布団を使うことはないらしい。忠三郎は笑って、三の丸館に案内した。

「やれやれ、ちと重い。これでは腰を痛めそうじゃ」
 義太夫が抱えていた荷物をゴトリと床に下ろす。
「一人か?助九郎は?」
「紀州じゃ。我が家も人が足りぬゆえ、荷運びくらいはやらんといかん」
 安土城普請と、大湊の阿武船の造船のため、随分と人が出払っているようだ。
「では長島の復興は…」
「それは休天殿が。坊主だろうが物乞いだろうが、使えるもんは使うのが滝川家じゃ」
 義太夫がふぅと息をつき、出された酒をうまそうに飲み干す。
「…で、その荷物の中身は?」
「これか。これは…。いや、待て。それは言えぬ。ペラペラと喋りすぎると殿にお叱りを受けたばかりじゃ」
 やっと叱られたのか。叱るのであれば、もっと早く叱るべきだったとは思うが。

「義兄上は紀州に争いの種を撒いておるのであろう?雑賀衆同士で争わせ、漁夫の利を得ようと…」
 火のないところに煙を立てるその行為が、果たして正しき道なのか。従弟たちが労苦にあえぎ、その背中が遠のくたびに、忠三郎の心もまた、次第にその正否の境を見失っていく。
「殿のやり方に不満があるか?」
「それは…義兄上の立てた戦略に誤りはないとは思うが…。だんだん、分からなくなるときがある」
 義太夫はしばしの間、静かに盃に注がれた酒を眺めていた。薄い琥珀色の液体が、盃の中で淡い光を反射する。その瞳には、思案に沈む陰影が漂う。
 冷たい隙間風が、忠三郎の赤く火照った頬をすうっと撫で、冬の静寂がその身に染み渡るように感じられた。

「では長島や越前の時のように、武力をもって鎮圧せよと、そう申すか」
 怒ったのだろうか。義太夫は薄く笑みを浮かべながらも、その声には冷たくぶっきらぼうな響きがあった。
(長島や越前…)
 それを言われると何も言えなくなる。
「鶴、おぬしに殿のまことの想いが分かるか?」
「分かるはずもなし。義兄上はいつも、多くを語ろうとはせぬ。あれでは、わしはもとより、三九郎とて分からぬのではないか」

 忠三郎が不満げにそう言うと、義太夫は急に相好を崩して、笑い転げた。忠三郎は面食らった表情で、義太夫を見つめる。笑いの合間に、義太夫は息をつきながら、ようやく言葉を絞り出した。
「帰するところ、おぬしは殿が己の想いを語ろうとはせぬので、拗ねておるのであろう」
 当たらずとも遠からずではあるが、拗ねているとはなんとも無礼極まりない言い方ではないか。内心で憤りながらも、忠三郎は言葉を飲み込み、ただ義太夫の顔をじっと見つめるにとどめた。忠三郎の胸の内には、反論できぬ悔しさと、自分自身への戸惑いが入り混じっていた。

「常より年寄りくさいおぬしであっても、未だ二十歳かそこらでは童に毛が生えたようなもの。可愛げがあるのう」
「誰が年寄りじゃ。全く無礼な奴」
「まぁ、そう怒るな。教えてやろうではないか。殿の秘密を」
「義兄上の秘密?」
 義太夫の話はいつも大仰だが、今回はまた随分と勿体付けた言い方だ。忠三郎は思わず苦笑いする。
「然様。世に恐れられた謀将、滝川左近がなにゆえ、我らが集めたあらゆる情報を正しく分析し、敵の心を読み取り、次の一手を打つことができるか、わかるか?」

 忠三郎は謀将でもなければ軍師でもない。そんな深い策略を巡らせることなど、これまで考えたこともなかった。ただ、一益が数々の戦で勝利を重ね、敵を翻弄する姿を見てきただけだ。
「人の心は鏡のようなもの。明鏡止水というではないか」
 明鏡止水。荘子の徳充符篇にある。明鏡とは曇りなき鏡のように澄んでいる賢人が、接している者の塵垢じんこうをもなくすことを言う。そして止水とは止まっている水のように静かな心を持つ者のこと。

「私欲がなければ、物事は自然と見え、正しき判断を下すこともできる。殿は私欲のないお方じゃ。曇りなき心で敵を見なければ、敵の心を知ることなどはできぬというわけよ」
 忠三郎はその言葉に静かにうなずいた。一益が数々の戦で勝利を収めてきたのは、ただ戦術に優れているからではなく、私欲に囚われることなく、純粋に戦局を見極めることができたからなのだろう。

 自分の欲望や感情に左右されることなく、冷静に敵を見据え、その心の動きを読み取る。それこそが、一益が恐れられる所以なのだと、義太夫はそう言いたいようだ。
「我ら素破は、音もなく、臭いもなく、智名もなく、勇名もなし。其の功、天地造化の如しと言う」
 素破とは、音もたてず、臭いもせず、知恵ある者と呼ばれることもなく、勇者と称えられることもない。しかしその功は天地に広がる自然が生み出すもののようだという。

「我らはただ、戦禍を広めぬように、人知れず、ひっそりと働く。大地が作物を実らせ、民の暮らしを潤すように、誰かの目に留まることがなくとも、恥を忍び、己に与えられた役割を果たす」
 義太夫はそう言って、誇らしげに胸を張った。その言葉には、静かなる決意と使命感が宿っている。目立つことなく、名を残すこともない。しかし、それこそが彼らの誇りであり、陰から世を支える存在としての覚悟なのだろう。

 誰からも称賛されずとも、彼らの働きは確かに存在し、風や雨のように人知れず世に影響を与える。表立って姿を現すことはなく、だがその役割は確実に果たされ、彼らがいたからこそ、泰平と繁栄の種が静かに蒔かれていく。まるで自然そのもののように、人々に知られることなく、その陰で世を動かしているのかもしれない。
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