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13.播磨の月
13-3. 迫る脅威
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忠三郎と矢部善七郎が次に向かったのは、羽柴秀吉の陣営だった。陣中の喧騒の中、秀吉は二人の姿を認めると、まるで長年の友に再会したかのように大きな腕を広げ、歓喜に満ちた表情で迎え入れた。
「待ちに待ったぞ、ついに後詰じゃ!善七殿、忠三郎殿、よくぞ参った、これほど待ちわびたことはない!」
秀吉は二人の手を強く握りしめ、その笑顔は喜びがあふれ出さんばかりであった。その姿に、一瞬驚きを隠せなかった忠三郎も、穏やかに微笑み返し、静かに応じる。
しかし、その笑顔の裏には深い焦燥が隠れていた。秀吉はにわかに顔を曇らせ、憂いを帯びた口調で続けた。
「上月城の兵糧がもたぬわ。上様はいったいどうなされておるのか…」
秀吉の焦りは頂点に達していた。信長からの下知を待ちきれなくなった秀吉は、自らの判断で荒木村重に兵を動かすよう命じ、今や上月城を見下ろす播磨の奥、高倉山にまで進軍している。
「で、上様の軍勢はいま何処まで進まれたのじゃ?播磨に入られたか?」
信長自ら出馬した話しか耳に届いていないようだ。忠三郎はどう返事をすべきか迷い、隣に立つ善七郎に目を向けた。善七郎はしばし口を閉ざし、慎重に言葉を選びながら静かに答えた。
「上様のご出馬はござらぬ。しかし、城介様を総大将として神吉城への攻撃が計画されておりまする。まずは荒木殿を神吉城攻めに、そして筑前殿も一度兵を引き、別所長治が立てこもる三木城を落とすご意向でございます。」
その言葉を聞き、忠三郎は驚きに目を見開いた。
(三木城?)
三木城攻めの話など、一度も聞いたことがない。これでは、上月城に籠る尼子勝久を見捨てることになるではないか――。
「なんと申される!」
秀吉の顔は瞬時に赤く染まり、怒りがこみ上げた声が陣中に響き渡った。
「毛利の大軍が迫るこの時に兵を引けとは、如何なることか!」
秀吉が激昂する。しかし、善七郎は冷静さを保ち、穏やかな口調で重ねて言った。
「筑前殿、これはすべて上様のご深慮あっての策でございます。この場で別所を放置し、上月城へ兵を進めれば、背後を突かれ、進退窮まる危険がございます。それでは、毛利の大軍を前にして抜き差しならぬ事態となりましょう。今こそ、辛抱のとき。どうか、上様のご意向をお聞き届けくだされ」
善七郎の言葉は冷静でありながら、鋭く戦局を見極めた論理に基づいている。別所長治を討ち、三木城を落とすことで、毛利に背後を突かれる危険を防ぐ――それは確かに戦略としては正しい判断だ。しかし、その判断には冷徹さが伴う。
暗に上月城にいる尼子勝久を見捨てろと、そう言っているのだから。
(これでは筑前が怒るのも当然…)
忠三郎は、善七郎の一言一句に耳を傾けつつも、胸の奥で不安が広がるのを感じた。
秀吉の怒りの表情が目の前にありながら、ふと心の中で疑念が頭をもたげる。
(では、上様が出馬しようとしていたことは一体…)
信長が自ら上月城を救うために出馬するとの報が流れたときから、どこか腑に落ちない感覚を抱いていた。もしや、それはただの見せかけにすぎず、信長は初めから、戦略的にはさして重要ではない上月城を救うつもりはなかったのではないか――その疑念が、今まさに現実味を帯びてきた。
(上様が老臣たちの進言に耳を貸すなど、ありえぬこと)
信長のこれまでの戦い方を思い返してみる。誰かの助言で手を引いたことなど、かつて一度もなかった。信長は常に自らの意志を貫き、どれほどの反対があっても、必ずその決断を実行してきた。それが、今回ばかりは重臣たちの言葉に耳を貸したというのだろうか。
(上様が、今さらご自身の決断を覆すとは…何か裏があるに違いない)
忠三郎はますます疑念を深めながらも、信長の策謀の深さに恐れを抱き、自分の無力さを痛感せざるを得なかった。
秀吉はなおも怒りを抑えられない様子で、顔を紅潮させて善七郎を睨み続けた。しかし、軍師・黒田官兵衛がそっとその手を制すると、秀吉もようやく渋々と矛を収めた。
忠三郎はほっと胸をなでおろしながらも、心の奥に何とも言えない不安が残った。秀吉の複雑な心境を感じながら、善七郎とともに陣営を後にした。
「筑前殿はまことに兵を引きましょうか」
秀吉がこのまま素直に指示に従うとは思えなかった。兵を引いて上月城を見捨てることは、ここ数年、秀吉が注いできた努力を無に帰すも同然だ。
「さて、それは…」
善七郎は一瞬、言葉を詰まらせたが、やがて続けた。
「しかし、我らの後には万見仙千代殿と堀久太郎殿が検使に来ることとなっておりまする。心配することもありますまい。」
その言葉に、忠三郎はようやく気づいた。
(荒木殿の言う通り、我らは監視役なのか)
信長が秀吉をはじめとする有力な部将たちに対し、執拗なまでに目を光らせている理由が、今さらながらに明瞭となった。家臣たちが信長の命に逆らい、独断で上月城の救援に向かうことを、信長は何よりも恐れていたのだろう。だからこそ、間髪を入れずに検使を送り、どんな行動も見逃さないようにしている。まさに厳重な監視。そう考えると、部将たちが検使を煙たがるのも無理はない。
(これでは我らが疎まれても仕方ない…)
忠三郎は、信長が絶えず目を光らせている裏にある、部将たちへの深い不信感や、配下に対する猜疑の念を痛感せざるを得なかった。それと同時に、秀吉の心情も理解できる。上月城を救わずして見捨てることは、これまで秀吉が築き上げてきた努力を水泡に帰すことになる。それを、秀吉が黙って見過ごすはずがない。
(どう出るか…)
信長の厳しい監視の下で、秀吉はどのような行動に出るのだろうか。
忠三郎が矢部善七郎と共に向かった次の目的地は、神吉《かんき》城を見下ろす三日月山だった。彼らが到着したときには、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、稲葉一鉄らの軍勢がすでに陣を敷いていた。
「それがしは丹羽殿の元へ参ろう。今頃は志方城攻めの最中のはずじゃ。忠三郎殿は滝川殿の元へ行ってくだされ」
と言い残し、矢部善七郎は迷いなく丹羽長秀の陣営へと向かっていった。
忠三郎はその背中を見送りつつ、心の中で苦笑がこぼれた。
(随分と手抜きされておるような…)
丹羽長秀と滝川一益であれば、信長の意向に逆らうようなことはない。善七郎はそう考えて、深く憂慮する必要はないと判断しているのだろう。
一益の陣営に到着した忠三郎だったが、一益は軍議のため、織田信忠の本陣に呼び出されていて不在だった。
「おぉ、お目付け役のご着到か」
と軽く声をかけてきたのは、義太夫。彼の気軽な態度に、忠三郎は思わず苦笑した。
「然様。もしわしを監視役だと思うておるのなら、もう少し丁重に扱ってはどうか」
と冗談めかして返すが、義太夫は鼻をほじりながら、
「そのようなことは知らぬ」
と興味なさそうな様子を見せる。
その姿に肩をすくめつつ、忠三郎は気が抜けたような感覚を覚えた。するとそこへ佐治新介も姿を見せる。
「上様からはいつまで待っても城攻めのお許しが出ぬ。全く、毎日毎日、城を眺めておるくらいなら、さっさと伊勢に戻らせてくれぬかのう」
と不満を洩らす。新介の言葉からは、長陣に飽きが出始めている様子が伺えた。
「此度はあの猿ともネズミとも呼ばれた小男の尻ぬぐい。全くもって詰まらぬ役回りではないか」
と新介は続けた。義太夫はため息をつきながら、
「そのような悠長なことを言うておるのも今のうちじゃ。あの城を見よ。あれは容易くは落ちぬ。上様も慎重になっておられるのじゃろう」と応じる。
新介はなおも反発する。
「であれば、落とさず伊勢に戻ればよかろう。伊勢が安泰であれば中国なぞどうでもよいではないか」
その言葉には、遠く知らぬ土地に駆り出された兵たちの本音が込められていた。
忠三郎はその言葉を聞き流すことはできなかった。
「そう申すな、新介。それでは天下布武は成し遂げられぬ」
天下布武――それは信長が印章に用いている文言だ。「武」とは武力のことではない。本来の言葉の意味は「歩み」のこと。天下布武とはすなわち、帝や神仏にとらわれず、天道に恥じることのないように、節度を保ち、己が道を歩むことを言う。
忠三郎はこれを、なにものにも屈せずに、世に泰平をもたらす、と捉えた。
(これこそが上様の大望――)
忠三郎は信長の理想を感じ取り、胸中でその偉大さを噛みしめた。しかし、新介はそんな信長の志にまったく興味を示さず、大きな欠伸をする。
「戯けたことを申すな。何が天下布武じゃ。命を散らす者の身にもなってみい。如何なる大儀があろうとも、納得できぬものじゃ。鶴殿は上様の寵臣じゃ。危うい戦さ場にでることもないゆえ、わからぬであろうがのう」
と、新介は吐き捨てるように言う。
忠三郎が感じた信長の崇高な志を、軽々しく一蹴する新介の態度には、軽蔑と反発の色が濃く滲んでいた。忠三郎は内心で反論したくても、その場の雰囲気に押されて言葉を飲み込んだ。
(わしとて、まことは皆と共に戦いたいと思うておるのに…)
検使として戦場の外に立たされ、ただ見守るだけの役目に従事していることが、何とももどかしい。
「新介、やめておけ」
と義太夫が新介を制止したが、新介は憮然とした表情を浮かべ、黙り込んだ。
忠三郎の胸にはどうしても釈然としない思いが残る。
(何故、上様はわしを戦場に立たせてくださらぬのか…)
戦えば誰にも負けない自信がある。それなのに、自分の力を試す機会を与えられない現状が、忠三郎を焦らせている。信長の意図が見えないまま、忠三郎の胸中には答えの出ない葛藤が渦巻いていた。
義太夫の「殿のお戻りじゃ」という声で、忠三郎は思考の深淵から引き戻された。
まもなく、滝川一益と武藤宗右衛門が幔幕の中に姿を現し、一益の威厳ある佇まいが場の空気を一瞬で引き締める。一益の目は冷静だが、何か異変を敏感に察知しているようだった。
「鶴…、検使か」
と一益が低い声で忠三郎に問いかけた。
忠三郎は即座に身を正し、深く頭を下げて応じる。
「はい。お待ち申し上げておりました」
一益は静かに頷き、床几に腰を下ろした。その後、武藤宗右衛門が前に進み出て、忠三郎に向かって丁寧に礼をした。
「お役目、ご苦労様でござります」
と深々と頭を下げた。
その時、一益が鋭い目で場の空気に何か異変を感じ取り、
「如何した?」
と低く響く声で問いかけた。場に緊張が走り、全員がその言葉に注目する。一益の目が、何か事態の変化を感じ取っている。
忠三郎は一瞬戸惑いながら、新介と義太夫のやり取りや、自身の内に抱える葛藤が頭をよぎったが、それを口にすべきか迷った。その様子を察した義太夫が、一歩前に出て落ち着いた声で応えた。
「いえ、殿。些細な言葉の行き違いがあっただけにございます。取り立てて問題はございませぬ」
義太夫の冷静な説明によって、場の緊張が少し緩んだものの、一益の鋭い視線はなおも忠三郎に向けられていた。その眼差しには、忠三郎が抱える内なる葛藤を見透かすような鋭さがあった。
忠三郎は意を決して、口を開いた。
「上月城のことでござります。義兄上は存じておられる筈。上様は最初から上月城を助けるおつもりなどはなかったのではありませぬか?重臣共が諫めたというのも、城を切り捨てる方便に過ぎぬのでは…」
忠三郎が話し終わる前に、義太夫が驚いて遮った。
「鶴、言葉が過ぎる。かような場で軽々しくそのようなことを口にするでない」 義太夫の言葉は冷静だが、強い警告を帯びていた。
一益の冷静な目が忠三郎を見つめ、しばしの沈黙が流れた。
やがて一益は床几から立ち上がり、無言で忠三郎を外へ誘った。忠三郎は緊張しながらも、後に従う。幔幕の外へ出ると、蝉の鳴き声だけが遠くから聞こえ、静かな夜の空気に包まれた。故郷日野を離れたことが、改めて忠三郎の心に染み渡る。
一益は振り返ることなく、低く静かに問いかけた。
「何を苛立っておる?」
忠三郎の心の内が見透かされているかのようだ。しばし迷った末、忠三郎は一益の背中を見つめて口を開いた。
「ただ…皆とともに戦場に出たいと願うておりまする。皆が命を懸けて戦う中で、わしは検使ばかり。己の武勇を示す機会もなく、なぜ上様は戦場に立たせてくださらぬのか、それが分かりませぬ」
思わず力が入り、抑えきれない苛立ちと苦悩を吐露する。そんな忠三郎に一益は静かに応じた。
「今、そなたを戦場に出せば、命を落とす。上様はそれをよく存じておられる。そなたはまだ若い。今は学ぶ時、焦らずともいずれ功名を挙げる機会は来る」
そして一益は上月城の状況を語り始めた。毛利軍の脅威と信長の慎重な判断、そして播磨全域の戦略的観点を。
「上様は播磨の奥地まで兵を進めず、毛利勢を牽制しつつ、織田家の威厳を守る策を取った。それは、我らが進言したことでもある」
「その献策は義兄上が?」
「然様。織田家の名が地に落ちぬよう、策を講じた。しかし、それも筑前が現れたことで事態が複雑になった。筑前は戦場を抜け出して都まで来て、自ら上様に嘆願したが、結局は退けられた」
その後、一益は忠三郎に織田家の老臣たちが抱える本音を見極める時期だと語った。毛利の大軍が迫る中、皆が取り繕う余裕を失い、各々の思惑が表に出てきているというのだ。
「毛利の大軍に勝てましょうか」
毛利の大軍と水軍の脅威を思えば、事態は一刻を争う。だが一益は自信に満ちた声で断言した。
「案ずるな。我らは必ず勝つ」
一益の背後にある計略を推し量ることはできなかったが、勝利へのゆるぎない確信が伝わってくる。
ふと気がつけば、空はすっかり暗くなり、夜の静寂が広がっていた。忠三郎の心には不安と疑問が渦巻きながらも、一益の強い自信が光のように胸に残った。
(何が起こるとも、決して怯まぬ…)
忠三郎は、一益の堂々たる立ち姿を月明かりの中で見つめ、再び戦場へと向けて心を定めた。戦乱の世の風は無常に吹き抜けていくが、その心には、戦うべき道が静かに定まっていた。
「待ちに待ったぞ、ついに後詰じゃ!善七殿、忠三郎殿、よくぞ参った、これほど待ちわびたことはない!」
秀吉は二人の手を強く握りしめ、その笑顔は喜びがあふれ出さんばかりであった。その姿に、一瞬驚きを隠せなかった忠三郎も、穏やかに微笑み返し、静かに応じる。
しかし、その笑顔の裏には深い焦燥が隠れていた。秀吉はにわかに顔を曇らせ、憂いを帯びた口調で続けた。
「上月城の兵糧がもたぬわ。上様はいったいどうなされておるのか…」
秀吉の焦りは頂点に達していた。信長からの下知を待ちきれなくなった秀吉は、自らの判断で荒木村重に兵を動かすよう命じ、今や上月城を見下ろす播磨の奥、高倉山にまで進軍している。
「で、上様の軍勢はいま何処まで進まれたのじゃ?播磨に入られたか?」
信長自ら出馬した話しか耳に届いていないようだ。忠三郎はどう返事をすべきか迷い、隣に立つ善七郎に目を向けた。善七郎はしばし口を閉ざし、慎重に言葉を選びながら静かに答えた。
「上様のご出馬はござらぬ。しかし、城介様を総大将として神吉城への攻撃が計画されておりまする。まずは荒木殿を神吉城攻めに、そして筑前殿も一度兵を引き、別所長治が立てこもる三木城を落とすご意向でございます。」
その言葉を聞き、忠三郎は驚きに目を見開いた。
(三木城?)
三木城攻めの話など、一度も聞いたことがない。これでは、上月城に籠る尼子勝久を見捨てることになるではないか――。
「なんと申される!」
秀吉の顔は瞬時に赤く染まり、怒りがこみ上げた声が陣中に響き渡った。
「毛利の大軍が迫るこの時に兵を引けとは、如何なることか!」
秀吉が激昂する。しかし、善七郎は冷静さを保ち、穏やかな口調で重ねて言った。
「筑前殿、これはすべて上様のご深慮あっての策でございます。この場で別所を放置し、上月城へ兵を進めれば、背後を突かれ、進退窮まる危険がございます。それでは、毛利の大軍を前にして抜き差しならぬ事態となりましょう。今こそ、辛抱のとき。どうか、上様のご意向をお聞き届けくだされ」
善七郎の言葉は冷静でありながら、鋭く戦局を見極めた論理に基づいている。別所長治を討ち、三木城を落とすことで、毛利に背後を突かれる危険を防ぐ――それは確かに戦略としては正しい判断だ。しかし、その判断には冷徹さが伴う。
暗に上月城にいる尼子勝久を見捨てろと、そう言っているのだから。
(これでは筑前が怒るのも当然…)
忠三郎は、善七郎の一言一句に耳を傾けつつも、胸の奥で不安が広がるのを感じた。
秀吉の怒りの表情が目の前にありながら、ふと心の中で疑念が頭をもたげる。
(では、上様が出馬しようとしていたことは一体…)
信長が自ら上月城を救うために出馬するとの報が流れたときから、どこか腑に落ちない感覚を抱いていた。もしや、それはただの見せかけにすぎず、信長は初めから、戦略的にはさして重要ではない上月城を救うつもりはなかったのではないか――その疑念が、今まさに現実味を帯びてきた。
(上様が老臣たちの進言に耳を貸すなど、ありえぬこと)
信長のこれまでの戦い方を思い返してみる。誰かの助言で手を引いたことなど、かつて一度もなかった。信長は常に自らの意志を貫き、どれほどの反対があっても、必ずその決断を実行してきた。それが、今回ばかりは重臣たちの言葉に耳を貸したというのだろうか。
(上様が、今さらご自身の決断を覆すとは…何か裏があるに違いない)
忠三郎はますます疑念を深めながらも、信長の策謀の深さに恐れを抱き、自分の無力さを痛感せざるを得なかった。
秀吉はなおも怒りを抑えられない様子で、顔を紅潮させて善七郎を睨み続けた。しかし、軍師・黒田官兵衛がそっとその手を制すると、秀吉もようやく渋々と矛を収めた。
忠三郎はほっと胸をなでおろしながらも、心の奥に何とも言えない不安が残った。秀吉の複雑な心境を感じながら、善七郎とともに陣営を後にした。
「筑前殿はまことに兵を引きましょうか」
秀吉がこのまま素直に指示に従うとは思えなかった。兵を引いて上月城を見捨てることは、ここ数年、秀吉が注いできた努力を無に帰すも同然だ。
「さて、それは…」
善七郎は一瞬、言葉を詰まらせたが、やがて続けた。
「しかし、我らの後には万見仙千代殿と堀久太郎殿が検使に来ることとなっておりまする。心配することもありますまい。」
その言葉に、忠三郎はようやく気づいた。
(荒木殿の言う通り、我らは監視役なのか)
信長が秀吉をはじめとする有力な部将たちに対し、執拗なまでに目を光らせている理由が、今さらながらに明瞭となった。家臣たちが信長の命に逆らい、独断で上月城の救援に向かうことを、信長は何よりも恐れていたのだろう。だからこそ、間髪を入れずに検使を送り、どんな行動も見逃さないようにしている。まさに厳重な監視。そう考えると、部将たちが検使を煙たがるのも無理はない。
(これでは我らが疎まれても仕方ない…)
忠三郎は、信長が絶えず目を光らせている裏にある、部将たちへの深い不信感や、配下に対する猜疑の念を痛感せざるを得なかった。それと同時に、秀吉の心情も理解できる。上月城を救わずして見捨てることは、これまで秀吉が築き上げてきた努力を水泡に帰すことになる。それを、秀吉が黙って見過ごすはずがない。
(どう出るか…)
信長の厳しい監視の下で、秀吉はどのような行動に出るのだろうか。
忠三郎が矢部善七郎と共に向かった次の目的地は、神吉《かんき》城を見下ろす三日月山だった。彼らが到着したときには、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、稲葉一鉄らの軍勢がすでに陣を敷いていた。
「それがしは丹羽殿の元へ参ろう。今頃は志方城攻めの最中のはずじゃ。忠三郎殿は滝川殿の元へ行ってくだされ」
と言い残し、矢部善七郎は迷いなく丹羽長秀の陣営へと向かっていった。
忠三郎はその背中を見送りつつ、心の中で苦笑がこぼれた。
(随分と手抜きされておるような…)
丹羽長秀と滝川一益であれば、信長の意向に逆らうようなことはない。善七郎はそう考えて、深く憂慮する必要はないと判断しているのだろう。
一益の陣営に到着した忠三郎だったが、一益は軍議のため、織田信忠の本陣に呼び出されていて不在だった。
「おぉ、お目付け役のご着到か」
と軽く声をかけてきたのは、義太夫。彼の気軽な態度に、忠三郎は思わず苦笑した。
「然様。もしわしを監視役だと思うておるのなら、もう少し丁重に扱ってはどうか」
と冗談めかして返すが、義太夫は鼻をほじりながら、
「そのようなことは知らぬ」
と興味なさそうな様子を見せる。
その姿に肩をすくめつつ、忠三郎は気が抜けたような感覚を覚えた。するとそこへ佐治新介も姿を見せる。
「上様からはいつまで待っても城攻めのお許しが出ぬ。全く、毎日毎日、城を眺めておるくらいなら、さっさと伊勢に戻らせてくれぬかのう」
と不満を洩らす。新介の言葉からは、長陣に飽きが出始めている様子が伺えた。
「此度はあの猿ともネズミとも呼ばれた小男の尻ぬぐい。全くもって詰まらぬ役回りではないか」
と新介は続けた。義太夫はため息をつきながら、
「そのような悠長なことを言うておるのも今のうちじゃ。あの城を見よ。あれは容易くは落ちぬ。上様も慎重になっておられるのじゃろう」と応じる。
新介はなおも反発する。
「であれば、落とさず伊勢に戻ればよかろう。伊勢が安泰であれば中国なぞどうでもよいではないか」
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「そう申すな、新介。それでは天下布武は成し遂げられぬ」
天下布武――それは信長が印章に用いている文言だ。「武」とは武力のことではない。本来の言葉の意味は「歩み」のこと。天下布武とはすなわち、帝や神仏にとらわれず、天道に恥じることのないように、節度を保ち、己が道を歩むことを言う。
忠三郎はこれを、なにものにも屈せずに、世に泰平をもたらす、と捉えた。
(これこそが上様の大望――)
忠三郎は信長の理想を感じ取り、胸中でその偉大さを噛みしめた。しかし、新介はそんな信長の志にまったく興味を示さず、大きな欠伸をする。
「戯けたことを申すな。何が天下布武じゃ。命を散らす者の身にもなってみい。如何なる大儀があろうとも、納得できぬものじゃ。鶴殿は上様の寵臣じゃ。危うい戦さ場にでることもないゆえ、わからぬであろうがのう」
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(わしとて、まことは皆と共に戦いたいと思うておるのに…)
検使として戦場の外に立たされ、ただ見守るだけの役目に従事していることが、何とももどかしい。
「新介、やめておけ」
と義太夫が新介を制止したが、新介は憮然とした表情を浮かべ、黙り込んだ。
忠三郎の胸にはどうしても釈然としない思いが残る。
(何故、上様はわしを戦場に立たせてくださらぬのか…)
戦えば誰にも負けない自信がある。それなのに、自分の力を試す機会を与えられない現状が、忠三郎を焦らせている。信長の意図が見えないまま、忠三郎の胸中には答えの出ない葛藤が渦巻いていた。
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まもなく、滝川一益と武藤宗右衛門が幔幕の中に姿を現し、一益の威厳ある佇まいが場の空気を一瞬で引き締める。一益の目は冷静だが、何か異変を敏感に察知しているようだった。
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忠三郎は一瞬戸惑いながら、新介と義太夫のやり取りや、自身の内に抱える葛藤が頭をよぎったが、それを口にすべきか迷った。その様子を察した義太夫が、一歩前に出て落ち着いた声で応えた。
「いえ、殿。些細な言葉の行き違いがあっただけにございます。取り立てて問題はございませぬ」
義太夫の冷静な説明によって、場の緊張が少し緩んだものの、一益の鋭い視線はなおも忠三郎に向けられていた。その眼差しには、忠三郎が抱える内なる葛藤を見透かすような鋭さがあった。
忠三郎は意を決して、口を開いた。
「上月城のことでござります。義兄上は存じておられる筈。上様は最初から上月城を助けるおつもりなどはなかったのではありませぬか?重臣共が諫めたというのも、城を切り捨てる方便に過ぎぬのでは…」
忠三郎が話し終わる前に、義太夫が驚いて遮った。
「鶴、言葉が過ぎる。かような場で軽々しくそのようなことを口にするでない」 義太夫の言葉は冷静だが、強い警告を帯びていた。
一益の冷静な目が忠三郎を見つめ、しばしの沈黙が流れた。
やがて一益は床几から立ち上がり、無言で忠三郎を外へ誘った。忠三郎は緊張しながらも、後に従う。幔幕の外へ出ると、蝉の鳴き声だけが遠くから聞こえ、静かな夜の空気に包まれた。故郷日野を離れたことが、改めて忠三郎の心に染み渡る。
一益は振り返ることなく、低く静かに問いかけた。
「何を苛立っておる?」
忠三郎の心の内が見透かされているかのようだ。しばし迷った末、忠三郎は一益の背中を見つめて口を開いた。
「ただ…皆とともに戦場に出たいと願うておりまする。皆が命を懸けて戦う中で、わしは検使ばかり。己の武勇を示す機会もなく、なぜ上様は戦場に立たせてくださらぬのか、それが分かりませぬ」
思わず力が入り、抑えきれない苛立ちと苦悩を吐露する。そんな忠三郎に一益は静かに応じた。
「今、そなたを戦場に出せば、命を落とす。上様はそれをよく存じておられる。そなたはまだ若い。今は学ぶ時、焦らずともいずれ功名を挙げる機会は来る」
そして一益は上月城の状況を語り始めた。毛利軍の脅威と信長の慎重な判断、そして播磨全域の戦略的観点を。
「上様は播磨の奥地まで兵を進めず、毛利勢を牽制しつつ、織田家の威厳を守る策を取った。それは、我らが進言したことでもある」
「その献策は義兄上が?」
「然様。織田家の名が地に落ちぬよう、策を講じた。しかし、それも筑前が現れたことで事態が複雑になった。筑前は戦場を抜け出して都まで来て、自ら上様に嘆願したが、結局は退けられた」
その後、一益は忠三郎に織田家の老臣たちが抱える本音を見極める時期だと語った。毛利の大軍が迫る中、皆が取り繕う余裕を失い、各々の思惑が表に出てきているというのだ。
「毛利の大軍に勝てましょうか」
毛利の大軍と水軍の脅威を思えば、事態は一刻を争う。だが一益は自信に満ちた声で断言した。
「案ずるな。我らは必ず勝つ」
一益の背後にある計略を推し量ることはできなかったが、勝利へのゆるぎない確信が伝わってくる。
ふと気がつけば、空はすっかり暗くなり、夜の静寂が広がっていた。忠三郎の心には不安と疑問が渦巻きながらも、一益の強い自信が光のように胸に残った。
(何が起こるとも、決して怯まぬ…)
忠三郎は、一益の堂々たる立ち姿を月明かりの中で見つめ、再び戦場へと向けて心を定めた。戦乱の世の風は無常に吹き抜けていくが、その心には、戦うべき道が静かに定まっていた。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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