獅子の末裔

卯花月影

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14.謀反の末

14-1. 干し柿

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 十月になった。都にいる忠三郎の元に、冷たい風とともに荒木村重が陣払いしたとの話が届いた。
(恐れていたことがついに現実となった)
 あの日、船上で聞いた不吉な話が、いま現実となってしまった。忠三郎の心中はざわめき、不安と緊張が次第に膨らむ。
 事態を重く見た信長は兵を率いて上洛し、本願寺攻めから佐久間信盛を、丹波から滝川一益と明智光秀を呼び戻した。

「左近、調べはついておるのか」
 信長の声には、苛立ちがにじんでいた。その問いに、一益は表情を一切変えることなく、静かに頷いた。一益の冷静さはこんなときでも常の如く揺るぎない。
「摂津守はすでに公方様、毛利、本願寺に対し人質と誓紙を差し出しております。この動きから見て、これは時をかけ、綿密に計画されていた謀反かと存じまする」
 信長の眼光が一層鋭くなり、一益の報告に対する沈黙が、重苦しい空気を生み出している。

「日向守、摂津守の子に嫁がせていた、そちの娘は如何したか」
 信長の鋭い問いかけに、明智光秀は一瞬だけ息を呑んだ。しかし表情を変えぬまま、短く返事をする。
「つい先日、送り返されて参りました」
 光秀の声が次第に硬さを帯びる。
「これは手切れを意味するものかと…」
 光秀がそう告げると、室内の空気がさらに冷たく感じられた。信長もその意味を十分に理解していた。これは村重の決意の表れであり、謀反はすでに覆し難い事態であることを示していた。

「上様。これはもはや、覆すことは難しいものかと…」
 佐久間信盛が口を開きかけたその瞬間、信長の鋭い視線が貫いた。凍てつくような眼差しに、場の空気が一瞬で変わる。
「黙れ、右衛門!」
 信長の怒声が響き渡り、場を支配する緊張が一層増した。
「ハハッ」
 信盛は慌てて平伏し、畏れに身を震わせた。今は何を言っても怒声を浴びせられてしまう。それが分かるだけに、誰一人として声を上げることができない。信長の怒りの気配が漂う中、静寂が重くのしかかる。
 居並ぶ者たちは皆、固く口を閉ざし、ただ信長の次なる言葉を待ち続けていた。重苦しい沈黙が再び流れ、誰もが息を潜めている。

 やがて、堪えきれない様子で、明智光秀が静かに口を開いた。
「上様。恐れながらそれがしが有岡城まで行き、摂津守を説いて参りまする。どうかお許しくだされ」
 光秀の声は冷静だったが、強い決意がその言葉に滲んでいる。信長の激昂を前にしても、一縷の望みを見出そうとする光秀の意志が感じられた。その発言に、再び室内の空気が張り詰め、皆の視線が信長に注がれる。

「鶴」
 突然、信長に名を呼ばれた忠三郎は、それまでじっと成り行きを見守っていただけに、驚きながらも慌てて返事をした。
「ハハッ」
 信長の視線は冷たく鋭い。忠三郎は緊張で心臓が跳ねるのを感じた。
「仙千代を呼んで参れ」
 短く命じられると、忠三郎は一瞬息を飲んだが、すぐに声を振り絞るように答える。
「は、はい」
 忠三郎はすぐさま立ち上がり、控えの間にいる万見仙千代を呼び寄せた。

 慌ただしく動く中、信長の厳しい声が再び響いた。
「摂津守は堺の代官・松井友閑と親しくしておろう。日向守、仙千代と松井友閑を連れ、有岡城へ行け」
 信長の命が下ると、光秀は深々と頭を下げた。
「ハハッ」
 光秀と仙千代はすぐに行動を起こすべく、忠三郎の視界から姿を消した。

 信長の意向を受け、事態の収束に向けた動きが着々と進もうとしていた。
(されど…摂津守はすでに人質を差し出し、毛利に恭順の意を示している。そう簡単に説得に応じるであろうか…)
 忠三郎の胸中には、深い懸念が渦巻く。光秀や仙千代がどれほど尽力しようとも、荒木村重が再び信長に従うとは到底思えない。
 村重の謀反は、時をかけて準備を経た決意の表れであり、簡単に翻すには余りにも深い溝がある。

 果たしてどうなることかと誰もが固唾を飲んで見守る中、明智光秀は松井友閑、万見仙千代と共に、有岡城への道を進んだ。
 村重は信長の求めに応じ、人質を伴い、信長に弁明するために有岡城を後にし、安土への旅路に立った。
 安土に向かう途上、与力の中川清秀のいる茨木城に立ち寄った。ところがここで、中川清秀が思いがけないことを言い始めた。
「安土に行けば、詰腹切らされるのは必定。さりながら、織田家は今、本願寺や毛利を敵に回し、戦局は揺らいでおります。もし、荒木殿が今ここで叛旗を翻せば、信長の天下も覆るやもしれません。どうか、再考してくだされ」
 その言葉は村重の胸に深く響き、心を揺るがした。かくして、村重は中川清秀の助言を受け入れ、安土へ向かうことをやめ、有岡城へと引き返してしまった。

 さらに事態は悪い方向へと転がっていく。秀吉の元にいた黒田官兵衛が、話を聞き、村重を説得するために有岡城へ向かった。しかし、官兵衛はいつになっても戻ることはなかった。
 秀吉からの知らせを受け、ついに信長の堪忍袋の緒が切れた。
「官兵衛の人質を切り捨てよ!」
 その場に居並ぶ者たちは、驚きと困惑の表情を浮かべ、互いに顔を見合わせた。
「されど、上様。まだ黒田殿が謀心したと決まったわけでは…」
 明智光秀は慌てて口を挟んだ。だが、その言葉は信長の激怒にさらに火を注ぐ結果となった。
「黙れ、きんかん頭!」
 信長は怒声を上げた。

「播磨の者など、信用ならぬ!官兵衛が戻らぬのは摂津守に同心したからであろう。このまま甘い顔をすれば、更なる謀反を招く。猿に伝え、官兵衛の子を斬り、その首を予の元へ届けさせよ!」
 信長の声が響き渡る中、部屋の空気は一層重く、緊張が張り詰める。怒りがさらに燃え上がるのを恐れ、皆、口を挟むことを躊躇している。あまりに乱暴な話だが、これ以上、異を唱えても信長の決断が覆ることはない。傍に控える忠三郎は、静かに息を潜め、信長の一挙手一投足を見つめていた。

「もはや我慢ならぬ。謀反人共を血祭にあげるのじゃ!左近!」
 信長は割れるような怒声をあげる。
「ハハッ」
「次なる手は考えておろうな?」
「ハッ、無論」
 他の者たちが信長の怒りに怯える中でも、一益は一人、常と変わらない。目の前の状況を的確に見極め、判断を下す姿勢を崩すことがない。戦場でも同じように、冷徹な判断力をもって戦局を支配してきた一益は、今もまたその鋭い目で次の一手を考えているようだった。
「まずは同心した茨木城の中川清秀と高槻城の高山右近。この二名を説き、我が方に味方させることができれば、摂津守を追い込むことも可能かと存じあげまする」

 一益が進言すると、信長は鼻を鳴らして応じた。
「フン。高山右近か…」
 信長はしばし黙考した後、冷ややかな声で命じた。
「では右近に告げよ。これまでキリシタンを保護してきた予に対して、かような振る舞いは如何なることか。ここで心を入れ替え、予に降り、再び忠誠を誓うのであれば、此度の件は不問に付す。されど、恩義を仇で返すというのであれば予にも考えがある。我が領内におるキリシタンどもを皆、捕らえ、高槻城の眼前で処刑する」

 冷ややかな信長の声が広間に響き渡り、その冷酷さに場にいる者たちの背筋が凍る。これまで焼き討ちにしてきた上京、延暦寺、そして長島願証寺でも、事前に警告を発してきた。それでも従わぬ者には容赦なく報復の手を加えてきた。そして今回も、裏切りへの報復としてキリシタンそのものを弾圧するとは、脅しではなく本心だろう。
 信長の言葉には、容赦のない力があり、右近に対する残された時間がいかに短いかを明確に示していた。
(義兄上は何となさるおつもりか…)
 忠三郎はそっと一益の顔を伺う。しかし、一益の表情はいつも通り冷静で、心の内を見抜くことはできない。その目には、深い思慮が隠されているようにも見えたが、その心がどこにあるのか、忠三郎にも測りかねた。

 詰所に戻った忠三郎は、先ほどの信長と一益のやり取りを何度も頭の中で反芻していた。
『身を殺して靈魂たましいを殺し得えぬ者どもをおそるるなと。伴天連の教えとはそのようなもの』
 右近はそう言っていた。今にしても思えば、それは如何なる意味だったのだろうか。
(まさか上様をも恐れぬなどと、そう仰せだったとも思えぬが)
 キリシタンである右近にとって、宣教師たちが教えてきた「主君に逆らうな」という戒めは深く根付いている筈だ。
 右近は荒木村重に人質を差し出している。もし信長に従えば、人質となっている家族を失う危険がある。右近が村重に従わざるを得なかったのは、家族を守るためのやむを得ない選択だったのだろう。

 だがその一方で、信長は冷酷な脅しをかけ、キリシタンそのものを弾圧すると宣言している。右近が今、人質となった妹と息子を守るために信長に背けば、その報復として信長はキリシタンを処刑するという。家族を守るか、キリシタンたちを守るか――右近の置かれた立場は、どちらを選んでも悲劇が待つ厳しいものだ。
(万が一にも右近殿が敵に回るようなことがあれば…)
 あの右近を敵に回して戦うことになる。そして、捕らえたキリシタンたちを処刑するとなれば、誰がその役目を担うのか。忠三郎の心はますます重くなる。

(仙千代か、矢部善七郎殿か…)
 その名を思い浮かべながら、自分がその任に就く可能性も頭をよぎる。
(よもや、わしになるようなことはないとは思うが…)
 と心の中でつぶやくものの、信長の命令は絶対だ。もし命じられれば、拒むことはできない。処刑奉行という気の重い仕事が自分に回ってくる可能性もなくはない。
 誰がその役を果たすにしても、残酷な結果をもたらすことは明白だ。忠三郎は深いため息をつきながら、信長の命令の重みと、右近の苦しい立場を改めて思い巡らせる。

 都に冬の訪れを告げるかのように、冷たい風が詰所の障子を叩いた。その風は骨身にしみる寒さを伴い、忠三郎の心にさらに重くのしかかる。外の景色はどことなく寂寥感に包まれ、落ち葉が風に舞い、空には重たい雲が垂れ込めている。
 まるで今の忠三郎の心情を映し出すかのようだ。

「如何した、常の鉄の笑顔は旅に出たか」
 突然、間の抜けた声が響いた。忠三郎が驚いて振り向くと、義太夫が立っていた。事態の深刻さなどどこ吹く風で、義太夫はいつも以上にとぼけた態度だ。
「義太夫…」
「情けない顔をしておるのう。腹が減っておるのか?」
 義太夫がからかうように問いかけた。二言目にはいつもこれだ。忠三郎は心の中でため息をつき、もう少し違うことが言えないのかと思ったが、義太夫はまるで気にとめる様子もない。

 どこまで本気なのか、義太夫は懐から干し柿を取り出し、忠三郎に差し出した。
「ほれ、食え。食って精をつけよ。柿の周りの白い粉は柿霜しそうというてのう、二日酔いにもよいし、風邪にもよい。お、そうそう、尻の穴が切れたときにもよいぞ。鶴、尻の穴は大事ないか」
 詰所の横を通り過ぎる侍女が、話を漏れ聞いてクスリと笑うのが目に入った。

 忠三郎は顔を赤らめ、心の中で「義太夫、少し黙れ…」と思いつつも、差し出された干し柿を受け取り、噛んだ。甘みが口の中に広がる。
 どこかほっとする味わいがあり、少し心が落ち着いてくる。鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。義太夫の間抜けな話に辟易しながらも、その気遣いに救わる思いがした。
(干し柿か)
 干し柿は貴重な甘味源であり、古くから歌に詠まれるほど人々に親しまれてきた。柿そのものは渋くて食べられたものではないが、不思議なことに、枝ごと天日干しすることで驚くほど甘くなる。
 その自然の変化を利用し、昔は祭礼の供え物としても使われていたという。今ではこうして日常的に手に入るが、かつての人々にとっては特別な贈り物や供物だったのだろう。

「おぬしも存じておろう。右近殿に…」
 と忠三郎が言いかけると、義太夫はすでに知っているというようにうなずいた。
「存じておる」
 干し柿の甘さが残る口の中で、ふと思う。右近の立場、そして信長の圧力の間に立たされたこの状況が、どれほど厳しいものであるかを義太夫も理解しているはずだ。しかし、義太夫はいつものように飄々としている。
(何を考えておるやら、この惚けた顔の裏で…)
 忠三郎は呆れながら、義太夫の横顔をちらりと盗み見た。義太夫の表情は穏やかで、まるで何事もなかったかのような無頓着さを漂わせている。義太夫の掴みどころのない振る舞いは、時に滑稽でありながら、どこか底知れぬ思慮深さを感じさせなくもない。

「殿がお呼びじゃ、供に参れ」
「義兄上が?」
 一益は忠三郎が広間を出た後も、信長、光秀と何やら話を続けていたはずだ。話が終わったのだろうか。
「然様。どうせそんな顔をしておるであろうと、殿はそう仰せであった」
 義太夫は冗談交じりに言う。
「供に、とは、何処へ参るのか?」
「四の五の言わず、ついて参れ」
 義太夫はあっさり言い放つと、何事もないかのように表玄関へ向かって歩き出した。
 忠三郎は義太夫の背中を見つめ、一瞬ためらったが、すぐに足を動かし後を追った。広間での信長とのやり取りが思い出され、嫌な予感が胸をよぎる。一益は一体、どこへ向かうというのだろうか。
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