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13.播磨の月
13-5. 謀反の兆し
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九月二十九日。
忠三郎は矢部善七郎とともに堺に行き、町衆と一緒になって信長の御座所を作り、華やかな御座船を用意していた。そこへ思いがけない人物が現れる。丹波の戦場から駆けつけた一益が姿を見せたのだ。
「義兄上、戦さは…」
忠三郎が驚いて出迎えると、共についてきた義太夫がカハハと笑い声をあげた。
「上様が大船をご覧になると聞いては、戦さどころではない。新介たちに兵の指揮を任せて、慌てて飛んできたのじゃ」
義太夫の軽快な調子に、忠三郎はつい微笑を浮かべる。いつものように飄々とした義太夫の姿が、戦場の緊張感とは対照的に、ほっとさせる空気を運んでくる。
一方で、一益は到着するや否や、一息つく間もなく、緊張した表情で尋ねた。
「上様の御座所の支度は?」
その問いかけに、忠三郎は落ち着いた声で答える。
「抜かりなく、整うておりまする」
しかし一益はさらに続けて問う。
「御座船は?」
「それも町衆に命じ、容易万端整うておりまする」
一益はその答えを聞き、ようやくその鋭い視線を緩め、深く息をついた。ふぅと息を吐く音が、抱えていた緊張を解き放ったかのようだ。
信長を迎える準備が万全であることを確認し、一益の表情にはほのかな満足感が漂った。
(いつになく、落ち着かぬご様子じゃ)
忠三郎はその普段とは異なる様子に違和感を覚えた。普段は沈着冷静で、どんな状況でも動じないはずの一益が、今日に限ってはどこか余裕を欠いている。目立つほどのことではないが、その目の端には焦りの色が浮かび、言葉にも急かすような響きがあった。
(なにか心にかかることが…)
ふと、忠三郎の頭に浮かんだのは丹波の戦さのことだった。一益は明智光秀と協力して丹波攻略を進めていると聞いているが、今のところ、大きな問題が発生しているという報告は受けていない。では、この落ち着かない様子は何に由来するのか。
(別な何か…)
忠三郎の心に不安がよぎる。一益は、ただ戦場を離れてきたから焦っているのではない。胸中に、何か懸念があるのではないか。堺の町に漂う一見華やかな雰囲気の中に、ひそやかな影が差し始めているのかもしれない。
大船の検分に現れた信長は、近衛前久、細川昭元、一色満信らの公家たちを引き連れ、堺に到着した。
予め用意されていた御座船に乗り込んだ信長は見物人たちが見守る中、唐物で飾り立てられた大船に乗り込む。大船の船上に待つ信長の姿は、唐物の華やかさに包まれ、まるで異国の王のように神々しいものがあった。見物人たちは息を飲み、その壮麗な姿に見入った。
太陽の光が船上の唐物を輝かせ、まばゆい光を放つ。信長はその光景に目を細め、心地よい波音に耳を澄ませながら、終始上機嫌に微笑を浮かべていた。 その姿は、戦国の風雲児としての誇りを見せつけるかのようだった。
その後、住吉の地に降り立った信長は、一益と九鬼嘉隆を召し出して、褒美を与えた。さらに異例なことに、大船に乗っていた滝川家の三人の家臣までもが召し出され、黄金と服が与えられるという破格の好待遇が施された。
信長は、一益のみならず、その家臣たちにまで手厚い褒美を授けることで、滝川家の忠義と貢献を高く評価したのだろう。
信長一行を見送った一益は義太夫とともに丹波に戻ろうとした。その背中に向かって、忠三郎が急いで声をかける。
「義兄上、お待ちくだされ。一体、何事が起きたというので、かような顔をなされておいでで?」
その言葉に、一益は旅支度をしていた手を止め、意外そうな顔をして忠三郎を見た。
信長からの褒美を受け取った直後であり、普段の一益ならば誇らしい表情を浮かべているはずだ。しかし、今日はどこか違っている。
「隠していても分かりまする。義兄上は何か余程心にかかることがおありと見える。あのように上様にお褒めの言葉を頂き、褒美まで与えられたというのに、どこか浮かない顔じゃ。一体、何が起きたと言うので?」
一益を深く敬愛しているがゆえに、その微妙な変化を敏感に察した。信長からの栄誉に輝いていながらも、一益の心は何か別のことで乱されている。その胸中に隠された重荷は何なのだろうか。
一益は忠三郎の言葉に耳を傾けながら、しばらくの沈黙を保った後、微かに苦笑いを浮かべた。
「鶴もいつまでも童ではないということか…。よかろう」
一益の中に抱えていた何かが静かに解けていくような響きがあった。
「三九郎にも伝えておこう。供に参れ」
一益が再び湊へと引き返し歩みを進める中、後ろに付き従う義太夫が振り返り、忠三郎に向かってにっかりと笑みを浮かべた。その笑顔は、何かを知っているかのようだ。
(何が起きているのであろうか)
湊へ向かう道中、忠三郎は一益の背中を見つめながら、心の中で次第にその不安が大きくなっていった。
滝川家の大船は、他の船団と一線を画す異彩を放っていた。重厚な鉄甲ではなく、白船と呼ばれるそれは機動性に優れ、風を受けて俊敏に波を切る。外装には火攻めを防ぐための漆喰が丁寧に塗られ、海面を滑る様は、まるで白い幻影が闇の中に舞い降りたかのよう。
遠目に見る黒光りする船団の中で、ただ一艘、白船は月光を浴びて輝き、その純白の姿は敵味方を問わず、見る者の目を奪った。船の優美な佇まいは、戦さの激しさの中にあっても、静謐な美を湛えるだろう。
滝川家の大船に足を踏み入れると、まず重臣である津田秀重が迎えてきた。その表情には驚きがにじんでおり、予定外の来訪に面食らっている様子だ。
「これは…殿。と、皆さまお揃いでおいでとは、いったい何事でござりましょうか?」
秀重の声には緊張が混じる。それに応じるように、一益が静かに告げた。
「中で話がある。三九郎も呼べ」
言葉少なにそう言い放つと、一益は迷いのない足取りで船内に設けられた館へと進んでいく。後を追うように義太夫が続き、忠三郎もやや遅れて後に従った。船上の緊張した空気が一層張り詰める中、滝川家の家臣たちがその動きを黙って見守る。
一益が床几に腰を下ろすと、その左右に三九郎と忠三郎が静かに座した。隣には、義太夫と津田秀重も並んで腰を落ち着ける。船内の微かな揺れの中で、緊張感が漂う。やがて、一益が重々しい口調で口を開いた。
「荒木摂津守が密かに陣を引き払おうとしておる」
その言葉が空気を切り裂くように響いた。荒木村重は今、羽柴秀吉と共に三木城攻略の陣中にいる。それを勝手に兵を引くなど、戯れでは済まされない驚くべき事態だ。
「陣を引き払う…とは、それはまた何故に…」
忠三郎が目を見開き、思わず問いかける。一益は眉を顰め、険しい表情を浮かべながら、声を低くして答えた。
「摂津守が毛利に宛てた密書を抑えた」
その一言で、船室の空気が一気に張り詰めた。信じ難い情報だ。三九郎は顔色を変え、勢いよく前に乗り出す。
「それは…も、もしや、摂津守殿は毛利に内通しておると…」
三九郎の声には動揺が隠せない。もしこれが真実であれば、荒木村重が織田家に対して裏切りを謀るという、かつてない危機を意味している。一益の鋭い視線が全員の顔を順に捉え、その重みがさらに場を静寂に包んだ。
張りつめた空気の中、義太夫が重々しく口を開く。
「前々から摂津守の怪しげな動向に気付いておった。それゆえ、万が一のことを考え、見張りを付けておいたのじゃ」
策が功を奏し、荒木村重が毛利に密使を捕らえることができた。その報告に、場の空気が一層緊迫する。
「これは天下を揺るがす一大事。…して上様には何と?」
忠三郎が顔色を変えて問うと一益はその問いに冷静に応じる。
「まだ何も申し上げてはおらぬ。それゆえ、皆も他言無用とせよ。密使が帰らぬことで摂津守があるいは思い直すやもしれぬ」
一益の目は鋭く、冷静な判断を下している。村重が裏切りの道を進むか、それとも思いとどまるかは、まだ分からない。今は慎重に事態を見守り、状況が確実になるまで口外しないことが最善とされた。皆がその言葉にうなずき、船内には再び重い沈黙が戻った。
一益は辺りを憚るように続ける。
「されど摂津守がまことに陣を引き払い、居城の有岡城に戻るようなことあらば、二心があるのは確実といえよう」
村重がもし叛旗を翻せば、織田水軍が大船で大坂湾を封鎖している意味も薄れてしまう。兵糧は村重の領内を通り、封鎖をかいくぐって本願寺に送られるだろう。
「直に毛利の水軍がこの大坂湾に現れる。そのときの海戦で命運が決まる」
一益の言葉には、海戦がこの戦局を左右するとの強い確信が滲んでいた。海の戦さで勝利すれば、その勢いで村重を追い込むこともでき、荒木村重と、それに付き従う与力たちを一気に潰すことが可能だ。しかし、万が一にも前回と同じく海戦で敗北するようなことがあれば、事態は急転直下する。本願寺を包囲している佐久間信盛の軍勢が窮地に追い込まれ、包囲網は一気に崩れる恐れがあった。
船内に緊迫した空気が再び流れ、皆の表情が険しくなる。この海戦にかかる重圧が、全員の肩に重くのしかかっていた。
一益の声が船内に重く響き渡り、その言葉は一同にさらなる緊張をもたらす。
「摂津守が寝返れば、その下に付き従う与力の中川瀬兵衛、高山右近も追従するであろう。皆、今後の動向によく目を光らせておけ」
鋭い目で皆を見渡し、事態の深刻さを改めて刻み込む。
「して、次の海戦は何があろうと勝ってもらわねばならぬ。三九郎、秀重。そのことようく心しておくがよい」
三九郎と秀重はその言葉を真摯に受け止め、静かに頭を下げた。次の一戦での勝利が、織田軍にとっての運命を決定づける鍵となることは明白だ。敗北は許されず、全てはこの次の海戦にかかっている。
居並ぶ者たちがそれぞれ次の海戦のことを深く考え込む中で、忠三郎だけは全く別のことを考えていた。
(右近殿…)
思い起こしたのは、高山右近の温厚な瞳だった。荒木村重が本当に織田に背くとなれば、一益の言う通り、右近も村重に追従してしまうのだろうか。
右近は敬虔なキリシタンだ。もし右近が村重に従えば、その先には何が待っているのだろうか。都にいる宣教師たちやキリシタンたちはどうなるのか。信長の激しい弾圧を受けることになるのか、それとも右近の信仰に基づく行動が状況を変える可能性があるのか。
忠三郎の胸中は、不安と葛藤が渦巻き、心は激しく揺れ動く。高山右近は、ただの武将ではない。彼の信仰の深さや人柄は、忠三郎にとっても特別な存在であり、信頼と尊敬の念を抱いていた。その右近が、荒木村重とともに裏切るというのだろうか。
(友として心を通わせ、共に歩んでいけると思っていたのに…)
深い失望と戸惑いが胸に広がる。もしも、敵と味方に分かれ、戦う運命に向かうのなら、右近と刃を交えることになるかもしれない。
話し終えて外に出ると、澄んだ夜空に浮かぶ月が、静かに忠三郎の頭上を照らした。光が水面に反射し、波間に揺れる銀の帯が幻想的に広がっている。潮風がひんやりと頬をなで、大坂湾にも秋の気配が訪れていた。
涼やかな風に吹かれながら、忠三郎は心の中の不安や緊張を押し殺そうとする。月光に照らされたその顔には、わずかな哀愁が漂っていた。
忠三郎は矢部善七郎とともに堺に行き、町衆と一緒になって信長の御座所を作り、華やかな御座船を用意していた。そこへ思いがけない人物が現れる。丹波の戦場から駆けつけた一益が姿を見せたのだ。
「義兄上、戦さは…」
忠三郎が驚いて出迎えると、共についてきた義太夫がカハハと笑い声をあげた。
「上様が大船をご覧になると聞いては、戦さどころではない。新介たちに兵の指揮を任せて、慌てて飛んできたのじゃ」
義太夫の軽快な調子に、忠三郎はつい微笑を浮かべる。いつものように飄々とした義太夫の姿が、戦場の緊張感とは対照的に、ほっとさせる空気を運んでくる。
一方で、一益は到着するや否や、一息つく間もなく、緊張した表情で尋ねた。
「上様の御座所の支度は?」
その問いかけに、忠三郎は落ち着いた声で答える。
「抜かりなく、整うておりまする」
しかし一益はさらに続けて問う。
「御座船は?」
「それも町衆に命じ、容易万端整うておりまする」
一益はその答えを聞き、ようやくその鋭い視線を緩め、深く息をついた。ふぅと息を吐く音が、抱えていた緊張を解き放ったかのようだ。
信長を迎える準備が万全であることを確認し、一益の表情にはほのかな満足感が漂った。
(いつになく、落ち着かぬご様子じゃ)
忠三郎はその普段とは異なる様子に違和感を覚えた。普段は沈着冷静で、どんな状況でも動じないはずの一益が、今日に限ってはどこか余裕を欠いている。目立つほどのことではないが、その目の端には焦りの色が浮かび、言葉にも急かすような響きがあった。
(なにか心にかかることが…)
ふと、忠三郎の頭に浮かんだのは丹波の戦さのことだった。一益は明智光秀と協力して丹波攻略を進めていると聞いているが、今のところ、大きな問題が発生しているという報告は受けていない。では、この落ち着かない様子は何に由来するのか。
(別な何か…)
忠三郎の心に不安がよぎる。一益は、ただ戦場を離れてきたから焦っているのではない。胸中に、何か懸念があるのではないか。堺の町に漂う一見華やかな雰囲気の中に、ひそやかな影が差し始めているのかもしれない。
大船の検分に現れた信長は、近衛前久、細川昭元、一色満信らの公家たちを引き連れ、堺に到着した。
予め用意されていた御座船に乗り込んだ信長は見物人たちが見守る中、唐物で飾り立てられた大船に乗り込む。大船の船上に待つ信長の姿は、唐物の華やかさに包まれ、まるで異国の王のように神々しいものがあった。見物人たちは息を飲み、その壮麗な姿に見入った。
太陽の光が船上の唐物を輝かせ、まばゆい光を放つ。信長はその光景に目を細め、心地よい波音に耳を澄ませながら、終始上機嫌に微笑を浮かべていた。 その姿は、戦国の風雲児としての誇りを見せつけるかのようだった。
その後、住吉の地に降り立った信長は、一益と九鬼嘉隆を召し出して、褒美を与えた。さらに異例なことに、大船に乗っていた滝川家の三人の家臣までもが召し出され、黄金と服が与えられるという破格の好待遇が施された。
信長は、一益のみならず、その家臣たちにまで手厚い褒美を授けることで、滝川家の忠義と貢献を高く評価したのだろう。
信長一行を見送った一益は義太夫とともに丹波に戻ろうとした。その背中に向かって、忠三郎が急いで声をかける。
「義兄上、お待ちくだされ。一体、何事が起きたというので、かような顔をなされておいでで?」
その言葉に、一益は旅支度をしていた手を止め、意外そうな顔をして忠三郎を見た。
信長からの褒美を受け取った直後であり、普段の一益ならば誇らしい表情を浮かべているはずだ。しかし、今日はどこか違っている。
「隠していても分かりまする。義兄上は何か余程心にかかることがおありと見える。あのように上様にお褒めの言葉を頂き、褒美まで与えられたというのに、どこか浮かない顔じゃ。一体、何が起きたと言うので?」
一益を深く敬愛しているがゆえに、その微妙な変化を敏感に察した。信長からの栄誉に輝いていながらも、一益の心は何か別のことで乱されている。その胸中に隠された重荷は何なのだろうか。
一益は忠三郎の言葉に耳を傾けながら、しばらくの沈黙を保った後、微かに苦笑いを浮かべた。
「鶴もいつまでも童ではないということか…。よかろう」
一益の中に抱えていた何かが静かに解けていくような響きがあった。
「三九郎にも伝えておこう。供に参れ」
一益が再び湊へと引き返し歩みを進める中、後ろに付き従う義太夫が振り返り、忠三郎に向かってにっかりと笑みを浮かべた。その笑顔は、何かを知っているかのようだ。
(何が起きているのであろうか)
湊へ向かう道中、忠三郎は一益の背中を見つめながら、心の中で次第にその不安が大きくなっていった。
滝川家の大船は、他の船団と一線を画す異彩を放っていた。重厚な鉄甲ではなく、白船と呼ばれるそれは機動性に優れ、風を受けて俊敏に波を切る。外装には火攻めを防ぐための漆喰が丁寧に塗られ、海面を滑る様は、まるで白い幻影が闇の中に舞い降りたかのよう。
遠目に見る黒光りする船団の中で、ただ一艘、白船は月光を浴びて輝き、その純白の姿は敵味方を問わず、見る者の目を奪った。船の優美な佇まいは、戦さの激しさの中にあっても、静謐な美を湛えるだろう。
滝川家の大船に足を踏み入れると、まず重臣である津田秀重が迎えてきた。その表情には驚きがにじんでおり、予定外の来訪に面食らっている様子だ。
「これは…殿。と、皆さまお揃いでおいでとは、いったい何事でござりましょうか?」
秀重の声には緊張が混じる。それに応じるように、一益が静かに告げた。
「中で話がある。三九郎も呼べ」
言葉少なにそう言い放つと、一益は迷いのない足取りで船内に設けられた館へと進んでいく。後を追うように義太夫が続き、忠三郎もやや遅れて後に従った。船上の緊張した空気が一層張り詰める中、滝川家の家臣たちがその動きを黙って見守る。
一益が床几に腰を下ろすと、その左右に三九郎と忠三郎が静かに座した。隣には、義太夫と津田秀重も並んで腰を落ち着ける。船内の微かな揺れの中で、緊張感が漂う。やがて、一益が重々しい口調で口を開いた。
「荒木摂津守が密かに陣を引き払おうとしておる」
その言葉が空気を切り裂くように響いた。荒木村重は今、羽柴秀吉と共に三木城攻略の陣中にいる。それを勝手に兵を引くなど、戯れでは済まされない驚くべき事態だ。
「陣を引き払う…とは、それはまた何故に…」
忠三郎が目を見開き、思わず問いかける。一益は眉を顰め、険しい表情を浮かべながら、声を低くして答えた。
「摂津守が毛利に宛てた密書を抑えた」
その一言で、船室の空気が一気に張り詰めた。信じ難い情報だ。三九郎は顔色を変え、勢いよく前に乗り出す。
「それは…も、もしや、摂津守殿は毛利に内通しておると…」
三九郎の声には動揺が隠せない。もしこれが真実であれば、荒木村重が織田家に対して裏切りを謀るという、かつてない危機を意味している。一益の鋭い視線が全員の顔を順に捉え、その重みがさらに場を静寂に包んだ。
張りつめた空気の中、義太夫が重々しく口を開く。
「前々から摂津守の怪しげな動向に気付いておった。それゆえ、万が一のことを考え、見張りを付けておいたのじゃ」
策が功を奏し、荒木村重が毛利に密使を捕らえることができた。その報告に、場の空気が一層緊迫する。
「これは天下を揺るがす一大事。…して上様には何と?」
忠三郎が顔色を変えて問うと一益はその問いに冷静に応じる。
「まだ何も申し上げてはおらぬ。それゆえ、皆も他言無用とせよ。密使が帰らぬことで摂津守があるいは思い直すやもしれぬ」
一益の目は鋭く、冷静な判断を下している。村重が裏切りの道を進むか、それとも思いとどまるかは、まだ分からない。今は慎重に事態を見守り、状況が確実になるまで口外しないことが最善とされた。皆がその言葉にうなずき、船内には再び重い沈黙が戻った。
一益は辺りを憚るように続ける。
「されど摂津守がまことに陣を引き払い、居城の有岡城に戻るようなことあらば、二心があるのは確実といえよう」
村重がもし叛旗を翻せば、織田水軍が大船で大坂湾を封鎖している意味も薄れてしまう。兵糧は村重の領内を通り、封鎖をかいくぐって本願寺に送られるだろう。
「直に毛利の水軍がこの大坂湾に現れる。そのときの海戦で命運が決まる」
一益の言葉には、海戦がこの戦局を左右するとの強い確信が滲んでいた。海の戦さで勝利すれば、その勢いで村重を追い込むこともでき、荒木村重と、それに付き従う与力たちを一気に潰すことが可能だ。しかし、万が一にも前回と同じく海戦で敗北するようなことがあれば、事態は急転直下する。本願寺を包囲している佐久間信盛の軍勢が窮地に追い込まれ、包囲網は一気に崩れる恐れがあった。
船内に緊迫した空気が再び流れ、皆の表情が険しくなる。この海戦にかかる重圧が、全員の肩に重くのしかかっていた。
一益の声が船内に重く響き渡り、その言葉は一同にさらなる緊張をもたらす。
「摂津守が寝返れば、その下に付き従う与力の中川瀬兵衛、高山右近も追従するであろう。皆、今後の動向によく目を光らせておけ」
鋭い目で皆を見渡し、事態の深刻さを改めて刻み込む。
「して、次の海戦は何があろうと勝ってもらわねばならぬ。三九郎、秀重。そのことようく心しておくがよい」
三九郎と秀重はその言葉を真摯に受け止め、静かに頭を下げた。次の一戦での勝利が、織田軍にとっての運命を決定づける鍵となることは明白だ。敗北は許されず、全てはこの次の海戦にかかっている。
居並ぶ者たちがそれぞれ次の海戦のことを深く考え込む中で、忠三郎だけは全く別のことを考えていた。
(右近殿…)
思い起こしたのは、高山右近の温厚な瞳だった。荒木村重が本当に織田に背くとなれば、一益の言う通り、右近も村重に追従してしまうのだろうか。
右近は敬虔なキリシタンだ。もし右近が村重に従えば、その先には何が待っているのだろうか。都にいる宣教師たちやキリシタンたちはどうなるのか。信長の激しい弾圧を受けることになるのか、それとも右近の信仰に基づく行動が状況を変える可能性があるのか。
忠三郎の胸中は、不安と葛藤が渦巻き、心は激しく揺れ動く。高山右近は、ただの武将ではない。彼の信仰の深さや人柄は、忠三郎にとっても特別な存在であり、信頼と尊敬の念を抱いていた。その右近が、荒木村重とともに裏切るというのだろうか。
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話し終えて外に出ると、澄んだ夜空に浮かぶ月が、静かに忠三郎の頭上を照らした。光が水面に反射し、波間に揺れる銀の帯が幻想的に広がっている。潮風がひんやりと頬をなで、大坂湾にも秋の気配が訪れていた。
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