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15.摂津の夕闇
15-3. 昆陽池
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翌日。
有岡城を攻めるにあたり、小屋野(昆陽)の地に付城を築くことを勧めたのが武藤宗右衛門だったという。
この地には昆陽池なる大きな池がある。奈良時代、僧侶・行基により治水された地で、昆陽上池と下池の二つからなる。この二つの池に流れる川を天然の堀として用いて要害とすることで、有岡城からの攻撃を防ぐ。二つの池を囲む川は、戦いの時には堀としての役割を果たし、平穏な時には詩人たちの筆を誘う静寂の空間となる。
昆陽池は自然のままの姿と人の手が加わった調和の象徴として、古くから訪れる者を魅了してきた。古より歌枕として多くの詩人たちの心を映してきた風光明媚な場所でもある。
藤原定家は有馬の湯へ湯湯治に行く途上、この地で漢詩を詠んでいる。
新雨初めて晴れ 池に水満つ
恩の波風 緩にして 豊年を楽しむ
遠松 我を迎えること 親故の如し
群鳥人を驚かし 後先を争う
暁、涙伴い来る 江館の月
春望、相似たり 洞庭の天
頭を廻らして 遥かに顧みる青厳の路
漸、帝都を隔てて山腹川
雨がようやく上がり、池に水が満ちている。天の恵みにより風はおだやかで、豊作を楽しむことができるだろう。遠く松が見え、親しい友のように迎えてくれる。群がる鳥が人を踊らかせるように先を競って飛んでいく。
明け方、涙ながらに去った川傍の館を照らす月は、共に西の方へ向いて、春の眺めは、中華にある洞庭湖の空のように美しい。
振り返ると、辿ってきた道は苔むす巌が遥か向こうまで続いている。そうこうしながらも、都を離れ、山を越え、川を渡っていく。
昆陽池の風景に心打たれた瞬間、古の詩人たちと同じく、その景色を詩に変えたのだろう。定家の詠んだ漢詩には、自然の美しさと人の営みの交差点としての昆陽池の存在が感じられる。歴史の深みに佇む池は、時の経過とともにその景観を保ち、今もなお風光明媚な地として、訪れる人々に静けさと感慨を与え続けている。水面に映る空や風が人々に語りかけ、その心を揺り動かし続ける。昆陽池は、単なる風景を超えた、心の中の歌枕であり続けている。
昆陽池の景色に魅了されたのか、先ほどから義太夫が珍しくため息をつき、物思いにふけっている。軽妙で飄々とした義太夫が、池の静かな水面を見つめてため息をつくとは、何か胸に抱えたものがあるに違いない。
「おぬしが美しい景色を愛でるなどと、珍しいこともあるもの」
忠三郎が軽くからかうように声をかけると、義太夫はどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「まぁ、わしもたまには物を考えることがあるのじゃ」
普段の快活さを失った声で答える義太夫の姿は、忠三郎にはどこか脆く見えた。
「例の、曲者のことか?」
忠三郎が辺りを憚り、声を落としてそう訊ねると、義太夫はゆっくりと頷いた。
「然様。あやつらの根城はすぐに調べがついたが…」
昨日、襲ってきた者たち――それは、この砦の近くに住む土豪たちだった。
織田家の進軍によって田畑を荒らされ、追い詰められた彼らは脅威を感じ、嫌がらせのような攻撃をしかけたのだ。
「あの者どもが我らを襲ってきたことも、致し方なきことではある。されど、行き場を探しているようでもあったが…」
一方で、新介たちは敵視を強め、村ごと焼き払うべきだと怒りを募らせている。忠三郎は、新介の過激な言動を思い浮かべ、苦笑いを浮かべる。
「焼き払うとは…また、いささか乱暴な…」
と言いつつも、新介ならばやりかねない。
「殿の判断を仰ぐことにはなっているが、穏便に済まされる気配は薄い」
今晩、あの曲者とは例の木の下で会うことになっているが、事を起こすのであれば、その前になる。
「やれやれ、皆、あやつらをあそこまで敵視するとはのう。わしは面白き連中と思うたのじゃが」
普段は喧嘩っ早く見えるが、滝川家の中では比較的温厚で、気さくな性格だ。それだけに、今回のように無力な者たちを敵視する風潮には、心が痛むのだろう。
忠三郎は、そんな義太夫の気持ちを察し、穏やかに声をかけた。
「案ずるな。義兄上とて無用な争いを好まれぬお方。まずは義兄上に話を通してみようではないか」
義太夫は少し気持ちが和らいだのか、弱々しくも肯定するようにうなずいた。
一益が帰陣し、皆が集められたが、最初から雲行きは怪しかった。
助九郎が強硬策を強く主張し、それに新介が同調している中、義太夫はどうにも歯切れが悪く、曖昧な態度を見せるばかり。
「いきなり石矢を放ち、襲ってきたのでござります!」
助九郎が興奮気味に声を上げると、新介もそれに応じて熱を帯びた口調で続けた。
「それだけではありませぬ。我らが有岡城に使者を送るたびに、いちいち邪魔たてしてきているのも、あやつらであることは明白。かような不埒な者どもは即刻、始末すべきかと」
「…で、その場を引いたわけは?」
一益が静かに尋ねると、助九郎は少し苛立ったように答えた。
「義太夫殿が、あの者たちに声をかけ、『我が家に仕えよ』と誘ったのでござります」
この言葉に、新介は顔に嘲笑を浮かべた。
「またおぬしか。わけのわからん者ばかり連れてきおって。そのような者が我が家に来てみよ。何をしでかすか分かったものではない」
そう言われてしまうと、それを否定するだけの材料がない。義太夫はウーンと唸ったきり、うつむいてしまった。
義太夫の行動は平和的な解決策を模索した結果だが、その結果は理解されず、火に油を注いでいる。しかし新介や助九郎のような強硬な意見がこのまま主導権を握れば、無益な血の雨が降るのは目に見えている。
「なんとも申し上げにくきことなれど…まぁ、確かに、皆の言うことも尤もとは思われますが…」
義太夫はここにきて、歯切れの悪いことばかり言った。義太夫の曖昧な発言に、一益は冷静に頷き、その迷いを振り払うかのように決断を下した。
「あちらから仕掛けてきたのであれば、致し方あるまい。義太夫、新介。村を焼き払え」
「ハハッ」
喜び勇んで返事をする新介と助九郎。二人はそのまま戦意をみなぎらせ、広間を後にした。広間に残ったのは、足取り重く引き返す義太夫の姿だった。
義太夫の心中は複雑だった。一益の決断には従わねばならぬ立場ではあるが、あの村の人々が、ただの略奪者やならず者とは思えなかった。彼らもまた、生活のために戦っているに過ぎない。しかし、一益の言葉は決定的であり、家中が敵意むき出しの今となっては反対する術も見出せない。
広間を出ると、胸の奥には罪悪感と無力感が重くのしかかる。戦において、弱き者を踏み潰すことが正義とされるのなら、自分はその正義にどう向き合うべきなのか。義太夫は深く考えながら、足音も鈍く、暗い廊下を歩き去っていった。
義太夫がこっそり砦を抜け出すのを見つけた忠三郎は、静かにその後を追った。
「義太夫、何処へ参るのか」
と声をかけると、義太夫は驚いた様子で振り返った。
「あ、見つかってしもうたか」
と、気まずそうに笑う義太夫に、忠三郎は静かに近づいて言った。
「おぬしが支度の時、気もそぞろであったのに気づき、密かに見張っておったのじゃ」
忠三郎も一人で来ていた。誰かにこの場面を見られると、都合が悪いことを察していたのだろう。
「今宵、会おうと約束したのはわしじゃ。せめて、焼き討ちを知らせてやらねばならんと思うてな」
義太夫は言う。何かしらの責任感と後悔があるようだ。
「そのようなことをして、大事ないのか?」
忠三郎は問いかけたが、義太夫は穏やかに首を横に振った。
「大事なかろう。殿は焼き払えと仰せられたが、根切せよとは命じられておらぬ。この砦の近くから追い払えば、それでよいのじゃ。…少し、可哀想ではあるがのう…」
義太夫の言葉に、忠三郎は胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。義太夫の優しさや躊躇が、戦さという現実の中で押し潰されようとしているのを見て、忠三郎もまた、その葛藤に共感せずにはいられなくなった。
義太夫の言葉に表れる無力感は、ただの同情ではなく、義太夫自身が決断する上での苦悩があるのだろう。
「義太夫…」
忠三郎はそっと肩に手を置きながら、
「わしも共に行こう」
と静かに告げた。
義太夫は、村を救う最後の手段として矢文を打ち込んだ。それが村人の手に渡るのを確認すると、踵を返して砦へと駆け戻る。
戻ってきた義太夫に、新介が苛立ちを露わにして声をかけた。
「どこへ行っておったのじゃ。さっさと片付けようぞ」
義太夫は少し照れくさそうに笑って、頭を掻きながら「カハハ」と笑ったが、その笑顔の裏には無力感が滲んでいる。
忠三郎が静かに
「義太夫…」
と声をかけると、義太夫はうつむいて小さく呟いた。
「間に合ってくれればよいが…。最早、万策尽きた。わしも無力じゃ」
なんとも寂しそうなその声に、忠三郎もかける言葉を見つけ出すことができなかった。
その後、火攻めに長けた素破たちが村を襲撃した。燃え広がる火は小さな村をあっという間に包み込み、風がそれをさらに助長する。村はたちまち炎に飲まれ、その日のうちにすべての家屋が燃え尽きてしまった。
忠三郎は遠くに見える燃え上がる村を見つめながら、
「火攻めで滝川の右に出る者はおらぬな」
誰にともなく、感心したように言う。村全体が炎に包まれ、未だ立ち上る煙が砦からでもはっきりと見えていた。忠三郎の言うことは、残酷な現実を前にしながらも、戦さの技術に対する冷静な評価が含まれていた。
いつのまにか夕暮れが訪れ、小屋野の空は茜色に染まった。沈みゆく夕日が、燃えさかる炎の残り火のように、空を赤く照らし出している。穏やかに吹き抜ける風は、焼き討ちに遭った村から漂う煙の香りを運び、かすかに鼻を刺す。静かにくすぶり続ける火の気配が、目には見えなくとも、どこかで生命が失われたことを訴えかけているかのようだった。
自然の美しさは、戦さの酷さを一層際立たせる。空がどれほど美しく染まっても、その下で繰り広げられる人の争いは、いつも自然の無言の証人に過ぎない。沈みゆく夕日は、希望を象徴する光でありながら、同時に今日の悲劇を静かに見送る証人でもあった。
気づくと忠三郎の後ろには、仕事を終えて戻ってきた義太夫がいた。義太夫の表情はどこか曖昧で、無理に明るく振る舞おうとするその顔には、燃え尽きた村の光景が焼き付いていた。
「戻っておったのか」
声をかけると、義太夫は一瞬立ち止まるが、何も言わずにまた足を進めた。足取りは重いながらも、何かしらの目的を持っているようだった。
忠三郎はその背中に再び声をかける。
「今度は何処へ参る?」
「例の木の下へ…」
と、義太夫はぽつりと答える。昨日、あの曲者と待ち合わせした木の元へ行こうとしているようだ。忠三郎は少し驚いたが、すぐに思い直す。村が焼き払われた今、あの曲者が再び現れる可能性は低い。いや、焼き払われた恨みで、徒党を組み、襲ってくるかもしれない。しかし、義太夫にはそれでも行かねばならない理由があるのだろう。
「村を焼き払われたのじゃ。来るとは思えぬが…」
忠三郎がそう声をかけるが、義太夫は振り返らず、砦を出ようとする。忠三郎は致し方なく、義太夫の後に続いた。この先に何が待っているのか分からなかったが、義太夫を一人にはできなかった。曲者が来ないとしても、義太夫の心に何かしらの答えを見つける必要があるのだろう。その答えを得るために、二人は木の元へと向かっていった。
冬の短い日は、二人があの木の下にたどり着く頃にはすっかり暮れていた。
月明かりが淡く辺りを照らす中、義太夫はじっと木の上を見上げていた。
「やはりおらんか…」
ぼんやりと呟く義太夫の目には、暗がりの中、何かが見えているようだったが、忠三郎にはよく分からなかった。
「恐ろしい目に会うたのじゃ。とっくに逃げ出しておろう」
忠三郎が何とか義太夫を砦へ連れ戻そうとしたその時、突然、背後で木の枝が折れる音がした
義太夫が目を細め、忠三郎も警戒する。
「来たのか?」
声が聞こえた。聞き覚えのある、昨夜の曲者の声だった。
二人は後ろを振り返ったが、曲者の姿は見えない。どこに潜んでいるのか全く分からなかった。
「すまんかったのう」
義太夫が深く頭を下げ、心から詫びる。
すると、木の上から明るい笑い声が響き渡る。
「案ずるな。覚悟の上じゃ。もう村を捨て、皆で有岡城に逃げるところであったゆえ、皆、怪我ひとつ負うてはおらぬ」
その声に、義太夫と忠三郎は思わず顔を見合わせ、ホッと胸をなでおろした。
新介の一派を襲ったときから、すでに村を引き払うつもりがあったようだ。
「無念じゃ。供に肩を並べていけると思うておったがのう…」
それが義太夫の本音だろう。義太夫は本当に、この曲者たちと共に戦う未来を夢見ていたのかもしれない。草むらからしばらくの沈黙が流れた後、曲者は静かに言った。
「いずれはそうなるやもしれぬ。仕える家は違うても、友であろう?」
その言葉に、義太夫と忠三郎は互いに顔を見合わせた。
「おぉ!そうじゃのう!」
義太夫は嬉しそうに声を上げる。
「また会おう、義太夫!堅固で暮らせ!」
草むらの中から曲者の声が響き、義太夫が笑顔で応じる。
「おぬしものう!」
その言葉と共に、草むらから立ち去っていく足音が聞こえた。
曲者は恨み言ひとつ漏らさず、快活に立ち去った。草むらに再び静寂が訪れ、静けさが、己の無力さを一層深く感じさせる。
村を焼き討ちにされても何も言わず去っていったことが、かえって胸をえぐるように酷く感じられ、義太夫の肩に罪悪感が重くのしかかる。
ふと目を向けた先には、昆陽池が広がって見えた。静かな水面に映る月が、頼りなく揺れている。あまりにもかよわく、はかないその姿は、有岡城へと逃げ去った彼らの境遇と重なり、胸が締めつけられる。自然の美しさが、争いによって傷ついた心を容赦なく映し出し、何もかもが残酷に見える。美しいはずの月の光さえも、今はただ悲しみの中で脆く消えゆく存在に感じられた。
古来より、人同士は争い、戦ってきた。人と人が集まる時、そこに争いごとが生まれ、人が人の命を奪う。それは人の本質であり、避け得ないことなのかもしれない。力や欲望、恐れが交差する世では、争いが生まれるのは当然の帰結なのだろう。
それでもやはり、願ってしまう。人が争うことを止め、人が人の命を奪うことのない世を。無意味な流血の代わりに、互いに手を差し伸べ合い、理解し合うことができる未来を。この繰り返される悲劇の連鎖が途絶える日が、いつか訪れる日が来ることを。
有岡城を攻めるにあたり、小屋野(昆陽)の地に付城を築くことを勧めたのが武藤宗右衛門だったという。
この地には昆陽池なる大きな池がある。奈良時代、僧侶・行基により治水された地で、昆陽上池と下池の二つからなる。この二つの池に流れる川を天然の堀として用いて要害とすることで、有岡城からの攻撃を防ぐ。二つの池を囲む川は、戦いの時には堀としての役割を果たし、平穏な時には詩人たちの筆を誘う静寂の空間となる。
昆陽池は自然のままの姿と人の手が加わった調和の象徴として、古くから訪れる者を魅了してきた。古より歌枕として多くの詩人たちの心を映してきた風光明媚な場所でもある。
藤原定家は有馬の湯へ湯湯治に行く途上、この地で漢詩を詠んでいる。
新雨初めて晴れ 池に水満つ
恩の波風 緩にして 豊年を楽しむ
遠松 我を迎えること 親故の如し
群鳥人を驚かし 後先を争う
暁、涙伴い来る 江館の月
春望、相似たり 洞庭の天
頭を廻らして 遥かに顧みる青厳の路
漸、帝都を隔てて山腹川
雨がようやく上がり、池に水が満ちている。天の恵みにより風はおだやかで、豊作を楽しむことができるだろう。遠く松が見え、親しい友のように迎えてくれる。群がる鳥が人を踊らかせるように先を競って飛んでいく。
明け方、涙ながらに去った川傍の館を照らす月は、共に西の方へ向いて、春の眺めは、中華にある洞庭湖の空のように美しい。
振り返ると、辿ってきた道は苔むす巌が遥か向こうまで続いている。そうこうしながらも、都を離れ、山を越え、川を渡っていく。
昆陽池の風景に心打たれた瞬間、古の詩人たちと同じく、その景色を詩に変えたのだろう。定家の詠んだ漢詩には、自然の美しさと人の営みの交差点としての昆陽池の存在が感じられる。歴史の深みに佇む池は、時の経過とともにその景観を保ち、今もなお風光明媚な地として、訪れる人々に静けさと感慨を与え続けている。水面に映る空や風が人々に語りかけ、その心を揺り動かし続ける。昆陽池は、単なる風景を超えた、心の中の歌枕であり続けている。
昆陽池の景色に魅了されたのか、先ほどから義太夫が珍しくため息をつき、物思いにふけっている。軽妙で飄々とした義太夫が、池の静かな水面を見つめてため息をつくとは、何か胸に抱えたものがあるに違いない。
「おぬしが美しい景色を愛でるなどと、珍しいこともあるもの」
忠三郎が軽くからかうように声をかけると、義太夫はどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「まぁ、わしもたまには物を考えることがあるのじゃ」
普段の快活さを失った声で答える義太夫の姿は、忠三郎にはどこか脆く見えた。
「例の、曲者のことか?」
忠三郎が辺りを憚り、声を落としてそう訊ねると、義太夫はゆっくりと頷いた。
「然様。あやつらの根城はすぐに調べがついたが…」
昨日、襲ってきた者たち――それは、この砦の近くに住む土豪たちだった。
織田家の進軍によって田畑を荒らされ、追い詰められた彼らは脅威を感じ、嫌がらせのような攻撃をしかけたのだ。
「あの者どもが我らを襲ってきたことも、致し方なきことではある。されど、行き場を探しているようでもあったが…」
一方で、新介たちは敵視を強め、村ごと焼き払うべきだと怒りを募らせている。忠三郎は、新介の過激な言動を思い浮かべ、苦笑いを浮かべる。
「焼き払うとは…また、いささか乱暴な…」
と言いつつも、新介ならばやりかねない。
「殿の判断を仰ぐことにはなっているが、穏便に済まされる気配は薄い」
今晩、あの曲者とは例の木の下で会うことになっているが、事を起こすのであれば、その前になる。
「やれやれ、皆、あやつらをあそこまで敵視するとはのう。わしは面白き連中と思うたのじゃが」
普段は喧嘩っ早く見えるが、滝川家の中では比較的温厚で、気さくな性格だ。それだけに、今回のように無力な者たちを敵視する風潮には、心が痛むのだろう。
忠三郎は、そんな義太夫の気持ちを察し、穏やかに声をかけた。
「案ずるな。義兄上とて無用な争いを好まれぬお方。まずは義兄上に話を通してみようではないか」
義太夫は少し気持ちが和らいだのか、弱々しくも肯定するようにうなずいた。
一益が帰陣し、皆が集められたが、最初から雲行きは怪しかった。
助九郎が強硬策を強く主張し、それに新介が同調している中、義太夫はどうにも歯切れが悪く、曖昧な態度を見せるばかり。
「いきなり石矢を放ち、襲ってきたのでござります!」
助九郎が興奮気味に声を上げると、新介もそれに応じて熱を帯びた口調で続けた。
「それだけではありませぬ。我らが有岡城に使者を送るたびに、いちいち邪魔たてしてきているのも、あやつらであることは明白。かような不埒な者どもは即刻、始末すべきかと」
「…で、その場を引いたわけは?」
一益が静かに尋ねると、助九郎は少し苛立ったように答えた。
「義太夫殿が、あの者たちに声をかけ、『我が家に仕えよ』と誘ったのでござります」
この言葉に、新介は顔に嘲笑を浮かべた。
「またおぬしか。わけのわからん者ばかり連れてきおって。そのような者が我が家に来てみよ。何をしでかすか分かったものではない」
そう言われてしまうと、それを否定するだけの材料がない。義太夫はウーンと唸ったきり、うつむいてしまった。
義太夫の行動は平和的な解決策を模索した結果だが、その結果は理解されず、火に油を注いでいる。しかし新介や助九郎のような強硬な意見がこのまま主導権を握れば、無益な血の雨が降るのは目に見えている。
「なんとも申し上げにくきことなれど…まぁ、確かに、皆の言うことも尤もとは思われますが…」
義太夫はここにきて、歯切れの悪いことばかり言った。義太夫の曖昧な発言に、一益は冷静に頷き、その迷いを振り払うかのように決断を下した。
「あちらから仕掛けてきたのであれば、致し方あるまい。義太夫、新介。村を焼き払え」
「ハハッ」
喜び勇んで返事をする新介と助九郎。二人はそのまま戦意をみなぎらせ、広間を後にした。広間に残ったのは、足取り重く引き返す義太夫の姿だった。
義太夫の心中は複雑だった。一益の決断には従わねばならぬ立場ではあるが、あの村の人々が、ただの略奪者やならず者とは思えなかった。彼らもまた、生活のために戦っているに過ぎない。しかし、一益の言葉は決定的であり、家中が敵意むき出しの今となっては反対する術も見出せない。
広間を出ると、胸の奥には罪悪感と無力感が重くのしかかる。戦において、弱き者を踏み潰すことが正義とされるのなら、自分はその正義にどう向き合うべきなのか。義太夫は深く考えながら、足音も鈍く、暗い廊下を歩き去っていった。
義太夫がこっそり砦を抜け出すのを見つけた忠三郎は、静かにその後を追った。
「義太夫、何処へ参るのか」
と声をかけると、義太夫は驚いた様子で振り返った。
「あ、見つかってしもうたか」
と、気まずそうに笑う義太夫に、忠三郎は静かに近づいて言った。
「おぬしが支度の時、気もそぞろであったのに気づき、密かに見張っておったのじゃ」
忠三郎も一人で来ていた。誰かにこの場面を見られると、都合が悪いことを察していたのだろう。
「今宵、会おうと約束したのはわしじゃ。せめて、焼き討ちを知らせてやらねばならんと思うてな」
義太夫は言う。何かしらの責任感と後悔があるようだ。
「そのようなことをして、大事ないのか?」
忠三郎は問いかけたが、義太夫は穏やかに首を横に振った。
「大事なかろう。殿は焼き払えと仰せられたが、根切せよとは命じられておらぬ。この砦の近くから追い払えば、それでよいのじゃ。…少し、可哀想ではあるがのう…」
義太夫の言葉に、忠三郎は胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。義太夫の優しさや躊躇が、戦さという現実の中で押し潰されようとしているのを見て、忠三郎もまた、その葛藤に共感せずにはいられなくなった。
義太夫の言葉に表れる無力感は、ただの同情ではなく、義太夫自身が決断する上での苦悩があるのだろう。
「義太夫…」
忠三郎はそっと肩に手を置きながら、
「わしも共に行こう」
と静かに告げた。
義太夫は、村を救う最後の手段として矢文を打ち込んだ。それが村人の手に渡るのを確認すると、踵を返して砦へと駆け戻る。
戻ってきた義太夫に、新介が苛立ちを露わにして声をかけた。
「どこへ行っておったのじゃ。さっさと片付けようぞ」
義太夫は少し照れくさそうに笑って、頭を掻きながら「カハハ」と笑ったが、その笑顔の裏には無力感が滲んでいる。
忠三郎が静かに
「義太夫…」
と声をかけると、義太夫はうつむいて小さく呟いた。
「間に合ってくれればよいが…。最早、万策尽きた。わしも無力じゃ」
なんとも寂しそうなその声に、忠三郎もかける言葉を見つけ出すことができなかった。
その後、火攻めに長けた素破たちが村を襲撃した。燃え広がる火は小さな村をあっという間に包み込み、風がそれをさらに助長する。村はたちまち炎に飲まれ、その日のうちにすべての家屋が燃え尽きてしまった。
忠三郎は遠くに見える燃え上がる村を見つめながら、
「火攻めで滝川の右に出る者はおらぬな」
誰にともなく、感心したように言う。村全体が炎に包まれ、未だ立ち上る煙が砦からでもはっきりと見えていた。忠三郎の言うことは、残酷な現実を前にしながらも、戦さの技術に対する冷静な評価が含まれていた。
いつのまにか夕暮れが訪れ、小屋野の空は茜色に染まった。沈みゆく夕日が、燃えさかる炎の残り火のように、空を赤く照らし出している。穏やかに吹き抜ける風は、焼き討ちに遭った村から漂う煙の香りを運び、かすかに鼻を刺す。静かにくすぶり続ける火の気配が、目には見えなくとも、どこかで生命が失われたことを訴えかけているかのようだった。
自然の美しさは、戦さの酷さを一層際立たせる。空がどれほど美しく染まっても、その下で繰り広げられる人の争いは、いつも自然の無言の証人に過ぎない。沈みゆく夕日は、希望を象徴する光でありながら、同時に今日の悲劇を静かに見送る証人でもあった。
気づくと忠三郎の後ろには、仕事を終えて戻ってきた義太夫がいた。義太夫の表情はどこか曖昧で、無理に明るく振る舞おうとするその顔には、燃え尽きた村の光景が焼き付いていた。
「戻っておったのか」
声をかけると、義太夫は一瞬立ち止まるが、何も言わずにまた足を進めた。足取りは重いながらも、何かしらの目的を持っているようだった。
忠三郎はその背中に再び声をかける。
「今度は何処へ参る?」
「例の木の下へ…」
と、義太夫はぽつりと答える。昨日、あの曲者と待ち合わせした木の元へ行こうとしているようだ。忠三郎は少し驚いたが、すぐに思い直す。村が焼き払われた今、あの曲者が再び現れる可能性は低い。いや、焼き払われた恨みで、徒党を組み、襲ってくるかもしれない。しかし、義太夫にはそれでも行かねばならない理由があるのだろう。
「村を焼き払われたのじゃ。来るとは思えぬが…」
忠三郎がそう声をかけるが、義太夫は振り返らず、砦を出ようとする。忠三郎は致し方なく、義太夫の後に続いた。この先に何が待っているのか分からなかったが、義太夫を一人にはできなかった。曲者が来ないとしても、義太夫の心に何かしらの答えを見つける必要があるのだろう。その答えを得るために、二人は木の元へと向かっていった。
冬の短い日は、二人があの木の下にたどり着く頃にはすっかり暮れていた。
月明かりが淡く辺りを照らす中、義太夫はじっと木の上を見上げていた。
「やはりおらんか…」
ぼんやりと呟く義太夫の目には、暗がりの中、何かが見えているようだったが、忠三郎にはよく分からなかった。
「恐ろしい目に会うたのじゃ。とっくに逃げ出しておろう」
忠三郎が何とか義太夫を砦へ連れ戻そうとしたその時、突然、背後で木の枝が折れる音がした
義太夫が目を細め、忠三郎も警戒する。
「来たのか?」
声が聞こえた。聞き覚えのある、昨夜の曲者の声だった。
二人は後ろを振り返ったが、曲者の姿は見えない。どこに潜んでいるのか全く分からなかった。
「すまんかったのう」
義太夫が深く頭を下げ、心から詫びる。
すると、木の上から明るい笑い声が響き渡る。
「案ずるな。覚悟の上じゃ。もう村を捨て、皆で有岡城に逃げるところであったゆえ、皆、怪我ひとつ負うてはおらぬ」
その声に、義太夫と忠三郎は思わず顔を見合わせ、ホッと胸をなでおろした。
新介の一派を襲ったときから、すでに村を引き払うつもりがあったようだ。
「無念じゃ。供に肩を並べていけると思うておったがのう…」
それが義太夫の本音だろう。義太夫は本当に、この曲者たちと共に戦う未来を夢見ていたのかもしれない。草むらからしばらくの沈黙が流れた後、曲者は静かに言った。
「いずれはそうなるやもしれぬ。仕える家は違うても、友であろう?」
その言葉に、義太夫と忠三郎は互いに顔を見合わせた。
「おぉ!そうじゃのう!」
義太夫は嬉しそうに声を上げる。
「また会おう、義太夫!堅固で暮らせ!」
草むらの中から曲者の声が響き、義太夫が笑顔で応じる。
「おぬしものう!」
その言葉と共に、草むらから立ち去っていく足音が聞こえた。
曲者は恨み言ひとつ漏らさず、快活に立ち去った。草むらに再び静寂が訪れ、静けさが、己の無力さを一層深く感じさせる。
村を焼き討ちにされても何も言わず去っていったことが、かえって胸をえぐるように酷く感じられ、義太夫の肩に罪悪感が重くのしかかる。
ふと目を向けた先には、昆陽池が広がって見えた。静かな水面に映る月が、頼りなく揺れている。あまりにもかよわく、はかないその姿は、有岡城へと逃げ去った彼らの境遇と重なり、胸が締めつけられる。自然の美しさが、争いによって傷ついた心を容赦なく映し出し、何もかもが残酷に見える。美しいはずの月の光さえも、今はただ悲しみの中で脆く消えゆく存在に感じられた。
古来より、人同士は争い、戦ってきた。人と人が集まる時、そこに争いごとが生まれ、人が人の命を奪う。それは人の本質であり、避け得ないことなのかもしれない。力や欲望、恐れが交差する世では、争いが生まれるのは当然の帰結なのだろう。
それでもやはり、願ってしまう。人が争うことを止め、人が人の命を奪うことのない世を。無意味な流血の代わりに、互いに手を差し伸べ合い、理解し合うことができる未来を。この繰り返される悲劇の連鎖が途絶える日が、いつか訪れる日が来ることを。
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歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
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藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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