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15.摂津の夕闇
15-4. 軍師の秘密
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天正七年の新春、堺での茶会から帰る途中、忠三郎は堺湊に立ち寄り、遥か大坂湾に浮かぶ織田家の軍船を眺めていた。冬の澄んだ空気の中、陽光を浴びてきらめくその姿は、威風堂々たるものだ。
「見事なものですなあ。あれでは本願寺も兵糧不足に悩まされるばかりでしょうな」
町野左近が感心して口を開いた。滝川家の船団は輪番で交代乗船しており、家臣たちは順々にその任を果たしているが、生真面目な三九郎は、船に乗り込んでから一度も陸に降りようとしない。
「正月だというのに、三九郎だけは、いまだ船から降りる気配がない」
忠三郎が笑みを浮かべて言う。
「まったくもって、さすが滝川様の嫡男。若殿にもあのお姿を見習っていただきたいもので」
町野左近は少し厳しめの口調で忠三郎を窘めた。忠三郎が都で義太夫と共に放蕩を繰り返していることへの憂慮が滲んでいるようだ。
忠三郎は苦笑しながら肩をすくめ、
「爺もよく言うのう。三九郎は真面目すぎる。あれでは今に船に根を下ろして、木彫りの船飾りにでもなりかねん」
「その木彫りの飾りが増える前に、若殿にも少しは真面目さというものを覚えていただきたいものじゃ」
忠三郎はその言葉に、思わず肩を震わせて笑った。
「いやいや、爺、わしが三九郎のようになっては、今度はおぬしの息が詰まるじゃろう。あれじゃ、わしまで三九郎の木彫り仲間になってしまうではないか!」
町野左近はふとため息をつき、忠三郎のあっけらかんとした態度に諦めの色を見せた。糠に釘とはまさにこのことか、と思いながらも、この先の蒲生家の将来が案じられる。
忠三郎は、ふと顔を上げて遠くに見慣れた馬の姿を捉えた。
「おや、あれは…」
都の街角に見慣れた馬が見えた。
(武藤殿の馬では…)
馬番をしている者も、どこか見覚えがある。
「あの中に武藤殿がおられるのか」
近くに立つ屋敷を見つめた。その屋敷は、納屋衆の商人たちのそれとはどこか趣が異なる佇まいをみせる。
(たしかあの家は…)
その時だった。突然、町野左近が
「おおっ!」と大きく手を叩き、何かを思い出したかのように叫んだ。
「あれは、義太夫殿がご贔屓にしている饅頭屋ではありませぬか!」
「饅頭屋?」
忠三郎は首をかしげ、困惑気味に視線をその方向へ戻した。すると、確かに饅頭屋が目に入る。暖簾には「名物まんじゅう」と書かれた文字が風に揺れていた。
「しかし、武藤殿が自ら饅頭を買いに来るのか?」
忠三郎は納得いかぬ様子で眉をひそめる。
(武藤殿がおるのは、どう考えても饅頭屋ではなく、その隣の屋敷ではなかろうか)
「爺。武藤殿は…」
「若殿、まずは饅頭で腹を満たすことといたしませぬか」
真顔でそういう。
(爺もだんだんと義太夫に似てきたような…)
一抹の不安を感じる。
「腹が空いては戦もできぬ、と昔から言われておりますからな」
「な、なるほど…。では買い求めるか」
町野左近の饅頭に傾ける情熱に負けつつも、どこかおかしさを感じずにはいられない。
「ハハッ。では早速に」
町野左近は真剣な面持ちで饅頭屋に向かっていく。その間も、忠三郎の頭の片隅には、隣の屋敷にいるかもしれない武藤宗右衛門の姿がちらついていた。
しかし、町野左近が差し出す熱々の饅頭を手に取ると、思わず湯気が立ち上るその温かさに心が和み、
「…まぁ、時にはこうしたことも悪くはあるまい」
と饅頭を頬張る。
「饅頭も、戦さも、順番が大事でござりますゆえ!」
町野左近がにこやかに言うのを聞き、忠三郎は苦笑しながら、
「爺の順番は、常に饅頭が先か」
これでは益々義太夫じみているなと思うと、笑いをこらえきれなくなった。
「饅頭屋にはお姿が見えませんでしたが」
「…であろう」
二人が饅頭を頬張りながら話をしていると、思った通り、宗右衛門が包みを抱え、隣の屋敷の戸口から姿を現した。
忠三郎は饅頭を手にしたまま、すかさず駆け寄り、「武藤殿」と声をかけた。
宗右衛門は一瞬驚いた表情を浮かべ「見られたくない場面」を見られたような困惑の色を見せた。
「これは…忠三郎殿」と、ぎこちない笑みを浮かべながら、包みを隠すように持ち直す。忠三郎はその様子を見逃さず、鋭い目つきで問いかけた。
「武藤殿。これなる館は…」
宗右衛門がどうにも人目を避けているように見えるのが気にかかる。
しかし、宗右衛門は少し躊躇したように忠三郎を見つめ、困惑を隠しきれないまま、小声で
「ここでは少し…」
と言った。明らかに話したくなさそうだ。忠三郎が次の言葉を探していると、宗右衛門は馬の手綱を手にし、歩き出しながら続けた。
「あちらで…」
忠三郎は一瞬戸惑いながらも、宗右衛門の意図を察し、町野左近とともに後を追った。饅頭の香ばしい香りが鼻先をかすめた。
三条烏丸から南へ行けば、饅頭屋が軒を連ねる饅頭屋町が広がっている。そこには、饅頭屋次郎や饅頭屋宗二といった名の知れた店が並び、香ばしい饅頭の香りが漂っている。
しかし、宗右衛門はその饅頭屋町には背を向け、北へ向かっていた。
三条烏丸から北へ進むと、室町川と呼ばれる川が現れる。穏やかな流れをたたえたその川沿いには、信長が都に来た折に滞在する二条御新造が見える。
川のほとりまで歩いてきた宗右衛門は、ようやく足を止めた。水面に反射する陽光がキラキラと輝き、まるでこの場所を隠れ家にするかのような静けさが漂っている。宗右衛門は振り返り、忠三郎を見つめると、ため息交じりに口を開いた。
「お察しの通り。されど、このこと、左近殿には内密にしてくだされ」
この屋敷から出てきたことを一益にはには知られたくないようだ。
「…武藤殿…」
忠三郎は少し困惑した表情で返す。
「そうは言うても義兄上は武藤殿を頼りにしておられるご様子。伝えぬわけには…」
宗右衛門は、忠三郎の言葉を遮るように、はっきりと言った。
「忠三郎殿。時がきたら、それがしの口から左近殿にはお話しいたします。それゆえ、今はこのこと、そしてここで会うたことはなかったことにしていただきたい」
忠三郎は、宗右衛門の真剣なまなざしに押され、言葉を飲み込んだ。これ以上、ここで追及することは無意味なようだ。宗右衛門がこれほど強く願う以上、自分が踏み込むべきではないと悟った。
「心得ました。されど、このこと、上様は…」
宗右衛門は少しほっとした様子で、微かに笑みを浮かべた。
「上様にはすでにお話させていただきました。ご案じくださるな」
信長には伝えているようだ。しかし、宗右衛門は一益にだけは知られたくないと、そう思っている。
「痛みいりまする、忠三郎殿」
宗右衛門は丁寧に一礼し、再び包みを持ち直して、その場を静かに去っていった。
忠三郎は、宗右衛門の後ろ姿を見送りながら、心に重たい疑念が残る。しかし、その思考を遮るかのように、町野左近が不思議そうに問いかけてきた。
「…これは余程のことかと…。若殿。武藤様が出てきたお屋敷。あれは一体、どなたのお屋敷で?」
町野左近は何が起こっているのかまったく理解できていない様子で、目を丸くしている。忠三郎は一瞬答えかけたが、すぐに複雑な表情を浮かべ、
「…あれなる屋敷は…」
と言いかけたところで口をつぐんだ。
(あの武藤殿のご様子は、ただ事ではない…。これは…)
忠三郎は心の中で考えながら、慎重に言葉を選んだ。
「爺、あれについては今は何も言わぬ方が良い」
結局、忠三郎は町野左近に対して曖昧に答え、話を切り上げた。宗右衛門の思いつめた表情が頭から離れず、無闇に口に出すべきではないと直感的に感じていた。
町野左近は少し戸惑いながらも、忠三郎の言葉に従い、それ以上深追いしなかった。
「承知いたしました、若殿。それにしても、饅頭も良いですが、今後はもう少し謎解きの饅頭を楽しませていただきたいものですな」
冗談めかして言う左近に、忠三郎は軽く微笑む。
「おぬしの饅頭への想いも、いつかは何かを解き明かしてくれるかもしれぬぞ」
忠三郎は軽い調子で返したが、心の中では宗右衛門が抱える秘密について、深く考え込んでいた。
武藤宗右衛門が織田家に姿を現してから、すでに六年の歳月が流れていた。
その頃、信長は浅井・朝倉をようやく滅ぼし、次の一手を考えていた時期だった。しかし、織田家を取り巻く状況は決して楽観的ではなかった。畿内では大坂本願寺が力をつけ、伊勢では長島願証寺が一揆の拠点として力を増し、越前の一揆や紀州の反乱、さらには武田勢の脅威と、織田家は四面楚歌の状態だった。
そんな中、軍略や兵法に造詣の深い宗右衛門は信長に重要な進言をした。
「織田家の強みは、なんと言うてもその機動力にあります。各地に分散している兵を迅速に一カ所に集め、敵が戦の支度を整える前にこれを撃つ。そうすることで、四面楚歌の現状を打破することができましょう」
織田家の現状を的確に見抜いた冷静な分析だった。
また、宗右衛門は織田家の抱える大きな弱点、つまり「尾張兵の弱さ」をも見逃さなかった。このころ、尾張兵の弱さは「三河兵一人は尾張兵三人に匹敵する」「甲州兵一人は尾張兵五人に匹敵する」と揶揄されていた。そのため、宗右衛門は野戦における戦法を信長に提案した。
「これまでの戦いを見るに、我が方は敵との接近戦では不利に働く場合が多い。ゆえに、敵を巧みに誘い出し、長槍や鉄砲を生かす防衛戦に持ち込むことで、織田家は勝機をつかむことができましょう」
と進言した。この戦法は、信長がすでに考えていた「弱兵を補うための策」と通じる部分が多かったため、信長はすぐにその進言を喜んで受け入れた。
信長は、宗右衛門の卓越した戦略眼と冷静な判断力を受け、次第に全幅の信頼を寄せるようになった。宗右衛門は、信長の思考を先読みし、戦況を的確に分析して次々と的確な進言を行った。
その結果、信長は宗右衛門をただの家臣として扱うのではなく、重臣に匹敵するほどの重要な役割を与えるようになっていった。
信長は宗右衛門の才能を重く見て、単なる戦術家としてではなく、戦略全体を担う軍師として彼を扱うようになった。重要な合戦や軍議の場では、宗右衛門の意見が常に重視され、その考えが織田軍の動向を決定づけることも少なくなかった。宗右衛門は、織田家の運命を握る一角となり、その地位は重臣に並ぶほどのものとなった。
織田家中でも、宗右衛門が信長から厚遇される様子を見て、他の武将たちも彼を一目置くようになり、その名声は徐々に広がっていった。そして、宗右衛門自身もまた、信長のために全力を尽くし、織田家の天下統一を目指すべく、さらに大きな役割を果たしていくこととなった。
そんな中、ここ数年は、もっぱら一益と行動を共にすることが多くなっていた。
甲賀の伝統で、兵法、特に『孫子』に詳しい一益とは話が合うようで、将来の方針や目前の戦闘について熱心に話し合う姿がしばしば見られるようになった。
(わしこそ、義兄上の片腕にふさわしいと思うていたが…)
将来的には一益の片腕として、織田家で力を発揮したいと考えていた忠三郎は、当初、少しつまらない思いをしていた。しかし、宗右衛門は博識でありながらも謙虚な姿勢を保ち、礼儀をわきまえ、他人に対して親切だった。そんな宗右衛門の人柄に触れるうちに、忠三郎も次第に宗右衛門を信頼するようになっていた。
あの日以来、忠三郎はますます頻繁に小屋野砦へ使いに出されるようになった。それは、まるで宗右衛門の言葉を裏付けるかのようだった。
「有岡城に動きがないか、確かめて参れ」
信長はそれだけを命じたが、その真意は宗右衛門だろう。宗右衛門の様子を確かめて来いと、そう言っているのだと判断した。
(上様がここまでお気に止めておられるとは……これはただごとではない)
しかし、あまりにも頻繁に小屋野砦に顔を出せば、宗右衛門はともかく、一益が怪しむのではないかと案じられる。
(義兄上に隠し事をするとは……また難しいことになったものよ)
一益だけではない。もし義太夫に知られてしまえば、おしゃべりな義太夫のことだ。すぐに一益に漏らしてしまうに違いない。最も親しい義太夫にも、この重大な秘密を隠し通さなければならなかった。
ところが、小屋野砦に行ってみると、義太夫は留守だった。
(花城山へ行くとか言うていたな)
曲者に襲われる前に、旅支度をしていたことを思い出した。
「ここ最近、よう顔を見せるのう」
一益からの指摘に、忠三郎は内心ドキリとする。だが、宗右衛門がさりげなく
「上様もそれだけ有岡城のことを案じておられるということでしょう」
と口添えすると、一益はそれ以上深く追及することなく、頷いた。
(全く、冷や冷やさせられる)
相手は只者ではない。一益は謀将として恐れられた素破の頭だ。これまで数々の場面で、相手の秘密や心配事、さらには胸の奥底に潜む恐怖までも暴いてきた。そんな人物を前にして、忠三郎は隠し通す自信が次第に揺らいでいく。
(この先、どこまで隠し通せるか…)
宗右衛門からの頼みとはいえ、その不安が忠三郎の胸の中で広がっていく。
しかし、当の宗右衛門が平然とした態度を崩さない以上、忠三郎もまた、気づかれぬように努めて平静を保つしかない。
一益は、忠三郎の心中を知ってか知らずか、
「ちょうどよいところに参った」
と切り出した。その瞬間、忠三郎はひやりとする。まさか、例の秘密が暴かれたのではないかと一瞬不安がよぎった。だが、その場にいる宗右衛門は、慌てるどころか、にこやかな笑みを浮かべている。
(まるで何事もないかのように…)
その様子に少し戸惑いながらも、忠三郎は内心の動揺を抑えつつ微笑みを浮かべて問いかけた。
「何か、ござりましたか?」
一益も珍しく、やや笑みを見せながら応じた。
「ほかでもない。義太夫の婚儀のことじゃ」
意外な話に、忠三郎は驚いた。
「義太夫の婚儀?」
それは全く予想外の展開だった。
「然様。あれもいつまでも独り身にしておくわけにもいくまい。幸いにも花城山には宗右衛門の妹がおる」
驚いた忠三郎が宗右衛門を見ると、宗右衛門は静かに微笑んで答えた。
「はい。縁戚に嫁いておりましたが戦さにより夫を失い、我がもとに戻って参りました。幸いにも義太夫殿は未だおひとり。それゆえ、それがしが義太夫殿に娶せたいと願い出た次第でござります」
何も知らずに花城山へ向かった義太夫は、この真相を知れば、さぞ驚くことだろう。
(されど…)
宗右衛門の妹が義太夫に嫁ぐとなれば、両家は親戚となる。だが、そうなった時、宗右衛門はこの重大な秘密をいつまで隠し通すのだろうか。
「見事なものですなあ。あれでは本願寺も兵糧不足に悩まされるばかりでしょうな」
町野左近が感心して口を開いた。滝川家の船団は輪番で交代乗船しており、家臣たちは順々にその任を果たしているが、生真面目な三九郎は、船に乗り込んでから一度も陸に降りようとしない。
「正月だというのに、三九郎だけは、いまだ船から降りる気配がない」
忠三郎が笑みを浮かべて言う。
「まったくもって、さすが滝川様の嫡男。若殿にもあのお姿を見習っていただきたいもので」
町野左近は少し厳しめの口調で忠三郎を窘めた。忠三郎が都で義太夫と共に放蕩を繰り返していることへの憂慮が滲んでいるようだ。
忠三郎は苦笑しながら肩をすくめ、
「爺もよく言うのう。三九郎は真面目すぎる。あれでは今に船に根を下ろして、木彫りの船飾りにでもなりかねん」
「その木彫りの飾りが増える前に、若殿にも少しは真面目さというものを覚えていただきたいものじゃ」
忠三郎はその言葉に、思わず肩を震わせて笑った。
「いやいや、爺、わしが三九郎のようになっては、今度はおぬしの息が詰まるじゃろう。あれじゃ、わしまで三九郎の木彫り仲間になってしまうではないか!」
町野左近はふとため息をつき、忠三郎のあっけらかんとした態度に諦めの色を見せた。糠に釘とはまさにこのことか、と思いながらも、この先の蒲生家の将来が案じられる。
忠三郎は、ふと顔を上げて遠くに見慣れた馬の姿を捉えた。
「おや、あれは…」
都の街角に見慣れた馬が見えた。
(武藤殿の馬では…)
馬番をしている者も、どこか見覚えがある。
「あの中に武藤殿がおられるのか」
近くに立つ屋敷を見つめた。その屋敷は、納屋衆の商人たちのそれとはどこか趣が異なる佇まいをみせる。
(たしかあの家は…)
その時だった。突然、町野左近が
「おおっ!」と大きく手を叩き、何かを思い出したかのように叫んだ。
「あれは、義太夫殿がご贔屓にしている饅頭屋ではありませぬか!」
「饅頭屋?」
忠三郎は首をかしげ、困惑気味に視線をその方向へ戻した。すると、確かに饅頭屋が目に入る。暖簾には「名物まんじゅう」と書かれた文字が風に揺れていた。
「しかし、武藤殿が自ら饅頭を買いに来るのか?」
忠三郎は納得いかぬ様子で眉をひそめる。
(武藤殿がおるのは、どう考えても饅頭屋ではなく、その隣の屋敷ではなかろうか)
「爺。武藤殿は…」
「若殿、まずは饅頭で腹を満たすことといたしませぬか」
真顔でそういう。
(爺もだんだんと義太夫に似てきたような…)
一抹の不安を感じる。
「腹が空いては戦もできぬ、と昔から言われておりますからな」
「な、なるほど…。では買い求めるか」
町野左近の饅頭に傾ける情熱に負けつつも、どこかおかしさを感じずにはいられない。
「ハハッ。では早速に」
町野左近は真剣な面持ちで饅頭屋に向かっていく。その間も、忠三郎の頭の片隅には、隣の屋敷にいるかもしれない武藤宗右衛門の姿がちらついていた。
しかし、町野左近が差し出す熱々の饅頭を手に取ると、思わず湯気が立ち上るその温かさに心が和み、
「…まぁ、時にはこうしたことも悪くはあるまい」
と饅頭を頬張る。
「饅頭も、戦さも、順番が大事でござりますゆえ!」
町野左近がにこやかに言うのを聞き、忠三郎は苦笑しながら、
「爺の順番は、常に饅頭が先か」
これでは益々義太夫じみているなと思うと、笑いをこらえきれなくなった。
「饅頭屋にはお姿が見えませんでしたが」
「…であろう」
二人が饅頭を頬張りながら話をしていると、思った通り、宗右衛門が包みを抱え、隣の屋敷の戸口から姿を現した。
忠三郎は饅頭を手にしたまま、すかさず駆け寄り、「武藤殿」と声をかけた。
宗右衛門は一瞬驚いた表情を浮かべ「見られたくない場面」を見られたような困惑の色を見せた。
「これは…忠三郎殿」と、ぎこちない笑みを浮かべながら、包みを隠すように持ち直す。忠三郎はその様子を見逃さず、鋭い目つきで問いかけた。
「武藤殿。これなる館は…」
宗右衛門がどうにも人目を避けているように見えるのが気にかかる。
しかし、宗右衛門は少し躊躇したように忠三郎を見つめ、困惑を隠しきれないまま、小声で
「ここでは少し…」
と言った。明らかに話したくなさそうだ。忠三郎が次の言葉を探していると、宗右衛門は馬の手綱を手にし、歩き出しながら続けた。
「あちらで…」
忠三郎は一瞬戸惑いながらも、宗右衛門の意図を察し、町野左近とともに後を追った。饅頭の香ばしい香りが鼻先をかすめた。
三条烏丸から南へ行けば、饅頭屋が軒を連ねる饅頭屋町が広がっている。そこには、饅頭屋次郎や饅頭屋宗二といった名の知れた店が並び、香ばしい饅頭の香りが漂っている。
しかし、宗右衛門はその饅頭屋町には背を向け、北へ向かっていた。
三条烏丸から北へ進むと、室町川と呼ばれる川が現れる。穏やかな流れをたたえたその川沿いには、信長が都に来た折に滞在する二条御新造が見える。
川のほとりまで歩いてきた宗右衛門は、ようやく足を止めた。水面に反射する陽光がキラキラと輝き、まるでこの場所を隠れ家にするかのような静けさが漂っている。宗右衛門は振り返り、忠三郎を見つめると、ため息交じりに口を開いた。
「お察しの通り。されど、このこと、左近殿には内密にしてくだされ」
この屋敷から出てきたことを一益にはには知られたくないようだ。
「…武藤殿…」
忠三郎は少し困惑した表情で返す。
「そうは言うても義兄上は武藤殿を頼りにしておられるご様子。伝えぬわけには…」
宗右衛門は、忠三郎の言葉を遮るように、はっきりと言った。
「忠三郎殿。時がきたら、それがしの口から左近殿にはお話しいたします。それゆえ、今はこのこと、そしてここで会うたことはなかったことにしていただきたい」
忠三郎は、宗右衛門の真剣なまなざしに押され、言葉を飲み込んだ。これ以上、ここで追及することは無意味なようだ。宗右衛門がこれほど強く願う以上、自分が踏み込むべきではないと悟った。
「心得ました。されど、このこと、上様は…」
宗右衛門は少しほっとした様子で、微かに笑みを浮かべた。
「上様にはすでにお話させていただきました。ご案じくださるな」
信長には伝えているようだ。しかし、宗右衛門は一益にだけは知られたくないと、そう思っている。
「痛みいりまする、忠三郎殿」
宗右衛門は丁寧に一礼し、再び包みを持ち直して、その場を静かに去っていった。
忠三郎は、宗右衛門の後ろ姿を見送りながら、心に重たい疑念が残る。しかし、その思考を遮るかのように、町野左近が不思議そうに問いかけてきた。
「…これは余程のことかと…。若殿。武藤様が出てきたお屋敷。あれは一体、どなたのお屋敷で?」
町野左近は何が起こっているのかまったく理解できていない様子で、目を丸くしている。忠三郎は一瞬答えかけたが、すぐに複雑な表情を浮かべ、
「…あれなる屋敷は…」
と言いかけたところで口をつぐんだ。
(あの武藤殿のご様子は、ただ事ではない…。これは…)
忠三郎は心の中で考えながら、慎重に言葉を選んだ。
「爺、あれについては今は何も言わぬ方が良い」
結局、忠三郎は町野左近に対して曖昧に答え、話を切り上げた。宗右衛門の思いつめた表情が頭から離れず、無闇に口に出すべきではないと直感的に感じていた。
町野左近は少し戸惑いながらも、忠三郎の言葉に従い、それ以上深追いしなかった。
「承知いたしました、若殿。それにしても、饅頭も良いですが、今後はもう少し謎解きの饅頭を楽しませていただきたいものですな」
冗談めかして言う左近に、忠三郎は軽く微笑む。
「おぬしの饅頭への想いも、いつかは何かを解き明かしてくれるかもしれぬぞ」
忠三郎は軽い調子で返したが、心の中では宗右衛門が抱える秘密について、深く考え込んでいた。
武藤宗右衛門が織田家に姿を現してから、すでに六年の歳月が流れていた。
その頃、信長は浅井・朝倉をようやく滅ぼし、次の一手を考えていた時期だった。しかし、織田家を取り巻く状況は決して楽観的ではなかった。畿内では大坂本願寺が力をつけ、伊勢では長島願証寺が一揆の拠点として力を増し、越前の一揆や紀州の反乱、さらには武田勢の脅威と、織田家は四面楚歌の状態だった。
そんな中、軍略や兵法に造詣の深い宗右衛門は信長に重要な進言をした。
「織田家の強みは、なんと言うてもその機動力にあります。各地に分散している兵を迅速に一カ所に集め、敵が戦の支度を整える前にこれを撃つ。そうすることで、四面楚歌の現状を打破することができましょう」
織田家の現状を的確に見抜いた冷静な分析だった。
また、宗右衛門は織田家の抱える大きな弱点、つまり「尾張兵の弱さ」をも見逃さなかった。このころ、尾張兵の弱さは「三河兵一人は尾張兵三人に匹敵する」「甲州兵一人は尾張兵五人に匹敵する」と揶揄されていた。そのため、宗右衛門は野戦における戦法を信長に提案した。
「これまでの戦いを見るに、我が方は敵との接近戦では不利に働く場合が多い。ゆえに、敵を巧みに誘い出し、長槍や鉄砲を生かす防衛戦に持ち込むことで、織田家は勝機をつかむことができましょう」
と進言した。この戦法は、信長がすでに考えていた「弱兵を補うための策」と通じる部分が多かったため、信長はすぐにその進言を喜んで受け入れた。
信長は、宗右衛門の卓越した戦略眼と冷静な判断力を受け、次第に全幅の信頼を寄せるようになった。宗右衛門は、信長の思考を先読みし、戦況を的確に分析して次々と的確な進言を行った。
その結果、信長は宗右衛門をただの家臣として扱うのではなく、重臣に匹敵するほどの重要な役割を与えるようになっていった。
信長は宗右衛門の才能を重く見て、単なる戦術家としてではなく、戦略全体を担う軍師として彼を扱うようになった。重要な合戦や軍議の場では、宗右衛門の意見が常に重視され、その考えが織田軍の動向を決定づけることも少なくなかった。宗右衛門は、織田家の運命を握る一角となり、その地位は重臣に並ぶほどのものとなった。
織田家中でも、宗右衛門が信長から厚遇される様子を見て、他の武将たちも彼を一目置くようになり、その名声は徐々に広がっていった。そして、宗右衛門自身もまた、信長のために全力を尽くし、織田家の天下統一を目指すべく、さらに大きな役割を果たしていくこととなった。
そんな中、ここ数年は、もっぱら一益と行動を共にすることが多くなっていた。
甲賀の伝統で、兵法、特に『孫子』に詳しい一益とは話が合うようで、将来の方針や目前の戦闘について熱心に話し合う姿がしばしば見られるようになった。
(わしこそ、義兄上の片腕にふさわしいと思うていたが…)
将来的には一益の片腕として、織田家で力を発揮したいと考えていた忠三郎は、当初、少しつまらない思いをしていた。しかし、宗右衛門は博識でありながらも謙虚な姿勢を保ち、礼儀をわきまえ、他人に対して親切だった。そんな宗右衛門の人柄に触れるうちに、忠三郎も次第に宗右衛門を信頼するようになっていた。
あの日以来、忠三郎はますます頻繁に小屋野砦へ使いに出されるようになった。それは、まるで宗右衛門の言葉を裏付けるかのようだった。
「有岡城に動きがないか、確かめて参れ」
信長はそれだけを命じたが、その真意は宗右衛門だろう。宗右衛門の様子を確かめて来いと、そう言っているのだと判断した。
(上様がここまでお気に止めておられるとは……これはただごとではない)
しかし、あまりにも頻繁に小屋野砦に顔を出せば、宗右衛門はともかく、一益が怪しむのではないかと案じられる。
(義兄上に隠し事をするとは……また難しいことになったものよ)
一益だけではない。もし義太夫に知られてしまえば、おしゃべりな義太夫のことだ。すぐに一益に漏らしてしまうに違いない。最も親しい義太夫にも、この重大な秘密を隠し通さなければならなかった。
ところが、小屋野砦に行ってみると、義太夫は留守だった。
(花城山へ行くとか言うていたな)
曲者に襲われる前に、旅支度をしていたことを思い出した。
「ここ最近、よう顔を見せるのう」
一益からの指摘に、忠三郎は内心ドキリとする。だが、宗右衛門がさりげなく
「上様もそれだけ有岡城のことを案じておられるということでしょう」
と口添えすると、一益はそれ以上深く追及することなく、頷いた。
(全く、冷や冷やさせられる)
相手は只者ではない。一益は謀将として恐れられた素破の頭だ。これまで数々の場面で、相手の秘密や心配事、さらには胸の奥底に潜む恐怖までも暴いてきた。そんな人物を前にして、忠三郎は隠し通す自信が次第に揺らいでいく。
(この先、どこまで隠し通せるか…)
宗右衛門からの頼みとはいえ、その不安が忠三郎の胸の中で広がっていく。
しかし、当の宗右衛門が平然とした態度を崩さない以上、忠三郎もまた、気づかれぬように努めて平静を保つしかない。
一益は、忠三郎の心中を知ってか知らずか、
「ちょうどよいところに参った」
と切り出した。その瞬間、忠三郎はひやりとする。まさか、例の秘密が暴かれたのではないかと一瞬不安がよぎった。だが、その場にいる宗右衛門は、慌てるどころか、にこやかな笑みを浮かべている。
(まるで何事もないかのように…)
その様子に少し戸惑いながらも、忠三郎は内心の動揺を抑えつつ微笑みを浮かべて問いかけた。
「何か、ござりましたか?」
一益も珍しく、やや笑みを見せながら応じた。
「ほかでもない。義太夫の婚儀のことじゃ」
意外な話に、忠三郎は驚いた。
「義太夫の婚儀?」
それは全く予想外の展開だった。
「然様。あれもいつまでも独り身にしておくわけにもいくまい。幸いにも花城山には宗右衛門の妹がおる」
驚いた忠三郎が宗右衛門を見ると、宗右衛門は静かに微笑んで答えた。
「はい。縁戚に嫁いておりましたが戦さにより夫を失い、我がもとに戻って参りました。幸いにも義太夫殿は未だおひとり。それゆえ、それがしが義太夫殿に娶せたいと願い出た次第でござります」
何も知らずに花城山へ向かった義太夫は、この真相を知れば、さぞ驚くことだろう。
(されど…)
宗右衛門の妹が義太夫に嫁ぐとなれば、両家は親戚となる。だが、そうなった時、宗右衛門はこの重大な秘密をいつまで隠し通すのだろうか。
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「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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