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15.摂津の夕闇
15-6. 最後の謀略
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摂津の有岡城が徐々に兵糧不足に陥りつつあるという話が安土に届いたのは、安土に夏が訪れたころのことだった。城内の窮状は、一層深刻さを増しているらしい。情勢は全て、小屋野砦にいる軍監、武藤宗右衛門から安土へと伝えられていた。
その日も、信長のもとには小屋野砦から新たな知らせが届いていた。忠三郎は、呼び出しの使いを受け、信長のいる広間へと向かった。心の中には、宗右衛門の報告がどのような内容であろうかという一抹の不安がある。
「鶴、来たか」
信長の声が冷たく響いた。
「摂津の様子を見て参れ」
心なしか、その言葉には、いつもよりも重さが感じられる。
「何か気がかりなことが?」
兵糧不足以外の話は聞いていない。忠三郎は尋ねたが、信長は首を横に振り、
「宗右衛門から来た文を見てみよ」
と、書状を差し出した。
忠三郎はそれを受け取り、慎重に開いた。そこには、一益の奮闘とともに、有岡城も秋には兵糧が尽き果てるだろうと書かれていた。忠三郎は眉を寄せたが、それ以上の異変を感じ取ることはできなかった。
(はて…)
何が信長を苛立たせているのか、忠三郎にはすぐには理解できなかった。だが、次の瞬間、信長の苛立ちのこもった声が広間に響いた。
「その字は宗右衛門の手ではない」
その言葉に忠三郎はハッと気づいた。文面は確かに宗右衛門の名で送られているが、その筆跡は見慣れたものとは異なる。宗右衛門の筆ではない。
(もしや…)
忠三郎の胸に、不安が込み上げた。筆を持つことさえできぬほどに、宗右衛門の病が進行しているのではないか。信長はそのことに気づき、宗右衛門の身を深く案じているのだろう。
「武藤殿は、もう…」
忠三郎が言いかけると、信長は口を一文字に結び、遠くを見つめたまま答えなかった。
(上様は余程、ご心痛のようじゃ)
忠三郎は信長の横顔に、その深い憂慮を感じ取った。この数年、織田家の礎を陰で支え続けてきた武藤宗右衛門――その宗右衛門が、今まさに命の灯を失いつつある。その現実は、冷徹な信長でさえ避けられぬ心の痛みとなっているのかもしれない。
「鶴、宗右衛門の容態を見て参れ」
「ハハッ、直ちに」
忠三郎は深々と頭を下げ、すぐさまその場を辞した。一益や義太夫、そして信長との多くの思い出が浮かび上がり、宗右衛門がいなくなることで織田家の未来がどう変わってしまうのか、暗い影が差し込んでくる。
砦へ向かう忠三郎の足取りは、次第に重くなっていった。
急いで馬を走らせ、摂津・小屋野砦についたのは翌日の昼過ぎだった。
忠三郎は、広間に通され、恭しく一礼した。
「此度の皆の働き、特に左近はまことに天晴な働きぶりと上様は大変お喜びでござりまする」
賛辞を述べるが一益は無表情のまま頷く。
(なんとも話しにくい…)
なによりも、常に広間にいて、忠三郎の注進に言葉を添えてくれる宗右衛門の姿がない。
「此度の比類なき働きにより、皆々様には上様より、鷂《はいたか》が下賜されました」
鷹狩が好きな信長が、長陣に疲れた諸将を労わるために用意させたものだ。しかし、一益は褒美の話にも関心を示してはくれない。
(全く持って話しにくい)
致し方なく、ここへ来た本来の目的を果たすことにした。
「武藤殿のお姿が見えませぬが…」
恐る恐るそう聞くと、一益は視線を床に落とし、
「起き上がるのは難しい。上様へかようにお伝えせよ」
暗い声でそう言った。
(そこまで悪いのであろうか)
しかし、宗右衛門の顔さえ見ずに帰るわけにはいかない。
「はい…お会いすることは叶いませぬか」
このまま帰っては信長に何も報告することができない。しかし一益は難しい顔をしたままだ。
「上様にはその方より深くお詫び申し上げてくれぬか」
「せめて一言なりいただけると、それがしの面目も立ちまするが…」
恐る恐るそう言うと、一益はしぶしぶ立ち上がった。
「様子を見て参る。しばしここで待て」
忠三郎は一益の言葉に小さく頷き、広間にそのまま残ることになった。無言の空気が広がり、思わず周囲を見渡した。いつも賑やかであったこの砦の空気が、どこか重苦しいものになっていることに気づく。宗右衛門の病状が、砦全体に影を落としているのだろう。
(武藤殿は起き上がるのも難しいとは…やはり、病は相当に重いのか)
今ここに来た目的が果たせるだろうか。信長に何も新しい情報を持ち帰れないのは、なんとも報告しずらい。しかし、それ以上に宗右衛門の容態が心配だった。
しばらく待ったのち、ふすまが音を立てて開かれ、姿を現したのは義太夫だった。
「義太夫か…」
忠三郎が落胆した声をだすと、義太夫が苦笑いする。
「やはりここにおったか。馬屋に華やいだ装飾をつけた馬が繋がれていたゆえに、おぬしであろうと思うて参ったのじゃ。殿を待っていても無駄じゃ」
「無駄…とは…?」
一益にはここで待つようにと言われたが…。
「武藤殿の按配が悪い。殿は傍から離れられぬであろう」
では一両日中ということだろうか。
「お会いするのは叶わぬか」
「万一の事あらば、いの一番に知らせを送る故、今日は諦めて安土に戻った方がよい」
もう宗右衛門には会えないのだろうか。
「せめて一目、武藤殿のお姿を見ることは…」
忠三郎は懇願するような声で言ったが、義太夫は首を横に振った。
「おぬしの気持ちは分かるが、今の武藤殿の姿を見れば、余計に心を痛めることになるやもしれぬ。殿も、無理におぬしを会わせたくないのであろう。上様にはそれなりに報告をせねばならぬが、今日のところはこれで堪えてくれぬか」
忠三郎は苦い思いを胸に抱えながら、しばし黙考した。義太夫の言うとおりかもしれない。無理に宗右衛門に会うことで、体調に悪影響を与えるかもしれない。それを思えば、ここで引き下がるのもまた一つの判断だ。
「承知した。されど、万一のことあらば、すぐに知らせをくれ」
「無論のことよ。上様にもよろしゅう伝えてくれ」
忠三郎は後ろ髪を引かれる思いで砦を後にすることに決めた。馬に乗り、摂津の地を離れ、再び安土へ向かう道中、その心は重く、ひとつひとつの馬蹄の音が耳に響くたびに、宗右衛門の病状が頭をよぎった。
武藤宗右衛門が世を去ったとの報せが安土に届いたのは、忠三郎が摂津から戻って間もなくのことだった。
七月三日、真夏の強烈な日差しが大地を照らし、暑さは厳しさを増していた。
忠三郎はその報せに驚きつつも、深い哀しみを胸に感じ、すぐさま小屋野砦へと馬を走らせた。
道中、忠三郎は宗右衛門との最後の対話を思い出し、その時の微笑や穏やかな表情が、今となってはさらに切なく感じられる。もう二度と、彼の笑顔を見ることができないのだ。宗右衛門は忠三郎にとって、師であり、友であり、心の支えでもあった。
「もう、会うことが叶わぬのか…」
馬を走らせる間も、その思いが頭から離れない。真っ直ぐに見つめるべき道の先には、小屋野砦が見えてくる。砦はいつもより静かで、悲しみの影がその場全体に漂っているように感じられた。
忠三郎は砦に到着すると、すぐに宗右衛門の亡骸が安置された部屋に案内された。そこには一益と義太夫をはじめ、宗右衛門を知る者たちが集まり、深い静寂の中でその死を悼んでいた。忠三郎は宗右衛門の顔を見た瞬間、胸が締めつけられる思いだった。宗右衛門の顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだったが、その静かな表情の奥には、生前の苦しみや無念がうっすらと感じ取れるように思えた。
(武藤殿…この世を去るのは、あまりにも早すぎる)
忠三郎は静かに頭を下げ、心の中で別れを告げた。その場に立ち尽くしながらも、宗右衛門が織田家に与えた大きな影響、そして彼の志が果たされぬまま終わってしまったことを痛感していた。
宗右衛門の亡骸はその日のうちに荼毘に付された。
炎が天高く昇る中、一益は終始無言のままだった。普段から寡黙だが、この日はさらに一言も発せず、鉄の壁の如く心を閉ざしているようだった。皆、声をかけることが憚られ、忠三郎でさえ、一益にどう接するべきか途方に暮れていた。
そんな中、唯一、いつも通り飄々としていたのが義太夫だった。彼は宗右衛門の荷物を片付けながら、何の気負いもなく、口元に薄い笑みを浮かべていた。重々しい雰囲気の中で、妙によく動く義太夫の姿に、忠三郎は思わず目を見張る。
「有岡の落城も、わしらの婚儀も、結局見届けることは叶わなんだな…」
と義太夫が荷物を片付けながら、ポツリと漏らす。
忠三郎は一瞬、「婚儀」という言葉に反応して顔を上げた。義太夫は何とも寂しそうな笑顔を見せ、しみじみと呟いた。
「だが、すべて覚悟の上であったろう。特に、妹御の玉姫殿の行く末を案じておられたが、何というても、わしに嫁ぐことが決まり、安堵しておられたに違いない!」
義太夫はそこで、今度は嬉しそうにニンマリと笑った。
忠三郎は思わず口元がほころびそうになったが、ここで笑ってはならぬと必死に堪えた。義太夫の飄々とした振る舞いと、あっけらかんとした婚儀の話に、今の状況を忘れさせるほどの軽やかさがある。
「いや、確かに武藤殿も玉姫様が義太夫に嫁ぐと決まり…安堵したのか、それとも別の何かを感じていたのか…」
忠三郎は心の中で苦笑しつつ、義太夫の意気揚々とした様子に、どう反応すべきか迷った。
義太夫は荷物を片付ける手を止め、何やら大事そうに小さな箱を持ち上げると、
「おぉ、これは玉姫殿への贈り物であろうか」
と独り言を言いながら、それを満面笑顔で眺めていた。
(こやつだけは長生きするのう…)
宗右衛門の死後、誰もが厳粛な空気をまとっている中で、義太夫だけは全く変わらぬ様子だ。
「あぁ、そうそう、例の曲者のことじゃが…」
義太夫が唐突に話を切り出した。
「例の曲者?」
なんのことかと思ったが、以前、忠三郎と義太夫に石矢を撃ってきた付近の村の者だと思い出した。
「あやつを通じて有岡城内にある上臈塚の砦を守る者と密かに話が進んでおる」
「なんと!」
「すべて武藤殿が手をまわしてくだされたことじゃ。武藤殿は我らが村に焼き討ちを駆ける前に知らせを送り、城内の者を手引きすれば、皆の命を助けると、話をつけていたのじゃ」
そうだったのか。あのとき、宗右衛門はただ、皆がそれぞれに思いを口にするのを黙って聞いていただけだったと思っていたが。
(皆の話を聞き流していたわけではなかったのか)
あの時のことを思い出す。
あの曲者が去り際に、「仕える家は違っても友だ」と言っていた言葉の意味が、今になってようやく腑に落ちた。義太夫はその言葉を笑って受け流したが、裏ではすでに宗右衛門と何らかの密約が交わされていたのだ。
(そんなことになっていたとは)
忠三郎は、改めて宗右衛門の巧みな策略に感服した。
義太夫は肩をすくめて微笑むと、
「然様。今は新介が交渉を続けておる。あともう少しといったところであろう」 と軽い口調で続けた。
「これが知将と呼ばれた武藤殿の最後の謀略。見事ではないか」
義太夫が明るく笑う。義太夫の飄々とした態度に、忠三郎は一瞬戸惑いを感じながらも、その言葉が頭の中でこだまする。
「最後の謀略…」
真夏の照りつける日差しが一瞬和らぎ、蝉の声が遠くに響く。青空の下、宗右衛門が織り成した最後の策が、まるで盛夏の木陰の涼風のように、見えないところで働き続けている。
武藤宗右衛門は、戦場に散るその瞬間まで、落ち葉が静かに地に還るように、すべてを計算し尽くしていた。その知恵は、今もなお、生きる者たちを助け、勝利へと導こうとしている。
「武藤殿」
暑さに負けずに緑を生い茂らせる木々のように、宗右衛門の遺した功績は決して消えることのないものとなるだろう。
その日も、信長のもとには小屋野砦から新たな知らせが届いていた。忠三郎は、呼び出しの使いを受け、信長のいる広間へと向かった。心の中には、宗右衛門の報告がどのような内容であろうかという一抹の不安がある。
「鶴、来たか」
信長の声が冷たく響いた。
「摂津の様子を見て参れ」
心なしか、その言葉には、いつもよりも重さが感じられる。
「何か気がかりなことが?」
兵糧不足以外の話は聞いていない。忠三郎は尋ねたが、信長は首を横に振り、
「宗右衛門から来た文を見てみよ」
と、書状を差し出した。
忠三郎はそれを受け取り、慎重に開いた。そこには、一益の奮闘とともに、有岡城も秋には兵糧が尽き果てるだろうと書かれていた。忠三郎は眉を寄せたが、それ以上の異変を感じ取ることはできなかった。
(はて…)
何が信長を苛立たせているのか、忠三郎にはすぐには理解できなかった。だが、次の瞬間、信長の苛立ちのこもった声が広間に響いた。
「その字は宗右衛門の手ではない」
その言葉に忠三郎はハッと気づいた。文面は確かに宗右衛門の名で送られているが、その筆跡は見慣れたものとは異なる。宗右衛門の筆ではない。
(もしや…)
忠三郎の胸に、不安が込み上げた。筆を持つことさえできぬほどに、宗右衛門の病が進行しているのではないか。信長はそのことに気づき、宗右衛門の身を深く案じているのだろう。
「武藤殿は、もう…」
忠三郎が言いかけると、信長は口を一文字に結び、遠くを見つめたまま答えなかった。
(上様は余程、ご心痛のようじゃ)
忠三郎は信長の横顔に、その深い憂慮を感じ取った。この数年、織田家の礎を陰で支え続けてきた武藤宗右衛門――その宗右衛門が、今まさに命の灯を失いつつある。その現実は、冷徹な信長でさえ避けられぬ心の痛みとなっているのかもしれない。
「鶴、宗右衛門の容態を見て参れ」
「ハハッ、直ちに」
忠三郎は深々と頭を下げ、すぐさまその場を辞した。一益や義太夫、そして信長との多くの思い出が浮かび上がり、宗右衛門がいなくなることで織田家の未来がどう変わってしまうのか、暗い影が差し込んでくる。
砦へ向かう忠三郎の足取りは、次第に重くなっていった。
急いで馬を走らせ、摂津・小屋野砦についたのは翌日の昼過ぎだった。
忠三郎は、広間に通され、恭しく一礼した。
「此度の皆の働き、特に左近はまことに天晴な働きぶりと上様は大変お喜びでござりまする」
賛辞を述べるが一益は無表情のまま頷く。
(なんとも話しにくい…)
なによりも、常に広間にいて、忠三郎の注進に言葉を添えてくれる宗右衛門の姿がない。
「此度の比類なき働きにより、皆々様には上様より、鷂《はいたか》が下賜されました」
鷹狩が好きな信長が、長陣に疲れた諸将を労わるために用意させたものだ。しかし、一益は褒美の話にも関心を示してはくれない。
(全く持って話しにくい)
致し方なく、ここへ来た本来の目的を果たすことにした。
「武藤殿のお姿が見えませぬが…」
恐る恐るそう聞くと、一益は視線を床に落とし、
「起き上がるのは難しい。上様へかようにお伝えせよ」
暗い声でそう言った。
(そこまで悪いのであろうか)
しかし、宗右衛門の顔さえ見ずに帰るわけにはいかない。
「はい…お会いすることは叶いませぬか」
このまま帰っては信長に何も報告することができない。しかし一益は難しい顔をしたままだ。
「上様にはその方より深くお詫び申し上げてくれぬか」
「せめて一言なりいただけると、それがしの面目も立ちまするが…」
恐る恐るそう言うと、一益はしぶしぶ立ち上がった。
「様子を見て参る。しばしここで待て」
忠三郎は一益の言葉に小さく頷き、広間にそのまま残ることになった。無言の空気が広がり、思わず周囲を見渡した。いつも賑やかであったこの砦の空気が、どこか重苦しいものになっていることに気づく。宗右衛門の病状が、砦全体に影を落としているのだろう。
(武藤殿は起き上がるのも難しいとは…やはり、病は相当に重いのか)
今ここに来た目的が果たせるだろうか。信長に何も新しい情報を持ち帰れないのは、なんとも報告しずらい。しかし、それ以上に宗右衛門の容態が心配だった。
しばらく待ったのち、ふすまが音を立てて開かれ、姿を現したのは義太夫だった。
「義太夫か…」
忠三郎が落胆した声をだすと、義太夫が苦笑いする。
「やはりここにおったか。馬屋に華やいだ装飾をつけた馬が繋がれていたゆえに、おぬしであろうと思うて参ったのじゃ。殿を待っていても無駄じゃ」
「無駄…とは…?」
一益にはここで待つようにと言われたが…。
「武藤殿の按配が悪い。殿は傍から離れられぬであろう」
では一両日中ということだろうか。
「お会いするのは叶わぬか」
「万一の事あらば、いの一番に知らせを送る故、今日は諦めて安土に戻った方がよい」
もう宗右衛門には会えないのだろうか。
「せめて一目、武藤殿のお姿を見ることは…」
忠三郎は懇願するような声で言ったが、義太夫は首を横に振った。
「おぬしの気持ちは分かるが、今の武藤殿の姿を見れば、余計に心を痛めることになるやもしれぬ。殿も、無理におぬしを会わせたくないのであろう。上様にはそれなりに報告をせねばならぬが、今日のところはこれで堪えてくれぬか」
忠三郎は苦い思いを胸に抱えながら、しばし黙考した。義太夫の言うとおりかもしれない。無理に宗右衛門に会うことで、体調に悪影響を与えるかもしれない。それを思えば、ここで引き下がるのもまた一つの判断だ。
「承知した。されど、万一のことあらば、すぐに知らせをくれ」
「無論のことよ。上様にもよろしゅう伝えてくれ」
忠三郎は後ろ髪を引かれる思いで砦を後にすることに決めた。馬に乗り、摂津の地を離れ、再び安土へ向かう道中、その心は重く、ひとつひとつの馬蹄の音が耳に響くたびに、宗右衛門の病状が頭をよぎった。
武藤宗右衛門が世を去ったとの報せが安土に届いたのは、忠三郎が摂津から戻って間もなくのことだった。
七月三日、真夏の強烈な日差しが大地を照らし、暑さは厳しさを増していた。
忠三郎はその報せに驚きつつも、深い哀しみを胸に感じ、すぐさま小屋野砦へと馬を走らせた。
道中、忠三郎は宗右衛門との最後の対話を思い出し、その時の微笑や穏やかな表情が、今となってはさらに切なく感じられる。もう二度と、彼の笑顔を見ることができないのだ。宗右衛門は忠三郎にとって、師であり、友であり、心の支えでもあった。
「もう、会うことが叶わぬのか…」
馬を走らせる間も、その思いが頭から離れない。真っ直ぐに見つめるべき道の先には、小屋野砦が見えてくる。砦はいつもより静かで、悲しみの影がその場全体に漂っているように感じられた。
忠三郎は砦に到着すると、すぐに宗右衛門の亡骸が安置された部屋に案内された。そこには一益と義太夫をはじめ、宗右衛門を知る者たちが集まり、深い静寂の中でその死を悼んでいた。忠三郎は宗右衛門の顔を見た瞬間、胸が締めつけられる思いだった。宗右衛門の顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだったが、その静かな表情の奥には、生前の苦しみや無念がうっすらと感じ取れるように思えた。
(武藤殿…この世を去るのは、あまりにも早すぎる)
忠三郎は静かに頭を下げ、心の中で別れを告げた。その場に立ち尽くしながらも、宗右衛門が織田家に与えた大きな影響、そして彼の志が果たされぬまま終わってしまったことを痛感していた。
宗右衛門の亡骸はその日のうちに荼毘に付された。
炎が天高く昇る中、一益は終始無言のままだった。普段から寡黙だが、この日はさらに一言も発せず、鉄の壁の如く心を閉ざしているようだった。皆、声をかけることが憚られ、忠三郎でさえ、一益にどう接するべきか途方に暮れていた。
そんな中、唯一、いつも通り飄々としていたのが義太夫だった。彼は宗右衛門の荷物を片付けながら、何の気負いもなく、口元に薄い笑みを浮かべていた。重々しい雰囲気の中で、妙によく動く義太夫の姿に、忠三郎は思わず目を見張る。
「有岡の落城も、わしらの婚儀も、結局見届けることは叶わなんだな…」
と義太夫が荷物を片付けながら、ポツリと漏らす。
忠三郎は一瞬、「婚儀」という言葉に反応して顔を上げた。義太夫は何とも寂しそうな笑顔を見せ、しみじみと呟いた。
「だが、すべて覚悟の上であったろう。特に、妹御の玉姫殿の行く末を案じておられたが、何というても、わしに嫁ぐことが決まり、安堵しておられたに違いない!」
義太夫はそこで、今度は嬉しそうにニンマリと笑った。
忠三郎は思わず口元がほころびそうになったが、ここで笑ってはならぬと必死に堪えた。義太夫の飄々とした振る舞いと、あっけらかんとした婚儀の話に、今の状況を忘れさせるほどの軽やかさがある。
「いや、確かに武藤殿も玉姫様が義太夫に嫁ぐと決まり…安堵したのか、それとも別の何かを感じていたのか…」
忠三郎は心の中で苦笑しつつ、義太夫の意気揚々とした様子に、どう反応すべきか迷った。
義太夫は荷物を片付ける手を止め、何やら大事そうに小さな箱を持ち上げると、
「おぉ、これは玉姫殿への贈り物であろうか」
と独り言を言いながら、それを満面笑顔で眺めていた。
(こやつだけは長生きするのう…)
宗右衛門の死後、誰もが厳粛な空気をまとっている中で、義太夫だけは全く変わらぬ様子だ。
「あぁ、そうそう、例の曲者のことじゃが…」
義太夫が唐突に話を切り出した。
「例の曲者?」
なんのことかと思ったが、以前、忠三郎と義太夫に石矢を撃ってきた付近の村の者だと思い出した。
「あやつを通じて有岡城内にある上臈塚の砦を守る者と密かに話が進んでおる」
「なんと!」
「すべて武藤殿が手をまわしてくだされたことじゃ。武藤殿は我らが村に焼き討ちを駆ける前に知らせを送り、城内の者を手引きすれば、皆の命を助けると、話をつけていたのじゃ」
そうだったのか。あのとき、宗右衛門はただ、皆がそれぞれに思いを口にするのを黙って聞いていただけだったと思っていたが。
(皆の話を聞き流していたわけではなかったのか)
あの時のことを思い出す。
あの曲者が去り際に、「仕える家は違っても友だ」と言っていた言葉の意味が、今になってようやく腑に落ちた。義太夫はその言葉を笑って受け流したが、裏ではすでに宗右衛門と何らかの密約が交わされていたのだ。
(そんなことになっていたとは)
忠三郎は、改めて宗右衛門の巧みな策略に感服した。
義太夫は肩をすくめて微笑むと、
「然様。今は新介が交渉を続けておる。あともう少しといったところであろう」 と軽い口調で続けた。
「これが知将と呼ばれた武藤殿の最後の謀略。見事ではないか」
義太夫が明るく笑う。義太夫の飄々とした態度に、忠三郎は一瞬戸惑いを感じながらも、その言葉が頭の中でこだまする。
「最後の謀略…」
真夏の照りつける日差しが一瞬和らぎ、蝉の声が遠くに響く。青空の下、宗右衛門が織り成した最後の策が、まるで盛夏の木陰の涼風のように、見えないところで働き続けている。
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