獅子の末裔

卯花月影

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18.月満つれば則ち欠く

18-4. 花の知らせ

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 久方ぶりに帰り着いた三の丸館。門をくぐり、なじみ深い石畳を踏みしめながら進むと、ずっと自分を待っていたかのような静かな空気が出迎えてくれた。

 自室に戻ると、見慣れた調度品や古びた床の間が目に入り、ようやく心が落ち着くのを感じた。忙しない日々の中で忘れかけていた何かが、静かに姿を現すようだ。ふと窓の外を見やると、穏やかな日差しが庭の石灯籠を照らし、苔むしたその陰影が長く伸びている。

(ここに戻って、ようやく安らぐとは…)
 そう思いながら、忠三郎はふと息を吐いた。その拍子に、何気なく目をやった文机の上に、小さな花が置かれているのに気づく。
(はて…)
 首をかしげながら近づき、そっと手に取ってみると、それは小さな容花かほばなの花であった。淡い紫の花びらが繊細に開き、清楚な香りがほのかに漂ってくる。

(誰が…)
 一瞬、胸が温かくなるのを感じた。この花をそっと置いていった者の、静かな思いやりが伝わるようだった。

 石橋いしばしの、間々ままひたる、かほ花の、花にしありけり、在りつつ見れば

(万葉集 巻十 二二八八)

 容花かほばなは万葉花のひとつ。昼に花を咲かせ、日暮れ時にはしぼんでしまう。野辺でよく見かける花だ。
(この花は…人と同じだと、佐助はそう言うていたな)
 初夏の陽光のもとで、遠い日の佐助との会話を思い返す。

 あの時、佐助はふと庭先に咲いていた容花かほばなを手に取り、微笑を浮かべながら話してくれたのだ。
『この世の理は人の知恵では到底及ばぬところが面白きところで』
 と、佐助は語り始め、優しく容花かほばなを揺らしながら言葉を続けた。

『この花をご覧あれ。何故にわざわざ、このように花の奥に蜜を蓄えておるか』
 忠三郎が怪訝そうに尋ね返した。
『蜜のある場所に意味があると?』
 佐助は肯き、
『然様。蜜は、花が末永く子孫を残すために密やかなる場所に隠されておるもので』
 容花かほばなやスミレのように、蜜が奥深くにある花々は、簡単にはその蜜へ辿りつけぬようにできている。
 これらの花から蜜を取ることができるのは、蝶などの限られた生物だけだ。この限られた生物たちが蜜を味わうためには、自然と花の奥にある花粉に触れることになる。そのように花粉を運ばせるために、花は隠された場所に蜜を持っている。
『人の世もまさにこのようなもの。まことに大切なものほど目には見えぬもの。真のことは常に、隠されておるもの。そして、気づくと気づかざるとにかかわらず、人は皆、大切な役割を担って生きておるものでござります』

 佐助は容花かほばなを手に取り、一つひとつの花びらにそっと宿る秘密を解き明かすかのように、言葉を紡いでいた。忠三郎は、そのときの佐助の言葉が心にじんわりと沁み入るのを感じた。

 思えば、安土での慌ただしい日々の中では、いつしか追い求めることばかりに心を奪われ、目に見えぬものへの気づきを忘れていたのかもしれない。

 今にして思い返すと、なんとも意味深く、不思議な会話だ。
(偶然にしては…できすぎているような…)
 まるで誰かが何かを気づかせようとしている。そんな気がする。

(何かとは…)
 忠三郎は静かに目を閉じ、これまでの出来事をひとつひとつ辿り始めた。
 
(妙な違和感を感じたのは…あの頃からか)
 そう。武田攻めのとき。光秀の「左近殿が遠国におるとあらば、恐るるには足らぬ」といったあの言葉。
(左近殿を恐れる…あれは、いったい何を意味していたのであろう)
 言葉通りの意味だとすると、何とも解せない。

(それより以前から、何かが…)
 青地四郎左や後藤喜三郎が光秀に寄せる信頼は、ただの上意下達の忠誠を超えているように見える。まるで彼らが光秀を「同胞」とでも思っているかのようだ。二人が光秀の与力になってからまだ日が浅い。それなのに、何故、あそこまで全幅の信頼を寄せることができるのだろうか。
(懐柔されたのか)
 何かを意図して二人を…いや、江南衆を懐柔していたとしたら…。
(まぁ、与力を味方につけておくに越したことはないが…)
 
 それに、その関係ももうすぐ終わる。信長が重臣たちを遠国へと配置し、身近な者で畿内を固めようとしているのは明らかだ。羽柴秀吉、明智光秀のふたりは、それぞれ、領地替えの命が下っている。秀吉の居城・長浜城には堀久太郎が入ることが決まり、順次、手筈が整い次第、城明け渡しになる。光秀が居城としている坂本城も同じように、信長の側近の誰かが入ることになる。

(義兄上に限らぬということか…)
 信長の軍勢がこの日の本へと散らされ、四方八方に目を光らせる布石だ。
(皆、従うしかないが…)
 信長の命に背けば、即座に謀反人とされるのは、重臣であれ誰であれ例外ではない。秀吉も、光秀もそのことを誰よりも理解しているはずだし、だからこそ、彼らも表向きは命に従っているのだろう。
(義兄上も渋々といった様子であったが、これもまた、忠義を尽くすための道…)
 隠居を願い出ていた一益にとっては酷な話だ。

「若殿」
 ふいに声を掛けられ、はたと顔をあげると町野左近が広縁で両手をついていた。
「如何なされました。先ほどからお声掛けしておりましたが…」
「いや…。久方ぶりの我が城ゆえ、息をついていたところじゃ」
「然様で。ところで、鉄砲鍛冶から鉄砲五百丁、届いておりまする」
「鉄砲五百?」
「はい。若殿が申し付けられたものと思うておりましたが?」

 覚えがない。しかも、五百とはまた多い。
「…誰が頼んだものか、調べて参れ」
「は?ハ、ハハッ」
 町野左近が首を傾げつつ、怪訝そうにその場を辞した。

(妙なことばかり起きる)
 忠三郎は腕組みをしながら、しばし考え込んだ。五百丁もの鉄砲など、自分が頼んだ覚えはまるでない。しかし、誰かが自分の名を使い、これほどの数を集めたということは、ただの手違いとも思えない。
 
(誰かが何かを意図してかような真似を…)
 そんなことを考えていると、町野左近が再び戻ってきて、少し困ったような顔をして頭を下げた。
「申し訳ございません。皆、誰が手配したものか分からぬと…」
「鍛冶屋は注文を持ってきた者の顔を見てはおらぬのか?」
 忠三郎の問いに、左近は困惑気味に答える。
「それが、見覚えのない顔であったようで…ただ、確かに蒲生家の者だと言うていたとか」
「…当家の者と、そう言うたのか」
 現れたのが義太夫ら滝川家の者であれば、鍛冶屋は気づくだろう。それが、見覚えのない者だったとすると、見当がつかない。五百丁もの鉄砲を注文しておきながら名を明かさぬなど、意図的に身を隠した者の所業か。それとも…。

 思い巡らせていたところ、静けさを破るかのように、譜代家臣・外池孫左衛門が姿を現した。
「若殿。仰せの通り、兵千五百、揃えておりまする」
 忠三郎は思わず顔を上げ、聞き返した。
「兵千五百?」
 孫左衛門は静かに頷く。その顔にはいつもながらの冷静さと忠誠が滲んでいる。

 忠三郎は首を傾げ、状況を飲み込もうとしたが、何やらよくわからない。
「わしが命じたと?」
「はい。使いの者がそう申しました」
「使いの者?」
 忠三郎は思案にふける。そもそも、そんな使いを出した覚えもなければ、兵を揃えさせる命を下した記憶もない。日野で静養せよと上様より仰せつかったばかりであるというのに、何者がこのような指示を伝えたのか。
(益々おかしい…)

「その者の名は?」
 孫左衛門は一瞬言葉を濁したが、やがてためらいがちに答えた。
「それが…名を聞きそびれ…見覚えのなき者にて…」
 またしても「見覚えのない者」とは。忠三郎の胸の内に疑念がさらに深まってゆく。名も知らぬ者が勝手に忠三郎の名をかたり、家臣たちに指示を出している。
(それを誰も怪しまぬとは…)

 忠三郎は内心、驚きと少なからぬ苛立ちを覚えていた。皆に危機感がないのか、それとも、件の謎の者が巧妙に立ち回り、怪しげな風体も露わにせぬようにしているのか。どちらにせよ、目を凝らして見極めるべき事態だ。
(ただの使いであれば、そうそう信じるものでもなかろうに…)
 まるで影のように紛れ込んで指示を与える謎の者はいったい何者なのか。

「若殿。雑兵どもは如何いたしまする。若殿に覚えなきことと仰せなのであれば…」
「いや、待て。そのまま城内に留めおけ」
 と、忠三郎は答えつつも心中で思案を巡らせる。
「よろしいので?」
 孫左衛門が問うと、忠三郎は静かに頷いた。

 城内に常駐するわずかな兵は、皆、父・賢秀が安土城の警護へと連れ出しており、今や日野には将だけが残る状況で城は丸裸同然。もしものことがあれば、将のみで戦わざるを得ない。
(そのようなことがあるとも思えぬが…)
 たかだか兵が千五百しかいないのであれば、その千五百人を率いて、攻めに転じることなど到底ありえない。兵糧まで集められたとなれば、どうにも謎の者は、この日野中野城における籠城を企んでいるかのように思われる。
 
(誰かが、この日野に攻めてくると、そう言うておるのか…)
 忠三郎は内心、ふつふつと得体の知れない不安に駆られた。ここは信長のお膝元の安土からそう遠くない。西に明智光秀、北に羽柴秀吉が領しており、信長の重臣たちが睨みをきかせているこの地に、他国の者が攻め寄せることなどありえない。

 しかし、こうも不可解なことばかりが起きると、そこはかとない異変が、自身の周りを取り囲むように動き出している気がしてくる。
(何か…すべてが、ひとつの意味を持っておるような)
 目の前の出来事も、人知れず現れた謎の人物も、そして「籠城戦」を予期させるかのような準備も——すべてが静かに、しかし確かな思惑に導かれるように、じりじりと流れを変えつつあるように思えた。

 淡い初夏の風が窓辺を通り抜け、ほのかな草木の香りが室内に漂う。微かに湿りを含んだ風は、心に安らぎをもたらし、どこか遠い昔を思わせるような、懐かしい温もりがあった。

 ふと目に映るのは文机の上に置かれた容花かほばな。そよそよと揺れる花びらが、まるで己の気持ちに応えるかのように、淡くも穏やかに舞い動く。
(真のことは常に、隠されておるもの…)
 佐助の言葉がふいに耳に蘇り、その声が風に乗って再び囁くように思えた。
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