獅子の末裔

卯花月影

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18.月満つれば則ち欠く

18-5. 六月二日

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そして迎えた六月二日。

 その日は朝から梅雨入りを間近に控え、しっとりと湿った空気が辺りに漂っていた。空は鈍色に覆われ、木々の葉はうっすらと露を含んで重たげに揺れている。風はどこかひんやりとしているが、肌に触れるたびに微かに汗ばむ、蒸し暑い朝であった。

 庭に咲く花々も、水をたっぷり含んで瑞々しく息づきながら、風にそっと揺れている。まるでこの蒸し暑い空気の流れに染まるようにして、色濃い景色がじわりと広がっていくようだった。

 久方ぶりに戻った城に、町野左近が連れてきてくれたのは、おさちの遺した子、正寿丸だった。
 忠三郎にとってはにとっては初めてのわが子であり、今年で八つを迎えたその顔立ちは、どことなくおさちの面影を帯び、特に目元や口元には彼女の気高さが漂っている。
「子の成長とは早いものじゃ。正寿がもう八つとは」
 その言葉を噛みしめるように呟きながら、忠三郎の心にはふいに、亡きおさちの面影が浮かんだ。正寿が八歳ということは、あれから七年——おさちを失ってから七年がたつ。

 おさちの死を知った日から、幾度もおさちの面影が目に浮かんだ。思い起こすたびに、もうこの世にはいないと分かっていながら、どうしても受け入れがたい現実が胸を締めつけた。二度と会うことは叶わないのだと実感するたび、込み上げる悲しみは留まることはなかった。忠三郎は幾度も哀しみに暮れ、やるせない日々を重ねた。

 庭先で無邪気に遊ぶ正寿丸の姿が、亡きおさちの面影と重なり、忠三郎の胸をひとしお締め付ける。幼子の無垢な笑顔は愛おしくもあり、そのひたむきさが切なくもあった。正寿丸を不憫に思いながらも、会うことを避けてきたのは、正室である吹雪の目を憚ったからだけではない。正寿丸を見るたびにおさちの面影が蘇り、あの頃の記憶が胸を深くえぐり、どうしても耐えがたかったからだ。
 
 幼き日、一度だけ訪れた二の丸館の記憶がふと甦る。
 あの日、館の奥で目にした父の姿は、普段の厳格な顔とはまるで違っていた。
 側室に寄り添い、その腕に抱かれた子らを慈しむ父は、心から安らいでいるように見えた。まるで別の人のように柔和な眼差し、静かに微笑む口元…その光景は、普段の父が見せぬ一面を覗かせていた。

(あのときの父上の顔は…実に幸せそうであった…)

 そして、その父の傍らでは、若く美しい側室が微笑んでいた。彼女はやさしい手つきで子らの髪を撫で、柔らかな笑みを浮かべながら、楽しげに遊ぶ幼い姉妹を見守っていた。子どもたちは無邪気に笑い声をあげ、何の隔てもないかのように彼女にすり寄って甘えた。

 自分の過ごす場所とは異なる温かで穏やかな場の空気。あの場にいる父も、子らも、側室も、一つの家族のようだった。あの光景のなか、自分はどこか疎外されたような、言葉にできない寂しさを抱いて、扉の影から見つめるだけだったのを覚えている。

 おさちと過ごし、懐妊がわかった時、胸の奥に暖かい灯が灯ったようだった。
 かつて目にした温もりある家族の風景。あの日、自分には遠く、手が届かないものだと思った光景が、今度は自らの手の中で生まれようとしている──そう感じた。

 おさちがいて、やがて産まれる子がその傍らで楽しそうに微笑む。そんな未来が、あたかも夢の中に見た幻のように、美しく温かく、心の中に描かれていた。
 しかし、やはりそれは儚い幻想にすぎなかった。あの温もりに手が届くと思った瞬間、その手をすり抜けるようにおさちは逝き、幻はただの幻として消え去った。
 おさちが残してくれた淡い夢はまさしく春の夜の短い夢のようだ。束の間の安らぎに心を預け、そぞろに胸を和ませたあの情景は、水面に浮かぶ泡のように儚くも消え失せ、再び手の届かぬ遠いものとなり果てた。

 それが、おさちの面影を宿す幼い正寿丸の姿を見るたびに、静かな湖面に広がる波紋のように、そっと心の奥底に広がり、かすかに息づいてくる。淡き夢と共に消え去ったはずのあの幻が、再び蘇り、忠三郎の心を苦しめる。
 幼き子の瞳の奥に、微かに映るのは、過ぎし日の温もり。心にしみ入るその姿は、失われたはずの光景を再び呼び起こし、かつて手にした柔らかな光が、泡沫のごとく儚き夢となり、なおも胸を締め付ける。

「爺。すまぬが正寿を連れて帰ってはくれぬか」
 町野左近は少し驚いたようだったが、恭しく一礼し、幼い正寿丸の手を取る。
「若殿のお心のうち、お察しいたしますれば…」
 何かを諭すような眼差しで忠三郎を見つめ、微かに首を傾げた。忠三郎はその眼差しを受け止めながら、思わず視線を逸らす。正寿丸の無垢な瞳が、父の心に巣くう淡き夢の名残をじっと見つめているように思えた。

 正寿丸が離れゆく足音が遠ざかるたび、胸の内にひそむ波紋は静かに沈みゆき、再び心の湖面は、凪のごとく戻り始めた。
 
 それからどれほどの時が過ぎたか、ぼんやりと綿向山を見上げていると、突如、廊下から慌ただしい足音が響いてきた。何事かと顔を上げると、町野左近が勢いよく駆け寄り、緊張した面持ちで報告する。

「若殿。安土の大殿の元より急使が参っておりまする」
「安土より…急使?」
 急使とあれば、ただ事ではない。ふと脳裏をよぎったのは父・賢秀の姿だった。
(父上に何かあったのであろうか)
 ここ数年、賢秀は安土の留守居を任され、戦さ場に赴くことがなくなった。信長は薄々、賢秀が戦さ場においてその才を持ち合わせていないことを察し、それ故に城を守る役を命じているのだろう。
(上様はお気づきなのだ)
 蒲生勢に出陣の命が下るときも、指揮は忠三郎に託される。思えば、信長は父・賢秀の面目が潰れぬよう、あえて留守居役を命じているのかもしれない。

 広間に行くと、父に付き従って安土に行った上坂左文が待ち構えていた。
「若殿、天下の一大事にござりまする」
 上坂左文が告げたその言葉の重さに、一瞬場が静寂に包まれた。しかし、忠三郎はいつもの明るい微笑を絶やさず、穏やかに言葉を返した。
「天下の一大事など、早々起きるものではないが。父上の身に何かあったか?」
 最近の賢秀の様子に変わったところは見られず、体調も優れていると感じていた矢先だ。上坂左文は慌てて首を横に振り、低い声で続けた。
「殿はご無事でござります。しかるに都がただならぬ状況にござりまする」
「都で何が起きた?」
 忠三郎の問いかけに、左文はため息交じりに口を開いた。

「今朝未明、本能寺が燃え上がりましてござりまする」
「本能寺に火の手?」
 忠三郎は目を細め、一瞬逡巡しつつも、冷静に状況を考え始めた。火事であろうか、失火の類だろうかと思いが浮かぶ。
「本能寺といえば、南蛮寺が近い。伴天連方はご無事か?都には上様もおられる筈じゃが…」

 上坂左文は、忠三郎の問いに顔をさらに曇らせ、首を振りながら重々しく答えた。
「若殿、それが…火の勢いは凄まじく、未だ鎮火の報も届いておりませぬ。本能寺の一角が激しく燃え上がり、近隣にも煙が立ち上がっているとのこと。して、その中に…」
「その中に?」
 上坂左文は、一瞬躊躇したかのように言葉を飲み込む。
「上様が御滞在であった由」
「上様が?」
 忠三郎はその答えに衝撃を隠せず、無意識に小さく息を飲んだ。
 京での信長の定宿は二条御新造だった。二条御新造を朝廷に提供してからは、もっぱら妙覚寺を宿所としている。

「なぜ、本能寺に…」
 信長が本能寺を宿とした記憶は、確かに過去一度きりだ。
「妙覚寺には城介様がお泊りであったとか」
「然様か…。して、上様は今、いずこに?」
 どうにも忠三郎には事の重大さが伝わっていない。上坂左文は、じれったそうに一歩前に出ると、意を決したように声を低くしながらも、はっきりと忠三郎に告げた。
「若殿…明智殿の謀反でござりまする。明智殿が本能寺に攻め入ったのでござります」

 その一言は、雷鳴のように忠三郎の胸中を打ち、思考が一瞬停止した。ぽかんとした表情で、目の前の上坂左文を見つめる。その言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「…明智殿が…謀反を?」
 心の中でその言葉を繰り返してみたものの、現実味がまるで感じられない。
 左文は、忠三郎の混乱を見透かしたかのように、さらに口を開いた。
「然様にござります。今朝未明、本能寺に押し入り、上様を討とうと…」
 忠三郎ははっと息を呑んだ。火事はただの災いではなく、光秀の手による謀反、その中での出来事だったのだ。信長が本能寺にいると知り、そこを狙い打った謀反だということが、今になってようやく理解できた。

(にわかには信じられぬ)
 忠三郎の胸中で、疑念が渦を巻いていた。あの光秀が、主君である信長に刃を向けるなど、ありえないように思える。あるいは、これも他国の間者が流した噂にすぎないのではないか――そう考えかけたが、ふと、思い直した。
(ありえないことではない)
 ふと過去の会話を思い起こした。武田攻めの後、一益が遠国へ赴くことになったときの、光秀の安堵したような表情。あれは何を意味していたのか。

 さらに、信長が重臣たちに命じた領地替えのことも脳裏に浮かんでくる。都の近くにあった領地を手放し、遠国の支配を任された時、柴田勝家や一益は、その命に従順に従った。だが、光秀も果たして同じように大人しく従っただろうか?

 今まで忠義を尽くしてきたかに見える光秀も、心の奥底には野心が渦巻いていたのかもしれない。そして、信長が油断し、小勢で都に滞在している今こそ、光秀にとって好機と映ったのではないか。

 信長は、無駄を嫌う。京の情勢が安定し、都に脅威となる敵がいなくなって以来、都へは少人数で赴くことが常となっていた。兵を引き連れることもなく、必要最小限の供回りのみで身を守ってきた。信忠もまたその例に倣い、妙覚寺へは少数の小姓や馬廻衆のみを伴っているにすぎない。

 忠三郎の脳裏に、容易に想像できる光景が浮かぶ。信長や信忠が、周囲に大勢の兵を配さぬまま、わずかな供回りとともに都に滞在している姿。その隙を、明智光秀が突いたのだとすれば――

(まさか、そこを狙ったと…?)

 もしも信長が無防備なまま本能寺で敵を迎えたのであれば、もう信長はこの世にはいないかもしれない。
 光秀が信長を討ち漏らしたとすれば、今頃、光秀は血眼になって信長の行方を追っているだろう。逆に、確実に討ち取ったのであれば次に狙われるのは…。
(安土か!)
 安土城は信長の居城にして、天下人を象徴する城だ。もし光秀が信長の命を奪ったとすれば、その次の一手として、信長の遺志を絶やし、権力を掌握するために安土を狙うのは自然な流れといえる。
(それに城下には…)
 織田家の家臣たちの家族が住んでいる。もし光秀が天下を手にしようとしているのであれば、家族を人質に取り、信長の重臣たちを屈服させようとするだろう。

「安土は無事か?父上は?」
「明智の軍勢が向かっているとの知らせが届いておりまする」
「では…安土で籠城か?」
「いえ、籠城ではござりませぬ。大殿は、二の丸にいる上様のご家族を、この日野へお連れするおつもりにござります」
「ここへ?では、安土を捨てると?」
 忠三郎は思わず聞き返した。
「安土で籠城は叶わぬと仰せで。上様のご家族を安全な場所へ退避させることが急務とお考えで、この日野へ避難させるとお決めになりました」
 忠三郎は再度、考えを巡らせる。

 通常であれば、主である信長が討たれたのだから、留守居役は、城に籠り、叶わぬまでも安土に籠城し、城を枕に討死すべきところだ。
(父上には安土城で討死にする覚悟もあったはずだ。されど…)
 賢秀は城よりも、信長の妻妾とその子の命を優先した。
 
(なによりも安土には章姫殿がいる。もし父上が命を賭して安土を守ろうとすれば…章姫殿と、その腹の子は…)
 章姫が身重と知れたとき、忠三郎は密かに胸を撫でおろした。これでようやく、織田家の血をひく者を跡継ぎに据えることができる。そればかりではない。
 俵藤太秀郷以来、幾代にもわたり伝わってきた家名の重みを、正しく未来へ託すことができる。
(こうして血筋を繋ぎ、家を守ることこそ、先祖への最大の忠義であり、家を支える者としての務め…)

 そう思っていた矢先のこの惨事。
(安土を火の海にすれば、わしはまた、すべてを失う)
 おさちを失ったあのときの絶望が再び訪れるかのようだ。すべてが、温もりも希望も、ひとつ残らず燃え尽きるかのごとく消え失せる——それだけは何としても避けねばなければならない。
(章姫殿を日野にお迎えしたのち、正寿丸と共にひそかに落ち延びさせるほかあるまい)
 日野に籠城したとしても長く持ちこたえることはできない。章姫を日野に連れてきた後に、供を付け、正寿丸と供にどこかに落ち延びさせるしかない。
 
(明智勢よりも先に安土へ行かねば)
 安土にはまだ信ずべき人々がたくさんいる。留守居を命じられたのは父・賢秀だけではない。本丸警護は七名ほど、二の丸は父を含めて十人以上もの家臣が留守を守っている。その中には伊勢から保護した雲林院出羽守や、織田家の譜代家臣も大勢いるはずだ。
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