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19.天下騒乱
19-1. 夢のあと
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日野への逃避行は、忠三郎にとって想像を超える困難の連続だった。
逃れぬ戦火の気配に慄きつつも、何よりも心を乱したのは、滝川家の屋敷にいた章姫が、安土を引き払うことを拒んだことだ。
「安土を捨てて逃げると申すか!」
章姫は泣きはらした目をして忠三郎を睨みつけた。父と兄を失い、一晩中、涙にくれていたことは、容易に想像がついた。
「忠三郎殿には、城を枕に討死する覚悟もないのか」
その言葉に胸を締めつけられる。章姫がこの地に深く結びつき、何があっても織田家の一員としてこの地に留まろうとする意志を持つことは理解していた。
それでも、命を守ることが最優先と考える忠三郎には、章姫の決意が痛ましくも無力に映る。
「姫様をはじめ、皆々様のお命を守ることこそ、我が父が課せられた役目。どうか、大人しく、日野へおいでくだされ」
「いやじゃ!」
章姫はかぶりを振り、凛とした声で叫ぶ。
「わらわは一人でも安土に留まり、叔父上が上洛するのを待つ!」
一益が来るのを待つと言う。章姫は一益が上洛し、この窮地を救ってくれると信じているようだ。
(その義兄上は…)
一益は遠い関東の地にいる。信長の死の知らせが一益の耳に届くのは、まだ先のことだろう。もし、知らせが届いてから上洛を決意したとしても、信長亡きあとで乱れるであろう上野や信濃、木曽を越え、無事に戻れる保証はどこにもない。
(あの義兄上が駆けつけることなど…今はただ叶わぬ願いに過ぎぬ)
そう思いながらも、父と兄を同時に失った章姫の気持ちを考えると、これ以上、悲しい思いはさせられない。彼女にとって、一益は最後の拠り所であり、信じるものが他にないからこそ、その淡い望みを絶やしたくはないのだろう。
「姫。どうかお聞き届けくだされ。義兄上が上洛するには、まだ時がかかりましょう。まずは日野に籠城し、援軍を待つのでござります」
忠三郎は懸命に言葉を尽くしたが、その胸中では日野すら戦火に飲まれる運命を悟っていた。幼き頃より見慣れた日野の山々が、敵の手にかかり、炎に包まれる光景が脳裏にちらつく。だからこそ章姫を日野に連れ帰ったのち、彼女と正寿丸をどこか安全な場所へ逃がす策を練っていた。
しかし、それを今ここで口にすれば、章姫はなおさら「ここから動かぬ」と言い張るに違いない。章姫の誇りと覚悟を知る忠三郎には、ただ章姫を説き伏せ、まずは日野へと導くことに心を尽くすしかなかった。
「若殿。明智殿が率いている軍勢の中に、江南衆が入っていると言う噂が…」
それは噂でもなんでもない。江南衆の多くは明智光秀の与力だ。そしてその江南衆の中には従弟たちがいる。手を携えて共に歩んできた従弟たちが、まさか信長の命を狙う側に加わるとは。
(喜三郎、四郎左…)
頭の中に浮かぶ二人の顔が、にわかに遠いものに感じられた。幼少の頃は肩を並べて刀を振るい、戦場での勝利を夢見た者たちだった。あの二人が光秀と共に、信長を討つ決断をしたというのか。
(あの二人が明智殿と供に上様を…)
しかし嘆いている暇はない。忠三郎は、追い迫る明智の軍勢の影を想い、急き立てられるような焦燥感に駆られていた。信長が討たれた昨日未明からの刻限を考えれば、もはや安土はその掌中に落ちるか否かの瀬戸際である。足弱の者たちを伴い、峠を越え日野へ退くことは、叶わぬ夢に等しい。
(とても間に合わない)
時が足りなすぎる。なんとか安土を脱したとしても、道中で追いつかれることは火を見るよりも明らかだ。
「謀反人どもはどこまで来ておるのであろうか」
「大殿が放った物見がそろそろ戻る頃かと…」
町野左近のその言葉に、忠三郎は頷き、物見が戻るのを待たずに人々を促し、安土を出立する支度をさせる。
「急ぎ支度を整えよ。もはや待つ刻はない」
忠三郎が一息に命じると、従者たちは駆け足で荷をまとめ、馬や輿を整え始めた。物見が戻るまで待てば、正確な情報を得ることはできようが、それを待つだけの猶予は残されていない。焦燥の念を振り払い、人々に促すその声には、一刻も早く安土を後にするための緊張が滲んでいた。
「爺、しっかりと皆を導け。わずかでも遅れれば命取りになる」
そう言い残し、忠三郎は城を見回し、ふいに胸に込み上げるものを抑え込んだ。
(上様…)
忠三郎の脳裏に、信長と共に過ごした数々の日々が静かに蘇る。
安土の城内を歩み、天下泰平を夢見た信長の背中が目に浮かぶ。壮大な計画と、誰よりも遠くを見据える眼差し――そのすべてが、忠三郎にとってはただの主君以上の存在だった。信長の下で、一歩ずつ未来を切り拓くことに心を奪われ、安土の地で数えきれぬ日々を共に過ごした。
城内に響き渡る鋭い号令、兵たちの声、かつての華やかな宴、人々の目を引く煌びやかな火祭り、そして何よりも自信に満ちた信長の笑み。そのすべてが忠三郎の胸を締めつける。
(上様が見た未来は、いずこに消えてしまったのか…)
志半ばにして討たれた信長の無念を思うと、忠三郎の胸は深い哀しみに染まり、堪えきれぬ口惜しさに涙が滲んだ。あの果てしない夢を胸に、誰よりも先頭を歩み続けた信長の姿が、忠三郎の心に今も鮮やかに刻まれている。それだけに、信長がもうこの城に帰ることがないという現実が、どうしようもなく悲しかった。
目の前の安土城が、かつての輝きを失い、静寂に包まれる。忠三郎は最後の別れを告げるように、深く頭を垂れ、心からの敬意を捧げた。そして、重い足を一歩ずつ動かし、二度と戻ることのないかもしれない安土の城を後にした。
その後、物見からの報告で、安土付近に明智勢の影は見えないと知ると、忠三郎は小首をかしげ、やや楽しげに町野左近に目を向けた。
「…にしても、明智殿は遅いのう」
ぽつりと、世間話でもするかのように呟く忠三郎に、町野左近は一瞬、きょとんとしながらも、苦笑を浮かべた。
「遅い、とは?」
「いや、昨日未明に上様を討ったのなら、いかにも遅れがちではないか。とうに安土に着いてもおかしくはなかろうもの。都でいったい何をなされておいでなのか」
忠三郎の浮世離れした物言いに、町野左近は、思わず自らも肩の力を抜きかけた。この状況が、そんな暢気さを許さぬことは、重々わかっているはずだ。だが、忠三郎のその言葉の端々には、どこか華やかな宮仕えの公家のような、少しばかり俗世間から乖離した風情が漂っていた。
「若殿はかようなときでも…なんとも…はや…」
町野左近が思わず呟くと、忠三郎が不思議そうに首を傾げる。
「?如何した、爺」
「いえ…若殿が大将の器であられることに、ただ感心して申しておるので」
本当のところ、そう思いつつも、どこか違うような気もしている。いかなる天変地異でも、ふわりと受け流してしまうかのような、そんな緩やかな空気が、忠三郎には漂っている。
(滝川家のどなたかが、我が家の若殿を、どこぞの田舎の公家とか申しておったような…)
町野左近は思い返し、ふと微笑を浮かべた。その言葉には、確かに侮蔑が含まれてはいるが、忠三郎の育ちの良さが滲む立ち居振る舞いには、どこかしら公達のような趣があることもまた事実だ。
場の喧騒に浮き立つこともなく、冷静に、そしてゆったりとした物腰で事を運ぶ忠三郎。逆巻く戦場にも、あの上洛の折の華やぎにも影響されぬ、どこか浮世離れしたその風情は、たしかに「田舎の公家」と揶揄されるのも無理はないかもしれない。
現に、混乱と焦燥が満ちるこのさなかでも、忠三郎はどこか浮世離れした風情で、ことさら戦火に巻き込まれぬかのごとき静けさを保っている。その立ち振る舞いには、常に悠々たる空気が漂い、何者も急き立てることはない。
かつての傅役、三雲佐助が忠三郎を「大将の器」と称えたのも、まさにこの、どこか常人離れした感性ゆえだったのかもしれない。戦乱の世にあって、人の営みや思惑に流されることなく、いつも一歩引いたところで静かに物事を眺めるその視線。さながら浮世を越えた遠くの風景を見通しているかのような忠三郎の佇まいには、粗暴な言葉で表しきれぬ格があった。
佐助はきっと、そんな忠三郎の風雅とも呼ぶべき資質を、見過ごすことなく見抜いていたのだろう。
「爺、魂が抜けたような顔をして如何した。疲れたか?峠が見えた。もうすぐ兵と合流じゃ」
兵を待たせている南腰越が見えてきて、町野左近がハタと我にかえったとき、思わぬ知らせが入る。
「忠三郎様、お喜びくだされ!」
付き従っていた滝川助太郎が興奮気味に走り寄ってきた。その顔には喜びと安堵が入り混じっている。
「如何した、助太郎。木の実でも拾うたか?」
忠三郎が微笑んでそう言うと、町野左近は目を丸くして、苦笑を浮かべる。
「まさか、忠三郎様。かような年にもなり、木の実を拾って喜ぶのは義太夫殿くらいのもので」
ふいに義太夫の名が出たので、忠三郎は可笑しさがこみ上げ、声をあげて笑った。義太夫の人懐っこい笑顔や、どこか憎めないおしゃべりが、ふっと浮かんでくる。
(今頃、どうしておるのやら)
遠い上野の地にいる義太夫――本能寺の悲報は、まだ耳には届いていないだろう。今頃は無邪気に火を起こし、飯を炊いているかもしれない。時折、大鍋のふたを開けて湯気に顔を近づけ、何やら一人でぼやきながら、それでも楽しそうにその場を和ませている姿が思い浮かぶ。
(あやつが知れば、いったいどんな顔をすることか…)
義太夫の飾らない振る舞いを思うと、忠三郎の胸の痛みはわずかに和らいだ。どこかで気づかぬまま平穏に過ごしている義太夫の姿が、ふと笑いを誘う。
「いやはや義太夫殿どころではありませぬ。都の入口、瀬田の唐橋が焼き落されたとの知らせにござります」
「瀬田の唐橋が焼き落された?それは…誰が…」
「一部の甲賀衆が謀反人に組することを拒み、その中のひとり、瀬田城主の山岡美作守殿が安土に向かう明智の軍勢の行く手を阻もうと、橋を焼いて甲賀へ逃走したとか」
「自ら掛けた橋を焼いたと…」
信長の命で架け替えられた瀬田の唐橋が焼かれたと聞き、胸の奥が鈍く痛むのを感じた。古より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたその橋は、都への玄関口を守る要として、信長が心血を注いで整備したものだ。そこには、天下を治める者としての志が込められていた。
「はい。風聞によれば、甲賀の中に、謀反人に組する非を説いて回った者がいたとかで、山岡殿はそれに応じ、橋も、城も焼き捨て、甲賀に走ったと」
「謀反人に組する非を説いて回った者…」
それはもしや、佐助ではないだろうか。佐助であれば、甲賀の地を駆け抜け、信長への忠義を貫くべく説き伏せて回ることも十分に考えられる。山岡美作守がその言葉に応じたというのなら、佐助が説得している場面さえ思い描ける気がした。風のように、またその影すら見せずに去る佐助の姿が瞼の裏に浮かぶ。
そして山岡美作守は、築き上げたものを自らの手で焼き払った――忠義の証として。信長の夢とともに生き、信長のために散りゆく覚悟が、その炎に込められているのかもしれない。
「明智は一旦、軍勢を引き連れ、居城の坂本城へ戻り、橋の修復を待っておるとのことで」
諸国に散る織田家の重臣たちが、この悲報を聞きつけ、上洛の途に就くまでには時がかかる。それまでは何としても持ちこたえなければならない。
佐助は、明智の軍勢を足止めし、重臣たちが揃うまでの時を稼ごうとしているのではないだろうか。
「これは思わぬ朗報。明智勢は足止めされ、二・三日はこちらへ向かうことは叶いますまい」
町野左近が興奮気味にそう言う。橋が焼かれたことで、明智勢がこちらに進むには時間がかかる。山岡美作守や佐助のような者たちの意志が、束の間の猶予を与えてくれたのだ。しかし、修復が終われば、いずれ再びこちらへ迫ってくるのは避けられない。
「皆の思いを無にするまい。我らも先を急ごう」
ひるがえった陣羽織が風になびく。信長の志を受け継ぎ、日野谷で織田家の未来を守るため、忠三郎は馬を進め、急ぎ南腰越の兵たちが待つ場所へ向かった。
逃れぬ戦火の気配に慄きつつも、何よりも心を乱したのは、滝川家の屋敷にいた章姫が、安土を引き払うことを拒んだことだ。
「安土を捨てて逃げると申すか!」
章姫は泣きはらした目をして忠三郎を睨みつけた。父と兄を失い、一晩中、涙にくれていたことは、容易に想像がついた。
「忠三郎殿には、城を枕に討死する覚悟もないのか」
その言葉に胸を締めつけられる。章姫がこの地に深く結びつき、何があっても織田家の一員としてこの地に留まろうとする意志を持つことは理解していた。
それでも、命を守ることが最優先と考える忠三郎には、章姫の決意が痛ましくも無力に映る。
「姫様をはじめ、皆々様のお命を守ることこそ、我が父が課せられた役目。どうか、大人しく、日野へおいでくだされ」
「いやじゃ!」
章姫はかぶりを振り、凛とした声で叫ぶ。
「わらわは一人でも安土に留まり、叔父上が上洛するのを待つ!」
一益が来るのを待つと言う。章姫は一益が上洛し、この窮地を救ってくれると信じているようだ。
(その義兄上は…)
一益は遠い関東の地にいる。信長の死の知らせが一益の耳に届くのは、まだ先のことだろう。もし、知らせが届いてから上洛を決意したとしても、信長亡きあとで乱れるであろう上野や信濃、木曽を越え、無事に戻れる保証はどこにもない。
(あの義兄上が駆けつけることなど…今はただ叶わぬ願いに過ぎぬ)
そう思いながらも、父と兄を同時に失った章姫の気持ちを考えると、これ以上、悲しい思いはさせられない。彼女にとって、一益は最後の拠り所であり、信じるものが他にないからこそ、その淡い望みを絶やしたくはないのだろう。
「姫。どうかお聞き届けくだされ。義兄上が上洛するには、まだ時がかかりましょう。まずは日野に籠城し、援軍を待つのでござります」
忠三郎は懸命に言葉を尽くしたが、その胸中では日野すら戦火に飲まれる運命を悟っていた。幼き頃より見慣れた日野の山々が、敵の手にかかり、炎に包まれる光景が脳裏にちらつく。だからこそ章姫を日野に連れ帰ったのち、彼女と正寿丸をどこか安全な場所へ逃がす策を練っていた。
しかし、それを今ここで口にすれば、章姫はなおさら「ここから動かぬ」と言い張るに違いない。章姫の誇りと覚悟を知る忠三郎には、ただ章姫を説き伏せ、まずは日野へと導くことに心を尽くすしかなかった。
「若殿。明智殿が率いている軍勢の中に、江南衆が入っていると言う噂が…」
それは噂でもなんでもない。江南衆の多くは明智光秀の与力だ。そしてその江南衆の中には従弟たちがいる。手を携えて共に歩んできた従弟たちが、まさか信長の命を狙う側に加わるとは。
(喜三郎、四郎左…)
頭の中に浮かぶ二人の顔が、にわかに遠いものに感じられた。幼少の頃は肩を並べて刀を振るい、戦場での勝利を夢見た者たちだった。あの二人が光秀と共に、信長を討つ決断をしたというのか。
(あの二人が明智殿と供に上様を…)
しかし嘆いている暇はない。忠三郎は、追い迫る明智の軍勢の影を想い、急き立てられるような焦燥感に駆られていた。信長が討たれた昨日未明からの刻限を考えれば、もはや安土はその掌中に落ちるか否かの瀬戸際である。足弱の者たちを伴い、峠を越え日野へ退くことは、叶わぬ夢に等しい。
(とても間に合わない)
時が足りなすぎる。なんとか安土を脱したとしても、道中で追いつかれることは火を見るよりも明らかだ。
「謀反人どもはどこまで来ておるのであろうか」
「大殿が放った物見がそろそろ戻る頃かと…」
町野左近のその言葉に、忠三郎は頷き、物見が戻るのを待たずに人々を促し、安土を出立する支度をさせる。
「急ぎ支度を整えよ。もはや待つ刻はない」
忠三郎が一息に命じると、従者たちは駆け足で荷をまとめ、馬や輿を整え始めた。物見が戻るまで待てば、正確な情報を得ることはできようが、それを待つだけの猶予は残されていない。焦燥の念を振り払い、人々に促すその声には、一刻も早く安土を後にするための緊張が滲んでいた。
「爺、しっかりと皆を導け。わずかでも遅れれば命取りになる」
そう言い残し、忠三郎は城を見回し、ふいに胸に込み上げるものを抑え込んだ。
(上様…)
忠三郎の脳裏に、信長と共に過ごした数々の日々が静かに蘇る。
安土の城内を歩み、天下泰平を夢見た信長の背中が目に浮かぶ。壮大な計画と、誰よりも遠くを見据える眼差し――そのすべてが、忠三郎にとってはただの主君以上の存在だった。信長の下で、一歩ずつ未来を切り拓くことに心を奪われ、安土の地で数えきれぬ日々を共に過ごした。
城内に響き渡る鋭い号令、兵たちの声、かつての華やかな宴、人々の目を引く煌びやかな火祭り、そして何よりも自信に満ちた信長の笑み。そのすべてが忠三郎の胸を締めつける。
(上様が見た未来は、いずこに消えてしまったのか…)
志半ばにして討たれた信長の無念を思うと、忠三郎の胸は深い哀しみに染まり、堪えきれぬ口惜しさに涙が滲んだ。あの果てしない夢を胸に、誰よりも先頭を歩み続けた信長の姿が、忠三郎の心に今も鮮やかに刻まれている。それだけに、信長がもうこの城に帰ることがないという現実が、どうしようもなく悲しかった。
目の前の安土城が、かつての輝きを失い、静寂に包まれる。忠三郎は最後の別れを告げるように、深く頭を垂れ、心からの敬意を捧げた。そして、重い足を一歩ずつ動かし、二度と戻ることのないかもしれない安土の城を後にした。
その後、物見からの報告で、安土付近に明智勢の影は見えないと知ると、忠三郎は小首をかしげ、やや楽しげに町野左近に目を向けた。
「…にしても、明智殿は遅いのう」
ぽつりと、世間話でもするかのように呟く忠三郎に、町野左近は一瞬、きょとんとしながらも、苦笑を浮かべた。
「遅い、とは?」
「いや、昨日未明に上様を討ったのなら、いかにも遅れがちではないか。とうに安土に着いてもおかしくはなかろうもの。都でいったい何をなされておいでなのか」
忠三郎の浮世離れした物言いに、町野左近は、思わず自らも肩の力を抜きかけた。この状況が、そんな暢気さを許さぬことは、重々わかっているはずだ。だが、忠三郎のその言葉の端々には、どこか華やかな宮仕えの公家のような、少しばかり俗世間から乖離した風情が漂っていた。
「若殿はかようなときでも…なんとも…はや…」
町野左近が思わず呟くと、忠三郎が不思議そうに首を傾げる。
「?如何した、爺」
「いえ…若殿が大将の器であられることに、ただ感心して申しておるので」
本当のところ、そう思いつつも、どこか違うような気もしている。いかなる天変地異でも、ふわりと受け流してしまうかのような、そんな緩やかな空気が、忠三郎には漂っている。
(滝川家のどなたかが、我が家の若殿を、どこぞの田舎の公家とか申しておったような…)
町野左近は思い返し、ふと微笑を浮かべた。その言葉には、確かに侮蔑が含まれてはいるが、忠三郎の育ちの良さが滲む立ち居振る舞いには、どこかしら公達のような趣があることもまた事実だ。
場の喧騒に浮き立つこともなく、冷静に、そしてゆったりとした物腰で事を運ぶ忠三郎。逆巻く戦場にも、あの上洛の折の華やぎにも影響されぬ、どこか浮世離れしたその風情は、たしかに「田舎の公家」と揶揄されるのも無理はないかもしれない。
現に、混乱と焦燥が満ちるこのさなかでも、忠三郎はどこか浮世離れした風情で、ことさら戦火に巻き込まれぬかのごとき静けさを保っている。その立ち振る舞いには、常に悠々たる空気が漂い、何者も急き立てることはない。
かつての傅役、三雲佐助が忠三郎を「大将の器」と称えたのも、まさにこの、どこか常人離れした感性ゆえだったのかもしれない。戦乱の世にあって、人の営みや思惑に流されることなく、いつも一歩引いたところで静かに物事を眺めるその視線。さながら浮世を越えた遠くの風景を見通しているかのような忠三郎の佇まいには、粗暴な言葉で表しきれぬ格があった。
佐助はきっと、そんな忠三郎の風雅とも呼ぶべき資質を、見過ごすことなく見抜いていたのだろう。
「爺、魂が抜けたような顔をして如何した。疲れたか?峠が見えた。もうすぐ兵と合流じゃ」
兵を待たせている南腰越が見えてきて、町野左近がハタと我にかえったとき、思わぬ知らせが入る。
「忠三郎様、お喜びくだされ!」
付き従っていた滝川助太郎が興奮気味に走り寄ってきた。その顔には喜びと安堵が入り混じっている。
「如何した、助太郎。木の実でも拾うたか?」
忠三郎が微笑んでそう言うと、町野左近は目を丸くして、苦笑を浮かべる。
「まさか、忠三郎様。かような年にもなり、木の実を拾って喜ぶのは義太夫殿くらいのもので」
ふいに義太夫の名が出たので、忠三郎は可笑しさがこみ上げ、声をあげて笑った。義太夫の人懐っこい笑顔や、どこか憎めないおしゃべりが、ふっと浮かんでくる。
(今頃、どうしておるのやら)
遠い上野の地にいる義太夫――本能寺の悲報は、まだ耳には届いていないだろう。今頃は無邪気に火を起こし、飯を炊いているかもしれない。時折、大鍋のふたを開けて湯気に顔を近づけ、何やら一人でぼやきながら、それでも楽しそうにその場を和ませている姿が思い浮かぶ。
(あやつが知れば、いったいどんな顔をすることか…)
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「いやはや義太夫殿どころではありませぬ。都の入口、瀬田の唐橋が焼き落されたとの知らせにござります」
「瀬田の唐橋が焼き落された?それは…誰が…」
「一部の甲賀衆が謀反人に組することを拒み、その中のひとり、瀬田城主の山岡美作守殿が安土に向かう明智の軍勢の行く手を阻もうと、橋を焼いて甲賀へ逃走したとか」
「自ら掛けた橋を焼いたと…」
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「はい。風聞によれば、甲賀の中に、謀反人に組する非を説いて回った者がいたとかで、山岡殿はそれに応じ、橋も、城も焼き捨て、甲賀に走ったと」
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それはもしや、佐助ではないだろうか。佐助であれば、甲賀の地を駆け抜け、信長への忠義を貫くべく説き伏せて回ることも十分に考えられる。山岡美作守がその言葉に応じたというのなら、佐助が説得している場面さえ思い描ける気がした。風のように、またその影すら見せずに去る佐助の姿が瞼の裏に浮かぶ。
そして山岡美作守は、築き上げたものを自らの手で焼き払った――忠義の証として。信長の夢とともに生き、信長のために散りゆく覚悟が、その炎に込められているのかもしれない。
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「皆の思いを無にするまい。我らも先を急ごう」
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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