獅子の末裔

卯花月影

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19.天下騒乱

19-3. 父の誇り

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 忠三郎は本丸館をあとにし、燦々と陽光が降り注ぐ石畳を一歩一歩踏みしめながら、城の奥深くにある吹雪の館へと向かった。空には雲ひとつなく、澄み渡った青空がどこまでも広がっている。蝉の鳴き声が木立から聞こえ、夏の風情が鮮やかに感じられる中、その足は自然と早まった。
(さぞや不安な思いを抱えておるに違いない)

 緩やかな曲線を描く小道は、陽射しを受けて煌めき、そよ風が木の葉をやさしく揺らす。青々と茂る木々は、静かな影を足元に落とし、遠くからは、初夏を告げる蛙の声が微かに響いてくる。

 館の入口まで来ると、中にいた家人が驚きの声を上げた。
「こ、これは若殿!」
 家人は慌てて頭を下げて奥へと走っていく。忠三郎が訪れることへの意外さが隠しきれないようだ。三の丸にいる忠三郎が、こうして吹雪の元へ来ることは稀であり、思い返しても、これまで一度か二度しか記憶にない。静謐な館の空気が、忠三郎の足音にわずかに揺らぎ、地に澄んだ影を落とす。

 まもなく侍女が廊下をすべるように現れた。
「若殿!これは突然のお越し!」
 驚きの色が隠しきれぬ侍女は、慌てて一礼し、着物の裾を踏まぬよう気を配りながら忠三郎を吹雪のいる部屋へと導く。普段は静寂に包まれた館も、主の突然の訪問に緊張が漂う。
「御台は?」
 驚いて目を見張る侍女の反応をよそに、あくまで飄々とした態度を崩さずに問いかけた。侍女は少し躊躇しながらも、小声で答える。
「一晩中、泣き明かしておいででした…」
 忠三郎は、侍女の言葉に目を伏せ、静かに頷いた。
「それも無理からぬこと…」
 胸の内でそうつぶやきながら、先導する侍女の後に続く。足取りは静かでありながら、どこか重々しい。
 
 侍女は障子の向こうの奥ゆかしい気配を察知するように、小さな手で「姫様。若殿がお見えでございます」と声をかけ、障子を開ける。柔らかな初夏の陽が薄く差し込むその部屋へ、静かな風が一筋入り、外の草木の薫りを運んできた。
 そのとき、吹雪が驚いて顔を上げるのが見えた。

(あのような顔立ちであったかな…)
 久方ぶりに目にする正室の姿に、忠三郎はふと昔日の面影を探り、忘れていた記憶が蘇る。控えめながらも凛としたその顔立ちに、そういえば、確かにこうであったと今更ながらに思い至る。

 障子越しに差し込む初夏の陽光が、吹雪の横顔を照らし、微かに揺れる影を落としている。ぼんやりとしたその顔が余計にぼやけて見えて、なにやら可笑しさがこみ上げ、忠三郎は俄かにクスリと笑った。
 吹雪はそんな忠三郎を怪訝そうに見上げる。
「突然のお越し、如何なされました」

 どこからか風に乗って届く青葉の香りが、儚い安らぎのように漂い、忠三郎の胸に一瞬の静寂をもたらす。けれども、吹雪の顔に浮かぶ疑念の色と、咎めるような言葉を聞いた途端、その微かな安らぎも泡のごとく消えていった。
(この女子はどうにも扱いにくい)
 とは思ったが、柔らかく声をかけた。

「そなたも、さぞや心を痛めておろう」
 なんといっても父と兄を同時に失ったのだ。悲しみと不安は語りつくせぬものがあるだろう。その胸の内に思いを馳せつつ語りかけたが、吹雪の瞳には尚も険しい疑念が宿っていた。
「よもや、われらを明智の手に渡し、あの謀反人に従うおつもりで、ここへお越しになったのではありますまいか?」
 
 吹雪の声音には、鋭い棘が秘められている。
(わしをそのような不甲斐ない男と、そう思うておるのか)
 吹雪の鋭い視線を真っ直ぐに受け止めながら、ふと胸の内で初夏の夕立が過ぎ去った後のひとときの静けさに似た寂しさを覚えた。

 何と言えば、この誤解を晴らせるのか。不安を隠せない様子の吹雪を前に、忠三郎が黙り込むと、吹雪は苛立ち、
「章は身ごもっておるではありませぬか。若殿のお心無い仕打ちの数々。侍女たちから、すべて聞き及んでおります」
 にわかに章姫のことを持ち出され、忠三郎は驚いたが、
「今はそのようなことを言うておる場合ではない」
 なるべく穏やかに、吹雪をなだめようとした。しかし、夕暮れの涼やかな風が木々を揺らし、吹雪の目にはいっそうの怒りが宿る。蝉の声も遠ざかり、静寂が二人の間に重くのしかかった。

「ではいつならよいと?」
 その刹那、吹雪の瞳には夏の夜の刃のような輝きが宿っている。
「父上が心血雪いで築いた安土の城を簡単に敵の手に渡し、今また、我らを生贄に謀反人の前に膝を屈するような若殿が、いつなら、わらわとまっとうに話ができると仰せになるか」
 その言葉のひとつひとつが胸に突き刺さるのを感じ、夜風に揺れる草のように、忠三郎を凍えさせる。吹雪が放つ言葉のひとつひとつが、忠三郎の奥底にひんやりと沁み渡っていく。

(随分な言われようだ)
 城内は既に、明智勢に降伏するという噂がひそやかに広まり始めている。侍女たちはそれを耳にしては、不安に顔を曇らせ、誰からともなく吹雪のもとに詰め寄っては、恐れを訴えていた。しかし忠三郎は、そんな動揺がこの館の中で広がっていることなど知らない。ただ今、この場で向けられた心無い吹雪の言葉に、だんだんと息苦しさを感じ始めていた。

 この重い空気の中で、忠三郎はどこか遠い空を見上げたくなる衝動に駆られ、思わず目を伏せた。それでも、心のどこかで彼女の痛みを理解しようと努める自分がいる。
「少し落ち着いて、わしの話を聞いてはくれぬか」
 忠三郎は静かに諭すように告げる。しかし吹雪は冷ややかな目で見つめ、
「今更、何を仰せになるか。わらわの話は聞く耳をもたず、ご自分の言いたいことだけ仰せになると?」
 と鋭く返す。
 その言葉に忠三郎の胸は痛み、もはや返す言葉もなく口を閉じた。

 夏の月が薄雲に霞むような静けさが二人の間を流れる。やがてその静けさを打ち破るように、障子の向こうから軽やかな声が響いた。
「忠三郎殿がお越しとか」
 章姫の声だ。章姫が明るい声で呼びかけている。

 忠三郎は一瞬、眉をひそめる。どうにも間が悪い。吹雪との緊迫したやり取りの中で、この声はさながら蝉しぐれの合間に一陣の涼風が吹き込んできたようなものだが、今この場においては、むしろその風がかえって微妙な空気を乱していく。忠三郎は吹雪の目を見ながら、言葉を選びかねてしばし押し黙った。

 ほどなくして障子が開かれ、章姫が笑顔をのぞかせた。
「北勢から迎えがきたかと思うたのじゃが…」
 忠三郎が現れたことで、どうやら滝川家の者が迎えに来たのではないかと勘違いしたのだろう。忠三郎は章姫の側に歩み寄り、穏やかな口調で言葉を紡いだ。
「姫。義兄上は未だ関東からお戻りではありませぬ。それゆえ、姫には今しばらく、この城でゆるりとお過ごしいただきたく…」
「されど、謀反人どもが押し寄せると皆が話して居るが?」
「いかなる敵が押し寄せようとも、姫のことはこの蒲生忠三郎が身を挺してお守りいたしまする。どうか、ご安堵くださりませ」
 忠三郎は、章姫の肩にそっと手を回して、柔らかい笑顔を向けた。優しい夏の宵が二人を包み込み、障子の向こうには夏虫が小さく羽音をたてている。

 そんな微笑ましいひとときに、突然、背後から荒々しい気配が立ちのぼった。
「若殿!何をしにここへ参られた!」
 ふいに声を張り上げ、吹雪が立ち上がった。顔にはまさに般若のごとき険しさが浮かび、忠三郎は息を飲んで目を見開く。
 吹雪の眼差しは、夏の夜の涼風も霞むほどの迫力で、小袖の袖がパタリと動くのも、どこか憐れむような気配さえ漂っていた。

 忠三郎は内心ギクリとしながらも、しばしの逡巡ののち、章姫の肩に置いた手をそっと外し、照れ笑いを浮かべる。
「いや、わしはただ、姫を安心させようと…」
 口の端でぽつりと漏らすと、落ち着かない様子で、あたりを見回した。視線を泳がせながら、少しずつ後ずさる。
「おぉ、そろそろ戻らねば。爺が探して居るやもしれぬ」
 さながら夏の夜に迷い込んだホタルのように、ふわりと軽い足取りでその場を離れようとする忠三郎。しかし、背後にはまだ、吹雪の燃えさかる視線が刺さり続けている。ふいに夏の空気がひんやりと重くなり、遠くからカエルの声が、いつもよりも響きわたって聞こえた。


 忠三郎は静かに三の丸の居間に戻ると、ふと息をつき、心の重さを吐き出すように静かに目を閉じた。やがて、開いた瞳を庭に向けると、降りしきる雨に打たれて、桔梗の花がしっとりと青紫の色を濃くしているのが目に映った。
(桔梗か…)
 忠三郎はもう一度小さくため息をつく。風雅なつりがね形の花は、この季節に美しく咲き誇り、万葉の歌人たちが愛し、詠み残したものだ。だが今、その花は他ならぬ明智光秀の家紋にも連なる。儚げに濡れながら、静かに佇む桔梗の花が、忠三郎の心にひときわ深い影を落とす。

 あのように言い切ったものの、心中は暗雲が立ち込めている。南勢からの援軍がなければ、この日野の地もいずれは危うい――そう、忠三郎の思いは晴れぬままであった。

「若殿。ちと、広間に来てはくださりませぬか」
 ふと気がつくと、広縁に手をついた町野左近の姿があった。
「おぉ、爺。気づかなんだ。如何した?」
 左近は少しためらうように忠三郎を見上げ、言葉を選びながら続ける。
「それが安土から使者が参っておるのですが…大殿が大変お怒りになり、追い返せと仰せで」
「父上が?」
 安土から、とはつまり、明智光秀の使いの者だろう。

「使者は見知ったものか?」
「はい。一人は京極家の家臣、多賀豊後守殿。そしてもう一人は、布施藤九郎殿で」
「藤九郎殿?それはまことか」
 耳を疑った。かつて、信長最大の危機の折には、共に千草峠を越え、信長を伊勢まで送り届けたこともある。その後、領地が近いこともあり、藤九郎は忠三郎の妹を娶り、蒲生家とは縁戚にまでなっていた。
「あの折、共に上様を守った我らが、いまや敵味方とは…」
 信長の死からわずか三日。まだその衝撃が冷めやらぬ中、早々と信長を討った光秀に鞍替えし、この地に現れた藤九郎を思うと、忠三郎は思わずこらえきれずに、声を上げて笑った。

(随分と変わり身が早い)
 なんとも滑稽だった。これでは皆、主などは誰でもいいと言わんばかりだ。むしろ、その心根こそが、彼らをしてこの乱世を渡り歩かせてきたのかもしれない。
「父上は、それゆえに立腹されたのか」
 賢秀にとっては婿にあたる。身内が無節操に謀反人に寝返った姿は、賢秀にとって何よりも恥ずべき行いに映ったのだろう。賢秀は人の義を重んじ、家の誇りを大切にする。そんな父にとって、信長の死後まだ幾日も経たぬうちに敵方へ転んだ藤九郎のような行いは、裏切りにも等しいものだったに違いない。

(腹が立つというよりは…)
 無性に空しい。庭先から吹き込む風は夏の香りを孕み、ふと庭の青々とした草木が揺れるのが目に映る。濡れた木の葉から滴る水滴が、一粒、また一粒と苔むした石に落ち、静かに沁み渡っていく。その様に、心の中で小さな波紋が広がるような感覚を覚えた。

 人の信頼も絆も、この世の定めの中では移ろいやすい。藤九郎の裏切りも、夏の夕立が過ぎ去り、何事もなかったかのように澄み渡る空のように、あっけなく感じられる。真夏の空の下、空しさだけがしんと胸に沁み入る。

「若殿…、それでその…」
 町野左近が申し訳なさそうに声をかける。
「会いもせず、明智殿の使者を追い返すというのは、如何なものかと…」
 忠三郎は町野左近の言葉に微かに頷く。賢秀が怒りに任せて追い返せと言い放ったのを受けて、家臣たちがまずは自分に頼るという、その妙な遠慮が透けて見える。
「爺、おぬしも皆も、さぞ気を揉んでおるようじゃな」
 賢秀は日野の頑愚と呼ばれたほどの、頑固者だ。家臣たちがいかに頼んだとしても、考えを変えることはないだろう。

「この城が明智殿の標的となることだけは何としても避けたいと思い…。城中の者たちも皆、心中穏やかならぬ様子で…」
 庭に目をやると、夏の陽が差し込み、石畳に濡れた青葉の影が揺れている。何も語らぬその景色の中で、忠三郎はひとつ深く息をついた。
「よかろう。皆の気持ちも察しておるゆえ、わしが会いに行こう」
 と笑みを浮かべ、使者に会うために着替えをはじめる。

 本当に家臣たちの想いが通じているだろうか。町野左近は、内心わずかな不安を抱えてはいたが、今は忠三郎に賭けるほかはない。
 賢秀が頑なな姿勢を崩さぬ以上、忠三郎が穏やかに事を収めることに望みを託すしかないのだ。普段から温和な忠三郎なら、対話の場においても柔軟に対応し、必要とあれば家臣らが後から助言や口添えをする余地も残してくれるだろう。

「若殿が、明智殿と平和裏に話を進めてくだされば…」
 と、町野左近は静かに独りごちた。庭の方に目をやれば、夏の光を受けて瑞々しく輝く木々の葉が揺れている。
(この穏やかな日野谷が、争いの場とならぬように…明智方と和を結ぶことができれば)
 その切なる願いが、胸の奥で熱く滲んでいた。
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