獅子の末裔

卯花月影

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20.戦乱再び

20-6. 若松の森

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 北勢から山を越えた日野の地にも、秀吉の使者が訪れ、人質を求める旨を告げていた。
「…人質…か。ではまた…正寿に女子の着物を着せ…」
 忠三郎が言いかけたところで、町野左近は呆れた顔をして深くため息をついた。
「若殿。正寿様が男子であることは、皆々気づいておりましたぞ」
 忠三郎は目を丸くする。
「はて?されど北畠の者はなにもいうてはおらなんだが…」
「それは若殿のご気性をよう存じておられるがゆえに、お気遣いくだされたとお思いくだされ」

 忠三郎は首を傾げ、不思議そうな顔をする。
「されど、此度はそうも参りませぬ。羽柴筑前は、虎様を人質に差し出せと、そう言うておるので」
「虎?…なにゆえにまた…」
 忠三郎は再び首をかしげる。瞳に浮かぶ困惑は一片の曇りもない。町野左近はその無邪気さに、内心二度驚き、思わず眉を上げた。
「若殿には、お気づきになられぬので?」
 忠三郎はさらに不思議そうな顔で問い返す。
「気づく、とは?虎は我が妹なれど、滝川三九郎の正室。それを人質にとは奇妙な話ではないか」

 町野左近は思わず深いため息をついた。秋の風が障子の隙間をすり抜け、部屋の中にさらさらと冷たさをもたらす。紅葉の葉が枝を離れるように、忠三郎の言葉は重みを持たず、どこかのんびりとした調子が漂っている。
「若殿、その妙な話こそ、羽柴筑前の狙いでござりまする。」
 左近はできるだけ丁寧に、その意図を伝えようと努めたが、忠三郎の顔にはいまだ納得の色は浮かばない。
「狙い…とは?」
 秋の静寂が辺りを包み、町野左近はその空気の冷たさに身震いするような気持ちだった。忠三郎の温和で長閑な性格が、こうした状況ではひどく心許ないと思う一方で、その平和な心根こそが彼の本質であり、周囲を和らげてきたのだとも感じていた。

(されど…)
 町野左近は内心で重いため息をつきながら、目の前の主の顔をそっと窺った。
 もしもこの場で秀吉の狙いを明かせば、いかに穏やかな忠三郎であっても、腹を立てずにはいられないだろう。しかし、その怒りに任せて決断を下せば、蒲生家の行く末が一時の感情に左右されてしまうのは明白だ。
(未だ、羽柴に与するとも、柴田に肩入れするとも、定められておらぬこの状況…。今は何も言わず、静観を保つが吉やもしれぬ)
 そう心中で思案する左近の様子など、露知らぬように、忠三郎は縁先から庭木を眺めていた。

 庭には秋の陽を浴びた萩の花が風に揺れ、木々の紅葉は日ごとにその色を深めている。その景色に目を細める忠三郎の顔には、まるでこの世の煩いなど一切存在しないかのような、のんびりとした表情が浮かんでいる。

「どうしたものかのう…」
 ぽつりと漏らした声には、危機感というものは微塵も感じられなかった。その穏やかな調子に、町野左近はかえって焦りを覚える。だが、それを顔に出すわけにはいかない。
「それど…よくよく考えてみると、もしやこれは、滝川家と手切れせよと、そう言うておるのであろうか」
 忠三郎がぽつりと呟くと、町野左近は思わず息を止めた。
「は…。よくよく考えずとも、そう言うておるものかと」
 半ば力なく返した町野左近は、内心で大きな安堵と焦りを抱えていた。「やっとお気づきくだされた…」と思う反面、そこに至るまでの忠三郎らしい緩やかさは、悠長で呆れるほどだ。
 
 忠三郎は静かに俯き、紅葉の葉が風に舞う音に耳を傾けた。その表情には、ふと寂しげな影が差していた。
「虎は我が家と滝川家の架け橋。それを人質として差し出すなどということをしては…」
 その声はどこか遠くを見つめるようで、普段ののんびりとした口調の奥に、ほのかな悲しみが滲んでいた。町野左近は思わず言葉を飲み込む。
(若殿…滝川様とのこれまでのことを思えば、判断がつかぬのも道理。されど、この世は情ばかりで生き抜けるものでもない)
 町野左近は苦々しい思いを抱えながらも、忠三郎の沈黙を破ることができずにいた。庭の木々が風に揺れ、時折枝葉の隙間からこぼれる陽光が、忠三郎の俯いた顔に明滅を繰り返す。その姿は、どこか物憂げでありながらも、どこまでも柔らかだった。

 秋の風が庭を抜ける静寂の中、いつまでも去就を決めかねていると、越前より思わぬ客が現れた。蒲生家の臣、安井孫右衛門である。
 安井孫右衛門は、蒲生家が柴田勝家の与力であったころ、忠義の証として勝家のもとに遣わされ、その人柄を勝家に気に入られ越前に留まっていた。久方ぶりの再会にしては、その表情にはどこか緊張の色が浮かんでいる。

 広間で安井を出迎えた忠三郎は、彼の姿に目を細めながらも首を傾げた。
「孫右衛門か。懐かしいのう。されど、何ゆえこのような時節に?」
 それが勝家からの使者であることは、いかに忠三郎でも心得ている。
 孫右衛門は頭を下げ、一瞬口ごもる。風に乗って遠くの鐘の音が響き、言葉をせかすように聞こえてくる。

「実は、越前の柴田殿より、蒲生家へ急ぎ伝えるべき事がござりまする」
 その言葉に、町野左近が小さく息を呑む。季節は移ろえど、戦国の世に平穏な秋はない。
「今はみなまで聞くまい」
 忠三郎はそう告げると、ふいに立ち上がり、ふらりと広間の外へと足を向けた。

「若殿。一体、如何なされたので?
 町野左近が慌てて後を追うと、忠三郎は歩みを止めることなく、振り返りもせずに答えた。
「柴田殿がお味方せいと言うてきたことくらいはわしにも分かる。父上もそのことを案じておられた。それゆえ…」
「それゆえ?」
「綿向神社へ行き、御神託を受けるべしと、そう仰せであった」
「は、綿向神社へ…」

 綿向神社は蒲生家の守り神として高祖父・蒲生貞秀が手厚く保護してきた由緒ある古社だ。
 忠三郎の瞳には、神に身を委ねる覚悟が宿っているようにも見えるが、町野左近にはどうにも頼りない不安も漂って見えた。
「若殿、それがしもご一緒仕る」
「然様か。では参ろうか」
 忠三郎は秋風を背に受けるように屋敷を後にした。その歩みは軽やかで、まるで行く先にある運命を恐れることなどないように見えたが、その影が地面に長く伸びる様を見て、町野左近はひそかに胸中の憂いを深めていた。

 忠三郎は、秋の風情を楽しみながら、家の大事を決めるべく御神託を授かろうと、町野左近と共に綿向神社を目指した。しかし、神社の手前にある若松の森まで来て、馬を下りた。
「若殿。如何なされたので?」
 左近が訝しげに尋ねると、忠三郎はにこりと笑い、軽く手を振って言った。

「爺。すまぬが先に行って御神託を授かっておいてくれ」
「は?若殿、それは一体…」
「ちと野暮用じゃ。後から行くゆえ、頼む」
「若殿!それがしが御神託を授かるなどと、当家の大事を決めるというに、いかがなされるおつもりか!」
 町野左近は目を丸くして忠三郎を見つめたが、忠三郎は悪びれる様子もなく、愛想笑いを浮かべながら返した。
「何、難しく考えるな。爺のほうがよほど、神に好かれる顔をしておる。わしは後から参るから、頼んだぞ」

 そう言い残し、忠三郎はどこかへと向かうように、のんびりと森の奥へ歩き出してしまった。
 残された町野左近は、額に手を当て、深々とため息をつくしかなかった。
「若殿、いよいよ滅相もないことを…」
 森の木漏れ日がちらちらと揺れる中、町野左近は一抹の不安を抱きつつも、忠三郎の代わりに綿向神社へ向かうべく、馬を進めた。

 忠三郎は、町野左近を神社に向かわせると、自らは馬と従者を森の入口に待たせたまま、足を進めて奥へと入っていった。
(ここに来れば、現れると思うたが…)
 木々が生い茂る静かな森の中で、忠三郎は立ち止まり、あたりを見渡した。風が枝葉を揺らし、鳥のさえずりが聞こえるだけで、人影はどこにも見当たらない。

 明智の大軍が迫りくると思われたあの日の深夜。皆が寝静まったころ、ふいに現れた佐助。
(あれは確かに、佐助であった。されど姿を消したのもまた一瞬のこと)
 忠三郎は眉間にしわを寄せ、木立の間を見つめる。

(やはりあれは夢だったのか…それとも…)
 考えながら、さらに奥へと進む。森の中はひんやりと湿気を帯び、異世界に足を踏み入れたかのような感覚を抱かせる。
「佐助」
 声を張り上げるでもなく、囁くように名を呼んだ忠三郎。その声音は、静寂に包まれた森の中で、わずかな風とともに木々の間に吸い込まれていった。返事はない。ただ、森の奥深くに潜む何かが、忠三郎の声に耳を傾けているかのような、得体の知れない感覚が残る。

 忠三郎は一歩、また一歩と、足を踏み出しながら目を凝らす。
「教えてくれ、佐助。わしは一体、どうしたらよい」
 その言葉には、迷いと切実な願いが滲んでいた。
 町野左近が言うように、蒲生家を守るためには何らかの決断を下さねばならない。秀吉か、勝家か。それとも、このまま時勢に逆らい続け、滅びを選ぶのか。

 脳裏には、日野の地を愛する民の姿が浮かんでいた。織田家の家臣として、領民や家臣の暮らしを守るためにも、いずれかに従うことが最善だ。
 だが、どちらを選び取るのが本当に正しいのか、確信が持てない。

 ふと、風に乗って、どこか遠くから鳥の鳴き声が響いてきた。その音にかき消されるように、草むらの奥から、かすかに足音のようなものが聞こえた気がした。
 忠三郎は立ち止まり、耳を澄ます。
「佐助…いるのなら、答えてくれ」
 自分でも、何を期待しているのかわからなかった。ただ、この森の奥で待っていれば、何かが変わる気がする。

 しかし、森は再び静寂を取り戻した。

 風が枝葉を撫でる音も、遠くで囀っていた鳥の声も、いつしか消え去り、ただ底知れぬ沈黙だけが忠三郎を包み込む。その沈黙は、心の内側を映し出しているかのように重く、冷たい。
「やはり…わしは独りか」

 微かに漏れた言葉は、まるで森そのものが飲み込んでしまったかのように音もなく消えていく。かつて、決して一人にはしないと約束してくれた佐助の姿どこにもない。
 頼りとするものも、相談する相手もいない――そんな孤独に苛まれた心は、自らの足元すら頼りなく感じるほど揺らいでいた。
「佐助…」

 もう一度、消え入りそうな声で名を呼んだ。だがその声すら、自らの胸の奥で押し潰されていくようだった。
 何の返答もない森に、忠三郎は視線を落とした。その瞳には、かすかな涙が滲んでいた。
(頼れる者がいないのではない。わしが誰にも頼れぬのだ)

 寂しさと憂いの狭間で、自らの弱さを噛みしめるように目を閉じた。
 忠三郎はふと空を仰いだ。木々の間から覗く空は青く、どこまでも澄み切っている。だが、その青さすら、今は冷淡で遠いものに思えた。
 思わず近くの木に手をつき、息を吐く。その手のひらに触れる木肌の粗さが、唯一現実を繋ぎ止めるかのようだったが、それすらも頼りなく感じる。
「やはり…夢を見ていただけなのか」
 ぽつりと呟いた声は、静寂の森に溶け込み、木々の間に消えていく。

 幼い頃から、どんな時も忠三郎を見守り続けてくれた森。喜びの日も、悲しみに沈む日も、松の木々は変わらぬ姿でそこにあり、孤独な心を包み込んでくれた。

 ふと、風がそよぎ、松の枝葉を揺らす。その風は、忠三郎の頬を優しく撫でた。まるで誰かが「大丈夫だ」と言っているかのようで、わずかな慰めを感じる。それでも、心の奥底で募る孤独は消え去らない。
 今、この瞬間すら、夢の中の一場面であるかのように現実感が遠ざかり、忠三郎は静かに瞼を閉じた。
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