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21.北勢燃ゆ
21-3. 時、至れり
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北勢が一枚岩ではなくなったのは、忠三郎の決断が大きく影響していた。蒲生家と縁戚関係を結ぶ関盛信は忠三郎を頼りとし、その動向を見極めるや否や早々に羽柴秀吉への恭順を誓った。その報は瞬く間に広がり、峰城を守る織田信孝の家臣である岡本平吉郎もまた、秀吉陣営に寝返るという事態を招いた。
領内に流れる不穏な空気はますます濃くなり、一益はついに決断を下した。
一益は三九郎、義太夫、佐治新介、道家彦八郎ら滝川家連枝衆を含む重臣たちに召集をかけた。
その日、長島城の城内には早朝から冬の冷たい空気が張り詰め、集う武士たちの甲冑が凍るような鈍い光を放っていた。凍てつく風が石垣の隙間をすり抜け、枯葉が舞い上がる中、彼らは各々の覚悟を胸に評定の場へと足を運んでいく。
評定が行われる主殿の外では、薄く凍った池の表面に冬の陽光が反射し、静まり返った景色に一層の冷たさを添えていた。
鈴鹿峠の要衝を守る亀山城――これは関本家の居城であり、現在は関盛信の嫡子・一政が城主を務めている。隠居した盛信はその西にある関城に身を寄せていたが、周囲には一族がそれぞれの城を構え、伊勢の入口の守りを担っていた。鹿伏兎城には鹿伏兎定義、国府城には国府盛種がその防備を固めている。
一益の声が静かな評定の間に響く。
「年明け早々、忠三郎は関親子を連れ、羽柴筑前のもとへ挨拶へ行く。その間、関城、亀山城は留守の家臣のみ。家臣どもはすでに三男・十兵衛を使って調略済みじゃ」
三九郎の言葉に、義太夫をはじめとする滝川家の重臣たちは互いの顔を見合わせた。亀山城と関城の留守が確定した今、攻め時を見極めるべき局面に差し掛かっている。
義太夫が意を決したように口を開いた。
「では留守の間に、亀山城と関城を?」
一益は鋭い目で義太夫を見据え、静かに頷く。
「然様。これを一気に奪い取った後に、峰城に籠る裏切者、岡本平吉郎を血祭に挙げる」
評定の間に静かな緊張が走る。義太夫はさらに言葉を続けようとしたが、口を開いた瞬間、外から冷たい北風が吹き込んだ。襖がかすかに揺れ、冬の鋭い空気が肌を刺すように感じられる。
「亀山城には新介が、国府城には津田小平次が入れ。そして堅城・峯城には、義太夫。そなたが入れ」
それを聞いて、義太夫は目を丸くした。
「それがしが峯城に…?」
「然様。峯城はこの北勢防衛の要じゃ。守将にはそなたを置いて他にはおらぬ。義太夫、よいか」
義太夫は思案げに俯き、静かに答えた。
「ハハッ。殿にそこまで言われては、引き受けぬわけには参りませぬ」
隣にいる新介が義太夫の肩を力強く叩いた。
「それでこそ義太夫じゃ!羽柴勢がいかに大軍をもって押し寄せようとも、峯城を落とすことは叶うまい。我らで、この北勢の守りを果たそうぞ」
義太夫は顔を上げ、笑みを浮かべたものの、その目には複雑な感情が宿っていた。
一益はしばしの時、義太夫の心を察するように視線を向けていたが、やがて静かに口を開いた。
「羽柴筑前が大軍を動かすには時がかかる。その間に籠城の準備を進めよ。雪解けには越前の柴田修理が兵を挙げ、羽柴勢の背後を討つ手はずになっておる」
三九郎もそれを受けて頷き、力強い声で言い放った。
「ここで動かねば北勢は滅ぶ。この地を守るため、滝川家の名にかけて戦うのじゃ!」
三九郎の言葉は、冷え切った空気の中に響き渡り、評定の場にいる者たちの胸に重く刻まれる。
一益は再び義太夫に目を向けると、低く、しかし力強い口調で付け加えた。
「峯城はただの砦ではない。この北勢の命脈を握る城。亀山城も同様である。義太夫、新介、そなたらの手に北勢の未来を託す」
義太夫は深く息を吸い込み、瞳に決意を宿して顔を上げた。
「心得ました」
新介も勢いよく前に手をつく。
「お任せあれ!今こそ天下に滝川家ありと、世に知らしめる時!必ずや、守り抜いて見せまする」
一益は二人の返答に微かに頷き、その視線を評定の場に集う者たち全員に巡らせた。
「皆の者、命を捨てて城を守るなど、愚かしいことよ。敵は大軍にて攻め来たるであろう。いよいよ厳しき折には、速やかに長島へ引き退くのじゃ」
一益のその言葉に、場の空気が一瞬固まった。義太夫は眉をひそめ、新介は思わず声を漏らした。
「そ、それでは、城を捨てろと?」
一益はその声に揺るがず、鋭く二人を見据え、言葉を続けた。
「城を捨つるは恥じることにあらず。命を繋ぎ、この地の行く末を守るが肝要。我らが滅びれば、誰ぞこの北勢を守る者ありや。城を枕に討ち死にし、この地を荒らすを良しとするならば、それこそ浅慮なり」
義太夫は深く息をつき、黙して考え込んだ。新介もまた唇を結び、拳を強く握り締めたのち、深々と頭を垂れた。
「ハハッ。しかと、承ってござりまする」
一益は静かに頷き、なおも言葉を重ねた。
「羽柴の軍勢は、やがて押し寄せよう。されど、いまだ備えを整うには至らず。さればこそ、其方らの手に北勢の命運が委ねられる。思慮を尽くし、良き道を選び、生き延びよ」
その言葉を最後に評定は解かれ、義太夫と新介はそれぞれ挙兵の準備を整えるべく立ち去った。
外は吹雪き、冬の風が荒々しく吹きすさぶ。降りしきる雪は一面を白銀に染め、静けさの中に北勢の行く末を暗示しているようであった。
義太夫は背を丸め、寒風に立ち向かうように歩き出した。新介が後ろから声をかける。
「義太夫、この地を守るは我らの役目。たとえ城を捨つる時が来ようとも、また立ち上がるが滝川家の務めよ」
義太夫は小さく頷き、振り返ることなく言葉を返した。
「心得た。その時が来れば、迷わず進むまで」
雪に覆われた北勢の地。その白銀の景色の中、二人の足跡が静かに消えていった。
桑名に戻った義太夫は、間を置かず家人たちを呼び集め、籠城の支度を命じた。その一方で、自身は峰城攻略のための下準備に取り掛かる。
その日の夜、城内の静まり返った部屋で、玉姫が驚いた顔をして義太夫に向かい問う。
「では…殿はいよいよ、あの羽柴筑前や忠三郎殿と刃を交えると、そう仰せなのか?」
義太夫は手炙りの火を見つめながら、低く短く「ウム」とだけ答える。玉姫は少し口ごもったが、再び義太夫を見つめ、声を落として言葉を紡いだ。
「それでは…この地にさらなる荒波が押し寄せるではないか。この北勢の民が、再び戦火に巻き込まれることをお考えになるとき、心痛まぬか?」
義太夫は顔を上げ、玉姫の真剣な眼差しを受け止めた。少しの間、沈黙が流れたが、やがて静かに口を開く。
「殿はこの北勢を守るためと仰せではあったが、されど…」
義太夫は言葉を切り、立ち上がって窓の外を見やった。桑名の冷たい夜風が、静かに部屋の中に流れ込む。
「その実、この挙兵は織田家の天下を守るためじゃ。天下を狙う羽柴筑前が、織田家から天下をかすめ取ろうとしておる。このまま見過ごせば、天下は羽柴筑前のものとなろう。殿は織田の忠臣として、柴田殿や三七様の懇願を受け、重い腰を上げられたであろう。これ以上、黙して見過ごすことはできぬ、と」
玉姫はそれを聞き、眉を寄せたまま義太夫を見つめた。その心には、義太夫への心配と、戦さの不安が入り交じっていた。
「されど…勝つ見込みは…」
その問いに、義太夫は強い口調で言い返すことなく、ただ穏やかに微笑んで答えた。
「勝ち負けは、天が定めるもの。されど、この地は、我らが守らねばならぬ。それは誰にも譲れぬことよ」
玉姫は目を伏せ、静かに頭を下げた。冷たい夜の風が、二人の間を吹き抜けるように、桑名の城内に寂しい音を響かせていた。
天正十一年。正月。
峠を越えた江南の地、日野。蒲生家では待望の嫡子が誕生し、城内では家臣たちが一堂に会し、夜を徹して初夜の祝いが盛大に催されていた。篝火が揺らめき、太鼓の音が高らかに響く中、宴の席では美酒が注がれ、祝詞が響き渡る。
この後も、三日夜の祝い、五日夜の祝い、七日夜の祝いと、賑やかな宴が続く。七日目には産剃の儀が厳かに執り行われ、産声を上げたばかりの嫡子の健やかな成長が祈念される。そして、儀式が終わるとともに、ようやく章姫が産屋から出る日を迎える。
庭に出た忠三郎が、冷えた夜風に酔いを醒ましながらふらつく様子を、町野左近が気遣うように後を追った。
「若殿、如何なされましたぞ。待望の若君ご誕生とあれば、もっと晴れ晴れとされてもよろしいものを。章姫様の顔を見ることが叶わぬゆえ、お寂しいのだと、皆の者がささやいておりまするぞ」
町野左近が戯れ半分でそう声をかけると、忠三郎は振り返り、口元に複雑な笑みを浮かべた。その顔には、どこか影が差している。
「…それもあるが…。爺、三九郎と比べ、わしが勝っておるものは何と思う?」
突然の問いに、町野左近は一瞬言葉に詰まりながらも、忠三郎の真意を図りかねて、少し考えた末に答えた。
「それはやはり、毛並み…いや、家柄でござりましょう。若殿は何と申しても、俵藤太秀郷公以来の名門、蒲生家の御嫡子にございますれば」
冗談めかしつつも答えた町野左近の言葉に、忠三郎は小さく吹き出し、微かに口角を上げた。
「他には?」
「他、とは…ウムム…これはまさしく難題にて…」
町野左近は腕組みし、眉間に深い皺を刻んで唸り始める。その姿はあまりにも真剣で、忠三郎は「難題とは…」と内心で呟きながらも、呆れ半分に笑いをこらえた。
「爺。そのように悩まずとも、何かあろう。例えば、武勇に優れておるとか、男ぶりがよいとか」
忠三郎が茶化すように口にすると、町野左近は顔を上げ、大仰に手を振りながら応じた。
「それでは、若殿を貶めることになりませぬか! 」
と、町野左近は手を振り大げさに否定した後、少し言葉を濁しながら続ける。「男ぶり…というか、まぁ、若殿は無骨な武士というよりは…いかにも高貴なお方であることは、一目見ただけでも分かることなれど、武勇となれば三九郎殿も負けておらぬでござりましょう」
忠三郎はじっと耳を傾けながらも、内心では期待していた返答とは違うことに気づく。
(もう少し、違うことを言うてくれても、よさそうなものではあるが…)
とは思ったが、顔には出さず、穏やかな笑みを湛え
「ほう、高貴なだけか…」
少し意地悪そうな口調で問い返してみせるが、町野左近は全く気付かぬ様子で、笑みをこぼした。
「若殿が名家の御嫡子たることにては他に何も要りませぬ! それに、三九郎殿と比べまするに、若殿はこう…月夜の風情を備えたお方。戦場で鋭い刃を振るうより、和らぎをもたらす光でございまするな!」
「それは帰するところ、わしには戦さが向いておらぬと?」
忠三郎はわざと目を細め、軽く睨むように町野左近を見たが、町野左近は微塵も臆する様子なく、笑みを浮かべて首を傾げた。
「はて、戦さ向きでないとは一言も申しておりませぬぞ。ただ、人の命を取る戦場よりも、歌を詠み、世を和らげるほうが、いかにも若殿の御気性に叶うておるかと存じまする」
どうも納得しきれない忠三郎が腕を組むと、町野左近は急に調子を変えた。
「若殿には、それがし如きがかような戯れを申し上げても、お咎めひとつなさらぬ。これこそ、天より賜りし、比類なきお心の広さかと存じまする」
町野左近が身振り手振りを交えながら、命を懸けるかのように褒め言葉を尽くしている姿を目の当たりにし、忠三郎の胸中には複雑な感情が湧き上がってきた。
(いささか必死すぎる)
忠三郎は心の中でそう呟き、ふと視線を遠くに向けた。町野左近の言葉には嘘があるわけではないと分かりながらも、どうにも素直に喜べぬのは、己が未だ何者にも成り得ていないという自覚が拭えぬからか。
そんな忠三郎の胸中を察するでもなく、左近は得意げな表情で続けた。
「若殿のご気性たるや、いずれ天下を治める器量と存じまする。いやいや、むしろ既にその片鱗は明らか!」
忠三郎は目を閉じ、静かにため息を漏らした。冷たい冬の夜風が頬をかすめ、酒の熱が薄れていくのを感じる。
「爺、もうよい。今宵は休め。わしはもう少し、ここで酔いを醒ます」
柔らかな声でそう告げると、町野左近は一瞬ためらったものの、やがて深々と頭を下げた。
「承知仕りました。若殿も、どうぞお風邪など召されませぬよう」
その言葉を残し、左近は忠三郎のもとを去っていった。
夜空を見上げると、月は雲間に隠れ、星がちらほらと瞬いている。宴の喧騒が遠のく中、忠三郎は一人、庭先に佇んだまま、思いに沈む。
(七日を過ぎたのちには、叔父上を連れ、羽柴筑前の元へ参らねばならぬか…)
忠三郎は庭先に立ち尽くし、吐く息が白く立ち昇るのをぼんやりと眺めた。 遠くから聞こえる宴の残響も、今はどこか他人事のように感じられる。
(それで、すべてが収まればよいが…)
目を細め、頭上に広がる夜空を見上げる。雲間から覗く僅かな月明かりが、庭の木々を幽かに照らしている。
(わしは如何に振る舞うべきか。そして、わしが何者であるか――それを知るのは、いったいいつの日か)
自らに問いかけつつも、答えはまだ見つからない。忠三郎は深く息を吸い込み、冷たい空気でわずかに冴えた思考を抱えたまま、夜の静寂に沈んでいった。
領内に流れる不穏な空気はますます濃くなり、一益はついに決断を下した。
一益は三九郎、義太夫、佐治新介、道家彦八郎ら滝川家連枝衆を含む重臣たちに召集をかけた。
その日、長島城の城内には早朝から冬の冷たい空気が張り詰め、集う武士たちの甲冑が凍るような鈍い光を放っていた。凍てつく風が石垣の隙間をすり抜け、枯葉が舞い上がる中、彼らは各々の覚悟を胸に評定の場へと足を運んでいく。
評定が行われる主殿の外では、薄く凍った池の表面に冬の陽光が反射し、静まり返った景色に一層の冷たさを添えていた。
鈴鹿峠の要衝を守る亀山城――これは関本家の居城であり、現在は関盛信の嫡子・一政が城主を務めている。隠居した盛信はその西にある関城に身を寄せていたが、周囲には一族がそれぞれの城を構え、伊勢の入口の守りを担っていた。鹿伏兎城には鹿伏兎定義、国府城には国府盛種がその防備を固めている。
一益の声が静かな評定の間に響く。
「年明け早々、忠三郎は関親子を連れ、羽柴筑前のもとへ挨拶へ行く。その間、関城、亀山城は留守の家臣のみ。家臣どもはすでに三男・十兵衛を使って調略済みじゃ」
三九郎の言葉に、義太夫をはじめとする滝川家の重臣たちは互いの顔を見合わせた。亀山城と関城の留守が確定した今、攻め時を見極めるべき局面に差し掛かっている。
義太夫が意を決したように口を開いた。
「では留守の間に、亀山城と関城を?」
一益は鋭い目で義太夫を見据え、静かに頷く。
「然様。これを一気に奪い取った後に、峰城に籠る裏切者、岡本平吉郎を血祭に挙げる」
評定の間に静かな緊張が走る。義太夫はさらに言葉を続けようとしたが、口を開いた瞬間、外から冷たい北風が吹き込んだ。襖がかすかに揺れ、冬の鋭い空気が肌を刺すように感じられる。
「亀山城には新介が、国府城には津田小平次が入れ。そして堅城・峯城には、義太夫。そなたが入れ」
それを聞いて、義太夫は目を丸くした。
「それがしが峯城に…?」
「然様。峯城はこの北勢防衛の要じゃ。守将にはそなたを置いて他にはおらぬ。義太夫、よいか」
義太夫は思案げに俯き、静かに答えた。
「ハハッ。殿にそこまで言われては、引き受けぬわけには参りませぬ」
隣にいる新介が義太夫の肩を力強く叩いた。
「それでこそ義太夫じゃ!羽柴勢がいかに大軍をもって押し寄せようとも、峯城を落とすことは叶うまい。我らで、この北勢の守りを果たそうぞ」
義太夫は顔を上げ、笑みを浮かべたものの、その目には複雑な感情が宿っていた。
一益はしばしの時、義太夫の心を察するように視線を向けていたが、やがて静かに口を開いた。
「羽柴筑前が大軍を動かすには時がかかる。その間に籠城の準備を進めよ。雪解けには越前の柴田修理が兵を挙げ、羽柴勢の背後を討つ手はずになっておる」
三九郎もそれを受けて頷き、力強い声で言い放った。
「ここで動かねば北勢は滅ぶ。この地を守るため、滝川家の名にかけて戦うのじゃ!」
三九郎の言葉は、冷え切った空気の中に響き渡り、評定の場にいる者たちの胸に重く刻まれる。
一益は再び義太夫に目を向けると、低く、しかし力強い口調で付け加えた。
「峯城はただの砦ではない。この北勢の命脈を握る城。亀山城も同様である。義太夫、新介、そなたらの手に北勢の未来を託す」
義太夫は深く息を吸い込み、瞳に決意を宿して顔を上げた。
「心得ました」
新介も勢いよく前に手をつく。
「お任せあれ!今こそ天下に滝川家ありと、世に知らしめる時!必ずや、守り抜いて見せまする」
一益は二人の返答に微かに頷き、その視線を評定の場に集う者たち全員に巡らせた。
「皆の者、命を捨てて城を守るなど、愚かしいことよ。敵は大軍にて攻め来たるであろう。いよいよ厳しき折には、速やかに長島へ引き退くのじゃ」
一益のその言葉に、場の空気が一瞬固まった。義太夫は眉をひそめ、新介は思わず声を漏らした。
「そ、それでは、城を捨てろと?」
一益はその声に揺るがず、鋭く二人を見据え、言葉を続けた。
「城を捨つるは恥じることにあらず。命を繋ぎ、この地の行く末を守るが肝要。我らが滅びれば、誰ぞこの北勢を守る者ありや。城を枕に討ち死にし、この地を荒らすを良しとするならば、それこそ浅慮なり」
義太夫は深く息をつき、黙して考え込んだ。新介もまた唇を結び、拳を強く握り締めたのち、深々と頭を垂れた。
「ハハッ。しかと、承ってござりまする」
一益は静かに頷き、なおも言葉を重ねた。
「羽柴の軍勢は、やがて押し寄せよう。されど、いまだ備えを整うには至らず。さればこそ、其方らの手に北勢の命運が委ねられる。思慮を尽くし、良き道を選び、生き延びよ」
その言葉を最後に評定は解かれ、義太夫と新介はそれぞれ挙兵の準備を整えるべく立ち去った。
外は吹雪き、冬の風が荒々しく吹きすさぶ。降りしきる雪は一面を白銀に染め、静けさの中に北勢の行く末を暗示しているようであった。
義太夫は背を丸め、寒風に立ち向かうように歩き出した。新介が後ろから声をかける。
「義太夫、この地を守るは我らの役目。たとえ城を捨つる時が来ようとも、また立ち上がるが滝川家の務めよ」
義太夫は小さく頷き、振り返ることなく言葉を返した。
「心得た。その時が来れば、迷わず進むまで」
雪に覆われた北勢の地。その白銀の景色の中、二人の足跡が静かに消えていった。
桑名に戻った義太夫は、間を置かず家人たちを呼び集め、籠城の支度を命じた。その一方で、自身は峰城攻略のための下準備に取り掛かる。
その日の夜、城内の静まり返った部屋で、玉姫が驚いた顔をして義太夫に向かい問う。
「では…殿はいよいよ、あの羽柴筑前や忠三郎殿と刃を交えると、そう仰せなのか?」
義太夫は手炙りの火を見つめながら、低く短く「ウム」とだけ答える。玉姫は少し口ごもったが、再び義太夫を見つめ、声を落として言葉を紡いだ。
「それでは…この地にさらなる荒波が押し寄せるではないか。この北勢の民が、再び戦火に巻き込まれることをお考えになるとき、心痛まぬか?」
義太夫は顔を上げ、玉姫の真剣な眼差しを受け止めた。少しの間、沈黙が流れたが、やがて静かに口を開く。
「殿はこの北勢を守るためと仰せではあったが、されど…」
義太夫は言葉を切り、立ち上がって窓の外を見やった。桑名の冷たい夜風が、静かに部屋の中に流れ込む。
「その実、この挙兵は織田家の天下を守るためじゃ。天下を狙う羽柴筑前が、織田家から天下をかすめ取ろうとしておる。このまま見過ごせば、天下は羽柴筑前のものとなろう。殿は織田の忠臣として、柴田殿や三七様の懇願を受け、重い腰を上げられたであろう。これ以上、黙して見過ごすことはできぬ、と」
玉姫はそれを聞き、眉を寄せたまま義太夫を見つめた。その心には、義太夫への心配と、戦さの不安が入り交じっていた。
「されど…勝つ見込みは…」
その問いに、義太夫は強い口調で言い返すことなく、ただ穏やかに微笑んで答えた。
「勝ち負けは、天が定めるもの。されど、この地は、我らが守らねばならぬ。それは誰にも譲れぬことよ」
玉姫は目を伏せ、静かに頭を下げた。冷たい夜の風が、二人の間を吹き抜けるように、桑名の城内に寂しい音を響かせていた。
天正十一年。正月。
峠を越えた江南の地、日野。蒲生家では待望の嫡子が誕生し、城内では家臣たちが一堂に会し、夜を徹して初夜の祝いが盛大に催されていた。篝火が揺らめき、太鼓の音が高らかに響く中、宴の席では美酒が注がれ、祝詞が響き渡る。
この後も、三日夜の祝い、五日夜の祝い、七日夜の祝いと、賑やかな宴が続く。七日目には産剃の儀が厳かに執り行われ、産声を上げたばかりの嫡子の健やかな成長が祈念される。そして、儀式が終わるとともに、ようやく章姫が産屋から出る日を迎える。
庭に出た忠三郎が、冷えた夜風に酔いを醒ましながらふらつく様子を、町野左近が気遣うように後を追った。
「若殿、如何なされましたぞ。待望の若君ご誕生とあれば、もっと晴れ晴れとされてもよろしいものを。章姫様の顔を見ることが叶わぬゆえ、お寂しいのだと、皆の者がささやいておりまするぞ」
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「…それもあるが…。爺、三九郎と比べ、わしが勝っておるものは何と思う?」
突然の問いに、町野左近は一瞬言葉に詰まりながらも、忠三郎の真意を図りかねて、少し考えた末に答えた。
「それはやはり、毛並み…いや、家柄でござりましょう。若殿は何と申しても、俵藤太秀郷公以来の名門、蒲生家の御嫡子にございますれば」
冗談めかしつつも答えた町野左近の言葉に、忠三郎は小さく吹き出し、微かに口角を上げた。
「他には?」
「他、とは…ウムム…これはまさしく難題にて…」
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「爺。そのように悩まずとも、何かあろう。例えば、武勇に優れておるとか、男ぶりがよいとか」
忠三郎が茶化すように口にすると、町野左近は顔を上げ、大仰に手を振りながら応じた。
「それでは、若殿を貶めることになりませぬか! 」
と、町野左近は手を振り大げさに否定した後、少し言葉を濁しながら続ける。「男ぶり…というか、まぁ、若殿は無骨な武士というよりは…いかにも高貴なお方であることは、一目見ただけでも分かることなれど、武勇となれば三九郎殿も負けておらぬでござりましょう」
忠三郎はじっと耳を傾けながらも、内心では期待していた返答とは違うことに気づく。
(もう少し、違うことを言うてくれても、よさそうなものではあるが…)
とは思ったが、顔には出さず、穏やかな笑みを湛え
「ほう、高貴なだけか…」
少し意地悪そうな口調で問い返してみせるが、町野左近は全く気付かぬ様子で、笑みをこぼした。
「若殿が名家の御嫡子たることにては他に何も要りませぬ! それに、三九郎殿と比べまするに、若殿はこう…月夜の風情を備えたお方。戦場で鋭い刃を振るうより、和らぎをもたらす光でございまするな!」
「それは帰するところ、わしには戦さが向いておらぬと?」
忠三郎はわざと目を細め、軽く睨むように町野左近を見たが、町野左近は微塵も臆する様子なく、笑みを浮かべて首を傾げた。
「はて、戦さ向きでないとは一言も申しておりませぬぞ。ただ、人の命を取る戦場よりも、歌を詠み、世を和らげるほうが、いかにも若殿の御気性に叶うておるかと存じまする」
どうも納得しきれない忠三郎が腕を組むと、町野左近は急に調子を変えた。
「若殿には、それがし如きがかような戯れを申し上げても、お咎めひとつなさらぬ。これこそ、天より賜りし、比類なきお心の広さかと存じまする」
町野左近が身振り手振りを交えながら、命を懸けるかのように褒め言葉を尽くしている姿を目の当たりにし、忠三郎の胸中には複雑な感情が湧き上がってきた。
(いささか必死すぎる)
忠三郎は心の中でそう呟き、ふと視線を遠くに向けた。町野左近の言葉には嘘があるわけではないと分かりながらも、どうにも素直に喜べぬのは、己が未だ何者にも成り得ていないという自覚が拭えぬからか。
そんな忠三郎の胸中を察するでもなく、左近は得意げな表情で続けた。
「若殿のご気性たるや、いずれ天下を治める器量と存じまする。いやいや、むしろ既にその片鱗は明らか!」
忠三郎は目を閉じ、静かにため息を漏らした。冷たい冬の夜風が頬をかすめ、酒の熱が薄れていくのを感じる。
「爺、もうよい。今宵は休め。わしはもう少し、ここで酔いを醒ます」
柔らかな声でそう告げると、町野左近は一瞬ためらったものの、やがて深々と頭を下げた。
「承知仕りました。若殿も、どうぞお風邪など召されませぬよう」
その言葉を残し、左近は忠三郎のもとを去っていった。
夜空を見上げると、月は雲間に隠れ、星がちらほらと瞬いている。宴の喧騒が遠のく中、忠三郎は一人、庭先に佇んだまま、思いに沈む。
(七日を過ぎたのちには、叔父上を連れ、羽柴筑前の元へ参らねばならぬか…)
忠三郎は庭先に立ち尽くし、吐く息が白く立ち昇るのをぼんやりと眺めた。 遠くから聞こえる宴の残響も、今はどこか他人事のように感じられる。
(それで、すべてが収まればよいが…)
目を細め、頭上に広がる夜空を見上げる。雲間から覗く僅かな月明かりが、庭の木々を幽かに照らしている。
(わしは如何に振る舞うべきか。そして、わしが何者であるか――それを知るのは、いったいいつの日か)
自らに問いかけつつも、答えはまだ見つからない。忠三郎は深く息を吸い込み、冷たい空気でわずかに冴えた思考を抱えたまま、夜の静寂に沈んでいった。
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下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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