獅子の末裔

卯花月影

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21.北勢燃ゆ

21-4. 動乱の前触れ

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 伊勢と近江の境に連なる山々にはいくつもの峠があり、往来の要所ともなる。忠三郎の母方の叔父にあたる千種三郎左衛門が抑える千草峠も、その一つ。この峠は、近ごろの不穏な空気が漂う中でも、いまだ問題なく通行が叶う、数少ない道であった。

 千草峠を越え、北勢へと続々と届く畿内や江南の様子は、一益の耳にもしばしば入っていた。その多くは、羽柴秀吉が次第に勢力を強めていることを示すもので、信長亡き後の織田家の行く末を憂う者たちの声が、峠を越えるたびに膨らんでいくようでもあった。

 また、各地から集まる情報は、ただ不穏な空気を伝えるのみならず、時には戦略の機微を示唆するものであった。一益はこれらを見逃さず、精査し、北勢防衛の糧としていた。

 長島城の広間には緊張感が漂っていた。開戦を目前に控え、北勢防衛の要たる評定はその最終段階に差し掛かっていた。誰もが己の役割を胸に刻みつつ、いよいよ決戦かと気を引き締める中、素破たちがもたらした新たな情報が場の空気を変えた。

「蒲生忠三郎が虎様を羽柴筑前の側室として差し出した、と」
 知らせを聞いた三九郎は思わず耳を疑い、隣に座る義太夫も驚愕のあまり息を呑んだ。
「蒲生家は、代々続く名家である。ましてや、あの忠三郎の父が、かような真似に及ぶなど、信じ難い…」
 三九郎は額に手を当て、必死に情報の真偽を吟味しようとする。忠三郎の性格や家柄を考えると、到底、腑に落ちない話だ。

 しかし、その後も同様の報せが次々と異なる筋から届けられる。評定の場はざわめき始め、疑念が膨らむ中、さらなる知らせが忠三郎の元にいる章姫から届けられた。

「虎様は、みごもっておいでだとか…」
 評定の場は一瞬にして静まり返った。その場に集う者たちは、皆、三九郎の心中を察し、あえて言葉を発する者はいなかった。重い沈黙が場を包む中、義太夫が決意したように口を開いた。
「若殿。これは、尋常ならざる事態かと…」
 義太夫の声が、重苦しい場の沈黙を破った。しかし、三九郎はその言葉に答えず、ただ深く息を吐き、視線を伏せたままだった。

 義太夫はその様子にさらに重い胸の内を抱えながら、一歩前へ進み、少し声を落として問いかけた。
「若殿にはすでに、ご存じのことでござりましたか…?」
 三九郎はしばらく無言のままだったが、やがてゆっくりと頷いた。
「…助太郎が戻った折に、聞いておる」
 その言葉に、場にいた家臣たちはさらに息を呑んだ。すでにその知らせを知っていながら、三九郎は何も語らず、ただ静かにその事実を受け入れていたという。
 
「若殿はそれで…手をこまねいて見ておると?奥方があのような卑賤な者の側女にされて、ただ、耐えると仰せで?」
 佐治新介があえて挑発的に口にしたその言葉に、居並ぶ家臣たちの間に緊張が走る。場の空気が一変する中、三九郎は鋭い眼差しを新介に向けた。
「聞き捨てならぬ!」
「されど、若殿。お耐えあそばされるだけでは、虎様もそのお腹のお子も、どのような運命を辿るやも知れませぬぞ」
 三九郎の手が拳を作り、膝の上で震えた。そして顔を上げると、周囲の家臣たちを悲痛な表情で見回し、ぽつりと呟いた。
「虎を…奪い返すことは、叶わぬのか…」
 その声には怒りよりも、どうしようもない悲しみと諦めの色が滲んでいた。
 家臣たちは目を伏せ、答える者はいない。たとえ一益や北勢の軍勢をもってしても、秀吉の手中にある虎を奪い返すことは、極めて困難だ。

「三九郎。そして皆も、軽挙妄動は控えよ」
 それまで黙っていた一益が口を開くと、居並ぶものが一斉に一益を見る。
「父上」
 三九郎は胸に渦巻く激情を隠すことなく、一歩前に出て父を睨むように見据えた。
「このままでは、それがしは家中どころか、世人からも笑いものとなりまする。それを耐えよと、そう仰せでござりまするか?」
 三九郎の声には怒りが滲み、居並ぶ者たちも息を呑む。しかし一益はただじっと三九郎を見つめた後、目を閉じ、深く息をつくと、口を開いた。

「怒りに任せて己を忘るるな。焦りや激情に身を委ね、道を誤ることは許されぬ」
 その声音は静かでありながら、座中に響くような威厳を帯びていた。
「これまで評定を重ねてきたのは、一重に故右府様から委ねられたこの地を守るため。皆で申し合わせた通りに事を進めねば、勝てるものも勝てなくなろう」
 一益の言葉に、沈黙が場を包んだ。三九郎は拳を握りしめたまま、父の言葉を噛み締めるようにじっと聞いていた。理は分かる。しかし、分かるからこそ胸に渦巻く感情を持て余す。

 名誉が失われ、世人の嘲笑を背負うことがいかに苦しいか、痛いほど理解していた。それでも、父の目には一片の迷いもない。そこにあるのは、この動乱を生き抜く覚悟と、守るべきものへの責任だけだ。

 三九郎は口を閉ざしたまま、一歩後ろへと下がる。しかし、その目には悔しさと怒り、そして耐え難い屈辱が浮かんでいた。心の奥底で炎のように燃え上がるその感情は、言葉にすれば裂けるほどの苦痛だった。
「――委細承知、仕りました」

 かすかに震える声でそう告げると、三九郎は静かにその場を離れた。その背中は、どこか重々しく沈んで見えた。屈辱に耐え、飲み込んだ激情が、やがて何に変わるのか。それは誰にも分からぬまま、ただ冷えた風がその場を吹き抜けていった。


 一月半ば、厳しい冬の空が広がる中、忠三郎は一連の祝いの儀を終え、叔父・関盛信、そして従弟の関一政を伴い、羽柴秀吉の前に伺候した。綿向山の冬の冷気が、忠三郎の心に何か重い影を落としているようだった。

 冬の冷え込みが厳しい夜だった。外は白い息が立ち上るほどの寒さだが、広間には薪の火が暖かく燃え、微かに乾いた木の香りが漂っていた。
 忠三郎は秀吉に対して形式的な祝辞を述べつつも、その眼差しには、互いの真意を探り合うような鋭さがあった。
「忠三郎殿が来てくだされたのじゃ。これで天下も収まるというもの。なに、わしは戦さなんぞは望んではおらぬ。故右府様がもたらした泰平の世を再び戦国の世に戻すことなど、恐れ多いことじゃ」
 秀吉は声高らかに笑い、明るさを振りまいた。その笑顔には、意図的とも思える無邪気さが漂っている。

 忠三郎は秀吉の言葉を静かに聞きながら、その表情の裏に潜む真意を探ろうとしていた。戦を望まぬと言いながら、その眼差しには、天下の覇権を狙う者ならではの鋭さが宿っている。
「それを聞き、安堵いたしました。織田家の臣として、これからも力を尽くす所存でござります」
 と、忠三郎は一礼した。

 秀吉は頷きながら酒を口に含み、微笑みを浮かべた。
「うむ、それでこそ蒲生家の御嫡子。右大臣様が目をかけて娘婿とした御仁じゃ。わしも忠三郎殿の働きに大いに期待しておる」
 だが、その声の調子がいかにも軽やかである一方で、忠三郎の胸の中には一抹の不安が渦巻いていた。秀吉の明るい言葉の奥底に潜むものを感じながらも、それを確かめる術はない。

「のう、忠三郎殿。我らは信長公のもと、長年労苦してきた。それを今更、無にするようなことを、わしが望むはずもない。そうであろう?」
 何か、含むような言い回しだ。気にはなるが言われてみると、秀吉の言う通りかもしれない、と思い始めた。
「おぬしもそうではないか?再び戦国の世となることは望んではおるまい?」
 秀吉が忠三郎の顔を覗き込むように言うと、忠三郎も深くうなずく。
「それは無論」
 忠三郎は頷きながらも、胸中にはもやもやとした霧が立ち込めていた。

(羽柴筑前の申すことは尤も。再び戦乱が広がることなど、誰が望もうか…)

 だが、その言葉の裏に潜む真意を探ろうとする自分もいる。
 秀吉は穏やかな笑顔で盃を傾け、忠三郎の顔をじっと見つめている。その視線は、燃える薪のように優しげでありながら、どこかじんわりと忍び寄る熱を感じさせた。

「のう、忠三郎殿」
 秀吉の声が静かに響く。外から吹き込む冷たい風が障子を揺らし、その音が妙に心に残る。
「この乱世を終わらせるには、強き意志と知恵が必要じゃ。信長公が築かれた礎を守るためにも、我らが一丸となるべきと思わぬか?」

 忠三郎は手元の盃を見つめながら、静かに頷いた。
「仰せの通り、乱世の再来は望むところではございませぬ」
 その声は確かに心からのものだった。戦乱で荒れた地を目にしてきた忠三郎には、泰平の有難さが骨身に染みていた。

 薪が弾ける音が静寂を破る。秀吉はその音に微笑を漏らしながら、さらに続けた。
「忠三郎殿。織田家を二つに割るような争いを避けるためにも、我らが一致団結するのが肝要じゃ。おぬしも、わしの考えに同意してくれると思うておったわい」

 その言葉に、忠三郎の胸には一瞬の迷いが生じた。秀吉の言葉は正しい。織田家の未来を考えるなら、対立ではなく統一が必要だ。それに、秀吉の人心を掴む力は計り知れない。あの信長ですら、秀吉を信頼し、重用していたのだから。
「…確かに」
 忠三郎は口を開き、慎重に言葉を選びながら応じた。
「筑前殿の仰せも、尤もなことかと」

 秀吉が満足そうに頷き、杯を持ち上げる。
「さすが忠三郎殿。おぬしのような賢き御方が理解してくれることは、何より心強いわ!」
 外では北風が木々を揺らし、霜の降りた庭をざわめかせていた。忠三郎はふと障子越しにその景色を思い浮かべ、胸の中で何かが静かに揺れ動いているのを感じた。

(筑前の言うことは正しい。されど、この道を進めば、義兄上や義太夫とは袂を分かつことになるかもしれぬ…)
 心の片隅に宿る不安と後悔を、冷たい風が吹き消していくような気がした。
「それがしも、この乱世に終止符を打つため、力を尽くす所存にございます」

その言葉に、秀吉の顔がさらに明るくなり、熱を帯びた声で応じた。
「うむ!その気概、嬉しい限りじゃ!」

 冬の夜は深まっていく。忠三郎の胸にはなおも葛藤が残っていたが、暖かな薪の火のように、秀吉の熱意がじわじわとその心を溶かし始めているのを、認めざるを得なかった。
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