獅子の末裔

卯花月影

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21.北勢燃ゆ

21-5. 父の想い

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 その夜の宴席は、さすがもてなし上手と名高い秀吉の本領発揮だった。冬の寒さを忘れさせるほど、贅を尽くした料理と酒が用意され、燗酒の温もりが身体をほぐしていく。金屏風に映る揺らめく灯りが豪華さを引き立て、そこに集った武将たちは秀吉の力を見せつけられる。

 叔父の関盛信もその子・一政も、目の前に広がる光景にただ驚きを隠せない。
「いやはや、筑前殿の力がここまでとは…」
 盛信は杯を片手に首を振り、感嘆の声を漏らした。視線の先には、次々と振る舞われる珍味や豪勢な装飾品が並ぶ。
「忠三郎殿、これでは最早、天下の行方は決まったようなものではないか」

 叔父の言葉に、忠三郎は微かに口元を引き締め、曖昧な笑顔で応じた。秀吉の意図が手に取るように分かるからこそ、そう簡単には同調できない。秀吉のもてなしは、ただの歓待ではなく、己の力を誇示し、相手を懐柔する手段だ。

(こうして己の力を見せつけ、従わせる…故右府様が生きておられた頃にも、同じような場を幾度となく目にしてきた。されど…)

 ふと、忠三郎は庭先で燃える篝火の音に耳を傾けた。信長が開いた宴は、どこか冷徹で計算高いものがあったが、秀吉のそれは一見して温かく、庶民的で、心に入り込む巧妙さがあった。

「筑前殿の器量、大いに恐れ入りました」
 一政が深々と頭を下げると、秀吉はにこやかに笑い、満足そうに頷いた。
「いやいや、これは皆の力あってのことじゃ。我らが心をひとつにすれば、必ずや世を安定させることができようぞ」

 秀吉の言葉に、場の空気がさらに和やかになる。忠三郎もまた、盃を口に運びながら黙って秀吉を見つめる。その笑顔の裏に隠された確かな策と計略を感じながらも、どこか否応なく引き込まれていく自分がいることに気づいていた。

(わしも、こうして義兄上と袂を分かつことになるのか…)
 冬の夜風が障子越しに僅かに吹き込み、冷たさが忠三郎の頬をかすめた。盃の温かさが、その冷たさを帳消しにするように手の中で熱を伝える。秀吉のもてなしは、次第に忠三郎の心にまで浸透していくようだった。

 
 そのころ北勢では、千種、赤堀、楠、稲生といった国衆が次々と滝川家への恭順を表明し、戦さの準備に取りかかっていた。その中でも楠城を治める楠木十郎正盛は、若干十三歳ながら、注目を集める存在だった。

 十郎は信長の命を受け、わずか十歳にして楠木家八代目の当主として家を継いだ若武者である。まだ幼さを残す面立ちではあるものの、その背には名家の責務を担う覚悟が刻まれている。

 楠木家は伊勢の名門で、遠く神戸氏の血筋にも連なる家柄。その十郎の許に嫁いだのが、義太夫の娘であるお籍だった。滝川勢が関東に下向する少し前、十一歳のお籍が十郎の元に輿入れした。

 十郎とお籍、共に十一歳という幼い二人の婚儀は、桃の節句に華やかに執り行われた。参列者は、若々しくも初々しい二人の姿を目にしては笑みを浮かべ、「まるで人形のようなお二人じゃ」
「これほどの良縁、楠木家も義太夫殿も末永く安泰であろう」
 と、皆、口々に誉めそやした。

 だが、その華やかな婚儀の背後には、滝川家の力を背景とした伊勢国衆の均衡が見え隠れしていた。それを知る者たちは、二人の未来に平穏が訪れることを密かに祈るのみであった。

 そして、義太夫にとって、この婚儀は手放しで喜べるものではなかった。義太夫は、お籍を武家の厳しいしきたりや争いに巻き込みたくないと考え、一益隠れて、密かに従弟である道家彦八郎の元でお籍を育ててもらっていた。

 道家彦八郎は尾張に長く住む織田家譜代の臣であり、学問や礼節に通じた人物だ。お籍はその庇護のもとで、戦場とは無縁の静かな日々を送っていた。しかし、その道家彦八郎が一益の招きに応じて伊勢に来てからはだんだんと雲行きが怪しくなっていった。
 そして、世の情勢や家の立場を前にして、義太夫の思いは断たれた。滝川家の重臣としての役目が、義太夫を父としての願いから遠ざけた。

 桃の節句に行われた婚儀では、義太夫は穏やかな顔で賓客たちを迎え、娘の手を引いて笑顔を見せた。けれどもその胸の内では、
「かような世に生まれなければ、お前を好きに生きさせてやれたものを…」
 と、果たせぬ思いに苛まれていた。

 婚儀の後、華やかさに包まれた城内で一人庭を歩く義太夫の目には、ふと幼い頃の笑顔を浮かべるお籍の面影が映り、知らず知らずのうちに眉間に深い皺が刻まれていた。

 それから一年――。義太夫が最も恐れていた事態が現実となった。北勢に迫る不穏な空気は、楠木家をも巻き込み、今や北勢、そして中勢をも戦火にさらそうとしている。

 義太夫はこの機会が最後になるかもしれないと思い、育ての親である道家彦八郎を誘い、楠城を訪ねることにした。道中、山々には霧が立ち込め、冬枯れの風が義太夫の心を冷やしていく。

「義太夫、その大きな包みは何じゃ?」
 馬上でゆらゆら揺れる巨大な包みに目をとめた道家彦八郎が訊ねると、義太夫は得意げに胸を張り、カハハと笑った。
「これか?これはお籍への手土産じゃ。ひいな遊びに使う紙の人形やら、調度品やらを作って持って参った」
 そう言うと、包みの端をちょっと開いて見せた。中には、繊細に色付けされた小さな人形たちや、細工の施された紙製の屏風、さらに豆粒ほどの茶道具まで詰まっていた。
 道家彦八郎は目を丸くして言葉を失った。
「ひいな遊び?」
 義太夫はますます誇らしげに頷き、馬を揺らして説明を続ける。
「お?存じてはおらぬか。まぁ、無理もない。わしも鶴から聞き及んだ話なれど、古より、高貴な家に生まれた娘は皆、紙で作った人形を使い、遊んでおった。ひいな遊びと呼ばれておるらしい」

 義太夫は満面の笑みを浮かべているが、彦八郎の表情は複雑だ。忠三郎が伝えた情報は正しいにしても、問題はそこではない。
「義太夫。十二にもなるお籍殿が、そんなもので喜ぶと本気で思っておられるのか…?」
 彦八郎が遠慮がちにそう問うと、義太夫は一瞬目をパチクリさせたが、すぐに笑い飛ばした。
「なんじゃ、彦八!女子は皆、ひいな遊びが好きなものじゃろう?年など小さきことにこだわるな。お籍はわしの娘じゃ。きっと、これを見たら大はしゃぎするに違いない!」

 その自信満々な様子に、道家彦八郎は心の中で呆れつつ、少し不安を覚えた。
(お籍殿が嘘でも喜んでくれればよいが…)

 義太夫の「娘かわいさ」が生み出したこの手土産を、十二歳の少女がどう受け止めるか。想像するだけで彦八郎の胸には一抹の不安が広がった。

 一方で、義太夫はそんな心配を微塵も感じさせず、鼻歌まじりで馬を進めている。
「のう、彦八。お籍はどのような顔をするであろうかのう?きっと目を輝かせて『父上、ありがとう!』と言うに違いないわ!わしの用意した屏風に、あの紙人形を並べて遊ぶ姿が目に浮かぶわい!」

 その陽気な調子に、彦八郎は苦笑を漏らすしかなかった。
「い、いかにも。それは見ものじゃ。ただ、年頃ゆえ、あまり期待せぬほうがよいやもしれぬ」
 お籍はずっと彦八郎のもとで育った。義太夫がお籍とともに過ごしたのは、ほんの幼い頃に過ぎない。あの頃の可愛らしい少女の記憶だけが、義太夫の中で色濃く残り、今なお輝いている。しかし、現実はどうだろうか。

 お籍の記憶の中には、幼い日の義太夫の姿などほとんど残ってはいない。実の父を知ることなく育ったお籍にとって、義太夫は血縁を持つ他人でしかない。お籍が義太夫を「父」と呼んだことは一度もなかったし、これからもそう呼ぶことはないだろう。

 だが、義太夫はその現実に目を向けようとはしない。義太夫の中には、いつまでもあの頃の愛くるしいお籍の姿しかないのかもしれない。
「あの頃のお籍ならば、わしの贈り物を見て、ぴょんぴょん跳ねながら喜んでくれたに違いない!」
 義太夫が笑顔でそう語る様子に、彦八郎は言葉を失いかけた。

(その夢想を壊すのは酷なことかもしれぬが…現実は、そう甘くはない)

 彦八郎はふと義太夫の横顔を見やる。満面の笑みを浮かべているものの、どこか焦燥感が滲んでいるようにも見えた。もしかしたら義太夫自身も気付いているのかもしれない。お籍が、もうあの頃の無邪気な少女ではないということを。そして、義太夫の愛情が必ずしも届くわけではないという現実を。

 だが、それでも義太夫はお籍に会いに行く。贈り物を抱え、夢を抱え、父としての誇りを胸に――たとえそれが報われないとしても。


 楠城に着くと、まだ幼さの残るお籍が城門前で出迎えた。
「父上、ようお越しくだされた」
 顔をほころばせて駆け寄る先は、義太夫ではなく道家彦八郎だった。お籍は彦八郎の腕を取り、にっこりと微笑む。幼い頃から親しんできた育ての親に向けられるその笑顔は、昔と変わらぬ無邪気さを残している。

 その様子を横目に、彦八郎はちらちらと義太夫の様子を気にしていた。果たして、どのような反応を見せるかと内心ハラハラしていたが、義太夫は一向に気にする素振りもなく、にこにこ顔で馬の背から大きな包みを下ろすと、お籍に伴っていた侍女にそれを渡した。
「はて、これは?」
 ようやく義太夫の方を向いたお籍が小首をかしげると、義太夫は得意げに胸を張った。

「これはわしが苦心して作ったもの。ひいな遊びに使う調度品と紙の人形じゃ。後で見てくれればよいぞ。まずは中に入り、十郎殿に挨拶せねばな」
 義太夫の言葉に、お籍は
「ひいな遊び…」
 怪訝な顔をして小さく呟き、侍女に包みを託してすぐに足を進めた。その素っ気ない反応にも、義太夫はさほど気にする様子もなく、むしろ自分の贈り物に自信満々な様子を崩さない。

 そんな義太夫を横目で見ながら、彦八郎は安堵と不安が入り混じる複雑な思いを抱いた。
(この様子ならば、義太夫もお籍がもう子どもではないと、いずれ気付くやもしれぬが…そのまっすぐな思いが無駄にならぬことを祈るばかりじゃ)

 二人を先導するお籍の背中は、幼い頃の面影を残しつつも、楠木家の奥方としての自覚を感じさせるほどにしっかりしていた。その姿を見て、彦八郎は改めて時の流れの早さを痛感した。

 広間に入ると、楠木十郎が緊張した面持ちで二人を待ち構えていた。
「それがし、戦さは初めてでござります。不慣れなことゆえ、至らぬところもありましょうが、どうかお許しくだされ」
 十郎が生真面目に頭を下げると、義太夫はカラカラと明るく笑った。
「いやいや、十郎殿!案ずるな。この辺りを戦場にするつもりなど毛頭ない。おぬしは城をしっかと守っておれば、それで十分よ」
 義太夫の大きな声に、十郎は少し安堵したようだが、その隣で彦八郎がそわそわと席を立つ。

「お?彦八。いずこへ参る?」
 義太夫が首をかしげると、彦八郎は一瞬たじろぎながらも、咳払いをして答えた。
「ち、ちと腹具合が悪く、厠へ…」
 義太夫は目を丸くし、腕を組む。
「フム…腹具合とな。それは、何やら妙なものでも口に入れたのであろう。いや待て、先ほどの馬上の揺れが響いたか?」
 その問いかけに彦八郎は焦りつつも苦笑いを浮かべ、適当に頭を下げて広間を後にした。

 義太夫はそんな彦八郎の様子など気にも留めず、再び十郎に向き直ると、得意げに話を続ける。

 調子に乗る義太夫を尻目に、彦八郎はそっと廊下を歩きながら、厠へ向かうふりをしつつ、彦八郎は密かにお籍の姿を探し始めた。
「おぉ、お籍」
 廊下を歩いていたお籍を見つけると、彦八郎は声をかけた。
「これは父上。如何なされた」
 お籍が軽く頭を下げながら答える。
「いや、ちと伝えておかねばならぬことが…」
 言いかけてから、彦八郎はちらりと広間の方向を見やる。

「此度の戦さで、何か気がかりなことでも?」
 お籍が少し真剣な顔つきになると、彦八郎は急いで首を振った。
「そうではない。そうではないが…。義太夫のことじゃ」
「義太夫殿?」
 お籍の声に少し戸惑いが混じる。
「そう他人のごとき態度を取るな。気づかなかったか、義太夫の指に」
「…はて…」
 お籍が首をかしげるのを見て、彦八郎は溜息をつきながら小声で続けた。
「北条との合戦で指を三本失うて戻った。あやつはその不自由で手で、お籍のために、せっせとひいな遊びに使う人形を作った。それもこれも、此度の戦さで命を落とすやも知れぬと覚悟を決めておるからじゃ」
 お籍の目が大きく見開かれる。彦八郎はその様子を見て、さらに言葉を続けた。

「そなたにも思うところはあろう。わしも勝手なことばかり抜かす奴じゃと腹を立てたこともあった。されど、一番、殿の身近にいるあやつが、娘を武家に嫁がせたくないと思うたのも無理からぬこと。手元に置きたいのは山々ではあるが、傍におけば危うい目にあわせると、そう案じてのことじゃ。されがあやつなりの不器用な親心なのであろう。せめてその努力を無駄にせぬよう、笑顔で受け取ってやれ」

 お籍はしばらく言葉もなく、黙って彦八郎の話を聞いていた。
「我らはこれより桑名をでる」
「桑名を出る?それはまた…いずこへ?」
 お籍が驚いたように問いかけると、彦八郎は目を伏せた。
「それは言えぬ。それは言えぬがこれが今生の別れとなるやもしれぬ」
 その言葉に、お籍の表情が曇る。別れの予感が、幼いながらも胸を締めつけるのだろう。

 だが、そんな沈黙を破るように、廊下の向こうから義太夫の声が響いた。
「彦八~。そろそろ向かわねば日が暮れてしまうわい」
 広間から悠々と歩み出てきた義太夫は、彦八郎の隣に立つお籍に笑顔を向ける。
「おぉ、そろそろ参ろうか」
 彦八郎はお籍に目配せして、その場を後にした。

(これでよかったのであろうか…)
 彦八郎は、義太夫が満足しているのかどうか、気にしながら馬の脚を進めていた。楠城を出るとき、義太夫は笑顔を浮かべていたが、その顔にどこか寂しさも感じられた。
 結局、お籍はあのまま、義太夫には声をかけようとはしなかった。
(お籍はお籍で思うところもあろうが…」
 彦八郎がそんなことを考えていると、ふと遠くから声が響いた。

「おや、あれは…」
 何気なく、振り返って曲輪の方角を見ると、何かが動いているのが見えた。
「義太夫!」
 彦八郎が慌てて声をかけると、義太夫も不思議そうに振り返る。
「ん?如何した」
「あれを見てみい」
 彦八郎は急いで指をさした。義太夫もその方向に目を向ける。
「あれは…お籍ではないか」
「お籍じゃ!お籍が我らを見送ってくれておるのじゃ!」
 義太夫の顔がぱっと明るくなり、満面の笑顔を浮かべながら、力いっぱい両手を振った。

 その姿を見て、彦八郎はふぅと息をした。お籍が見送ってくれていることに、思わずほっとしたような気持ちになる。
「どうやらおぬしの想いが通じたようじゃな」
 彦八郎は微笑みながら、静かに言った。

 義太夫の顔には、満ち足りた笑みが広がっていた。長い旅路を終えたかのように、心からの安堵と喜びがその表情に溢れている。義太夫は力いっぱい手を振り続け、その心の中のすべての想いを、お籍に伝えようとしているかのようだった。

 冬の夕日が、柔らかな金色に染め上げた空を背に、義太夫の顔を暖かく照らす。その光は、冷たい空気を少しだけ和らげ、心の内側にまで温もりを届けてくれているかのようだ。

 馬の脚音が響く中、義太夫はそのまま、夕焼けの中を進んでいった。背後でゆっくりと消えていく日が、心に確かな一歩を刻むように感じられた。
 それは、もう一度、何かを信じる力を持って前を向く瞬間。義太夫の背中は、夕日とともに、どこまでも温かく、そして明るく輝いていた。
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