獅子の末裔

卯花月影

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21.北勢燃ゆ

21-6. あとはかもなく消え去る思い

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 秀吉との謁見から二日後。忠三郎は関盛信、一政親子を連れ、江南に戻った。
 関盛信とその子一政は、江南から伊勢への帰路を急ぎ、鈴鹿峠を越えて亀山城へと向かった。だが、一行を待ち受けていたのは、思いもよらぬ事態だった。

 城門の前に到着すると、城を占拠する佐治新介の家臣たちが立ちはだかり、厳しい態度で入城を拒んだ。
「関殿、北勢は一丸となって三七様をお支えする所存。三七様が養子に入られた神戸家は、そもそも関殿とも縁続きではないか。その神戸を裏切り、羽柴筑前に加担するなど、不届き千万。もはやこの地に居座ることは許されぬ」
 甲冑を纏った兵が銃口を向け、矢を番えた弓を構え、今にも襲い掛からんばかりの勢いだ。その後ろには、さらに多くの兵が控えており、関親子の動向をじっと窺っている。

「日野に引き返し、忠三郎に伝えよ。蒲生の裏切りを我らは決して許さぬ。この地に土足で踏み入るような真似をするのであれば、必ずやその報いを受けることになるとな」
 一政が憤然として口を開きかけたが、盛信がその腕を軽く掴んで制した。怒りに燃える一政を横目に見ながら、盛信は深々と息をつき、低く呟いた。
「…仕方あるまい。ここで争うは無益じゃ」

 そのまま踵を返し、盛信と一政は鈴鹿峠を越えて引き返すことを余儀なくされた。
 馬の轡を握る手が強張る。振り返ることなく進むその背中には、城門での屈辱が刻み込まれていた。峠の寒風が、関親子の疲弊した心身をさらに冷たく打ちつけた。

「父上、このようなことが許されてよいのでしょうか!」
「よいものか、悪いものかは、時が示す。今は…」
 盛信の言葉は、峠の向こうへと消えていった。

 その夜、日野に戻った彼らの報告を聞いた忠三郎の表情は、見る間に険しくなった。佐治新介からの言葉が、亀山の冷えた風のように、忠三郎の胸中に吹き込んだ。

 忠三郎は、次々と伝えられる報告に耳を疑った。北勢の城が相次いで滝川勢の手に落ち、中立であるはずの者たちが敵方に回っている。目の前にいる関盛信が疲れた顔で続ける言葉には、北勢全域が不穏な状況に陥っていることを物語っていた。
「新介が亀山を奪い、木全彦次郎が関城を占拠し、峰城までも滝川勢の手に落ちた…」
 忠三郎の声には驚きと憤りが混じり、やがて押し殺したような低い音に変わった。

「しかも千種の叔父上までもが義兄上に従ったと?」
 忠三郎は顔を歪めた。千草峠を守る千種三郎左衛門は、忠三郎の母の弟、つまり叔父にあたる存在であり、長い間、その絆を信じていた。
「…滝川左近の威を前に、北勢の者たちが結束したらしく…。国府、鹿伏兎かぶと、赤堀、楠、稲生…皆、左近殿に従い籠城しているとの報でござる」
 関盛信の声は沈み、言葉の一つ一つが忠三郎の胸を貫いた。

(千種の叔父御まで敵に回るとは…)
 忠三郎は拳を握りしめた。だが、それよりも胸をかき乱したのは、長らく沈黙を守ってきた一益が思いもかけず、兵を挙げたことだ。
(羽柴筑前が挙兵を促せば、動く兵は七万は下らない。それを敵に回して戦うなど、何ゆえにかような愚かな真似を…)
 忠三郎は冷たい北風が吹き抜ける広間で、吐く息が白く凍るのも気づかぬほど思い悩んだ。戦国の荒波を生き抜いてきた一益が、これほど大胆な賭けに出るとは。その決断に潜む真意が、忠三郎にはどうしても理解できない。

「しかも裏切りとは、是は如何に。裏切ったは義兄上じゃ」
 忠三郎の声は、冷え切った空気の中に低く響いた。その声には、抑えきれない苛立ちと深い失望が滲んでいる。
「同心するというわしを突き放し、己の去就くらい己で決めよと、清須でそう言い放ったのは義兄上ではないか」
 頭の中でこれまでの出来事が走馬灯のように蘇る。一益と義兄弟の契りを結んだ日の夜。月夜の明かりに照らされた一益の背中。そして、その誓いのまま、共に数多の戦場を共に駆け抜けた日々。

(義兄上…信を寄せ合っていると思うていたのはわしだけだったのか)
 ふいに、冬の夜の冷たい風が吹き抜け、忠三郎の頬を切るように撫でた。霜柱が立つ庭先に目をやると、自分の吐息が白く立ち上るのが見えた。
(すべて幻であったというのか。それとも、あの清須での一言が、義兄上の本心だったのか…)

 心の中には、刀で斬り裂かれるような痛みが広がる。これまで信じて疑わなかったものが、少しずつ崩れていく感覚に、忠三郎は目を閉じた。その瞼の裏に浮かぶのは、戦場で見た一益の背中、そして清須で、一度も振り返ることなく去っていった姿だった。

(あの背中が、義兄上の答えだったのかもしれぬ)
 それが、なぜ、今になって自分が裏切者呼ばわりされ、目の敵にされているのか。
(これでは最早、戦さは避けられぬ)
 織田家が二つに割れて戦うことだけは避けたかった。そのために、不本意ながらも秀吉に従った。しかし、それらの労苦のすべては水泡に帰した。

「忠三郎殿…」
 関盛信は先ほどから黙ったまま一言も発しない忠三郎の顔色を伺うように声をかける。
 忠三郎はハッとして、関盛信の不安げな視線を受けながら、あえて穏やかな微笑みを浮かべた。
「叔父上。ご案じめさるな」
 その声は、冷え切った冬の夜空を温める篝火のように柔らかだ。
「すぐにでも羽柴殿に使者を出し、挙兵を促しましょう。羽柴殿が諸国に号令をかければ、七万の軍勢が集まり、亀山城を奪い返すこともできましょうほどに」
 忠三郎の言葉に、関盛信は少し安堵したように頷いた。

 かつて信長の命により、関盛信は日野に幽閉されていたことがある。忠三郎は関親子を以前幽閉していたときに使っていた庵へ送ると、章姫の元を訪れた。
「章殿」
 忠三郎は、章姫の驚いた顔を見つめながら、胸の中で考えを巡らせていた。
 滝川勢の迅速な動き。それはまるで、関親子が亀山と関の両城を離れることをあらかじめ知っていたかのようだった。

(如何に義兄上といえども、これほどの迅速な対応ができるということは、誰かが北勢に…義兄上に事の次第を伝えたに違いない)
 思い浮かんだのは、たった一人。その者が一益に知らせたのだとすれば、すべての辻褄が合う。

「章殿」
 忠三郎の声は穏やかだったが、その瞳にはわずかに揺れる疑念が浮かんでいた。
「何かございましたか?」
 章姫はそう尋ねたが、その声にはどこかぎこちなさが混じっていた。
「鶴千代は、つつがなく育っておるであろうか」
 何食わぬ顔でこの一月に生まれた一子・鶴千代の話題を振ってみた。忠三郎の問いかけに、章姫は一瞬目を見開いたが、すぐに微笑みを浮かべた。その表情には安堵のようなものが見えたが、どこか影も感じられた。
「はい、この寒さの中でも、よく飲み、よく眠り、日ごとに大きくなっておりまする」
 章姫の声は柔らかかったが、その微笑みがどこか作り物のように見えたのは、忠三郎の気のせいなのだろうか。
「然様か。それは何より」
 忠三郎は微笑を保ちながら頷いた。けれど、その胸の内では渦巻く疑念が消えるどころか、ますます深まっていくのを感じていた。

(やはり章殿か…)
 鶴千代が元気に育っているという章姫の言葉を喜ぶべきだと頭では理解しながらも、忠三郎の心は別の思いに支配されていた。章姫のぎこちなさ、その表情の奥にある隠しきれない何かが、裏切られたのではないかという疑念をさらに強める。

 目の前の章姫の顔をまじまじと見つめる。子を産んだと言うのに、やつれることもなく、以前のままの美しさを保っている。その姿には、冬の澄んだ空気の中で咲く一輪の山茶花のような凛とした気高さがあり、意志の強さを物語るような目の輝きをしている。そして、その目元が忠三郎の胸に、どこか懐かしい思いを呼び起こす。

 いつしか雪が舞い始めていた。小窓越しに見える庭の松にも白い衣が薄く積もり、寒々とした景色の中に静かな侘びを添えている。その白雪のように、章姫の肌は透き通るほどに清らかで、心の奥深くにしまっていた感情を揺り動かされる。

 しかし、その一瞬の心のざわめきを振り払うかのように、忠三郎は口を開いた。
「まもなく戦さになる」
 その言葉は、外の冷えきった風と同じように、部屋の中に凍える静寂を運んできた。章姫は伏せていた目をゆっくりと上げ、忠三郎の顔を見つめ返した。
 瞳の奥には、凛とした光がありながらも、どこか悲しげな影が宿っていた。

「戦さ…。それは、避けられぬのでしょうか」
 章姫の声は静かだったが、冷たい雪解け水が流れる音のように微かに震えている。
「避けられぬ」
 忠三郎の声もまた、雪に覆われた野の中を吹き抜ける風のように低く、冷ややかだった。
「これまで何とか戦さだけは避けたいと思い、心を尽くしてきた。されど、義兄上には我が心が通じることはなかった。滝川勢が兵を上げ、我が思いがあとはかもなく消え去った今となってはもう、織田家を二分する戦いは避けられぬ。章殿、覚悟をしておいていただきたい」
 章姫の顔にかすかな影が落ちる。その表情に、忠三郎はかすかに胸が疼くのを感じた。
(やはり章殿の心は滝川家に…)
 外では雪が静かに降り積もり、冬枯れの庭は一面の銀世界となっていた。しかし、その美しい景色も、忠三郎の胸の内を埋め尽くす寂しさを和らげることはできない。

 章姫の微かなため息が、冷えた空気に吸い込まれるように消え、忠三郎の心に虚しい響きを残す。どれほど心を尽くし、手をかけて章姫を喜ばせようとしても、その笑顔の奥にある真実には届かない――そう悟らざるを得ない。
(わしはこれまで、何をしてきたのか)

 戦に明け暮れる日々の中で、章姫との穏やかな暮らしを願い、贈り物をし、心を尽くした。それでも章姫の心を掴むことはできず、滝川家への想いが色濃く残る章姫を目の当たりにするたび、忠三郎は自らの無力さを感じる。

「章殿」
 低い声で呼びかけると、章姫はそっと顔を上げた。その瞳には戸惑いと悲しみが浮かんでいたが、忠三郎に向けられた視線は、どこか遠い場所を見つめているかのようだ。

「わしは…」
 忠三郎は言葉を飲み込んだ。何を言っても、この隔たりを埋めることはできないだろう。

 外の雪はますます激しさを増し、木々に積もった白い重みが枝をたわませていた。その光景をぼんやりと眺めながら、忠三郎は心の奥底で渦巻く孤独を静かに抱きしめた。章姫との間に横たわるこの見えない壁を、どうすれば越えられるのか――答えは見つからぬまま、ただ、雪の降りしきる音だけが耳に響いていた。
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