獅子の末裔

卯花月影

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22.骨肉の争い

22-1. 伊勢侵攻

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 一益の挙兵を受け、秀吉はどう動くだろうか。秀吉の思惑はどこにあるのか。それを確かめるため、忠三郎は山崎にいる秀吉の元へ向かった。
 山崎城には冬の寒風にも怯まず、豪放な笑みを浮かべる秀吉の姿があった。秀吉の声は、雪解けの小川のように、いつにも増して軽快だ。

「おぉ、忠三郎殿!よう参られた。滝川左近が動き出したこと、早くも耳に届いておるぞ。織田家が一つとなるべきこのときに、何ゆえわしの心が伝わらぬのか…いや、まぁよい。北勢の者がどうあれ、多勢に無勢。わしが大軍をもって伊勢に攻め入れば、左近の軍勢など瞬く間に降伏するであろう」
 一益が動いた理由は、秀吉が岐阜にいる信長の三男・信孝に兵を差し向けたからだろう。それを思えば、なんとも白々しい言葉に聞こえてくる。
 秀吉の言葉は力強く、冬空に響き渡る梢のざわめきのようだった。しかし、忠三郎の胸中には冷たい風が吹きすさび、秀吉の語る「大義」にどこか影が差しているように思えた。
 
「それにしても、忠三郎殿。そなたの如き武勇に優れた者が味方してくれるとは、心強い限りじゃ」
 秀吉は身を乗り出し、旧知の友に語りかけるかのように言葉を投げかける。そのなれなれしい態度に、忠三郎は戸惑いを覚えつつも、秀吉の勢いに引き込まれる自分がいることに気づいていた。
「長く続くこの戦乱を終わらせることこそ、故右府様の悲願であった。それが、如何じゃ。右府様がこの世から姿を消して一年も経たぬうちに、かように身内同士で争い合うとはなんとしたことか。これでは天下の織田家の威信も地に落ち、世の笑いものではないか」

 秀吉の言うとおりだ。信長の死からわずか半年で、二人の子は兵を挙げて争いを続け、重臣たちは二つに割れ、抜き差しならない状態に陥っている。
 忠三郎が秀吉の言葉に耳を傾けていると、秀吉は突如として立ち上がり、忠三郎の前にすっと膝を下ろした。その飾らぬ動作は、雪の下から顔を出す蕗の薹のように、不意を突かれる思いだった。
「忠三郎殿。おぬしも存じておろう。わしは下人の子じゃ」
 思わず息を呑んだ。秀吉の眼差しはいつになく真剣で、どこか鋭さを帯びていた。
「は…それは…」
 かろうじて応じつつも、秀吉の意図を測りかねて言葉に詰まる。

「織田家の者どもは皆、それを存じておる。それゆえに、わしを軽んじておる。おぬしも、そうではないか?」
 鋭く突きつけられた問いに、ドキリとした。何度も瞬きを繰り返し、返答に窮する。
「そ、それは…」
 秀吉は静かに、鋭く視線を据え、言葉を続けた。
「それゆえじゃ。それゆえ、織田家の内輪もめに巻き込まれる民百姓を思うと、こう、胸がツーンと痛うなる」
 どこか、独白のような響きだ。秀吉はふと目を細め、手を胸に当ててみせた。その仕草に込められた憂いは、真冬の空を覆う灰色の雲のようだった。
「な、なるほど…」
 忠三郎は頷きつつも、その言葉の真意を捉えきれない。

 秀吉はなおも言葉を続ける。
「わしがこの世を変えるために何をすべきか、それは言わずとも知れておる。争いを終わらせ、民が平穏に暮らせる世を築く。それには織田家をまとめ、力を一つにするほかない」
 忠三郎はいつしか心の奥に凍りついていた迷いをほぐされるような感覚を覚えはじめている。
「わしはこの乱世を終わらせるために立ったのじゃ。滝川左近や三七殿がどうあろうとも、織田家を一つにまとめるのがわしの役目。信長公の御霊も、それを望んでおろう」
 秀吉の声は凛として響き、雪原に差し込む朝陽のごとき力強さがあった。
「忠三郎殿。おぬしにはわしの思いがわかるはずじゃ。おぬしは誠の武士であり、わしを支えてくれる力を持っておる」

 そう言いながら、秀吉は穏やかな笑みを浮かべた。さながら猿のごとき秀吉のしわだらけの顔に微笑みが浮かぶと、雪明りに照らされた春の兆しのように、忠三郎の心に暖かな影を落としていく。
 一益の名を思い浮かべるたびに、胸には痛みが走る。戦場を共に駆け、血を分けたように感じていた義兄。その一益を敵に回すことを考えると気持ちが暗くなる。それでも、秀吉の言葉には妙に納得させられる響きがある。

「民百姓のため」「織田家のため」――秀吉が語る理は、表面では忠三郎の信念とも一致していた。しかし、その背後に潜む何かを直感しながらも、言葉の巧みさに抗う術を持たない自分がいる。
 雪の降り続く山崎の夜、秀吉の温かいもてなしは忠三郎の心を徐々にほぐしていく。
「忠三郎殿、わしと共に、新しい世を作るのじゃ。柴田修理でもなく、丹羽五郎左でもなければ、滝川左近でもない。右府様が認めた江州の鳳凰、蒲生忠三郎。おぬしこそ織田家を、そしてわしを支える大器じゃ!誰よりも、頼りにしておる。どうか、頼む。頼み入るぞ」
 歯の浮くような追従だ。そうは思っていても悪い気はしない。秀吉の声が、その夜の雪明りのように静かに、確実に忠三郎の胸に降り積もる。
 忠三郎は、盃を手にしながら、ふと一益との日々を思い出す。その面影が雪の中に浮かんだかと思うと、秀吉の微笑みがそれを消し去る。

「滝川左近も、やがてこの理を悟るであろう」
 秀吉の言葉に忠三郎は曖昧に頷き、酒を飲みほした。その酒の温かさが、冷えた胸の奥をじんわりと染みていくように感じられた。
 やがて忠三郎は、かつて一益に抱いた後ろめたさを抱えたまま、秀吉の目指す未来へと心が傾いていく自分を自覚する。しかしそれを止める手立ては、もはや手中にはなかった。

 外では雪が降り続いている。白く静寂なその景色が、忠三郎の胸に広がる曖昧な迷いと重なるようにも思える。戦の嵐が吹き荒れるまでの、この短い静寂を、どう受け止めてよいのかも分からなかった。


 それから一月後の閏一月末。冷え込みがいっそう厳しさを増す中、忠三郎は秀吉の本隊三万の軍勢とともに安楽峠を越え、亀山へ向けて進軍した。雪解け水が凍りついた峠道は滑りやすく、兵たちの足音が凍てつく大地に響く。澄んだ冬の空気の中で、行軍の列が果てしなく続いていた。

 秀吉の旗印が掲げられ、その鮮やかな色彩が白銀の世界に浮かび上がる。その後方には忠三郎の部隊が従っていた。忠三郎は馬上で前を行く秀吉の軍勢を見つめながら、微かに唇を噛んだ。
「まずは関殿の居城を小癪な佐治新介から奪い返さねばなるまいて」
 秀吉の声が冷たい風に乗り、全軍に響き渡った。
(新介…)
 かつては岐阜の屋敷で共に酒を酌み交わした仲だ。
(最初に酒を勧めてくれたのは、新介だった)
 思い返してふと笑みがこぼれる。だが今は敵方となり、城を奪い返すべき相手となった。この一月の間に、北勢の地はすっかり敵味方に分かれてしまった。

(ここで勝てば、筑前の意図する「織田家の統一」に近づく)
 胸中に迷いが残る中、忠三郎は視線を遥か遠く、伊勢湾に移した。伊勢の地は眼前にある。一益が軍勢を整え、待ち構えているだろう。やがて行軍の列は、ゆっくりと峠を下り始めた。冷たく澄んだ空に響くのは、甲冑の擦れる音と馬蹄の響き。眼下には白く広がる亀山城の影が見え始めた。忠三郎はそっと目を閉じ、これから迎える戦の行く末を思った。

 亀山につき、城を取り囲んだところで、軍議が開かれた。
「忠三郎殿」
 床几に腰掛けた秀吉が顔を上げ、柔らかな微笑を向けてきた。その笑顔は寒気を和らげるかのようであり、忠三郎の胸中にちらつく迷いを見透かしているかのようだった。

「この一戦が終われば、織田家の争いも収まる。民百姓も、これ以上の苦しみを味わわずに済むのじゃ。おぬしの志も、ここで叶うのではないか?」
「…は、まことに…」
 気のない返事を返してみたものの、その声には曇りがあった。秀吉の言葉は正論に思えるが、どこか腑に落ちないものが心に残る。
「されど、長島にいる滝川左近殿が、我らが亀山城を攻略するまで、黙って指をくわえて見ているとも思えませぬが…」
 忠三郎の慎重な言葉に、秀吉はにやりと笑った。その笑みには余裕と自信が滲んでいる。
「左近は長島からは動けぬ。わしの弟・小一郎が二万の軍勢を率いて佐和山を回り、伊勢街道を長島へ向かっておる。さらに、わしの甥・孫七郎も二万五千の軍勢を率いて鞍掛峠を越え、長島に向かっておるであろう」
 総勢四万五千。各城に将を送り込んだ一益は、三千程度の兵しか長島に残していないだろう。秀吉の言葉に、忠三郎は再び考え込む。

「なるほど、長島には三千余の兵のみ、か…。それほどの大軍で囲まれれば、確かに左近殿も亀山の後詰どころではないかもしれませぬな」
 秀吉は満足そうに頷く。
「忠三郎殿、わしらはただ亀山を奪い返すだけではない。この戦で北勢の地を一気に平定するのじゃ。それゆえに、わしは弟や甥に先んじておる。滝川勢を追い詰めつつ、こちらも速やかに行動せねばならぬからのう」
 頭にあるのは一益のことばかりではない。春になれば越前にいる柴田勝家が動き出す。そうなれば羽柴勢は背後に敵を抱えて、形勢は一気に不利になる。
「筑前殿、これほどの軍勢を動かして攻め込めば、左近殿も、全力で応戦するでしょう。戦が長引けば、民百姓の苦しみも計り知れませぬ」

 忠三郎の慎重な言葉に、秀吉は一瞬、目を細めたが、すぐに笑みを浮かべた。
「だからこそ、迅速に終わらせねばならぬのじゃ。忠三郎殿、織田家が争えば、民も疲弊し、国も乱れる。わしがこの手で戦を終わらせ、泰平の世を取り戻す。それがわしの役目よ」
 その言葉に、忠三郎は深く頷いた。秀吉の言葉には力があり、説得力がある。それでもなお、滝川家への複雑な想いが心にくすぶり続ける。
 風に乗って響く軍勢のざわめきも、忠三郎の耳には遠くに感じられる。視線は前方を向きつつも、その心は過去と未来を彷徨っていた。

(義兄上…、義太夫…。二人は今頃、何を思うておるのか)

 長い年月を共にし、同じ旗の下で戦い抜いた日々が蘇る。一益の厳しい声や、義太夫のあのどこか温かさを含んだ笑みが、はっきりと思い起こされる。
(わしが羽柴勢の先鋒と知れば、義兄上はどう感じるであろうか)
 冬の薄曇りの空が低く広がり、時折、わずかな陽光が射す。そのたびに、大地の霜が柔らかく溶け、足元がぬかるむ。

(わしが筑前の元で戦うことを、義太夫はどのように思うのか…。あのときの言葉――「たとえ袂を分かつとも、我らは友だ」と――、あの言葉を裏切ることになるのではないか)
 疑念が胸を満たすが、それを振り払うように、忠三郎は瞼を閉じた。
(もはや迷っている場合ではない。この戦を早々に終わらせねば、織田家は完全に分裂し、民もまた苦しむことになる)

 自らに言い聞かせるように、忠三郎は冷たい冬の空気を深く吸い込んだ。眼前にそびえるのは亀山城――そして、避けがたい運命。それでもなお、胸の奥には義兄弟の情が微かにくすぶり続けていた。
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