116 / 214
22.骨肉の争い
22-2. 神算鬼謀
しおりを挟む
冬の薄曇りの下、亀山城は静謐でありながらも不気味な威圧感を放っている。
(それにしても解せぬ…)
亀山城の堅固な石垣を見ながら、ふと疑問が湧いてきた。
いかに一益が戦さに長けた武将を揃えているといえども、亀山城の攻略がこれほど迅速であったことには、どうしても腑に落ちないものがある。
(亀山城はこうして見ても、とても一日や二日で落とせる城には見えぬ)
築かれてから三百年余。伊勢平氏の末裔とされる関実忠が築き上げた城。その後も関氏は神戸、国府、鹿伏兎、峯といった分家を周囲に配置し、この亀山城を守護してきた。関宗家の城としての威容は、ただの城砦ではない。
城の堀を巡る冷たい風が、忠三郎の袂を揺らした。久太郎が指揮を執る兵たちが整然と陣を張る姿が目に映るが、忠三郎の心はその場にはない。
(それほどの城が、なぜこれほど呆気なく落ちたのか)
城壁には傷一つなく、見張りの兵の数も少ないように見える。内部で何かが起きたとしか思えない。その疑念は、忠三郎の胸中にひそやかな暗雲を呼び込んだ。
秀吉は亀山城の攻略を忠三郎と久太郎に任せると、既に国府城、関城、鹿伏兎城へと進軍している。柴田勝家が動き出す前に、伊勢の戦さを終わらせようとしているようだ。
忠三郎の目は、亀山城の向こうに広がる山々に向けられていたが、その瞳は遠く、遥かな深淵を覗き込んでいた。
(国府、鹿伏兎、そして峯…)
心に巣くう疑念は消え去らない。関の分家たる国府、鹿伏兎、峯の諸家が、宗家を見限り、一益の側についたことが、どうにも腑に落ちない。分家と宗家の絆は、何百年もの間、紡がれてきたものではなかったのか。それが、何故ここにきて崩れ去ったのか。
(何かが絆を断ち切った。この流れを作り出したものは…)
過去の記憶が霧のように甦ってくる。関と神戸の間には、かつて争いがあったはずだ。それを収めたのが祖父・快幹であった。そして、快幹の仲介により、神戸と関は和議を結び、一時は穏やかな日々が戻った。だが、その後も燻る火種は完全に消えたわけではなかったのだろう。
(思えば、関と神戸の争いが織田と六角の抗争と結びつき、宗家から分かたれた四家は、いち早く織田家に従った…)
つまり、この分裂は忠三郎が幼い頃には既に始まっていたのだ。今の出来事は、その過去の連なりに過ぎない。
(此度の件もまた、過去のいざこざの延長線上にあるのかもしれぬ。それを解き明かさねば、このまま誰かの思惑に絡め取られてしまう…)
ここでもう一度、整理して考えてみる。
祖父・快幹の仲裁により、一度は関と神戸の間に平穏が戻った。子のいなかった神戸蔵人は、関盛信の子を養子に迎えることを約束し、宗家と分家は和解したはずだった。
ところが、そこへ一益が、そして信長が現れ、横槍を入れた。信長は自らの三男・三七丸を神戸蔵人の養子とし、神戸家を織田の傘下に収めることで神戸と和議を結んだ。
(そうか。これでは叔父上が憤怒するのも無理はない。宗家の面目は潰れ、関家はその影響で離反したのか…)
非は神戸にあるように思える。だが、それならば何故、分家の国府、鹿伏兎、峯の諸家は神戸に倣い、織田に臣従したのか。
(宗家に従うのが筋であろう。それを何故…)
なんとも解せない話だが、分家が離反した理由が分からない。
(他家の事情は複雑すぎる)
頭が次第に重くなり、忠三郎は少し気を抜こうと、支度を命じて杯を傾けることにした。寒さを忘れるには、酒が一番の友だ。ちびりと口に含んだその時、町野左近がいつもの調子で間の抜けた声を出した。
「こう寒いと風呂に入りとうなりますなぁ」
あまりに呑気な一言に、忠三郎は思わず笑みを漏らす。
「寒さが身に染みる年となったか。老ゆるにはいささか早いのではないか?」
軽く戯れながらそう返すと、町野左近はどこ吹く風とばかりにうなずき、
「あの義太夫殿も、この辺りにある雲林院家の家人の家にて、よう風呂に入りに来ていたと聞き及びし次第で」
忠三郎は盃を止めて、ふと昔のことを思い起こした。確かに、そのようなことを耳にしたことがある。
「然様、確か、雲林院の家に義兄上の娘が嫁いでおった」
記憶の糸が次第に繋がっていく。そして、義太夫が「風流を好む」などと出鱈目な理由を掲げ、厚かましくも風呂を楽しむために、頻繁に中勢まで足を運んでいたことも思い出した。
「周りの者には風呂好きじゃ、などと言うていたらしいが…」
言いかけて、ハタと気づいた。
(風呂のためではない…)
その真意が、今になってようやく分かる。義太夫が頻繁に通っていたのは、風呂のためではなく、全く別の目的だったのではないか。
盃を置き、忠三郎はゆるりとため息をついた。その奥底に、何とも言えぬ苦笑いが浮かぶ。世の中の裏側というものは、思いがけぬところに潜むものだ。
(そもそも、あの義太夫が風呂好きだなどと、あり得ぬ話)
忠三郎は盃を手にしつつ、ふっと笑う。
湯気に癒される風流な義太夫の姿など、想像するだにおかしきことだ。なぜ、そんな重要なことを聞き流していたのだろう。
一益の目を盗んで風呂通いしていたのではなく、一益の命により、中勢を探るために通っていたのではないか。
(あるいは、雲林院の家にて何かしらの密命を果たしていたに違いなかろう)
そして、一益の娘を娶った雲林院兵部少輔とその父、雲林院祐基。
(あの二人こそ、中勢における義兄上の番犬であったかもしれぬ)
いや、番犬などというおとなしい言葉では足りない。猟犬と呼ぶがふさわしい。
忠三郎は盃を揺らしながら、過去の出来事を一つ一つ思い返していた。確かに、伊勢における一益の迅速な動きには、目を見張るものがあった。
北畠家の粛清も然り、関家の分家・鹿伏兎家の一部に謀反の嫌疑がかかった折も、雲林院親子と滝川勢が即座に討伐に向かったのは記憶に新しい。
(猟犬はただ吠えるのみならず、敵の匂いを嗅ぎ分け、牙を剥いて襲いかかるもの。雲林院父子こそ、義兄上の命を受け、中勢の隅々までその目と耳を伸ばし、牙を潜ませておったのではないか)
あまりにも迅速で正確なその働きぶり。偶然では済まされぬ用意周到さと、周囲の動きを見通したかのような先手。その裏には、雲林院親子が巧みに張り巡らせた網があったと考えるべきだろう。
思えば、雲林院の家は古くよりこの地に根を下ろし、堅実にその勢を保ってきた。表向きは温厚篤実な家柄、しかし、その背後に隠された策謀と謀略が、この乱世を生き延びさせた。そしてその背後に見え隠れする一益の存在。
(兵部少輔、その妻が義兄上の娘とあらば、親子共に義兄上に誓いを立て、あらゆる密事を監視しておったのではないか)
忠三郎の脳裏に浮かぶは、雲林院の静寂な庭の佇まい。その実、背後には、密やかに動き回る影があるように思えてならない。
(祐基殿は古狸のごとき老練さを持ち、息子の兵部少輔は若き獅子のごとき力を誇る。義兄上が中勢における動静を逃すことなく把握していたのは、この二人の存在があればこそ)
忠三郎の眉間に刻まれた皺が深くなる。
(義兄上はただの戦巧者にあらず。この乱世を乗り切るため、己の血族を媒介とし、中勢の各地に自らの勢力を浸透させておる。雲林院兵部少輔の妻が義兄上の娘であることも、偶然ではあるまい。…いや、待て…)
ここでまた、ひとつ気づいた。
(義兄上の娘なるものは…まことの娘であろうか)
忠三郎はふっと息を吐き、盃を置く。
昔、話を聞いたときに、疑問に感じたことだ。雲林院に嫁いだのであれば、三九郎とは同じ年頃の娘ということになる。
(滝川家では、そのような娘の話は、一度も耳にしなかった…)
あれほど頻繁に滝川家に出入りしていたのだから、一度くらいは話題に上ってもよさそうなものだが、誰も、その「娘」なるものの話をすることはなかった。
(たとえ犬や猫の子であろうとも、義兄上が「娘」と言えば、それは娘になる。この乱世、血筋や縁というものは、いともたやすく作り替えられる)
一益の周到さを思えば、雲林院に嫁いだというその「娘」が真の血縁である必要はない。むしろ、己の間者を送り込むための方便であったとすれば、腑に落ちることも多い。
(雲林院の兵部少輔と祐基は、いわば義兄上の猟犬。その猟犬に首輪を嵌め、さらに自在に操るための「娘」。それが本物であろうが偽物であろうが、重要なのは義兄上の命を伝える手足となること)
そして、その間者からの知らせを受けるたびに、義太夫は雲林院の元を訪れていたのだろう。
(さて、いつの頃よりであろうか…)
忠三郎は再び盃を口に運びながら、雲林院家の動きを辿った。
(雲林院の者どもが、義兄上より密命を受け、関の分家に忍び寄ったのは、そう遠き昔ではあるまい。それであれば、この伊勢一帯で起こった一連の出来事に辻褄が合う)
関家の分家――国府、鹿伏兎、峯。それぞれが宗家を見限り、一益に傾倒したのはただ偶然のことではない。その背景には雲林院親子の暗躍があったと考えるのが妥当だ。
(もしや、あの「娘」なる者が送り込まれたその時こそ、雲林院家が義兄上の猟犬と化した契機であったやもしれぬ。そして、その猟犬がじわじわと関一族に忍び込み、裂け目を生じさせた…)
そう考えると、神戸家の恭順もまた、一益の深謀遠慮の産物であったのだろう。その裏で何人もの家臣が離反したのも、一益が画策した分裂の連鎖に他ならない。
(恐ろしきは、義兄上の策謀。ただ刀を振るうばかりでなく、人心を裂き、絆を断ち、血を流さずして勝利を掴む。その智謀たるや、真に鬼謀というべきか…)
忠三郎の指先が、知らず冷えた酒盃の縁をなぞる。
(されど、この手で触れられぬものこそ、最も脅威となる。風のように影を残さぬ動き。それが義兄上の真骨頂ならば、果たしてわしはこの闇の網から逃れる術を見出せるのか)
滝川一益。その名は戦場においてただ勇猛を誇るだけの武将ではない。智謀に長け、敵味方を問わずその行動を読めぬ男。それゆえに敬われ、恐れられる存在。
(義兄上はあの明智日向守にすら「迂闊に敵に回せぬ」と言わしめた。その義兄上が、今、この伊勢において策謀を巡らしている)
忠三郎の思考は、再び複雑な糸を紐解くように絡み始めた。一益の目的、雲林院の役割、関家の分裂、そして今、自分が立たされているこの立場…。
盃の縁をなぞる指先に、いつの間にか冷え切った感触を覚える。
(この冷たさの正体が、義兄上の策の底知れなさゆえか。それとも、自らがその渦中に取り込まれつつあると気づいているからか)
冷えた酒の余韻が、妙に骨身に染みる。
(義兄上の猟犬が、今この瞬間も動いておるとすれば、この城攻めも一筋縄ではゆかぬな)
再び空を仰ぎ見ると、月は雲間に隠れていた。暗闇に浮かぶ酒盃の表面は、鈍い輝きを放つのみで、底を覗くことは叶わない。
(義兄上の狙いも、この盃のように、どこまでも深く、見えぬものか…)
忠三郎は小さく息をつき、盃を置くと、再び空を仰いだ。長い夜の帳は、まだ開ける気配を見せなかった。
(それにしても解せぬ…)
亀山城の堅固な石垣を見ながら、ふと疑問が湧いてきた。
いかに一益が戦さに長けた武将を揃えているといえども、亀山城の攻略がこれほど迅速であったことには、どうしても腑に落ちないものがある。
(亀山城はこうして見ても、とても一日や二日で落とせる城には見えぬ)
築かれてから三百年余。伊勢平氏の末裔とされる関実忠が築き上げた城。その後も関氏は神戸、国府、鹿伏兎、峯といった分家を周囲に配置し、この亀山城を守護してきた。関宗家の城としての威容は、ただの城砦ではない。
城の堀を巡る冷たい風が、忠三郎の袂を揺らした。久太郎が指揮を執る兵たちが整然と陣を張る姿が目に映るが、忠三郎の心はその場にはない。
(それほどの城が、なぜこれほど呆気なく落ちたのか)
城壁には傷一つなく、見張りの兵の数も少ないように見える。内部で何かが起きたとしか思えない。その疑念は、忠三郎の胸中にひそやかな暗雲を呼び込んだ。
秀吉は亀山城の攻略を忠三郎と久太郎に任せると、既に国府城、関城、鹿伏兎城へと進軍している。柴田勝家が動き出す前に、伊勢の戦さを終わらせようとしているようだ。
忠三郎の目は、亀山城の向こうに広がる山々に向けられていたが、その瞳は遠く、遥かな深淵を覗き込んでいた。
(国府、鹿伏兎、そして峯…)
心に巣くう疑念は消え去らない。関の分家たる国府、鹿伏兎、峯の諸家が、宗家を見限り、一益の側についたことが、どうにも腑に落ちない。分家と宗家の絆は、何百年もの間、紡がれてきたものではなかったのか。それが、何故ここにきて崩れ去ったのか。
(何かが絆を断ち切った。この流れを作り出したものは…)
過去の記憶が霧のように甦ってくる。関と神戸の間には、かつて争いがあったはずだ。それを収めたのが祖父・快幹であった。そして、快幹の仲介により、神戸と関は和議を結び、一時は穏やかな日々が戻った。だが、その後も燻る火種は完全に消えたわけではなかったのだろう。
(思えば、関と神戸の争いが織田と六角の抗争と結びつき、宗家から分かたれた四家は、いち早く織田家に従った…)
つまり、この分裂は忠三郎が幼い頃には既に始まっていたのだ。今の出来事は、その過去の連なりに過ぎない。
(此度の件もまた、過去のいざこざの延長線上にあるのかもしれぬ。それを解き明かさねば、このまま誰かの思惑に絡め取られてしまう…)
ここでもう一度、整理して考えてみる。
祖父・快幹の仲裁により、一度は関と神戸の間に平穏が戻った。子のいなかった神戸蔵人は、関盛信の子を養子に迎えることを約束し、宗家と分家は和解したはずだった。
ところが、そこへ一益が、そして信長が現れ、横槍を入れた。信長は自らの三男・三七丸を神戸蔵人の養子とし、神戸家を織田の傘下に収めることで神戸と和議を結んだ。
(そうか。これでは叔父上が憤怒するのも無理はない。宗家の面目は潰れ、関家はその影響で離反したのか…)
非は神戸にあるように思える。だが、それならば何故、分家の国府、鹿伏兎、峯の諸家は神戸に倣い、織田に臣従したのか。
(宗家に従うのが筋であろう。それを何故…)
なんとも解せない話だが、分家が離反した理由が分からない。
(他家の事情は複雑すぎる)
頭が次第に重くなり、忠三郎は少し気を抜こうと、支度を命じて杯を傾けることにした。寒さを忘れるには、酒が一番の友だ。ちびりと口に含んだその時、町野左近がいつもの調子で間の抜けた声を出した。
「こう寒いと風呂に入りとうなりますなぁ」
あまりに呑気な一言に、忠三郎は思わず笑みを漏らす。
「寒さが身に染みる年となったか。老ゆるにはいささか早いのではないか?」
軽く戯れながらそう返すと、町野左近はどこ吹く風とばかりにうなずき、
「あの義太夫殿も、この辺りにある雲林院家の家人の家にて、よう風呂に入りに来ていたと聞き及びし次第で」
忠三郎は盃を止めて、ふと昔のことを思い起こした。確かに、そのようなことを耳にしたことがある。
「然様、確か、雲林院の家に義兄上の娘が嫁いでおった」
記憶の糸が次第に繋がっていく。そして、義太夫が「風流を好む」などと出鱈目な理由を掲げ、厚かましくも風呂を楽しむために、頻繁に中勢まで足を運んでいたことも思い出した。
「周りの者には風呂好きじゃ、などと言うていたらしいが…」
言いかけて、ハタと気づいた。
(風呂のためではない…)
その真意が、今になってようやく分かる。義太夫が頻繁に通っていたのは、風呂のためではなく、全く別の目的だったのではないか。
盃を置き、忠三郎はゆるりとため息をついた。その奥底に、何とも言えぬ苦笑いが浮かぶ。世の中の裏側というものは、思いがけぬところに潜むものだ。
(そもそも、あの義太夫が風呂好きだなどと、あり得ぬ話)
忠三郎は盃を手にしつつ、ふっと笑う。
湯気に癒される風流な義太夫の姿など、想像するだにおかしきことだ。なぜ、そんな重要なことを聞き流していたのだろう。
一益の目を盗んで風呂通いしていたのではなく、一益の命により、中勢を探るために通っていたのではないか。
(あるいは、雲林院の家にて何かしらの密命を果たしていたに違いなかろう)
そして、一益の娘を娶った雲林院兵部少輔とその父、雲林院祐基。
(あの二人こそ、中勢における義兄上の番犬であったかもしれぬ)
いや、番犬などというおとなしい言葉では足りない。猟犬と呼ぶがふさわしい。
忠三郎は盃を揺らしながら、過去の出来事を一つ一つ思い返していた。確かに、伊勢における一益の迅速な動きには、目を見張るものがあった。
北畠家の粛清も然り、関家の分家・鹿伏兎家の一部に謀反の嫌疑がかかった折も、雲林院親子と滝川勢が即座に討伐に向かったのは記憶に新しい。
(猟犬はただ吠えるのみならず、敵の匂いを嗅ぎ分け、牙を剥いて襲いかかるもの。雲林院父子こそ、義兄上の命を受け、中勢の隅々までその目と耳を伸ばし、牙を潜ませておったのではないか)
あまりにも迅速で正確なその働きぶり。偶然では済まされぬ用意周到さと、周囲の動きを見通したかのような先手。その裏には、雲林院親子が巧みに張り巡らせた網があったと考えるべきだろう。
思えば、雲林院の家は古くよりこの地に根を下ろし、堅実にその勢を保ってきた。表向きは温厚篤実な家柄、しかし、その背後に隠された策謀と謀略が、この乱世を生き延びさせた。そしてその背後に見え隠れする一益の存在。
(兵部少輔、その妻が義兄上の娘とあらば、親子共に義兄上に誓いを立て、あらゆる密事を監視しておったのではないか)
忠三郎の脳裏に浮かぶは、雲林院の静寂な庭の佇まい。その実、背後には、密やかに動き回る影があるように思えてならない。
(祐基殿は古狸のごとき老練さを持ち、息子の兵部少輔は若き獅子のごとき力を誇る。義兄上が中勢における動静を逃すことなく把握していたのは、この二人の存在があればこそ)
忠三郎の眉間に刻まれた皺が深くなる。
(義兄上はただの戦巧者にあらず。この乱世を乗り切るため、己の血族を媒介とし、中勢の各地に自らの勢力を浸透させておる。雲林院兵部少輔の妻が義兄上の娘であることも、偶然ではあるまい。…いや、待て…)
ここでまた、ひとつ気づいた。
(義兄上の娘なるものは…まことの娘であろうか)
忠三郎はふっと息を吐き、盃を置く。
昔、話を聞いたときに、疑問に感じたことだ。雲林院に嫁いだのであれば、三九郎とは同じ年頃の娘ということになる。
(滝川家では、そのような娘の話は、一度も耳にしなかった…)
あれほど頻繁に滝川家に出入りしていたのだから、一度くらいは話題に上ってもよさそうなものだが、誰も、その「娘」なるものの話をすることはなかった。
(たとえ犬や猫の子であろうとも、義兄上が「娘」と言えば、それは娘になる。この乱世、血筋や縁というものは、いともたやすく作り替えられる)
一益の周到さを思えば、雲林院に嫁いだというその「娘」が真の血縁である必要はない。むしろ、己の間者を送り込むための方便であったとすれば、腑に落ちることも多い。
(雲林院の兵部少輔と祐基は、いわば義兄上の猟犬。その猟犬に首輪を嵌め、さらに自在に操るための「娘」。それが本物であろうが偽物であろうが、重要なのは義兄上の命を伝える手足となること)
そして、その間者からの知らせを受けるたびに、義太夫は雲林院の元を訪れていたのだろう。
(さて、いつの頃よりであろうか…)
忠三郎は再び盃を口に運びながら、雲林院家の動きを辿った。
(雲林院の者どもが、義兄上より密命を受け、関の分家に忍び寄ったのは、そう遠き昔ではあるまい。それであれば、この伊勢一帯で起こった一連の出来事に辻褄が合う)
関家の分家――国府、鹿伏兎、峯。それぞれが宗家を見限り、一益に傾倒したのはただ偶然のことではない。その背景には雲林院親子の暗躍があったと考えるのが妥当だ。
(もしや、あの「娘」なる者が送り込まれたその時こそ、雲林院家が義兄上の猟犬と化した契機であったやもしれぬ。そして、その猟犬がじわじわと関一族に忍び込み、裂け目を生じさせた…)
そう考えると、神戸家の恭順もまた、一益の深謀遠慮の産物であったのだろう。その裏で何人もの家臣が離反したのも、一益が画策した分裂の連鎖に他ならない。
(恐ろしきは、義兄上の策謀。ただ刀を振るうばかりでなく、人心を裂き、絆を断ち、血を流さずして勝利を掴む。その智謀たるや、真に鬼謀というべきか…)
忠三郎の指先が、知らず冷えた酒盃の縁をなぞる。
(されど、この手で触れられぬものこそ、最も脅威となる。風のように影を残さぬ動き。それが義兄上の真骨頂ならば、果たしてわしはこの闇の網から逃れる術を見出せるのか)
滝川一益。その名は戦場においてただ勇猛を誇るだけの武将ではない。智謀に長け、敵味方を問わずその行動を読めぬ男。それゆえに敬われ、恐れられる存在。
(義兄上はあの明智日向守にすら「迂闊に敵に回せぬ」と言わしめた。その義兄上が、今、この伊勢において策謀を巡らしている)
忠三郎の思考は、再び複雑な糸を紐解くように絡み始めた。一益の目的、雲林院の役割、関家の分裂、そして今、自分が立たされているこの立場…。
盃の縁をなぞる指先に、いつの間にか冷え切った感触を覚える。
(この冷たさの正体が、義兄上の策の底知れなさゆえか。それとも、自らがその渦中に取り込まれつつあると気づいているからか)
冷えた酒の余韻が、妙に骨身に染みる。
(義兄上の猟犬が、今この瞬間も動いておるとすれば、この城攻めも一筋縄ではゆかぬな)
再び空を仰ぎ見ると、月は雲間に隠れていた。暗闇に浮かぶ酒盃の表面は、鈍い輝きを放つのみで、底を覗くことは叶わない。
(義兄上の狙いも、この盃のように、どこまでも深く、見えぬものか…)
忠三郎は小さく息をつき、盃を置くと、再び空を仰いだ。長い夜の帳は、まだ開ける気配を見せなかった。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる