獅子の末裔

卯花月影

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22.骨肉の争い

22-2. 神算鬼謀

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 冬の薄曇りの下、亀山城は静謐でありながらも不気味な威圧感を放っている。

(それにしても解せぬ…)
 亀山城の堅固な石垣を見ながら、ふと疑問が湧いてきた。
 いかに一益が戦さに長けた武将を揃えているといえども、亀山城の攻略がこれほど迅速であったことには、どうしても腑に落ちないものがある。

(亀山城はこうして見ても、とても一日や二日で落とせる城には見えぬ)
 築かれてから三百年余。伊勢平氏の末裔とされる関実忠が築き上げた城。その後も関氏は神戸、国府、鹿伏兎、峯といった分家を周囲に配置し、この亀山城を守護してきた。関宗家の城としての威容は、ただの城砦ではない。
 城の堀を巡る冷たい風が、忠三郎の袂を揺らした。久太郎が指揮を執る兵たちが整然と陣を張る姿が目に映るが、忠三郎の心はその場にはない。

(それほどの城が、なぜこれほど呆気なく落ちたのか)
 城壁には傷一つなく、見張りの兵の数も少ないように見える。内部で何かが起きたとしか思えない。その疑念は、忠三郎の胸中にひそやかな暗雲を呼び込んだ。
 秀吉は亀山城の攻略を忠三郎と久太郎に任せると、既に国府城、関城、鹿伏兎城へと進軍している。柴田勝家が動き出す前に、伊勢の戦さを終わらせようとしているようだ。

 忠三郎の目は、亀山城の向こうに広がる山々に向けられていたが、その瞳は遠く、遥かな深淵を覗き込んでいた。
(国府、鹿伏兎、そして峯…)
 心に巣くう疑念は消え去らない。関の分家たる国府、鹿伏兎、峯の諸家が、宗家を見限り、一益の側についたことが、どうにも腑に落ちない。分家と宗家の絆は、何百年もの間、紡がれてきたものではなかったのか。それが、何故ここにきて崩れ去ったのか。

(何かが絆を断ち切った。この流れを作り出したものは…)
 過去の記憶が霧のように甦ってくる。関と神戸の間には、かつて争いがあったはずだ。それを収めたのが祖父・快幹であった。そして、快幹の仲介により、神戸と関は和議を結び、一時は穏やかな日々が戻った。だが、その後も燻る火種は完全に消えたわけではなかったのだろう。

(思えば、関と神戸の争いが織田と六角の抗争と結びつき、宗家から分かたれた四家は、いち早く織田家に従った…)
 つまり、この分裂は忠三郎が幼い頃には既に始まっていたのだ。今の出来事は、その過去の連なりに過ぎない。
(此度の件もまた、過去のいざこざの延長線上にあるのかもしれぬ。それを解き明かさねば、このまま誰かの思惑に絡め取られてしまう…)

 ここでもう一度、整理して考えてみる。
 
 祖父・快幹の仲裁により、一度は関と神戸の間に平穏が戻った。子のいなかった神戸蔵人は、関盛信の子を養子に迎えることを約束し、宗家と分家は和解したはずだった。

 ところが、そこへ一益が、そして信長が現れ、横槍を入れた。信長は自らの三男・三七丸を神戸蔵人の養子とし、神戸家を織田の傘下に収めることで神戸と和議を結んだ。

(そうか。これでは叔父上が憤怒するのも無理はない。宗家の面目は潰れ、関家はその影響で離反したのか…)
 非は神戸にあるように思える。だが、それならば何故、分家の国府、鹿伏兎、峯の諸家は神戸に倣い、織田に臣従したのか。

(宗家に従うのが筋であろう。それを何故…)
 なんとも解せない話だが、分家が離反した理由が分からない。

(他家の事情は複雑すぎる)
 頭が次第に重くなり、忠三郎は少し気を抜こうと、支度を命じて杯を傾けることにした。寒さを忘れるには、酒が一番の友だ。ちびりと口に含んだその時、町野左近がいつもの調子で間の抜けた声を出した。
「こう寒いと風呂に入りとうなりますなぁ」
 あまりに呑気な一言に、忠三郎は思わず笑みを漏らす。
「寒さが身に染みる年となったか。老ゆるにはいささか早いのではないか?」
 軽く戯れながらそう返すと、町野左近はどこ吹く風とばかりにうなずき、
「あの義太夫殿も、この辺りにある雲林院うじい家の家人の家にて、よう風呂に入りに来ていたと聞き及びし次第で」
 忠三郎は盃を止めて、ふと昔のことを思い起こした。確かに、そのようなことを耳にしたことがある。

「然様、確か、雲林院うじいの家に義兄上の娘が嫁いでおった」
 記憶の糸が次第に繋がっていく。そして、義太夫が「風流を好む」などと出鱈目な理由を掲げ、厚かましくも風呂を楽しむために、頻繁に中勢まで足を運んでいたことも思い出した。
「周りの者には風呂好きじゃ、などと言うていたらしいが…」
 言いかけて、ハタと気づいた。
(風呂のためではない…)
 その真意が、今になってようやく分かる。義太夫が頻繁に通っていたのは、風呂のためではなく、全く別の目的だったのではないか。

 盃を置き、忠三郎はゆるりとため息をついた。その奥底に、何とも言えぬ苦笑いが浮かぶ。世の中の裏側というものは、思いがけぬところに潜むものだ。
(そもそも、あの義太夫が風呂好きだなどと、あり得ぬ話)
 忠三郎は盃を手にしつつ、ふっと笑う。
 湯気に癒される風流な義太夫の姿など、想像するだにおかしきことだ。なぜ、そんな重要なことを聞き流していたのだろう。
 一益の目を盗んで風呂通いしていたのではなく、一益の命により、中勢を探るために通っていたのではないか。
(あるいは、雲林院の家にて何かしらの密命を果たしていたに違いなかろう)
 
 そして、一益の娘を娶った雲林院兵部少輔とその父、雲林院祐基。
(あの二人こそ、中勢における義兄上の番犬であったかもしれぬ)
 いや、番犬などというおとなしい言葉では足りない。猟犬と呼ぶがふさわしい。
 忠三郎は盃を揺らしながら、過去の出来事を一つ一つ思い返していた。確かに、伊勢における一益の迅速な動きには、目を見張るものがあった。
 北畠家の粛清も然り、関家の分家・鹿伏兎家の一部に謀反の嫌疑がかかった折も、雲林院親子と滝川勢が即座に討伐に向かったのは記憶に新しい。

(猟犬はただ吠えるのみならず、敵の匂いを嗅ぎ分け、牙を剥いて襲いかかるもの。雲林院父子こそ、義兄上の命を受け、中勢の隅々までその目と耳を伸ばし、牙を潜ませておったのではないか)
 あまりにも迅速で正確なその働きぶり。偶然では済まされぬ用意周到さと、周囲の動きを見通したかのような先手。その裏には、雲林院親子が巧みに張り巡らせた網があったと考えるべきだろう。

 思えば、雲林院の家は古くよりこの地に根を下ろし、堅実にその勢を保ってきた。表向きは温厚篤実な家柄、しかし、その背後に隠された策謀と謀略が、この乱世を生き延びさせた。そしてその背後に見え隠れする一益の存在。

(兵部少輔、その妻が義兄上の娘とあらば、親子共に義兄上に誓いを立て、あらゆる密事を監視しておったのではないか)
 忠三郎の脳裏に浮かぶは、雲林院の静寂な庭の佇まい。その実、背後には、密やかに動き回る影があるように思えてならない。

(祐基殿は古狸のごとき老練さを持ち、息子の兵部少輔は若き獅子のごとき力を誇る。義兄上が中勢における動静を逃すことなく把握していたのは、この二人の存在があればこそ)
 忠三郎の眉間に刻まれた皺が深くなる。

(義兄上はただの戦巧者にあらず。この乱世を乗り切るため、己の血族を媒介とし、中勢の各地に自らの勢力を浸透させておる。雲林院兵部少輔の妻が義兄上の娘であることも、偶然ではあるまい。…いや、待て…)
 ここでまた、ひとつ気づいた。
(義兄上の娘なるものは…まことの娘であろうか)
 忠三郎はふっと息を吐き、盃を置く。
 昔、話を聞いたときに、疑問に感じたことだ。雲林院に嫁いだのであれば、三九郎とは同じ年頃の娘ということになる。
(滝川家では、そのような娘の話は、一度も耳にしなかった…)
 あれほど頻繁に滝川家に出入りしていたのだから、一度くらいは話題に上ってもよさそうなものだが、誰も、その「娘」なるものの話をすることはなかった。

(たとえ犬や猫の子であろうとも、義兄上が「娘」と言えば、それは娘になる。この乱世、血筋や縁というものは、いともたやすく作り替えられる)
 一益の周到さを思えば、雲林院に嫁いだというその「娘」が真の血縁である必要はない。むしろ、己の間者を送り込むための方便であったとすれば、腑に落ちることも多い。

(雲林院の兵部少輔と祐基は、いわば義兄上の猟犬。その猟犬に首輪を嵌め、さらに自在に操るための「娘」。それが本物であろうが偽物であろうが、重要なのは義兄上の命を伝える手足となること)
 そして、その間者からの知らせを受けるたびに、義太夫は雲林院の元を訪れていたのだろう。
 
(さて、いつの頃よりであろうか…)
 忠三郎は再び盃を口に運びながら、雲林院家の動きを辿った。
(雲林院の者どもが、義兄上より密命を受け、関の分家に忍び寄ったのは、そう遠き昔ではあるまい。それであれば、この伊勢一帯で起こった一連の出来事に辻褄が合う)

 関家の分家――国府、鹿伏兎、峯。それぞれが宗家を見限り、一益に傾倒したのはただ偶然のことではない。その背景には雲林院親子の暗躍があったと考えるのが妥当だ。
(もしや、あの「娘」なる者が送り込まれたその時こそ、雲林院家が義兄上の猟犬と化した契機であったやもしれぬ。そして、その猟犬がじわじわと関一族に忍び込み、裂け目を生じさせた…)

 そう考えると、神戸家の恭順もまた、一益の深謀遠慮の産物であったのだろう。その裏で何人もの家臣が離反したのも、一益が画策した分裂の連鎖に他ならない。
(恐ろしきは、義兄上の策謀。ただ刀を振るうばかりでなく、人心を裂き、絆を断ち、血を流さずして勝利を掴む。その智謀たるや、真に鬼謀というべきか…)
 忠三郎の指先が、知らず冷えた酒盃の縁をなぞる。

(されど、この手で触れられぬものこそ、最も脅威となる。風のように影を残さぬ動き。それが義兄上の真骨頂ならば、果たしてわしはこの闇の網から逃れる術を見出せるのか)
 滝川一益。その名は戦場においてただ勇猛を誇るだけの武将ではない。智謀に長け、敵味方を問わずその行動を読めぬ男。それゆえに敬われ、恐れられる存在。

(義兄上はあの明智日向守にすら「迂闊に敵に回せぬ」と言わしめた。その義兄上が、今、この伊勢において策謀を巡らしている)
 忠三郎の思考は、再び複雑な糸を紐解くように絡み始めた。一益の目的、雲林院の役割、関家の分裂、そして今、自分が立たされているこの立場…。
 盃の縁をなぞる指先に、いつの間にか冷え切った感触を覚える。
(この冷たさの正体が、義兄上の策の底知れなさゆえか。それとも、自らがその渦中に取り込まれつつあると気づいているからか)

 冷えた酒の余韻が、妙に骨身に染みる。
(義兄上の猟犬が、今この瞬間も動いておるとすれば、この城攻めも一筋縄ではゆかぬな)
 再び空を仰ぎ見ると、月は雲間に隠れていた。暗闇に浮かぶ酒盃の表面は、鈍い輝きを放つのみで、底を覗くことは叶わない。
(義兄上の狙いも、この盃のように、どこまでも深く、見えぬものか…)
 忠三郎は小さく息をつき、盃を置くと、再び空を仰いだ。長い夜の帳は、まだ開ける気配を見せなかった。
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